司馬遼太郎のレビュー一覧
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単行本は1991年刊。初出は「週刊朝日」連載(89.12.1~90.8.31)。
オランダは、日蘭貿易やシーボルトをはじめとして、昔から日本とはゆかりがあり過ぎるほどある。そういや、あの咸臨丸にしたって、オランダ製だったもん。でも、ほとんどの人は、オランダのことをよく知らない。そういった人たち(私とか)のための、オランダ歴史紀行、400ページ。なお、この紀行には、歴史的にフランドル(一部はベルギー)も含めている。
なかでも、かなりページを割いているのは絵と画家。ゴッホ74ページ、ルーベンス24ページ、レンブラント12ページといったぐあい。でも、あのフェルメールは素通り(司馬好みでなかったか)。ルーベンスは、半分が「フランダースの犬」の話題。アントワープの大聖堂にある彼の祭壇画を見にゆくネロ少年と愛犬パトラッシュの悲話のこと。(現地の人はこの物語をほとんど知らない。なぜこの話が日本で受けたのか、そのことも書いている。)
文学で意外なところでは、ジョルジュ・シムノン。メグレ警視もので、これぞパリという印象があるが、ベルギーのリエージュ出身。彼には5ページを割いている。 -
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日本海海戦にてバルチック艦隊に敗れた場合、日本陸軍が孤立して全滅。おそらく全土がロシア領にならないにしても、対馬島と佐世保はロシアの租借地になり、北海道と千島列島はロシア領になっていたであろう。⇨ウクライナ、特にブチャを見ていると、日本人が虐殺されたかもしれないと想像すると恐ろしい。
民衆が政治を担い、国家の安危を共同に分担するという政体ができない限り、近代においては他国と近代戦をやるというのは不可能であるかもしれない。
日本人、ヤボンスキー
民族は軍人に対し、その合理的判断による降伏よりも、名誉と壮烈さを望んでいる。前者はその時期においては多少の生命を救うことができても、後世、その民族の子孫に自尊心をもたしめるゆえんのものではない。という意見が、ロシアにおいては圧倒的な正当性をもっていた。
ロシア帝国のくびきのもとあがいているポーランド人やトルコ人を喜ばせた。また元来日本びいきである南米のチリーやアルゼンチンのひとびとをよろこばせた。
戦争が遂行されるために消費されるぼう大な人力と生命、さらにそれがために投下される巨大な資本のわりには、その結果が勝敗いずれであるにせよ、一種の虚しさがつきまとう。戦争というのは済んでしまえばつまらないものだ。軍人はそのつまらなさに堪えなければならない。という意味のことを、第一軍司令官黒木為禎が従軍武官の英国人ハミルトンに言った。
ロシアの帝政は強大な軍事力をもつのことによってのみ存在し、国内の治安を保ってきた、とウィッテもいっている。それが崩壊した以上、日露戦争はロシア国家にあたえた衝撃よりもむしろロマノフ王朝そのものの存亡を崖ぶちに追いこんでしまったことになる。
講和の会場は米国のポースマスであった。
面白かった、主人公の3人と言っていたけど、戦争が始まると描写が少ない気がした。子規も三巻くらい?で亡くなってしまうし。
日本海海戦は、銀河英雄伝説に似ていると思った。
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うん。面白かった。文句はない。
韓信は趙を下し、張耳を王につける。
劉邦は宛城に入り、敵を惹きつけて滎陽城に一息つかせる。次は成皋城に入る。そして逃げる。韓信のところに行き、兵を取り上げてしまった。そして斉を下すように命令する。
韓信は斉を下した。斉王は高密城に籠る。そこに項羽から竜旦が送られてきた。韓信は両方とも倒して、斉王を名乗る。
項羽と劉邦は山と山に陣を取り、睨み合う。
項羽は劉邦を置いておいて、韓信と和議を結ぼうと思ったが、韓信は項羽が嫌いなのだった。劉邦が好きだからと拒まれる。カイ生は韓信をなんとか自立させようと頑張るが、韓信は劉邦を裏切らない。なのに劉邦に反乱の疑いで攻められて、謝って許してもらう。韓信はその後も挑発され続け、ブチ切れた頃には反乱として処刑された。
