あらすじ
弘法大師空海の足跡をたどり、その時代風景のなかに自らを置き、過去と現在の融通無碍の往還によって、日本が生んだ最初の「人類普遍の天才」の実像に迫る。構想十余年、著者積年のテーマが結実した司馬文学の最高傑作。
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空海の壮大な構想、旅が味わえます!
今まさに「菜の花忌『空海の風景』を読む」シンポジウム(東大阪文化創造館)に来ております。パネリストは磯田道史さんや澤田瞳子さん。楽しみです。
本を持ってくるのを忘れてしまいました。
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完全な小説でもなくノンフィクションのドキュメンタリーでもないという難しいスタイルにもかかわらず、とても引き込まれました。本書を通じて題名通り空海がどういう人物であったか、空海がどういう風景を見ていたかということで、司馬遼太郎氏の執念のようなものを感じました。かすかな手がかりでさえ用いて空海がどういう人物であったのか、どのような人物に囲まれていたのかということで、司馬遼太郎氏の想像力の世界を通じてですが、空海の深奥な世界に引き込まれました。一気に読めます。
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数ある著書の中でも、とくに司馬史感の強い作品。1000年の時を隔てた思想的巨人の生涯を辿る作風なため、幾分か作者の想像が入り込むのは当たり前のことだが、ただの想像にとどまらない。司馬遼太郎特有の縦横無尽の知識をふんだんに用い、かつ、なにより愛のこもったまなざしで頭中の空海を見つめ文を紡ぐので、読者の目の前に空海の見たであろう風景がありありと広がるのである。まったく「風景」と呼ぶにふさわしい作品だと感じた。
個人的におすすめの読み方は、Google mapsを片手に、文中に出てくる地名を逐次検索しながら読む方法。著者の特徴に、地名が詳細に記載されていることが挙げられる。空海は最初大陸のどの辺に漂流したのか、そこからどのような道筋で長安に向かったのか。この河を渡る際に、先に日本に帰る部隊と別れの儀を行ったのか、など、より鮮明にその風景を見ることが出来る。
下巻が楽しみ。
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日本や中国の古い地名や名前、言葉が出てきて最初は読みにくいが慣れてくると興味深くどんどん読み進められた。
ただ、多用される「…であったことだろう。」という想像の話を想像と分かるように書かれている文体が気になるのと、同じことが何度も何度も繰り返し言われているような書き方には時々鬱陶しさを感じた。特に自分がどうでもいいなと思った登場人物を何度も何度も同じように深掘りされるとかなりしつこいと思った。薬子ノ乱のくだりなど。元々が雑誌の連載なのでこういうことになっているのだろうが、今読むと気になる。
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かなり前に落語の枕で本書のことが語られていたのが頭に残っていた。近年になり四国八十八か所巡礼に別のきっかけから興味を持ち、本書を購入した。著者の他の歴史小説と違い、弘法大師・空海の生立ちを記者の目で見、一歩引いた立場で文章にしたという印象だ。したたかな人間としての空海を読むのは面白い。命を懸けて唐・長安へ行き、わずかな年数で帰国したことは知っていたが、彼の策略であろうことが容易に想像できてしまう。
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小説というジャンルになるのでしょうか。タイトル通り、空海が見て聞いた風景が描かれています。空海が主役で一人称ですすで行くわけではなく、空海の風景を司馬遼太郎が描いている作品です。難解な感じが多く、時間がかかりますが、おもしろいです。
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空海の幼少期から唐に入り密教を授かるため恵果を訪問するまで書かれています。空海の風景という題名の通り、空海が見た風景、あるいは空海を写した風景を司馬遼太郎の考察を多分に含み表現しています。小説というよりは考察文に近い印象を受けるほどです。10代で三教指帰を書く天才性(しかも仏教の優れさを戯曲で表すという発想性)、唐に入った後の地方役員に上奏した漢文の見事さなどが伝わってきます。また仏教にただ詳しいだけでなく社会を渡り歩く機微も持ち合わせており、本当に杞憂な人物だなと思います。空海についてもよく分かり面白いのですが、遣唐使の航海の厳しさや唐の長安の先進性(人種差別がなく、多様な人種を受け入れ、宗教でさえ様々な宗教が保護されていた)や街路樹を植えていたなどの街造りとしての先進性もあったことに驚きと魅力を感じました。改めて司馬遼太郎の造詣の深さを感じることができる本です。
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★4.5
司馬遼太郎氏の想像も混じえて描かれた空海は、非常に人間くさい。密教を分かりやすいように説明してある。上巻は、青竜寺の恵果を訪れるところまで。
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一応小説ということになっているが、空海の生涯をなぞる評伝エッセイ的な雰囲気である。
まさに超人的だった(今にして尊崇を集めている影響力!)空海とはどんな人物だったのか、その辺りが浮き彫りになる味わい深い一書。
