司馬遼太郎のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
ロシアについての考えが変わった。
アメリカ、イギリス、中国などの国を論ずるならロシアを論ずる場合、本書は必読である。
モンゴルなどの遊牧民によりロシアに大きな政権ができるまでには14-15世紀まで待たなければいけなかった。西欧との大きな違いである。また、そのモンゴル族の統治を受け継いだのが農奴であり、日本の大名などとは全く異なるシステムである。騎馬民族は鉄砲、大砲などの火器により駆逐された。このことがロシア人を大砲好き、現代ではロケット好きにさせた。
モンゴルは長らく清帝国のもとにあったが、騎馬民族としての強さを失ったところにラマ仏教をいれて、20世紀初めのウランバートルには乞食だらけだった。かつてのモンゴル帝国では考えられない。清はモンゴルを隷属させたが繁栄させなかった。あまりの貧困化に一部のモンゴル人がロシアに泣きついた。ここからがすごい。
ロシアは、民族の一部が泣きついた場合、そこに干渉しロシア化する。そうしてロシアそのものを膨張をしてきた歴史がある。まさにウクライナでも同様の手口で拡大し戦争が起きている。
40年前の書籍であるが、ロシアの歴史を知ることで今のロシアを知ることができた。良書である。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ三巻構成の第三巻目。
家康の策略により、外堀、内堀を埋められた大坂城は裸城と成った。
淀殿と、取り巻きの女官、大野修理などの執行部が、
城塞と成るべき城の堀を自ら埋めてしまうという歴史に類を見ない失態を行った。
もはや勝機は残されていないなか、真田幸村、毛利勝永、後藤又兵衛らは、死を覚悟し、家康の首一つを狙って数十万の東軍に向かっていく。
家康の極悪振りは、もはや勝ったも同然の中、秀頼が先陣を切って戦場に現れるのを阻止するため、常高院(淀殿の妹)を通して「降伏をすれば、秀頼を助け、大和一国を与える」というウソを大坂方へ伝えた。
それを信じた淀殿は秀頼の戦場への出馬を抑えた。
これを聞いた幸村は「古今の悪人とは駿府翁のことかな」と息子の大助にもらしたとか。
大坂方の死を決した戦士たちの心をくじくということを遣ってのける家康は、まさに極悪人。
家康の首一つを求め、家康の本陣を責めた幸村、毛利の軍団は家康の本陣を蹴散らした。
しかし、圧倒的な人数の東軍は持ち直し、幸村、毛利勝永は戦死した。
本丸に居た、淀殿、秀頼は敗戦の報を聞いた。
やがて、東側に内通する者により、台所から火付けをされて大坂城は炎上した。
淀殿、秀頼と男女三十人ほどが、土蔵の中に身を隠した。
大野修理は千姫を助け逃した。これにより秀頼、淀殿の助命を画策した。
家康と秀忠は芝居を打って、助命とも死刑とも宣言することはなく、その場を去った。
やがて、蔵へ鉄砲と大砲が撃ち込まれ、悲嘆した淀殿、秀頼、付き人三十人は自刃し、大野修理が用意した火薬によって、糠蔵は全て灰となった。
後に家康は「秀頼も妙なところで果てたものよ」と言ったとか。
筆者が語る、この大坂夏の陣は、家康の極悪人振りを顕す、格好の題材であったようだ。 -
Posted by ブクログ
▼1973年。2026年現在からは53年前。まだ冷戦、ソ連、だった時代。日本人の小説家がモンゴルに行きました。その旅行&思索記。モンゴルは当時、ソ連寄りの社会主義国でした。
大変に面白かった。国家とはなんだろう、歴史とはなんだろう、というのが一つの主題。
それは、国家や歴史に翻弄されてきたモンゴルだから、という意味合いも深く。そしてこの頃のモンゴルは、ソ連と切っても切り離せない関係です。
(その後、ソ連崩壊とともにモンゴルも一応民主化されているそうで。例えば、チンギスハンはこの1973年当時、タブーだった。なぜか。ソ連の歴史においては、とんでもない侵略者だったから。2026年現在は、解禁むしろ郷土の英雄という扱いだそうです)
