Posted by ブクログ
2016年10月07日
著者が大阪外国語大学の蒙古語学部出身というのは有名な話だが、本書は1992年刊行だから著者にとって最晩年の作品と言える。司馬さんはなぜ、数々の日本の歴史小説を書き終えた末に、遊牧民の文化を切り取る紀行文に取り掛かったのか……?
その意図を正確に知ることはできないが、刊行された90年代初頭はちょうど世...続きを読む界中で社会主義政権が求心力を失い、西側のライフスタイルが世界中に広がっていこうとしていた時代。そこで司馬さんは、そこから失われていくであろう「人間の美徳」を、かつて猛威をふるいながらも時代に消えていった遊牧民の歴史を振り返ることで、私たちに示したかったのではないか。
寡欲であること、モノに執着しすぎないこと、自分が生活するために必要な物事を知っている、足るを知ること。ひとときメディアをにぎわせた「ミニマリズム」とは決して「文明の到達点」などではなくて、太古の草原に既に存在していたということを。
草原に暮らす民に無意識に宿る生活哲学、そして生きるために発達した強じんな身体性は、世界で他に類を見ないような独特の文化に昇華されているようにも見える。そんな彼らを隅へと追いやる私たちの文明を、いったい歴史はどう評価するのだろうか。
「チンギス・ハーンの後継者にオゴタイがなった。オゴタイは「財宝がなんであろう。金銭がなんでえあろう。この世にあるものはすべて過ぎゆく」と、韻を踏んでいった。この世はすべて空(くう)だという。
この当時、モンゴルにはまだ仏教が入っていなかったから、この言葉はモンゴルにおける固有思想から出ているといっていい。この草原には、古代以来、透明な厭世思想がある。
オゴタイは続ける。「永遠なるものとはなにか、それは人間の記憶である。栄華も財宝も城郭もすべてはまぼろしである。重要なのは記憶である」。オゴタイにすれば、自分がどんな人間であったかを後世に記憶させたい。それだけだという。
オゴタイ・ハーンほど、モンゴル的な人物はすくなかった。かれの寡欲に至っては、平均的モンゴル人の肖像を見るようである。むろん、寡欲はどの民族にとっても美徳である。しかしながら、世界史の近代は物欲の肯定から出発したため、やがてモンゴル近代史にとって、この美質は負に働いてゆく。
つまり、物欲がすくないために家内工業もおこらず、資本の蓄積も行われない。結局はそれらを基盤とした「近代」がこの草原には生まれにくかった」