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久しぶりに司馬作品を読んでみたが、これは氏の作品の中でも少しとっつきにくい方かもしれない。真言密教の祖空海の生涯を少ない資料を基に推測を交えて描いている。
上巻は讃岐に生を受けてから唐に渡り、密教を学ぶところまでである。私は仏教や密教の知識は全くといっていいほど無いが、現存している寺社仏閣において空海の伝えた影響がまだ色濃く残っていることがわかる。
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10年ぶりの司馬遼。さすがに練れた小説です。彼の眼から見た巨人空海を楽しめます。特に最澄との比較による空海の人柄の浮き上がらせ方は見事。とても楽しく読めました。
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空海に関しては少し前まで一般知識として名前を知っている程度だったのですが、高野山の存在に興味を持ったことや、映画になったことなどから、もっと深く知りたくなって読んでみた。
あまりに時代が古いせいで史実を追うだけだと味気なくつまらない内容で終わってしまうところを、司馬氏が想像を思う存分駆使して物語を構築してくれたお陰で活き活きと動く姿を味わうことができます。
他の登場人物の描写がこれまでの自分の認識と異なる点が幾つもあるので、空海に関しても事実というより、あくまで1つの側面から見ればという前提付きで読めば良いと思います。
下巻に期待。
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中国文明は宇宙の真実や生命の神秘についてはまるで痴呆である。中国文明の重要な部分をなすものは史伝であり、史伝とは事実のことをいう。人生における事実などは水面に浮かぶ泡よりも儚い。なによりも儒教とは世俗の作法に過ぎない。この様な中国人と対局にいるのはインド人である。国費で儒学を学ぶ空海は、中国文明に身を置きながら私的関心としてはインド文明に引き寄せられていく(P104~参照)
最澄は天台宗で比叡山、空海は真言宗で高野山と覚えておこう試験にでる(笑
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司馬遼太郎、空海の風景(上・下巻)を読む:
今日、これだけ、旅が、何処へでも簡単に、出掛けられ、しかも、ネットで、欲しい情報に、簡単にアクセス出来る時代からすれば、8世紀の時代に、航海術ですら、満足に発展していない頃に、命懸けで、当時の世界的文化的な大都市に、海外留学しにゆくが如きことは、おおいに、大変であったことは、容易に、想像されよう。
目的地へ、きちんと、到着した最澄と異なり、福建省の土地に漂着、辿り着いてしまった空海が、皮肉にも、彼の地で、語学の才と当時の文化的知的な教養である書道(五筆和尚という称号)・文章道・漢詩・文才に恵まれ、奇跡的に、これを活かすことになること、誠に、皮肉な廻り道であるものの、長い人生から、見た時には、おおいに、興味深いものがある。
その生い立ち、渡航目的、そして、何より、語学と書道の才に長けた空海の思想的な成り立ちと時代背景、そして、最澄や当時の様々な僧達との交流と政治的な背景を、1200年以上に遡って、考証しながら、構想・想像するという作業は、並大抵なエネルギーではない。
しかも、それを一日本の仏教の歴史だけに止めずに、広く、中央・東アジア・インドなどとの思想的な交流とも、絡めて、当時の密教の伝来を考察する作業は、単に、空海という一人の宗教僧の思考方式だけでなくて、広く、当時の世界文化史的な視点からも、興味深いモノがある。
改めて、そうした視点から、今日の中央アジアの歴史や中近東での出来事を再考察するときに、仏教の伝来とその東の果ての国である日本という国の思想的な在り方に、深く、考えさせられる。
15歳の時に、讃岐の国を出奔して、778年に桓武天皇時代に、平城京へ登った。
釈迦没後56億7千万年後に出現する弥勒菩薩を待つのではなく、弥勒が常住し、説法をし続けていると謂われる兜率天(とそつてん)にこちらから出掛けて救われようとする機能性を作り上げた。
18歳で、仏教・道教・儒教の盛衰を踏まえた優越論を戯曲風に論じた、三教指帰(さんごうしいき)を著し、儒教は、世俗の作法に過ぎないと断じる。
官吏になる途である大学の学生(がくしょう)を捨てて、官僧としてではなく、私度僧として、仮名乞児(かめいこつじ)として、入唐するまでの空白の7年間を旅に出て、「私は仏陀の勅命を奉じて兜率天への旅に登っている者である」と称し、山野を修行して歩く。
7歳年上の初めからエリート官僧たる最澄とは、そもそも、出発点が、異なるのか?
アジア大陸には、生命とは何かという普遍性からのみ考える以上、そこには、時間とか、誰とかという固有名詞もなく、只、抽象的な思考のみで、宇宙を捉え、生命をその原理の回転の中で考え、人間の有する人種やあらゆる属性を外しに外して、ついには、その一個の普遍的な生命という抽象的一点に化せしめることにより、物事を考え始める。従って、漢民族が引き寄せられる歴史とか社会的な思考には、印度的な思考法は、かけらほども、入ることはなく、密教の伝授という観点から、広義のみでの漢語・サンスクリッド・梵字、イラン語にも、当時は、学ばなければならなかったのであろう。
二つの系統の密教というモノがあるという。純密と雑密(没体系的なかけらのような形の密教、巫女、外法の徒、山伏など)、現世を否定する釈迦の仏教と、現世という実在もその諸現象も宇宙の真理の現れであるとする密教の創始者は、宇宙の真理との交信の手段として、魔術に関心を持った。魔術・呪文・まじない・陰陽五行説・陰陽道・陰陽師など、後の純密以外の所謂、雑密である。最澄のそれは、不覚にも、それを拾ってしまったことなのであろうか?
