司馬遼太郎のレビュー一覧

  • 項羽と劉邦(下)

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    項羽と劉邦の最終決戦までを描いている。韓信における蒯通や劉邦における候公のように自分自身で活躍するというよりも主人をもって覇者にさせようとし、言葉で天下を取ろうとする士の活躍が描かれてた。この時期の日本はまだ稲作も伝わってないのに隣の中国では高度な文明が起きていたのが伝わる。最後項羽が漢軍を一人で薙ぎ倒す描写は痺れた。強すぎた故に周りの才能に気づかずまた重宝しなかったことで劉邦に負けてしまったのか、

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    2023年09月02日
  • 項羽と劉邦(中)

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    ネタバレ

    秦帝国が滅亡したあとの話。先に関中に辿り着いた劉邦は関中王となり、項羽と敵対することとなる。元々敵対するつもりはなかったが劉邦の側近に函谷関を閉じれば関中は手に入ると唆されたことで項羽と争うこととなる。その後項羽に謝罪をし中国の山の中である漢、巴蜀に封じられることとなった劉邦はそこで挙兵し再び関中を制圧し漢王と名乗ることとなる。前回関中に入った際に、劉邦軍は秦の人たちに対して略奪をしておらず逆に項羽軍は掠奪強姦をしたことで秦の人たちは劉邦軍を歓迎することとなる。その後劉邦は項羽軍の本拠地である彭城を一度は占拠するも留守から戻ってきた項羽によって返り討ちに遭い劉邦は敗走し、滎陽にて籠城する。この敗走する場面で劉邦は自分の子供を馬車から投げ捨て車を軽くしようとするがあまりにも必死すぎる。
    最後籠城から抜け出すために同郷の紀信を影武者として項羽に降伏する間に劉邦は滎陽から抜け出し関中へと向かう。
    なんでもできる項羽に対して何もできない劉邦の対比が面白い。前者は有能な部下がいても重宝せず、身内を才能に関わらず信用していたため大事な軍師である范増が抜けてしまう。逆に後者は張良、韓信、蕭何と言った有能な人材をしっかり登用していく。何もできないのもどうかと思うが人を信じて適用するのも才能の一つか、

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    2023年08月29日
  • 酔って候

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    短編集。幕末の大名4人。山内容堂、島津久光、伊達宗城、鍋島直正。最初二人は面白かった。残り二人はそこまで。伊達宗城に関しては、伊達宗城がメインの話ではなく貧乏男が主人公。

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    2023年08月27日
  • 項羽と劉邦(上)

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    始皇帝が中国を統一したところから物語が始まる。始皇帝が全国に顔を見せるために巡回している間に死んでしまい、それに漬け込んだ宦官の趙官が胡亥を要して実質の皇帝になる。始皇帝から始まった建設事業によって多くの人たちが駆り出され不満が溜まっていきついに陳勝が反乱を起こすことで秦帝国の崩壊が始まる。これに続き呉中の項梁、項羽や沛の劉邦らが反乱軍を組織。鉅鹿城にて章秦軍を倒した項羽は20万もの秦軍を捕虜とするも新安で20万の兵を谷に生き埋めにしてしまう。
    シンプルに戦国時代の中国を統一した始皇帝はすごいが封建制度から法治国家にするのは難しかったか。無駄な建設はしないに限る。キングダム読んだことあるから少しだけ理解しやすかったが、全体的に登場人が多くて難しいのと中国の地理が馴染みがないので揚子江より南が全くの異文化とかわかりにくかった。

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    2023年08月24日
  • 世に棲む日日(四)

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    高杉晋作が俗論派の政権を倒すべく周囲を巻き込んでいくところから第二次長州征討で小倉城を奪い、死すまで。
    長州藩に関心が湧かないのか、高杉晋作に思い入れができないためか、コロナでしばらく読めてなかったためか、理由はともあれ強くは惹き込まれなかった。