■(本文より)
大国(複数)の理屈は、庶民レベルでは子供の遊び仲間でも通用しない。ところが国家間の対立の感情や論理は、近代から現代にくだればくだるほど、ときに子供の遊び仲間以下の内容になる場合がある。
■(本文より)
外国に対する国家行為というものはしばしば子供の思案に似る。このことはこんにち、他の国々でもつづいている。
■(本文より)
私は、敗戦のときにソ連が多数の日本人を捕虜にし、シベリアからウクライナ、あるいはモンゴルにいたるまで、広大な地域で奴隷労働をさせたことについて、言いがたい感情をもっている。そのソ連の国家行為をむしろ正当化する言い方はある。反省すべきは日本帝国主義の罪悪のほうではないか、とたとえ言われたところで、私は大人だから、子供のように言いくるめられるわけにはゆかない。連れてゆかれた人が私と同世代のひとびとだっただけに、国家次元の問題よりも、人情としてやりきれない思いを持たざるをえず、国家論抜きのいわば婦女子の情としてである。 当時のソ連は、旧満州でひっからげた日本人捕虜をモンゴルにも配給した。モンゴルだけでその数は一万三千八百四十七人だったという。二カ年の抑留中、そのうちの一割強(千六百八十四人)が死んだ。
■(本文より)
私は日頃、昼風呂に浸って手足を伸ばすような気分でのアナーキーな衝動というのをのべつ感じていて、この気分が奪われることだけは勘弁して貰いたいと思っているが、権力というのは元来、そういう気分を好まないらしい。「米英撃滅」「欲しがりません勝つまでは」などと、念仏かお題目のように、権力が人民に唱えさせていた時代が日本にもあって、なかなか盛大なポスターばやりの時代だった。そういう国家にあっては、敵である米英よりも、内部のアナーキーな気分(人間は大なり小なり、気分的アナーキストなのだが)のほうがむしろ敵だった。むろん、敵である米英にはとても勝てっこない。しかし人民には勝てるという事情もあり、だからこそかさにかかって「米英撃滅」などと軍国政権が、人民という弱敵に斉唱させていたにちがいない。 極端にいえば、権力が標語ポスターを考えたり作ったりする創作意欲というのは、根を洗っていえば、人民こそ敵だと思うときに──逆説だが──はじめておこる(創作意欲が)のではないか。
▼当然ながら、思索ばかりではなく(旅行記なので)。司馬さんご一行が、ソ連を経由してモンゴルに行く。ソ連経由以外、行くすべがこの頃はない。旅のトラブルがいろいろ起こる。ウランバートルにつく。モンゴル平原に行く。そこの「パオ」で泊まらせてもらう。そんな体験記が面白おかしく読みやすく。
そして文章がうまい。
ただの描写っていうのは、意外と読む側に入らない。だけど、司馬さんは例えば、モンゴル平原の「夜」について、下記のように描く。
すごい文章力。
■(本文より)
夜は、たとえば夜になった、というようなおだやかな表現で済まされるようなものでなく、夜が物理力のようにひたひたと襲ってきて、この食堂という、心許なげな人間の営みを押しつぶそうというような感じだった。
▼歴史のいろいろな見方。
秦の始皇帝の、「焚書坑儒」がなかったら・・・中国全土が「ひとつの文化」になることはなかったのかも、という論。
なるほどなあ、と。
■(本文より)
秦ノ始皇帝は、かれにとってくだらない儒書をあつめさせて焼き、かれのためには無用有害の存在である儒者を生きたまま穴埋めにした。そのかわり、雑多な漢字を整理し、文字を統一することに努め、その努力のおかげで、中国大陸のどの地方──燕であれ、趙であれ、楚であれ、呉であれ──にいる漢民族でも、たがいに音がちがいつつも文字さえ見れば意味が通ずるようになった。すべての漢民族を一つの文化にはめこんだ功績というのは大きい。 毛沢東が始皇帝を称揚するのは、ともすれば分裂しがちな漢民族世界を強固に統一してゆこうという政治的意図が多分にあるのであろう。しかし秦ノ始皇帝がもし存在しなければ中国大陸の政治習慣のなかに統一ということがなかったかもしれない、という想像は十分正当性をもっている。「この大陸は、統一しうるものだ」 という気分が、人心のなかにおこった。