虚空蔵求聞持法、という万巻の経典をたちまちの内に暗誦出来るという秘術、真言とはやはり、人間の言語ではなくて、原理化された存在である法身たる如来達が喋る言語で、虚空蔵菩薩という密教仏にすがり、その菩薩の真言を一定の法則で唱えて、記憶力をつけると謂われている。その秘宝を会得することになる。解脱という釈迦とは、逆の道を選ぶことになる。虚空蔵菩薩という自然の本質は、それへ修法者が参入してゆきたいと希い、且つ、参入する方法を行ずる時に、惜しみなく御利益を与えてくれるという。
術者が、肉体を次第に、形而上化してゆくことにより、諸仏の機能の中に身を競り入れ、ついには、その機能を引き出し、それによって、現世の御利益をうるというところで、初めて、宗教的に完結することになる。
求聞持法を行ずるには、場所を選ばねばならず、とりわけ、宇宙の意思が降りてきやすい自然の一空間であらねばならないと、それが空海にとっては、阿波と土佐の地だったのかも知れない。室戸崎洞窟での明星が、口に入るという超自然的体験も、決して、密教の概念には、無縁ではないのかも知れない。
密教の断片に於いて、科学の機能を感じてしまった空海と後世が知ったつもりでいる科学なり、自然の本質、とりわけ、原子力やら、津波や地震といった自然災害の脅威を間近に体験した我々の考え方は、どちらが、果たして、1200年も経過した今日、本当なのであろうかと司馬遼太郎は、問いかけている。(むろん。著者は、東日本大震災は、経験せずに、他界してしまっているが)のちの世の平安末期の厭世観的な出家ではなくて、むしろ、肉体と生命を肯定する密教に直進し、解脱を目的とする途とは別のものを追求してゆく。
咒(しゅ)という概念を、毒虫を食ってしまう孔雀の悪食を引き合いに出して、司馬は、説明する。それは、古代インドの土俗生活に於いては、生命を維持する不可欠なもので、苛烈な自然と会話する為に、自然の一部と考えられていた一種の言語であっても、人語ではなく、むしろ、密語の一部でもあり、人間がその密語を話すとき、自然界の意思が響きに応ずるが如く動くと謂われている。自然と人間は、対立するモノではなくて、人間の五体そのものが、既に、小宇宙であり、この小宇宙の人間が大宇宙にひたひたと化してゆくことも可能であり、その化する時に媒体として、咒(しゅ)が、あるのであると、孔雀の鳴き声には、それが、含まれていると、人間がこの密語を発すれば、孔雀に化すると、何か、動物の言葉を話すドリトル先生のようでいて、面白い。
インドに於ける咒(しゅ)の歴史から、古代アーリア人、バラモン教、土俗的な雑密・純密の考察を経て、いよいよ、密教的な宇宙に於ける最高の理念である大日如来なる絶対的な虚構の設定に移ってゆく。
無限なる宇宙のすべてであると同時に、存在するすべてのものに、内在し、舞い上がる塵の一つにも、内在し、あらゆる万物に内在しつつしかも、宇宙に普く充ち満ちている超越者でもあると、しかも、宇宙を過酷な悪魔のようなものとは、考えず、絶対の叡智と絶対の慈悲で捉えて、釈迦のように、敗北感を有することなく、絶え間なく万物を育成して、無限に、慈悲心を光被して止まないという思想で、こうした純粋密教こそが釈迦教の一大発展形態ではないかと考えるにいたる。この空海の陽気さというものは、何処から、来るのであるか?
釈迦以前のインド思想、から、釈迦以後を経て、華厳経の成立へ、西田幾多郎による絶対矛盾的自己同一ということの祖型であり、禅的な武道の中での「静中動有り・動中静有り」という思考法とも、関連づけられる。万物は、相互にその中に一切の他者を含み、とりつくし、相互に無限に関係し合い、円融無限に旋回し合っていると説かれ、毘盧舎那仏の悟りの表現でもあり内容でもあると、
華厳経では応えてくれなかった答が、大日経には、あるのだろうか?即身成仏の可能性とご利益を引き出してくれる法とは何か?そして、どのようにすれば得られるのか?大日経にあっては、華厳のそれより、更に、より一層宇宙に偏在しきってゆく雄渾な機能として毘盧舎那仏は、登場し、人間に対して、宇宙の塵であることから、脱して、法による即身成仏する可能性も開かれていると説く。
奈良南都六宗にみられたような人間の本然として与えられた欲望を否定する解脱だけをもって、修行の目的とするものとは、異なる方向性、有余涅槃と無余涅槃(=死)をも止揚しうる境地へ、向かう。死よりも煩悩や生をありのままに肯定して、好む体質だったのであろうか?大日経は、文章的にも難解で、サンスクリット語で書かれていて、この不明な部分を解読するためにも、漢語だけでは、不十分で、いよいよ、入唐を決意することになる。