とりあえず項羽と劉邦和睦。国を二分することになった。約定にて国に帰る項羽を、後ろから劉邦は騙し討ちする。しかしこの後に及んで負ける。すごいな。韓信と彭越に切り取り次第の許可を与える。四面楚歌、虞美人。虞や虞やなんじをいかんせん。
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司馬遼太郎は毀誉褒貶が好きだなぁと思う。誰かを祭り上げる筆には嬉々として余念がないし、劉邦を貶めるときは本当に楽しそうだ。古代のゴシップを描いている気分なのだろうか。
張良、字名は子房、韓の国の宰相の息子である。劉邦に会い、配下に入り、項梁の下に入る。韓の王族を探してきて王とする。項羽と分かれてから、西進する。勝ったり負けたりしながら、楊熊を破る。南陽と宛を下し、武関から関中に咸陽に入る。趙高は焦る。胡亥に自殺させ、兄の子の子嬰を立てる。子嬰は趙高を殺して秦王となった。咸陽宮に入ると、劉邦は美女に突入した。蕭何は行政文書を押さえた。霸上に戻る。秦の法を撤廃し、人を殺すもの、傷つけるもの、盗むものを裁くとする。
劉邦はおバカなことに関を閉ざし、項羽の関中入りを阻止して、攻められそうになると後悔した。もう項羽に殺されるぜ?という時に張良に頼る。張良は項羽の伯父項伯に貸しがあった。命を救ったことがあるのだ。この時項羽は鴻門という場所に陣取っていた。とりあえず命乞いによって許されて這々の体で逃げ帰る。
項羽は略奪を許した。子嬰の首を刎ね、咸陽を焼き払った。都を関中に構えてはどうかと言われた項羽は、彭城を都としたいと言い出した。劉邦は巴蜀と漢中の王に追いやる。そして義帝を殺してしまった。この頃韓信は劉邦に身を寄せる。韓信は蕭何に会う。漢中に入り、韓信は将軍になった。
劉邦はふたたび関中を攻める。章邯と戦い、破り、自殺させる。蕭何はかっての秦の官吏をチェックし、治世を始める。
項羽は劉邦などいつでも潰せると思い、斉を攻める前に韓王を殺してしまった。理由がなくなった張良は劉邦の元に帰る。斉を倒す。虐殺に余念がない。
劉邦には論功行賞に不満を持つ者たちが雪崩うって味方してきたのはいいが、もとの10倍の兵をまとめるのは大変だった。戦略も何もなく、進むだけで良かった。彭城に着いた時、項羽は斉で人を埋めるのに忙しくていなかった。劉邦は酒と女に溺れ、張良は呆れ果て、夏侯嬰だけがどなったが意味がなかった。項羽は3万だけを引き連れて彭城にとって返す。みんな逃げた。
韓信が睢水に人を引いていると聞いて、劉邦はそっちにいった。後ろから項羽が来る。夏侯嬰と劉邦は沛の町まできたが、楚兵でいっぱいだった。そこで情報を得て下邑に向かう。碭でようやくみんなが集まってくる。
黥布は項羽の下の将だったが、彭城が落ちた時も、劉邦の追尾にも参加しなかった。中立かもしれないと劉邦は期待する。張良と韓信がいる滎陽城に入る。黥布は項羽に攻められて滎陽城に入る。項羽が滎陽城を攻めてきた。戦は長引く。陳平が項羽軍の内部の離反を画策する。范増を疑うよう仕向けた。他の三人の将も疑われた。劉邦は脱出し、滎陽城は落ちる。
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漢文対策として高校時代に読んだが、再読。本の中盤に至るまで、筆がくどくどしく驚いた。司馬遼太郎はもっと面白かったのに、と思った。
まあ、昔ほど司馬遼太郎に心酔していないし、話を誇張しすぎたり、嘘も拵えることを知っているせいかも知れない。前巻も終盤になるとかなり面白いのだが。
秦の始皇帝が死んだ。宦官の趙高が胡亥を即位させ、李斯と皇太子格だった扶蘇を殺した。陳勝呉広が謀叛を起こす。
項梁は甥っ子の項羽を10歳ごろから養育した。項梁は会稽郡郡守の殷通を殺して、会稽郡郡守となる。
沛県にすむ劉邦。わりとブラブラしているロクデナシ。蕭何と曹参は沛県の役人。夏侯嬰は下級の県吏。劉邦は蕭何の引き立てがあって亭長になった。驪山に農民たちを連れていく役目になったが、工事が終わったら皆殺しにされるという噂が流れていたのもあり、農民たちは逃げてしまったので、劉邦も逃げた。蕭何は劉邦を潜伏させた。始皇帝が死んだ。劉邦はその辺の人たちをまとめて、城に入ろうとしたが門は閉ざされていたので、父老に矢文を飛ばす。父老は県令を殺させて劉邦を迎え入れる。
陳勝は陳に入り、張楚という国を名乗った。