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    2023年08月14日
  • 功名が辻(一)

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    最近続けて掛川城と高知城に行く機会があったが、山内一豊と千代のことをよく知らない自分に気づき、久しぶりに司馬作品を手に取った。
    戦国合戦の裏話的なものが満載で、やっぱり司馬作品面白いな、と思いながら読んだ。
    今の時代から考えると、男性と女性の立ち位置があまりにも違うことに納得できない部分もあるが、こういう時代を経て現在に至っている(いやいやまだまだではあるが)のだし、戦国時代としては、千代はとても賢い女性の一人だったので、彼女の生き方はどうだったのかと興味深く続けて読んでいきたいと思った。

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    2023年08月10日
  • 燃えよ剣 1巻

    無料版購入済み

    いいとこ取り

    司馬遼太郎の人気作品のコミカライズである。幕末、新選組、土方歳三 と大人気の組み合わせだけあって繰り返し、映画化、テレビドラマ化されているが、コミカライズ版はどうかと思い読んでみた。登場人物が見な原作のイメージよりも若すぎる 稚すぎる感じがするが、できるだけ原作に忠実であろうとする努力は認められると思う。

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    2023年08月04日
  • 世に棲む日日(二)

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    安政の大獄で吉田松陰が死刑となり、高杉晋作の物語に。2巻は高杉晋作が攘夷を決行すべく異国人を打ち払う準備を整えるところまで。

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    2023年08月01日
  • 街道をゆく 32

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    ネタバレ

    以下引用~
    新政府がその裁きとして、稲田の家臣団を北海道に移したことはすでにのべた。(徳島の稲田騒動。阿波蜂須賀氏との対立)

    この脇町を脱出した小野五平にとって、目的は政治ではなく、将棋だった。
    当時、将棋界には弊風がつもっていたが、かれは実力と努力でこれを改革しようとした。
    柔術を改革して柔道をつくりあげた嘉納治五郎は阿波の対岸の大阪湾岸の人だったし、また俳句短歌を改革したのは、阿波のとなりの伊予の人正岡子規だった。かれらがいなければ、将棋、柔道、俳句といったものは、こんにち衰弱していたかもしれない。

    豊臣政権というのは、名子制を廃止したという点で、革命政権だった。当時、それに反対する地侍(名子の親方)による一揆が各地でおこった。豊臣政権はいちいちそれらを攻めつぶし、地侍を城下によんで大名の家臣にするか、あるいは在地のまま農民身分におとすか、どちらかにした。名子については土地をあたえ、自作農にした。豊臣政権は、ひとことでいえば、自作農設定政権、だったといっていい。徳川政権が、それをひきついだ。

    根来寺は、全国に情報網をもっていた。たとえば、1543年、薩摩の南にうかぶ種子島に鉄砲が伝来したときくや、すぐ人を出すという機敏さは、容易なことではない。
    鉄砲伝来譚には、かならず根来寺が出てくる。
    その後、根来衆は、戦国大名にさきがけて鉄砲をもって武装し、後年、豊臣秀頼によって堂塔・行人ともにほろぼされるまで、抜きん出た鉄砲集団として四方からおそれられていた。

    どうも、日本の大寺は、当時のヨーロッパ風にいえば、大学にあたるらしい。二和寺は真言学の単科であり、興福寺も東大寺も、仏教古典学の大学であった。

    信長は、中世的な不合理なもの、説明しようのない怪態が、政治や経済、あるいは軍事を握っていることを、身震いするほどきらった。このため比叡山延暦寺を焼きはらった。

    根来塗の赤は、似たようなものがないといえるほどに美しい。本来、赤というのははげしく主張する色である。が、根来塗の赤は、主張や執着というどぎつさを去ってしまったもので、こういう色はまれに天然のなかに見る。たとえば残照の雲間にふとあらわれてつぎの瞬間に消えるかもしれない赤である。