奈良六宗に対する「論であって、宗教ではない」という最澄の痛烈な不満、経典は研究すべきものでなくて、声を上げて読誦すべきもので、その声の中に、呪術的な効果があると、読経と止観という瞑想行の必要性、華厳経の注釈書を読んでいたときに、法華経にぶつかる。体系としては、般若経の空観(くうがん)という原理を基礎にして、数字の零(空)にこそ一切が充実している、宇宙そのもので有り、極大なるものであり、同時に、極小でもあり、全宇宙が含まれていて、そこでは一大統一が矛盾なく存在していると、説かれる。
空海は、天台は、宇宙や人間はこのような仕組みになっているという構造をあきらかにするのみであり、だから、人間は、どうすれば良いかという肝心な宗教性において、濃厚さに欠けているとのちに、やかましく、議論することになる。
六世紀半ばでの仏教の伝来を考えるときに、玄奘三蔵が、インドへ経典収集の大旅行を敢行してから、或いは、それ以前のバラモン教や拝火教でも、現地の言葉(言語)というものを、何らかの形で、輸入言語・飜訳語・造語されることになることを、今日、忘れがちである。その意味で、サンスクリッドだけでなく、イラン語、中央アジアや印度・ネパールなどの言語も、改めて、その当時の造船・航海術、通信網やら交通の発展程度、当時の技術も、よくよく、念頭に入れておかなければならないであろう。
しかしながら、当時の人々の考え方というものが、今日の我々と根本的に、1000年も2000年も経過したところで、おおいに、隔たりがあるとも、思われない。形而上学的な宇宙論も、一神教も多神教も、旅をするという心も、外国語を学ぶということも、どれ程の違いがあるのであろうか?そう考えると、四隻の遣唐船のうち、運良く、辿り着けた二隻の船に乗り合わせた二人の運命は、当時の航海・操船技術を考えると運が良かったということなのであろうか?それとも、幸運だけでは説明しきれない何ものかがあるのかも知れない。
ヒト・モノ・カネ・情報では無いが、人脈と資金、写経ですら、アルバイトや専門の僧侶雇わなければならず、大変なプロジェクトであることが分かる。サンスクリットの原語を朗読する者、唐語・漢語に飜訳する者、それを整えて文章化する者、校正し直したり、議論したりしながら、何百人という専門家や学僧が関わることになる訳である。印刷技術が発達した今日では、いかにも、当たり前に、経典自身が、印刷されていると錯覚しがちであるが、当時の写経という行為を考えれば、或いは、つい100年も前ですら、本自体が、人の手から、手へと、書き写されていったことも又、事実である。それを考えただけでも、文化の伝来、その基礎となるべき本や、経典ですら、コピーをベースに、或いは、飜訳・造語を経て、行われていることに、改めて、思いを巡らさなければならない。それ程までに、多大な時間と人的なエネルギーが必要とされていたことであろうし、それは、換言すれば、お金がかかっていたと言うことにもなりえようか?
20年と云われる留学期間をあっさりと2年ほどで、終えて、帰国することになるわけであるが、長安での漢民族ではない不空から恵果へと伝授される密教の極意との出逢い、イラン、ペルシャ、回教徒、景教(ネストリウス派の基督教徒)、マニ教、インド僧、ラマ僧、中央アジアとの異文化・異教徒、異国のウィグル族の商人達との出逢い、謂わば、大いなるシルクロード経由での文明論・宗教観との激突という風景が、今日からでも、容易に、想像されよう。一体、現地では、どんなものを食べて、どんな言葉で、どんな人物と文化交流していたのであろうか?護摩修行とバラモン教、ゾロアスター教、拝火教との関連性は、どんなところから、影響し合ったのであろうか?
何故、空海は、密教の中に釈迦が嫌悪した護摩を取り込んだのであろうか?印度系の土着宗教であるバラモン教から系譜を引いているといわれるが、単に、バラモンの修法が、高度に思想化されて、火を真理として、薪を煩悩に喩えて、焼却し尽くすという思想的な進化を遂げることになるのであろうか?炎と行者と、その行者の前に佇立する本尊という三者の三位一体性ということが、果たして、身・口・意という三密行を感応せしめるということに繋がるのであろうか?それは、又、後の内護摩・外護摩(観念のなかで、具体的なものを抽象化して清浄にする)という二つの思想に分化してゆくになる。
具体的な世界は、すべて、煩悩の刺激材であるとみて、具体的な世界がなければ即身成仏という飛躍はできず、その抽象的な世界を、一瞬で浄化(抽象化)してしまう思想と能力を身につけることこそ、密教的な作業であると、だからこそ、後年、空海は、護摩をも、思想化してしまって、護摩の火に薪という具体的なもの、即ち、煩悩が、瞬時にして、焼かれて消滅してしまうという(抽象化)を遂げるという、そういう考え方を持つに至るのか?
護摩業とか、雑密に今日でも連綿として、残っているものは、どのように思想化されてきたのであろうか?それとも、思想が何故、風化されて、単なる儀式行為としか、残らなかったのか?