趙高は胡亥に反乱が起こっていることを隠した。しかし趙高は反乱に対しての対策を持っていない。有能な将軍たちはほぼつぶされている。章邯は財務官吏だったが、武官の家で生まれた。驪山や阿房宮で働く罪人たちを兵として用いることにした。
陳は人を集めすぎて、集まった人たちの食糧が足りなくなったので、米倉のある栄陽を攻めたが、攻めあぐね、ここで呉広は殺される。陳の周文は函谷関に攻め入ったが、章邯により破れる。陳勝は内部から殺される。秦軍に降ったり、ちりぢりになったりした。
項梁は項羽に江南をまとめさせた。楚の大柱国を名乗り、揚子江を渡る。季布と鐘離眛が先鋒を務める。下邳に入る。項梁は陳勝と合流しようと思っていたが、敗れたことを知る。黥布が胡陵で秦嘉を殺して勢力を伸ばす。薛に向かって移動を始める。范増がやってきて、以前の王たちの末裔を探して立てることを献策する。最後の楚王の孫を立てる。薛の町に、亡楚の遺臣が溢れる。王が来ると面倒臭い儀礼が増える。
劉邦がやってきて、項梁に兵を借りたいという。10人の将をつけてやった。5000人の兵。劉邦はこの後将軍として活躍する。
項梁は軍を二つに分け、もう一つの将を項羽と劉邦にした。項羽と劉邦は城陽に向かい、項梁は定陶を陥落させる。しかし秦の章邯に取り囲まれる。項梁は死ぬ。項羽と劉邦は城陽を陥落させる。項羽は陳留城を攻めたが、劉邦は危ないとみた。范増も項羽に退却を提案。
彭城を目指す。楚王を呼ぶ。劉邦は別働隊となる。宗義が斉に近づいて、自分の氏に利することを謀っているのが知れて、項羽は宗義を殺す。秦の章邯との決戦に向かう。
章邯は張耳と陳余の作った趙の首都邯鄲を攻めている。趙王と張耳は鉅鹿に逃げ込む。鉅鹿には蓄えがかなりあったが、章邯は飢えさせるつもりで囲む。援軍が続々と来るが、重厚な包囲網に驚き、戦争見物の様相を呈した。陳余は鉅鹿の外にいた。鉅鹿は飢え始める。
項羽は黄河を渡って鉅鹿にいく。兵が7万人。章邯の兵は20万人。しかし鉅鹿城は解放された。章邯は近くの棘原にいた。秦軍の負けは咸陽の趙高の耳にも届く。彼は取り急ぎ、劉邦に内通して、いざとなったら皇帝の胡亥を殺すので自分の権力を保証して欲しいと訴える。章邯が生きていると知って兵が集まってくる。結局、漳水を挟んで膠着状態になる。ついに章邯が投降する。
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長州藩桂 小五郎と吉田松陰
竜馬は長身だけど髪の毛はぐちゃぐちゃでボーっとしてるのに、田鶴•さな子•冴となぜだか次々と女にモテる?
敵討ちの助太刀で信夫との対決、長州藩との剣術試合で5人勝ち抜くなど竜馬の剣の腕前の凄さにビックリ‼
土佐藩の郷士と上士の身分差別の軋轢、神道無念流塾頭で長州藩の桂小五郎との出会い。
桂小五郎の幼年時代の葛藤と吉田松陰との出会いと目覚めなど興味深い話が一杯です!
桂小五郎は美男で有名ですが、この作品の作画はどっちかと言うと雑でコメディータッチなので、桂小五郎は普通で後はみんなブサイクです..... -
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単行本は1992年刊。「街道をゆくシリーズ」『モンゴル紀行』の、17年後のスピンオフ。
司馬が少年の頃から憧れ、夢膨らませ続けたモンゴル、その地を初めて訪れたのは1972年。その時の現地ガイドは、笑顔を絶やさない、司馬と同い年の女性ツェベクマさん。今回の旅は、その彼女と会うのが主目的。
前半部分はほぼモンゴルの歴史。古来、モンゴルの地にどのような民族が住み、どのような入れ替わりがあったのか。不明の点も多く、そこは司馬の想像も交じる(最近の分子遺伝学的研究を知ったら、喜悦するかもしれない)。そして近現代、モンゴルをめぐるロシアと中国と日本のにらみ合いと交戦。
ツェベクマさんは後半に登場。ロシアのシベリアにモンゴル族(ブリヤート人)として生まれ、日本占領下の満州(内蒙古)で育ち、戦後はその地で中国人として暮らし、文化大革命では、死を覚悟で、幼い娘を連れてモンゴルへと逃れた。モンゴル国籍を得たのはその10年後。自分は草原の民、笑顔を絶やさず、強い。それが司馬を魅了した。
日本がモンゴルとの国交を樹立したのは1972年。『モンゴル紀行』の取材は、その翌年の73年。今回の取材は90年。17年の間に、モンゴルをとりまく状況(中国もソ連も)も大きく変化した。そうした歴史的な動きも含め、近現代の国家の変化がツェベクマさんの生き方と重なる。
