司馬遼太郎のレビュー一覧
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家康の布石は見事に効いた。
おバカの大野修理をおだてることで、幸村ら能力者の意見はしりぞけられていく。
『和漢いずれにせよ、衰亡してゆく権力が過去にたどってきた法則的な道を、豊臣家はあらためて法則どおりに辿ろうとしていた』(p38)
普通にやれば勝てるはずの戦で、家康は、「さらにもう一手」を打つのを怠らない。その周到さ!
家康によって最後の手段である秀頼出陣を阻まれた幸村は『古今の悪人とは駿府翁のことかな』(p467)と嘆じた。この物語で最も残酷で悲しいシーンの一つではなかろうか。
しかししかし、それでも、ぎりぎりまで運をみすてない幸村の執念には、驚嘆するほかない。その姿から、生きる力をもらった。最後の最後まで、全力で生きてみよ――その通りだ。 -
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以下抜粋~
・中央政権は奥州征伐というものを繰りかえしたが、要するに弥生式農耕をすすめてまわる運動だったといってよく、その意味からいえば初期律令国家というのは水田農耕を推進して租税の増収をはかる公社といったような性格があった。
その公社に順った者は、「山夷」に対する言葉として「田夷」とよばれた。
・江戸期、佐渡は一円に能がさかんで、百姓たちが能狂言の役者になり、あるいは歌い手になり、かつ見物者としても楽しんだ。京や江戸でもここまでの謡曲の普及はみられなかったに相違いなく、この意味では佐渡は濃厚に江戸文化を沈殿させた土地といっていい。
・日本文学史における伝奇的空想力は中国のそれとくらべると実に小さく、このあたり、よくいわれるように「水滸伝」の大きさと「八犬伝」の小ささということを考えても、簡単に説明がつく。民衆にのしかかっている王朝悪(官僚悪)というものの重量が、比較にならないのである。
・中国の庶民は、歴史の中でも、ごく個人的な現実の暮らしの中でも、この種の経験を無数にしてきた。専制的な中国皇帝の分身が地方長官だが、長官のおさめるべき地域が広すぎたり、あるいは流通経済などを管理する場合、かれ自身が私的に採用した者を権能を持たせたりして仕事をさせる。その者が、長官にとっては金魚にすぎないが、現場では孫悟空でも歯が立たないほどの権力者になってしまい、私利の追求のためにどんなことでもする。
・封建時代では、いうまでもなく門地がすべてを決する制度である。しかしながら幕府の勘定奉行配下の役人ばかりは、門閥でその職を得るという例はほとんどなかった。川路のように卑い御家人身分から能力と人柄によって相応の職につくという例がふつうで、江戸幕府が二百数十年もつづいたという理由の多くは、勘定機構の人材がそれをさせたということさえ言える。
・江戸幕府は、同時代の地球上のいろんな政府にくらべ、ほべられぶべき点も多い。しかし最大の汚点は、無宿人狩りをやっては、かれらを佐渡の水替人夫に送ったことである。 -
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戦国時代の終結を告げる大坂の陣を題材にしながら、実に現代的な本だ。
大坂方の中枢は、世の中の流れが完全に関東にいっていることが分からない。「豊臣恩顧」などという論理も、力でくつがえるという現実を見ようとしない。そんな沈む舟から、脱出する人がいる。裏切って内通する人がいる。(総大将に指名され、すぐに逃げた織田信雄には笑うしかなかった)。昭和体質を捨てられず、没落する日本企業を見る思いだ。
一方で、関東方には、権力のためならいくらでも学問をねじ曲げる御用学者がいる。ようは勝てばいい、政権が続けばいい。そんな権力中枢のリアルが描かれる。現代日本政治を見る思いだ。「関ケ原」とあわせて読みたい。名品。
NHK大河ドラマ「真田丸」の役者たちを念頭に置きながら読んだ。とくに大蔵卿局と片桐且元。 -
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司馬遼太郎氏が『坂の上の雲』など、ロシアを題材にした作品を執筆する中で感じた彼の国に関する論考がまとめられている。その歴史的な成り立ちや、「タタールのくびき」等の民族的価値観に影響を与えた経緯について、体系的に理解できる。
ロシアの日本に対する羨望は、領土拡張などの野心というよりも恋慕に近い感情がある。シベリアという巨大な大陸を抱え、そこに暮らす住民たちの飢えや経済交流を極東側の列島に期待してきた歴史があるが、鎖国し毛皮や自然資源をさほど求めてない日本はずっと交流を絶ってきた。
帝国としては後発で、広大な領土をまとめるためには統制的な絶対君主が必要な国家体制は、実は今も変わっていない。そして常に飢えてきたロシア国民にとっては、ウクライナ周辺の肥沃な農地は手放してはならない不凍の食糧庫だろう。現在の国際情勢にも繋がるロシアという国の源流を知る上で良書である。 -
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以下引用
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・主幹線の東海道にくらべ、この副幹線は、途中、大河がない。従って氾濫で足どめされることがないという利点があって、文久元年、将軍家茂に降嫁した皇女和宮の東下のときも、経路として中山道がえらばれた。
・光圀があるとき、
「世間では、尾張・紀伊・水戸のことを”御三家”などというが、甚だしくちがっている。”御三家”とは公方家(将軍家)と尾張・紀州のことをいうのだ。水戸はその三家の後見のようなものである」
つまりは三家が我儘におよぶときは、意見申しあげる役目の家である、といったという。
・かれのロンドン留学時代の憂鬱を一時的にも救ったのは、滞英中の化学者池田菊苗との会話だったことはよく知られている。池田菊苗は薩摩藩士の子で、大学は漱石よりすこし先輩である。ドイツ留学をし、やがて食べものの味には五味のほか”うまみ”というのがあるはずだと着想し、コンブのうまみ成分からグルタミン酸ナトリウムを発見した。商品名の”味の素”がそれである。