密教には、二つの体系があると云う。一つは、精神原理を説く金剛経系、もう一つは、物質原理を説く大日経系で、前者は、インド僧、金剛智が伝え、後者は、善無良という、これも又、インド僧が伝えたと謂われている。金剛智は、これを不空に、更に、恵果へ、更に、空海へと伝えたわけであるから、成る程、インド僧たる般若三蔵について、空海が、長安の都で、サンスクリットを学んだとしても、何の不思議はない。更に云えば、キリスト教の宣教師である景浄とも般若三蔵が深い関わり合いを有するとなると、もはや、大日経の経典を入手するという目的だけではなくて、広い意味での当時の中央アジア・インド・ペルシャ・イラン・唐に至る文化的宗教学的な視点が、実は、密教の誕生には、深く、関わっていたのかも知れない。そう思うと、文化交流というもの、宗教の成り立ちにも、様々な、国籍の錚錚たる異国のメンバーが、広く、深く、何らかの形で、直接的にも、間接的にも、関わっていたことが改めて、再確認されよう。それは、これ程、旅が便利になった今日でも、はるかに、想像を超えるものである。単なる大乗仏教と小乗仏教という二つの流れで、アジアへ、仏教が伝播したという単純な問題ではなさそうである。
しかも、西域人であろう不空:インド僧たる恵果:日本人留学僧である空海という系譜の中で、この二つの異質な流れが、互いに、反撥しあい乍らも、生き身の精神の中に、相克しつつ、この両部を一つに、「両部不二」として、空海の中で、止揚・完結されたという事自体が、驚くべき歴史的な事実なのかもしれない。しかも、その密教は、中国では死滅し、国境を超えて、曼荼羅や経典、秘具も含めて、空海により、日本にもたらされたという事実。その意味でも、精神原理と物質原理との双方からのアプローチとしての密教を考えると、今日の素粒子理論やニュートリノ実験の課題なども、まんざら、素粒子だけの問題ではなくて、宇宙理論、物質とは何から出来ているのかという永遠の課題にも、行き着いてしまうほど、底流に、共通項があるようにも思えてならない。
そう考えると、印を結ぶとか、密語を話すとかも、そういう観点からも、考察する必要があるのかも知れない。
何かの番組で、千日回峰を達成した阿闍梨の様子を見たことがあるが、解脱したような老僧の風貌ではなくて、まるで、極地から生還し立ての冒険家のようなエネルギーに、あふれたような風貌であったことを想い起こす。さすれば、若い時の空海という者も、恐らく、当時は、そんな風貌で、山野を跳び回っていたのであろうか?
話を元に戻すことにしよう。
下巻:
千人もの門弟を有すると云われた、金剛界と胎蔵界の二つの密教の世界観を同時に、修めた恵果和尚、しかも、その人生が終わろうとするまさに最後の僅か7ヶ月前に、空海が現れたというその奇蹟にも近い、偶然性、更には、その後、密教自体が、中国でも、消滅してしまったという事実を考えると、得がたい絶妙のタイミングであろうか。
恵果和尚による法を譲り渡すときに行われる灌頂(結縁灌頂・受明灌頂・伝法灌頂という3種類:)の前での投花の儀式での二度に亘る奇蹟、中央の大日如来の上に、投げた花が落ちる。この二回ともというものも、又、偶然なのか?それとも、必然だったのであろうか?そして、恵果より、大日如来の密号で、本体が永遠不壊で、光明が遍く照らすということを意味する、「遍照金剛」という号を与えられる。
灌頂を受けつつも、僅か三ヶ月で両部の秘密(象徴)を悉く学び、二百余巻もの根本経典も原典・新訳・漢語訳を含めて、これらをすべて、独学で、修得したという離れ業。
天台宗を体系自体を全部、国費で仕入れに渡った最澄とは異なり、空海は、謂わば、私費で、経費も与られずに、密教を一個人として、留学生(るがくしょう)として、請益してしまう。しかも、長安での滞在は、僅か2年に満たないで、本来の20年分の経費をも、惜しげもなく、一挙に、曼荼羅や密具への謝礼や経典写経の経費に充ててしまったのである。そして、帰国のタイミングも、後から考えれば、これを逃していれば、帰国できなかったかも知れないという、奇蹟に近い絶妙なタイミングである。入唐時での偶然の漂着、帰国に際してのタイミングという奇跡的僥倖、幸運の強さ、更に、「異芸、未だ嘗て倫(たぐい)あらず、」と唐僧から謳われた異能は、どこから、培われたのであろうか?生来、その人間が有していた固有の才覚なのであろうか?書道の達人、帰国後の三筆と称せられた嵯峨天皇との関係、或いは、長安での文化人との交流、帰国時での詩文の交換など、入唐に至るまでの現地交渉過程での文章力、漢文作成能力、など、こんな多彩な異能は、どう考えたら良いのであろうか?
帰国後から上京までの謎の期間を、必ずしも経典資料の整理の期間とは考えず、むしろ、自分に宗教的、政治的に有利な環境が醸成されるのを意図的に、待ち望んでいた感があると、司馬は解釈する。桓武天皇の死がその後の最澄の政治宗教上の苦境を徐々に、迫ることになる。天台宗が公認されたにもかかわらず、奈良六宗に対する否定的な立場と彼らからの反感を持たれるという相克を生み出すが、空海は、逆に、むしろ、親近感と排撃することをしなかったという政治状況が皮肉にもやがて、醸成されてくる。
最澄は、宮廷に、一定程度の影響力と旧仏教勢力との対決が不可避であったのに対して、無名に近い空海は、むしろ、逆に、それを有していなかった、そのことが、むしろ幸いしたのであろうか?