▼あと、この本は週刊誌連載の「街道をゆく」の一冊なのだけど、この旅に出てきた通訳の「ツベクマさん」(だったと思う)という50代くらい?の女性が大変に魅力的に描かれています。司馬さんが「魅力的だな」と感じたからでしょう。ツベクマさんは、中国、日本、モンゴル、ソ連、という国家間に翻弄された人生の持ち主です。彼女の物語は、「街道」に収まらない熱を司馬さんに与えたようで。後年、「草原の記」という、ツベクマさんについての中編小説を書かれています。そっちの方を実は先に読んでしまっていて、今回順番逆ながら納得した次第。
▼「草原の記」は、、、、、国家と戦争というのものが、大きく黒く、ひたひたとせまってきて、人間・家族の営みというそれこそ心許なげなものを物理的に押しつぶしてしまう。そんな息苦しさと大地の風とが印象に残る読書でした。これも、それも、いずれも名作。 -
Posted by ブクログ
単行本は1991年刊。初出は「週刊朝日」連載(89.12.1~90.8.31)。
オランダは、日蘭貿易やシーボルトをはじめとして、昔から日本とはゆかりがあり過ぎるほどある。そういや、あの咸臨丸にしたって、オランダ製だったもん。でも、ほとんどの人は、オランダのことをよく知らない。そういった人たち(私とか)のための、オランダ歴史紀行、400ページ。なお、この紀行には、歴史的にフランドル(一部はベルギー)も含めている。
なかでも、かなりページを割いているのは絵と画家。ゴッホ74ページ、ルーベンス24ページ、レンブラント12ページといったぐあい。でも、あのフェルメールは素通り(司馬好みでなかったか)。ルーベンスは、半分が「フランダースの犬」の話題。アントワープの大聖堂にある彼の祭壇画を見にゆくネロ少年と愛犬パトラッシュの悲話のこと。(現地の人はこの物語をほとんど知らない。なぜこの話が日本で受けたのか、そのことも書いている。)
文学で意外なところでは、ジョルジュ・シムノン。メグレ警視もので、これぞパリという印象があるが、ベルギーのリエージュ出身。彼には5ページを割いている。 -
Posted by ブクログ
日本海海戦にてバルチック艦隊に敗れた場合、日本陸軍が孤立して全滅。おそらく全土がロシア領にならないにしても、対馬島と佐世保はロシアの租借地になり、北海道と千島列島はロシア領になっていたであろう。⇨ウクライナ、特にブチャを見ていると、日本人が虐殺されたかもしれないと想像すると恐ろしい。
民衆が政治を担い、国家の安危を共同に分担するという政体ができない限り、近代においては他国と近代戦をやるというのは不可能であるかもしれない。
日本人、ヤボンスキー
民族は軍人に対し、その合理的判断による降伏よりも、名誉と壮烈さを望んでいる。前者はその時期においては多少の生命を救うことができても、後世、その民族の子孫に自尊心をもたしめるゆえんのものではない。という意見が、ロシアにおいては圧倒的な正当性をもっていた。
ロシア帝国のくびきのもとあがいているポーランド人やトルコ人を喜ばせた。また元来日本びいきである南米のチリーやアルゼンチンのひとびとをよろこばせた。
戦争が遂行されるために消費されるぼう大な人力と生命、さらにそれがために投下される巨大な資本のわりには、その結果が勝敗いずれであるにせよ、一種の虚しさがつきまとう。戦争というのは済んでしまえばつまらないものだ。軍人はそのつまらなさに堪えなければならない。という意味のことを、第一軍司令官黒木為禎が従軍武官の英国人ハミルトンに言った。
ロシアの帝政は強大な軍事力をもつのことによってのみ存在し、国内の治安を保ってきた、とウィッテもいっている。それが崩壊した以上、日露戦争はロシア国家にあたえた衝撃よりもむしろロマノフ王朝そのものの存亡を崖ぶちに追いこんでしまったことになる。
講和の会場は米国のポースマスであった。
