司馬遼太郎のレビュー一覧
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ネタバレ以下抜粋~
・結局、川へはダムの底の水が流れこむために濁るだという。ダムの底の水は水温が低く、自然、古座川の水温も低くなってそれまで淡水魚の宝庫といわれたこの川に魚があまり棲まなくなったというのである。なるほど氾濫はふせげたが、差引すればどうだろうかという疑問が村々にある。
「河川土木に限りませんが、自然に手を加えるというのは、むずかしいものですな」
・インド神である牛頭天王は、祇園精舎の守護神で、とくに疫病をふせぐ神であった。
京都の八坂神社は日本の神であるスサノオノミコトよりも、その本地であるインドの牛頭天王を信仰していた。
これによって八坂郷がインドの地名の祇園とよばれるようになったわけである。
・徳川幕府の草創のときの大方針の一つは、水軍を絶滅させることにあった。織田・豊臣家の水軍である熊野水軍の九鬼氏を、丹波の山奥に移封させたように、久留島氏(伊予の来島水軍)も、この豊後森というような海とはまったく無縁の山奥に移されたのである。
・薩摩は士族文化の国で、その士族文化というのは、つきつめていえば相手に対する優しさと鄭重さにあるように思われる。
・朝鮮侵略が、焼物戦争といわれるゆえんはそれで、その焼物戦争以前の日本の食器など諸道具というのはほとんど漆器だったことを思うと、日本文化はかれらに負うところが量り知れぬほど大きい。 -
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以下引用~
・鎌倉時代、絶対他力の親鸞念仏と、絶対自力の禅がうまれ、両輪相まって、日本文化にふかい影響をあたえた。
・仏教の本質は、自分の力で自分を浄める道だ、ということにある。
・日本人はよほど清潔ずきらしく、”きれい”ということばは、たとえば、よく洗った皿がきれいである、あるいは、このビンきれいですか、という意味と同時に、彼女、きれいだよ。という別義を持っている。
清潔と美が、一つのことばなのである。オランダ語もそうだそうで、オランダ人の清潔好きの説明によくつかわれる。
・福沢には、沢がつく。沢のつく地名、苗字は信州に圧倒的に多い。諏訪湖の東南の茅野市の市域のなかに、福沢という小さな村があって、諭吉の祖はそこから出た、と福沢家の伝説にいう。
そのころ、中津は小河原氏の時代だった。この大名は室町時代にすでに信濃の守護だった家で、信州松本が封地だったこともあり、家臣に信州人が多かった。
ついでながら、中津はよき混血の地である。初代黒田氏の家来には播州(兵庫県)人が多かったろうし、つぎの細川氏には京都人がすくなからずいたろう。小河原氏の信州、奥平家の三河(愛知県)。
・つまり封建制のもとでは、下級の家にうまれた者はいかに学問ができてもむだなわけで、僧侶になることがぬけ道だった。魚屋の息子が大僧正になったというような者がいくらもいた、と諭吉はいう。 -
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以下引用~
・真言密教は西洋でいう魔法である。東洋の場合、魔法が悪魔の側になくて体制の側にある。さらに西洋とちがっているのは、魔法が、真言密教という、思想を論理化したという点で完璧ともいうべき体系を背景にもっていることである。
・鳥羽院は当時一流の芸術家であったが、そうでないにしても芸術家を発見したり保護したりするパトロンとしては日本史上でも一流の存在であったことはまぎれもない。この院の北面ノ武士であった西行も、この院の異常なひきたてによって名が出たひとりである。
・日本の社会史で、この室町期の応仁・文明ノ乱ほど、ある意味では大事な時期はないかもしれない。日本にはフランス革命に相当する社会革命はなかったと思われがちだが、この室町末期におけるなしくずしの中世的諸体系の大崩壊こそそれに相当するものであったかもしれない。
・織豊期に、茶人として一世に名の高かった堺の富商が三人いた。千利休、今井宗久、そしてこの津田宗及で、織田信長に茶と貿易のすべてを指南したというこの宗及がその筆頭とされていた。 -