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    2023年07月17日
  • 坂の上の雲(二)

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    日清戦争は、老朽しきった秩序の清国と新生したばかりの秩序の日本とのあいだにおこなわれた大規模実験のような性格を持つとのこと。
    小学生か中学生の時、上記のような背景には触れず、「日本が勝利し、下関条約で台湾、遼東半島などを割譲された云々」みたいなことを淡々と話されたくらいでした。

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    2023年07月16日
  • 街道をゆく 8

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    ネタバレ

    以下抜粋~
    ・結局、川へはダムの底の水が流れこむために濁るだという。ダムの底の水は水温が低く、自然、古座川の水温も低くなってそれまで淡水魚の宝庫といわれたこの川に魚があまり棲まなくなったというのである。なるほど氾濫はふせげたが、差引すればどうだろうかという疑問が村々にある。
    「河川土木に限りませんが、自然に手を加えるというのは、むずかしいものですな」

    ・インド神である牛頭天王は、祇園精舎の守護神で、とくに疫病をふせぐ神であった。
    京都の八坂神社は日本の神であるスサノオノミコトよりも、その本地であるインドの牛頭天王を信仰していた。
    これによって八坂郷がインドの地名の祇園とよばれるようになったわけである。

    ・徳川幕府の草創のときの大方針の一つは、水軍を絶滅させることにあった。織田・豊臣家の水軍である熊野水軍の九鬼氏を、丹波の山奥に移封させたように、久留島氏(伊予の来島水軍)も、この豊後森というような海とはまったく無縁の山奥に移されたのである。

    ・薩摩は士族文化の国で、その士族文化というのは、つきつめていえば相手に対する優しさと鄭重さにあるように思われる。

    ・朝鮮侵略が、焼物戦争といわれるゆえんはそれで、その焼物戦争以前の日本の食器など諸道具というのはほとんど漆器だったことを思うと、日本文化はかれらに負うところが量り知れぬほど大きい。

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    2023年06月29日
  • 街道をゆく 34

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    以下引用~
    ・鎌倉時代、絶対他力の親鸞念仏と、絶対自力の禅がうまれ、両輪相まって、日本文化にふかい影響をあたえた。

    ・仏教の本質は、自分の力で自分を浄める道だ、ということにある。

    ・日本人はよほど清潔ずきらしく、”きれい”ということばは、たとえば、よく洗った皿がきれいである、あるいは、このビンきれいですか、という意味と同時に、彼女、きれいだよ。という別義を持っている。
    清潔と美が、一つのことばなのである。オランダ語もそうだそうで、オランダ人の清潔好きの説明によくつかわれる。

    ・福沢には、沢がつく。沢のつく地名、苗字は信州に圧倒的に多い。諏訪湖の東南の茅野市の市域のなかに、福沢という小さな村があって、諭吉の祖はそこから出た、と福沢家の伝説にいう。

    そのころ、中津は小河原氏の時代だった。この大名は室町時代にすでに信濃の守護だった家で、信州松本が封地だったこともあり、家臣に信州人が多かった。
    ついでながら、中津はよき混血の地である。初代黒田氏の家来には播州(兵庫県)人が多かったろうし、つぎの細川氏には京都人がすくなからずいたろう。小河原氏の信州、奥平家の三河(愛知県)。

    ・つまり封建制のもとでは、下級の家にうまれた者はいかに学問ができてもむだなわけで、僧侶になることがぬけ道だった。魚屋の息子が大僧正になったというような者がいくらもいた、と諭吉はいう。

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    2023年06月05日
  • 街道をゆく 4

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    以下引用~
    ・真言密教は西洋でいう魔法である。東洋の場合、魔法が悪魔の側になくて体制の側にある。さらに西洋とちがっているのは、魔法が、真言密教という、思想を論理化したという点で完璧ともいうべき体系を背景にもっていることである。