最澄は、天台過程を止観業と呼び、密教過程を遮那業と呼び、二つを同格視し、伝法公験という証明書紛いまで発行させたことは、密教を飽くまで、仏教の最高地位に位置づけ、これを教学・筆授ではなく、人から人へ秘伝として伝えようと目論んだ空海とは、密教それ自体に対する考え方で、徐々に、相容れなくなる。最澄が、仏教を人間が解脱する方法を道であると考えて、経典を基礎とした教えに、重きを置き、釈迦から自分はこう聞いたということが書かれた経典を中心に、一つの体系として、これを必要とした。むしろ、奈良仏教には、この体系がないとした。
さて、ここで、鎮護国家という考え方:護国思想という罠:について、考えてみよう。
誰一人として、密教伝来の正嫡という、嘗て入唐した日本人僧が得られなかった栄誉を単なる一留学生たる空海が、与えられたという事実。これは、最澄ですら、否定できない事実であろう。空海は、自分が、遠い異国からやってきた異種・異能の者であるという、人種・国境・身分を超えた普遍的な宗教思想家であるという自負、自意識、日本の矮小性を初めから、自覚していたのかもしれない。仮にそうであるとすれば、世俗との関係性において、皇帝とか、貴族とかを認めていたとしても、その宗教上の思想性の展開については、必ずしも、自身の経験と唐での様々な国との、今で謂う外国人との人的文化交流や生活から、そういう類の階層・身分に固執することはなかったのかも知れない。むしろ、異国での異文化交流や様々な宗教に広く触れ、且つ、言語の段階から、直接触れることで、謂わば、当時のコスモポリタン的な視野に、立脚できたのかも知れない。その意味では、国家護持仏教であるにもかかわらず、必ずしも、国という小さな枠では、守れない視点があろう。後の世での高野山の既得権益化と政治支配者化を考えたときに、宗教家の於かれた政治的・社会的な情勢は、権力による庇護なのか、対立・構想へと突き進むのかが、微妙に、別れるところである。
華厳経の世界を具象化した毘廬遮那仏(大仏)が鎮まっているという東大寺の政治的な位置、
新しいものが、旧いものを駆逐するという考えの中では、何故、共に、外国から入ってきた旧来の奈良仏教も、最澄・空海の新しい仏教も、併存する形が可能なのであったのであろうか?純思想的な、或いは、宗教上の純然たる論争による結着ではなくて、むしろ、当時の経済的、政治的、社会的な理由と取り巻く環境の要因が考えられるのであろうか?
平安朝に於ける藤原氏や薬子の乱や道鏡による政争の影響から、或いは、唐での政争を経験することで、安禄山の乱より、如何にして、自身の思想・宗教を守るのか?影響されることなく、如何に守るのかに腐心したのかも知れない。鎮護は、決して、根本的な鎮護国家仏教へと、空海の場合には、繋がるモノではなかったのではないだろうか?
顕教と密教:顕教とは、外側から理解出来る真理で有り、密教とは、真理そのものの内側に入り込み、宇宙に同化するという業法と理論で、空海は、真言宗という体系を樹立することで、密教が顕教をも包含する最高の仏法であるということを、自ら、体現し、明らかにしようとした。顕教を棄教して、宇宙で唯一の真理である密教を、身体と心で、挙げて服することが、本当に、最澄には、出来るのかと疑い始める。書物による伝授法、経典の借用、写経や筆授は、密教に於いては、あり得ないという空海の立場、師承という形以外に、秘事に類する重大なことを含めて、密教は決して相続されないものである。
泰範という最澄の弟子の改宗というエピソード的な出来事についての考察、:
経を読んで、教養を知ることは真言宗では第二のことで、真言密教は、宇宙の気息の中に、自分を同化する法である以上、まず、宇宙の気息の中にいる師につかねばならす、その師の指導の下で、一定の修行期間が与えられ、心身を共に、没入することによってのみ、生身の自分を仏という宇宙に近づけられ得る。宇宙とは、自分の全存在、宇宙としてのあらゆる言語、すべての活動という三密(動作・言語・思惟)を止まることなく、旋回しているが、行者もまた、この宇宙に通じる自己の三密という形で、印を結び、真言(宇宙の言葉)を唱え、そして、本尊を念じ、念じ抜くこと以外に、宇宙に近づくことは出来ないし、筆授では、決して、成し遂げられないと考えられた。最澄は、密教の一部を取り入れようとし、決して、密教そのものの行者になるつもりは決してなかったのではないか?だから、灌頂を受けても、あとは、書物で、密教の体系を知ることが可能であると、考えていたのであろう。最終的には、伝法灌頂を授けずに、程なく、経典を貸すのみで、両者は、その途中の紆余曲折の過程は別にして、結果として、断交状態に近い形になる。
飛白書という奇抜な書体についてである:書というよりも絵に近い、文字によって、筆も変えなければならない。能書は、必ず、好筆を用うと、南帖流の王義之や北魏流の顔真卿らの書風・書聖に話は、移ってゆく:「書とは、自ずから己の心が外界の景色に感動して自ずから書をなすもの」であり、「万象に対する感動が書には、籠もっている」と、更には、「書の極意は、心を万物に散じて心情をほしいままにしつつ万物の形を書の勢いに込める」のであると、「すべからく、心を境物に集中させよ、思いを万物に込めよ」、更には、「書勢を四季の景物にかたどり、形を万物にとることが肝要である」と、何とも、悪筆の自分などは、いつも、PCのタイプの助けを借りなければ、文章を書けないのに対して、誠に、苛烈な容赦ない言葉である。
しかも、その書体自体が、思想的な論理構造にも、何らかの形で、関係しているとまで、云われると、もはや、グーの音も出ないし、おおいに、悪筆を恥じ入らざるを得ない。
空海の書には、「霊気を宿す」とまで云われると、何をや、謂わんであろうか?
自然そのものに、無限の神性を見いだすという考え自体、自然の本質と原理と機能が大日如来そのもので、そのもの自体が、本来、数で謂えば、零で、宇宙のすべてが包含され、その零へ、自己を同一化することこそが、密教に於ける即身成仏徒でも云えるのか?