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主人公は長宗我部元親の四男、長宗我部盛親。舞台は豊臣秀吉により全国統一され、一時の平安期を迎えている戦国時代末期から始まります。
物語の軸が戦いではなく、女性との関係を通し自分のなすべきことや自分自身を見出していくことに置かれ、新鮮でした。目まぐるしい時代の潮流に飲み込まれ翻弄される盛親が自問していく姿に人間味を感じる作品だと感じました。
一方で、中盤では蟄居を命じられるため読んでいてもどかしく、退屈になる部分もあったのでこの評価になっています。
戦国時代の華々しい小説ではなく、一人の人間を描いた魅力ある小説です。
戦国武将の一人を深く描いた作品なので、戦国ファンなら手に取って損はない作品だと感じました。 -
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以下抜粋
・室町末期から織豊時代にかけて、日本は、世界史的な大航海時代の圏内に入った。対明貿易が活発になり、堺や博多が貿易港になり、また松浦諸島のうちの平戸や福江は倭寇貿易の基地になった。この当時、日本側が持っていく商品には、・・・、なんといっても需要が最も多かったのは刀剣で、それに干鮑だった。
・鉄が作られるためにもっとも重要な条件は木炭の補給力である。樹木が鉄をつくるといっていい。
さらに、その社会で鉄が持続して生産されるための要件は、樹木の復元力がさかんであるかどうかである。この点、東アジアにおいて最も遅く製鉄法が入った日本地域は、モンスーン地帯であるため樹木の復元力は、朝鮮や北中国にくらべて、卓越している。
・朝鮮人は歴史的にも優秀な民族だし、また手工芸においても高い能力をもっていることはいくつもの例で証明できるが、しかしその能力を十分に反映した社会を近世まで持ち得なかった理由の一つは、鉄器の不足にあるといってよく、同時に鉄器の不足が農業生産力を飛躍させず、旺盛な商品経済を成立せしめず、せしめなかったこそ、李朝五百年の儒教国家がゆるがなかったともいえるかもしれない。このことは、中国のながい停滞を考える場合にも、多少は通用するかもしれない。
同時に、裏返せば、日本列島に住むわれわれアジア人が、他のアジア人とちがった歴史、そしてときには美質であり、同時に病根であるものを持ってしまったことにもつながっている。要するに、砂鉄がそうさせたことではないか。
・スサノオを奉じて出雲にやってきたのは新羅の製鉄者集団であったとすれば、かれらはこの航路をつたって出雲にきたであろう。
かれらが移動してきた理由は、ほっとすると韓国の採鉄場付近の森林が尽きてしまったからであるかもしれない。 -
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以下抜粋~
・(下北半島について)
もしフィンランド人はハンガリー人がこの大地を最初に発見したとすれば、かれらはこの大空間に放牧することを考えて狂喜したであろう。
もしかれらが北欧の地に水稲を植えていれば、かれらはおそらく餓死し、こんにち国家をつくるだけの人口を残さなかったにちがいない。
・要するに上代以来の弥生式水田農業を神であるとし、それを取り入れることが奈良朝時代にあっては「王化」であるとし、江戸期ではこの農業をもって厳然たる政治の基盤としたために南部もそれに従わざるを得なかったということの悲劇である。
・もし南部氏が、「水田はほどほどにして牧畜を盛大にする。士民はその肉を食って生を養う」という一大政治決断をしたとしたがどうであろう。必ず失敗したにちがいない。牧畜によって牛肉で生を養うなどということは、幕藩体制の経済に対する問題にはとどまらず、大きく日本全体の文化意識そのものに対し、重大な挑戦行為になったにちがいない。
穀物を神と仰ぐという弥生式農民の信仰が神道の根幹をつくり、さらには上代依頼明治までの天皇の神聖とも重大な関係があった。