    ・鳥羽院は当時一流の芸術家であったが、そうでないにしても芸術家を発見したり保護したりするパトロンとしては日本史上でも一流の存在であったことはまぎれもない。この院の北面ノ武士であった西行も、この院の異常なひきたてによって名が出たひとりである。

    ・日本の社会史で、この室町期の応仁・文明ノ乱ほど、ある意味では大事な時期はないかもしれない。日本にはフランス革命に相当する社会革命はなかったと思われがちだが、この室町末期におけるなしくずしの中世的諸体系の大崩壊こそそれに相当するものであったかもしれない。

    ・織豊期に、茶人として一世に名の高かった堺の富商が三人いた。千利休、今井宗久、そしてこの津田宗及で、織田信長に茶と貿易のすべてを指南したというこの宗及がその筆頭とされていた。

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    2023年06月05日
  • 新装版 戦雲の夢

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    主人公は長宗我部元親の四男、長宗我部盛親。舞台は豊臣秀吉により全国統一され、一時の平安期を迎えている戦国時代末期から始まります。

    物語の軸が戦いではなく、女性との関係を通し自分のなすべきことや自分自身を見出していくことに置かれ、新鮮でした。目まぐるしい時代の潮流に飲み込まれ翻弄される盛親が自問していく姿に人間味を感じる作品だと感じました。

    一方で、中盤では蟄居を命じられるため読んでいてもどかしく、退屈になる部分もあったのでこの評価になっています。
    戦国時代の華々しい小説ではなく、一人の人間を描いた魅力ある小説です。

    戦国武将の一人を深く描いた作品なので、戦国ファンなら手に取って損はない作品だと感じました。

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    2023年06月04日
  • 覇王の家(下)

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    上下巻読み終えた。下巻では小牧長久手の戦いの描写が詳しく書かれており、この合戦についての背景や概要を知らなかった為概要を知る事ができた。また、石川数正や本多忠勝といった重臣にも視点が置いてあり人物や三河衆も知ることができてよかった。

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    2023年05月22日
  • 覇王の家(上)

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    三英傑の中の1人の徳川家康が主人公の小説を初めて読みました。徳川家康を含め家臣、三河衆の特徴についての書き方がわかりやすかった。私個人的には徳川家康を知るための入門書籍としては非常に参考になった。

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    2023年05月21日
  • この国のかたち(五)

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    ・儒教の危険性
    ・明治人が持っていた職人的合理主義
    ・室町時代の特異性
    ・連歌の魅力
    ・大村益次郎、高田屋嘉兵衛の魅力

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    2023年05月20日
  • 街道をゆく 7

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    以下抜粋
    ・室町末期から織豊時代にかけて、日本は、世界史的な大航海時代の圏内に入った。対明貿易が活発になり、堺や博多が貿易港になり、また松浦諸島のうちの平戸や福江は倭寇貿易の基地になった。この当時、日本側が持っていく商品には、・・・、なんといっても需要が最も多かったのは刀剣で、それに干鮑だった。

    ・鉄が作られるためにもっとも重要な条件は木炭の補給力である。樹木が鉄をつくるといっていい。
    さらに、その社会で鉄が持続して生産されるための要件は、樹木の復元力がさかんであるかどうかである。この点、東アジアにおいて最も遅く製鉄法が入った日本地域は、モンスーン地帯であるため樹木の復元力は、朝鮮や北中国にくらべて、卓越している。

    ・朝鮮人は歴史的にも優秀な民族だし、また手工芸においても高い能力をもっていることはいくつもの例で証明できるが、しかしその能力を十分に反映した社会を近世まで持ち得なかった理由の一つは、鉄器の不足にあるといってよく、同時に鉄器の不足が農業生産力を飛躍させず、旺盛な商品経済を成立せしめず、せしめなかったこそ、李朝五百年の儒教国家がゆるがなかったともいえるかもしれない。このことは、中国のながい停滞を考える場合にも、多少は通用するかもしれない。
    同時に、裏返せば、日本列島に住むわれわれアジア人が、他のアジア人とちがった歴史、そしてときには美質であり、同時に病根であるものを持ってしまったことにもつながっている。要するに、砂鉄がそうさせたことではないか。