『モンゴル紀行』では、日本語の巧い(ただし来日経験のない)、明晰で、いつも笑顔のガイドのおばさんだった。その彼女が感動的に主役に変身する。司馬が魅せられた人。 -
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初出は『週刊朝日』連載(1973.11.2~74.6.14)。旅と取材は73年の8月。
「街道をゆく」シリーズは43冊を数えるが、そのなかでもっとも緊張感みなぎる一冊。それもそのはず、著者が少年時代に夢見たのはモンゴルの草原、そしてゴビの砂漠。進学先も大阪外語の蒙古語科。その憧れの地に初めて足を踏み入れる。(なお、日本とモンゴルの国交樹立は72年の2月。)
いまなら成田や羽田から直行便で5時間半だが、当時は最短で3日がかり。まず新潟からハバロフスクに飛び一泊、次にイルクーツクに飛んで一泊、モンゴル領事館で入国ビザをもらってから、ウランバートルに飛ぶ。しかし、イルクーツク便は遅れに遅れて、領事館はclosed。さあ、どうする。
期待をふくらませながら、モンゴル入りするまでが本書の半分。長い助走だが、さまざまなエピソードを挟みながら、コンサイスなモンゴル史。ソ連・中国・日本との歴史的関係をよく知った上で、ウランバートルに到着。そこは山羊たちが草を食む近代都市だった。
夢に見たゴビ砂漠にもゆく。夜、懐中電灯ひとつでパオから離れ、これまでけっして見たことのないような満天の星空のなかを歩く。 歴史紀行なのに、良質のSFを読んでいるかのよう。
(p.s. 司馬のモンゴル語は片言。それも当然、大阪外語に入るも、1年半で学徒出陣。配属先は満州の戦車学校。だから、モンゴルの近くにいたことはあったのだ。彼が満州にゆく4年前、1939年に満州国とモンゴルの国境で起こったのがノモンハン事件。この日本vs.ソ連の大規模な軍事衝突で、日本軍は壊滅した。司馬は、軍の将校のあまりの無能ぶりを糾弾しているものの、深入りはしていない。この事件については、後日著書として書くつもりだったようだが、厖大な資料を集めながら、それが書かれることはついになかった。) -
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三巻構成の中巻。
今回は、関ヶ原の合戦で負けた真田幸村、後藤又兵衛基次、キリシタン大名の明石全登、
長曾我部盛親、毛利勝永らの豪将及び10万の浪人が、大坂城に集まり、徳川家康と対峙する大坂冬の陣のお話。
関ヶ原の合戦で負け、浪人に成っていた大名、豪族、足軽、浮浪者などの10万ほどが
大坂の大野修理の呼びかけで、続々と大坂城に集まった。
対する徳川方が約20万の軍勢で大坂城の周りに布陣した。
冬の陣に至っては真田幸村、後藤又兵衛等の奮戦に依って、徳川方は甚大な損傷にあった。
大坂方の実権を握っているのは、淀殿、秀頼の乳母の大蔵卿局などの女性陣である。
家康はこの大坂城の女性陣に対し、和睦の申し出をし、妾の阿茶局などに交渉を任した。
関東方では、大坂城三の丸の外堀を埋めるなどの和平案を出し、大坂方はこれを了承した。
しかし、関東方は三の丸どころか、二の丸まで、十万の人夫を使い、堀を埋めてしまった。
これに依り、巨城である大坂城は裸城に成ってしまった。
家康は余命短い自分の生きているうちに豊臣家を滅ぼし、後の100年の徳川家を安泰にしたかった。
しかしながら、世間の耳目、家康に従っている昔の豊臣恩顧の大名などの寝返りを恐れ、力攻めは出来なかった。
大坂方は内面でも家康に牛耳られていた。
大坂城に居る、徳川の間諜、特に織田有楽、その子の長瀬などが徳川に通じていた。
淀殿は叔父の織田有楽を信じていて、毛ほども疑いを持っていなかった為、有楽の進言を信じた。
豊臣方に対する家康の巧妙な、嘘、罠などは絶妙で、
「息子の将軍秀忠は豊臣を滅ぼしたいが、自分は秀頼を助けたい」などの嘘を世間に流した。
家康のこの時期の考え方は極悪人のそれで、本巻を読んでいて、なんとも後味が悪い。
家康を信じて滅ぼされる、淀の方、秀頼などが本当に可哀そうだ。
下巻は裸城にされた大坂城から真田幸村、後藤又兵衛、毛利などが撃って出るが……。
豊臣滅亡の夏の陣へと続く。