入定という思想:空海は835年に、紀州高野山にて、62歳でその生涯を閉じる。奥の院の廟所の下の石室において、定にあることを続け、黙然と座っていると信じられている。後年、俗化してしまった高野聖や高野行人や後世の中世半ばの荒廃を思うとき、その思想性の高邁さと孤独性が感じとられる。入定と入滅とは、おおいに異なり、この世に、身を留めて、定に入っているだけであると。一切が零で有り、且つ、零は、一切であると云う立場の空海が、「留身入定」という考え方を、信じながら、なくなっていったとも、考えられず、後世の結局は、言い伝えなのであろうか?「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きなむ、」とは!!、「薪尽き、火滅す」と弟子の実慧は、師匠の死を唐の都にも、伝えている。
風速計で、風力の速度を知ることが、顕教とすれば、密教は、むしろ、風そのものですら、宇宙の普遍的な原理の一部に過ぎず、認識や近くを飛び越えて、風そのものになる(化ける)ことであり、即身にして、そういう現象になってしまうにしても、それはちっぽけな一目的で、本来は、宇宙の普遍的な原理の胎内に入り、原理そのものに化してしまうことを究極の目的とする。当時の宗教のレベルは、1200年も経った今日でも、誠に、不可思議で有り、「人間の肉体は五蘊(ごうん)という元素が集まっているものである」そうであるが、確かに、般若心経の一句でも、「照見五蘊皆空」(ショウケンゴウンカイクウ)「度一切苦厄」(ドイッサイクヤク)となっている。よくよく、文字の一語一語をしっかりと理解して、読経をしなければならない。まるで、ナノテクか、原子物理学の世界に迷い込んでしまいそうである。それでは、ひとつ、般若心経でも、唱えてみることにするか?さてさて、いよいよ、四国巡礼、阿波足慣らしのまずは、決め打ち準備に、掛かろうとするか!?足許不如意だから、サイクリングで、ゆっくり、ゆくとするか?雨が心配であるが、考えてみれば、雨も又、自然、宇宙の一部に過ぎないのであれば、自分も又、同様なのであろう。そう考えれば、濡れることも当たり前なのであろう。恐るるに足りぬか?でも、やはり、レインコートは、必要かな?一応、リストに入れておこう。
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空海の生い立ちから、入唐した長安での活動まで。司馬遼太郎はこれを「小説」断っているけれど、自分なりの想像・解釈を相当入れたと言う事でしょう。ちょうど坂の上の雲も同様の形式です。
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高校で日本史を選択しなかった私には、空海は真言宗の開祖、弘法大師というくらいの知識しかありませんでした。
この本を読むと、空海が巨人であり天才である様がありありと目の前に広がってくるようです。人間空海を感じるし、それでいて人間離れした空海も感じる。
空海の凄さを、司馬遼太郎が削ることなく書き下ろした作品だと思います。
下巻が楽しみ。
年間30冊を目標にしていますが、2011年が18冊、2012年が22冊。今年こそは!と正月に誓ったのですが、1冊目が1月の終わり・・・
幸先悪し。これから頑張ります。
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ほとんど空海については予備知識もなく読んだ。
俗名が「佐伯真魚」であった(らしい)ことさえ、知らなかった。
その時代や、空海の人となりについて、司馬遼太郎的解釈かもしれないけれど、イメージができてきた。
上巻は、空海の唐での留学生活までが描かれる。
同じ遣唐使船で渡った最澄とは、境遇から人柄まで、対照的。
「弘法筆を選ばず」という言葉ひとつで、勝手にストイックな人物というイメージを持っていたが、むしろ溢れる才能を見せ付けることに躊躇しない、あくの強い人物であったようだ。
読んで楽しいのは、やはり唐へ渡るあたりから。
文章もいきいきとしてくる。
一緒に唐に渡った橘逸勢との関わりも加わって、「小説的」になってくる。
「小説的」ということで言うなら、不思議な小説だと思う。
「いまさらあらためていうようだが、この稿は小説である。」(一、p31)
「この章では、少年の空海が、奈良を出て長岡へゆくことになっている。」(二、p59)
上のように、この本が小説であることを、あちこちで自己言及している。
読者を歴史の現場にまるで立ち会わせるかのような書き方をするものとは一線を画している。
資料を読み、識者の話を聴き、そしてゆかりの土地へ行き、そうしたなかから立ち上がってくるものを掴み取ろうとしているこの叙述の意図はよく理解できる。
司馬遼太郎の作品は、この間やっと『坂の上の雲』全巻を読んだだけだ。
だから、本書のような作風が、空海という伝説に彩られた、古代の人物だからわざわざ選び取られたものなのか、それとも司馬が歴史ものを書くときに特有なものなのかはわからないけれど・・・。
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前半生をうすく語ると、
幼少の頃より天才の誉れ高く、讃岐の人々の期待を背負い、上京、大学入りするもすぐ中退。
20代のほとんどを仕事もせず山中をプラプラするか寺に引き篭るかして過ごす。
30ぐらいの時「口の中に明星が飛び込んだ!」と大騒ぎ、出家する。
その後「わが国に真の密教をもたらす」と唐への留学を決意。
地元の名士、奈良仏教界の大物達をたらし込み、留学資格と20年分の留学費用を捻出させる。
※とにかく達筆で文才があったので、ここ一番は口八丁ならぬ、筆八丁で難局を乗り切る。
しかし、留学するも20年分の滞在費をたった2年で使い切り、本来20年間の滞在期間を筆八丁で屁理屈をこね正当化、たった2年で帰国。
が、
九州にて1年間消息を絶ち音信不通に・・・