・津軽家に領土を横領されたという歴史をもつ南部藩の場合、その環境を木柱や石柱というような簡便なもので済ませるというにはあまりにも思いが深刻だったにちがいない。
・薩摩には敵に対する優しさの話が多い。
→島津氏が、朝鮮ノ役のときに、帰国後、高野山に敵見方ともにその無名戦士を平等に供養した。(例がない)
→戊辰戦争のときも旧幕府方に対するあつかいは、「どちらが勝利者かわからない」といわれたほどに薩摩側は寛大で態度も鄭重だった。
・敵に対して優しいクマソタケルのほうが、よか男としては上だという。いかにも薩摩の人間美学ならそうあるべきかと思える。
・(浄土真宗等)諸勢力の拡大は、戦国における地方統一というあたらしいタテ社会の建設をめざしている諸国諸郷の大小の領主にとっては恐怖であった。かれら講の連中はヨコに結び合い、聖典と信仰を共有することによって一種、無階級の社会的気分をもつにいたっているだけでなく、主君というのは未来永劫の契りである阿弥陀如来で、現在いだいている主君というのは「じつは一世の契りにすぎない」とおもっていた。
「一向念仏はまかりならぬ」と島津氏が言い出したのは天文年間までさかのぼれるそうだが、この行政的禁忌に刑法的裏付けがきまって薩摩藩独特の戦慄的な「念仏禁止」が行われたのは、江戸初期、幕府の切支丹停止と併行した時期である。 -
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ネタバレ司馬遼太郎の実質的なデビュー作で直木賞受賞作。
忍者ものは然程好みでなかったのでこれまで手に取らずにいたが、いよいよ未読作品が減ってきたので手に取った。
敵味方が入り乱れて、気を抜くと筋が追えなくなりそうだったが、何とか読み終えた。
ラストの方で、伊賀忍者の葛籠重蔵が太閤秀吉を弑するのではなく、ポカリと殴りつける場面は、それまでの緊迫感からのズレにニヤリとしてしまった。
最後の四頁を読む迄、石川五右衛門をモチーフとした話と気付かず。。(途中、風間五平が「石川五右衛門」と咄嗟に偽名を出す場面があっても)
気持ちよくしてやられた感あり。
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その風土性に一様性が濃く、傾斜がつよく、その傾斜が日本歴史につきささり、なんらかの影響を歴史の背骨にあたえたところの土地を選んで訪ねた紀行エッセイ。
主として、近代に直接つながる江戸時代、特に幕末に個性を発揮したところが選ばれている。
具体的には、高知、会津若松、滋賀(近江商人)、佐賀、金沢(加賀100万石)、京都、鹿児島、岡山、盛岡(南部気質)、三河、萩、大阪の12箇所。
実際の旅は昭和43年とのことだから、当時は各県=各藩の風土、気質というものがいまだ色濃く残っていた頃かと思われる。維新以降の時代の変化を体験した祖父母の世代から直接話を聞いた世代が多かっただろうし、県人会や上京した学生用の寮など、同郷の繋がりが強かった時代だったから。
司馬さんらしく興味深いエピソードも多く、ほとんど行ったことのない土地でも何となくイメージが湧いてくる。 -
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ネタバレ国民的作家“司馬遼太郎”の最初期、本名の「福田定一」の名で華道の機関誌に掲載された、花をモチーフとした幻想譚10編を収録。ほとんどが10㌻前後の短い作品で、古代ギリシア神話のナルキソスのエピソードをはじめ日本、中国、モンゴルの歴史や伝承がベースになっており、どれも20㌻に満たない。後の司馬作品の代表作を愛読する人からすれば物足りなさを感じるかもしれないが、若書きで硬さはあるものの簡潔で歯切れのいい文章は、やはり読みやすい。
収録作中で怪奇幻想味がより濃いのは、農夫が項羽らの最期を幻視する「烏江の月」、『聊斎志異』を著した蒲松齡の自宅の庭に咲いた妖しい花「黒色の牡丹」、元禄期の(今でいう)催眠療法士の逸話「白椿」など。
個人的に司馬作品の有名どころの長編は読んだことがなく、既読は『果心居士の幻術』1冊のためか、かえってすんなりと馴染めたのかもしれない。