    ・スサノオを奉じて出雲にやってきたのは新羅の製鉄者集団であったとすれば、かれらはこの航路をつたって出雲にきたであろう。
    かれらが移動してきた理由は、ほっとすると韓国の採鉄場付近の森林が尽きてしまったからであるかもしれない。

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    2023年05月14日
  • ロシアについて 北方の原形

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    どっかのおすすめで出てきたので読みました。意外と国としてのロシアの歴史はそんなに長くなく、モンゴルなどにいた遊牧民に支配される時期が長かったんだなと。シベリアという土地を併合してからロシアという国は始まり、シベリア経由で日本に接近してきて今日に至る流れはわかりやすかった。雑談に書いてあったが北方領土をロシアが手放さない理由がヤルタ会談にあり、外蒙古を中国に間接的に返さなきゃいけなくなるからっていうのは納得した。

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    2024年11月19日
  • 街道をゆく 3

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    以下抜粋~
    ・(下北半島について)
    もしフィンランド人はハンガリー人がこの大地を最初に発見したとすれば、かれらはこの大空間に放牧することを考えて狂喜したであろう。
    もしかれらが北欧の地に水稲を植えていれば、かれらはおそらく餓死し、こんにち国家をつくるだけの人口を残さなかったにちがいない。

    ・要するに上代以来の弥生式水田農業を神であるとし、それを取り入れることが奈良朝時代にあっては「王化」であるとし、江戸期ではこの農業をもって厳然たる政治の基盤としたために南部もそれに従わざるを得なかったということの悲劇である。

    ・もし南部氏が、「水田はほどほどにして牧畜を盛大にする。士民はその肉を食って生を養う」という一大政治決断をしたとしたがどうであろう。必ず失敗したにちがいない。牧畜によって牛肉で生を養うなどということは、幕藩体制の経済に対する問題にはとどまらず、大きく日本全体の文化意識そのものに対し、重大な挑戦行為になったにちがいない。
    穀物を神と仰ぐという弥生式農民の信仰が神道の根幹をつくり、さらには上代依頼明治までの天皇の神聖とも重大な関係があった。

    ・津軽家に領土を横領されたという歴史をもつ南部藩の場合、その環境を木柱や石柱というような簡便なもので済ませるというにはあまりにも思いが深刻だったにちがいない。

    ・薩摩には敵に対する優しさの話が多い。
    →島津氏が、朝鮮ノ役のときに、帰国後、高野山に敵見方ともにその無名戦士を平等に供養した。(例がない)
    →戊辰戦争のときも旧幕府方に対するあつかいは、「どちらが勝利者かわからない」といわれたほどに薩摩側は寛大で態度も鄭重だった。
    ・敵に対して優しいクマソタケルのほうが、よか男としては上だという。いかにも薩摩の人間美学ならそうあるべきかと思える。

    ・(浄土真宗等)諸勢力の拡大は、戦国における地方統一というあたらしいタテ社会の建設をめざしている諸国諸郷の大小の領主にとっては恐怖であった。かれら講の連中はヨコに結び合い、聖典と信仰を共有することによって一種、無階級の社会的気分をもつにいたっているだけでなく、主君というのは未来永劫の契りである阿弥陀如来で、現在いだいている主君というのは「じつは一世の契りにすぎない」とおもっていた。
    「一向念仏はまかりならぬ」と島津氏が言い出したのは天文年間までさかのぼれるそうだが、この行政的禁忌に刑法的裏付けがきまって薩摩藩独特の戦慄的な「念仏禁止」が行われたのは、江戸初期、幕府の切支丹停止と併行した時期である。

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    2023年05月04日