とにかくデタラメで手前勝手なのですが、その後の功績や今日に至る仏教界での影響力から省みて、あらゆる『奇行』が『天才ゆえの所業』へと昇華されていきます。
お、面白い。。。
下巻へつづく
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空海の生きた時代背景をよく調べ、資料の解釈も小説家らしくおもしろい。司馬さんの他の多くの小説と異なり、会話が少なく、テンポが遅く、読む方はなかなか進まない。じっくり読みたい。12.7.22
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ニコ生の仁和寺企画や平等寺など真言宗のお寺に触れる機会が増えたが、空海とはどんな人でどんな一生を送ったのかを知らなかったので手に取って見た。小説なのか、筆者の想像の語りなのかがよくわからないままに進むのがなんとも不思議な感じがする。でも小さな子供の頃から、唐に行き恵果に会うまで、まるでドキュメンタリー映画を見ているように色鮮やかに空海の半生を見ることができた気がした。
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空海の風景と言葉通り筆者からみた空海を書いている。
儒教より仏教が上との思いからか大学を中退し仏教にのめり込んでいくが言葉遣いが高度過ぎて文字を眺めるだけ、居眠りしてしまいながら折角空海を知る機会を得たのに断絶したくないと感じながらもやっと半分まで読むが一向に理解出来ない。
司馬遼太郎の考えを書いたような文章で、密教を理解していないと全然分からない。
少しづつ読んでいこう。理解して読もうと思わない方がいいのかも。
薀蓄として
舟に位階を与えて従五位下とし、貴族並みの扱いをする事で舟の航海を祈願するが、鉄釘を打ち込む技術もなく材木と隙間に水草で水の侵入を防ぐと言う死に行くようなもので航海する。日本の技術は他国に比べて非常に遅れていたのがわかる。
長安は世界の宗教が集まり繁栄していたので空海は様々な教えを吸収していたのかも。柔軟な考えを持っていたのだろうなぁ。
上巻は難しい文章だった。
下巻はスラスラ読めるといいんだけど。
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膨大な史料や、関係者へのヒアリングに基づくであろうことが伺える。
他の、空海に関する本に比べ、構成、私情の入れ方含め読みやすいが、それでも、偉人1人の人生、何回か読み直したくなる。
難解ではないが、すんなり読み進めることは難しい。
だか、空海の生き方や意志、生き様が活き活きと伝わってくる。
バーで、ラム酒片手に、夕陽を眺めつつ読むこともできる。
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空海は神秘的な要素が多い。
何かに導かれるように山を練り歩き、光を飲み込み、遣唐使の船に乗り込んで、遭難しかけるも長安まで辿り着いちゃう。
神童的な子供時代、唐に渡るまでの謎の期間、唐に渡ったらペラペラネイティブ。
失敗しない、ファインプレーの連続。
そして論理的でありながら、言葉で表現出来ない神秘的な要素を腹に持っていて、傍若無人に物事を乗り越えてゆく。
可愛げはゼロ。
本人の目線での感情表現が一切ないからかもしれないけど、とにかく最強という感じ。
書き方も、空海は辛かったと思うけど、どうだろ、正確には分かんない、って感じで書いてあるので、のっぺりしてる。
それでも長安に入ってからの空海は興奮していたように感じた。
長安の風景が幻想的に浮かぶ。
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昨年仕事絡みで、高野山の宿坊の1週間住み込み体験をしてきたが、正直その時は空海について前知識がなく、ただ高野山という宗教都市の建築、美術などに、興味があっただけだった。
しかし実際に高野山に行くと、お坊さんの豪華絢爛な衣装や華美な装飾に違和感を感じ、お坊さんのあまりに下界的な現生利益の享受の仕方に衝撃を受けた。そして、お坊さんから、空海は日本で最初の、そして世界でも屈指のビジネスマン、革命家、演出家であった、という話しを聞いて、ますます???が増していく。
そこで山を降りてから、この司馬遼太郎の「空海の風景」を購入し、つらつら読み進めている次第。
前置きが長くなったが、司馬遼太郎が小説を書く前の取材のように、空海の足跡をたどりながら、空海の言動を、こうだったであろう、こうに違いない、と空想していく。
どっちらけそうな手法だが、司馬遼太郎が書くとやけに納得感が高いから不思議。
空海の自己演出が面白いが、こういうのを下手なビジネス書的啓蒙に使われるのは、司馬遼太郎の本意ではないだろう。
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高野山に行く前に空海について知りたいと思って読んだ。
小説というか…
空海が考えた、見た、であろう風景を司馬さんが想像して書いてる。日記みたいな感じ。
難しいけど下巻もがんばるぞー
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空海というニンゲンへの知識は
満濃池と弘法大師という二つだけである。
私の知識は 小学校で学んだだけでとまっている。
『空海』という名前は 空と海 をあわせもった男としての
スケールの大きさを感じさせるものがある。
空海の道を開いた・・理趣経。
宗教という枠ではなく 人間の中に宗教を見出す。
自然から生まれた宗教があれば・・・
人間から生まれた宗教があってもいい。
空海は 欲望をみとめて 大きな道を切り開いた。
司馬遼太郎は 『空海』を書くにあったって
空海の風景という題名にしているのが卓越している。
空海というニンゲンをその時代の風景をかきながら、
浮かび上がらせるようにしている・・。