面白かった、主人公の3人と言っていたけど、戦争が始まると描写が少ない気がした。子規も三巻くらい?で亡くなってしまうし。
日本海海戦は、銀河英雄伝説に似ていると思った。
-
Posted by ブクログ
うん。面白かった。文句はない。
韓信は趙を下し、張耳を王につける。
劉邦は宛城に入り、敵を惹きつけて滎陽城に一息つかせる。次は成皋城に入る。そして逃げる。韓信のところに行き、兵を取り上げてしまった。そして斉を下すように命令する。
韓信は斉を下した。斉王は高密城に籠る。そこに項羽から竜旦が送られてきた。韓信は両方とも倒して、斉王を名乗る。
項羽と劉邦は山と山に陣を取り、睨み合う。
項羽は劉邦を置いておいて、韓信と和議を結ぼうと思ったが、韓信は項羽が嫌いなのだった。劉邦が好きだからと拒まれる。カイ生は韓信をなんとか自立させようと頑張るが、韓信は劉邦を裏切らない。なのに劉邦に反乱の疑いで攻められて、謝って許してもらう。韓信はその後も挑発され続け、ブチ切れた頃には反乱として処刑された。
とりあえず項羽と劉邦和睦。国を二分することになった。約定にて国に帰る項羽を、後ろから劉邦は騙し討ちする。しかしこの後に及んで負ける。すごいな。韓信と彭越に切り取り次第の許可を与える。四面楚歌、虞美人。虞や虞やなんじをいかんせん。
-
Posted by ブクログ
司馬遼太郎は毀誉褒貶が好きだなぁと思う。誰かを祭り上げる筆には嬉々として余念がないし、劉邦を貶めるときは本当に楽しそうだ。古代のゴシップを描いている気分なのだろうか。
張良、字名は子房、韓の国の宰相の息子である。劉邦に会い、配下に入り、項梁の下に入る。韓の王族を探してきて王とする。項羽と分かれてから、西進する。勝ったり負けたりしながら、楊熊を破る。南陽と宛を下し、武関から関中に咸陽に入る。趙高は焦る。胡亥に自殺させ、兄の子の子嬰を立てる。子嬰は趙高を殺して秦王となった。咸陽宮に入ると、劉邦は美女に突入した。蕭何は行政文書を押さえた。霸上に戻る。秦の法を撤廃し、人を殺すもの、傷つけるもの、盗むものを裁くとする。
劉邦はおバカなことに関を閉ざし、項羽の関中入りを阻止して、攻められそうになると後悔した。もう項羽に殺されるぜ?という時に張良に頼る。張良は項羽の伯父項伯に貸しがあった。命を救ったことがあるのだ。この時項羽は鴻門という場所に陣取っていた。とりあえず命乞いによって許されて這々の体で逃げ帰る。
項羽は略奪を許した。子嬰の首を刎ね、咸陽を焼き払った。都を関中に構えてはどうかと言われた項羽は、彭城を都としたいと言い出した。劉邦は巴蜀と漢中の王に追いやる。そして義帝を殺してしまった。この頃韓信は劉邦に身を寄せる。韓信は蕭何に会う。漢中に入り、韓信は将軍になった。
劉邦はふたたび関中を攻める。章邯と戦い、破り、自殺させる。蕭何はかっての秦の官吏をチェックし、治世を始める。
項羽は劉邦などいつでも潰せると思い、斉を攻める前に韓王を殺してしまった。理由がなくなった張良は劉邦の元に帰る。斉を倒す。虐殺に余念がない。
劉邦には論功行賞に不満を持つ者たちが雪崩うって味方してきたのはいいが、もとの10倍の兵をまとめるのは大変だった。戦略も何もなく、進むだけで良かった。彭城に着いた時、項羽は斉で人を埋めるのに忙しくていなかった。劉邦は酒と女に溺れ、張良は呆れ果て、夏侯嬰だけがどなったが意味がなかった。項羽は3万だけを引き連れて彭城にとって返す。みんな逃げた。
韓信が睢水に人を引いていると聞いて、劉邦はそっちにいった。後ろから項羽が来る。夏侯嬰と劉邦は沛の町まできたが、楚兵でいっぱいだった。そこで情報を得て下邑に向かう。碭でようやくみんなが集まってくる。
黥布は項羽の下の将だったが、彭城が落ちた時も、劉邦の追尾にも参加しなかった。中立かもしれないと劉邦は期待する。張良と韓信がいる滎陽城に入る。黥布は項羽に攻められて滎陽城に入る。項羽が滎陽城を攻めてきた。戦は長引く。陳平が項羽軍の内部の離反を画策する。范増を疑うよう仕向けた。他の三人の将も疑われた。劉邦は脱出し、滎陽城は落ちる。