Posted by ブクログ
2019年03月22日
【感想】
「国盗り物語」や「太閤記」でも、特に異質で不気味な雰囲気を醸し出していた徳川家康が主人公の物語。
読んでいると、家康は決して野望家ではなかったということが窺い知れる。
その独特さや不気味さ、総じて変わり者であるという点はあくまで「三河者」というジャンルが為すものであり、その中でも特に家康...続きを読むは現実主義で、そして悪く言えば地味で、才能や運に頼らずコツコツと物事を堅実に積み上げつつ立身していく様が見て取れた。
家康と、信長や秀吉との違いは、かの有名なホトトギスに関する一句でとてもよく分かる。
かと思えば、たまにヒステリックの如く奇抜な行動を起こし、狼狽え激情し、そして次の瞬間には瞬間冷却されたかのように冷静になる。
また、計算はするが、決して人を裏切ったり、打算的な考えは用いない。
このような変人エピソードもまた読んでいて家康のチャームポイントであり、面白いなーと思った。
家康本人の台詞やエピソードがさほど作中に多くないのも、彼の生前の本音や意見を漏らさない性格によるものなのかもしれないと読んでいて感じた。
下巻も非常に楽しみだ。
【あらすじ】
徳川三百年―戦国時代の騒乱を平らげ、長期政権(覇王の家)の礎を隷属忍従と徹底した模倣のうちに築き上げた徳川家康。
三河松平家の後継ぎとして生まれながら、隣国今川家の人質となって幼少時を送り、当主になってからは甲斐、相模の脅威に晒されつつ、卓抜した政治力で地歩を固めて行く。
おりしも同盟関係にあった信長は、本能寺の変で急逝。秀吉が天下を取ろうとしていた…。
【内容まとめ】
1.国人が質朴で、困苦に耐え、利害よりも情義を重んずる点、利口者の多い尾張衆とくらべて際立って異質だった。
「三河衆一人に尾張衆三人」という言葉すらあったほどで、城を守らせれば無類に強かった。
2.武田信玄の西上に対して
「敵がわが公野を踏みつけつつ通り過ぎてゆくのに、一矢も報いずに城に隠れているなどは男子ではない。」
何事も慎重をかさねてきたこの男が、血の気を失うほどの形相でこう言った。
家康という人間を作り上げているその冷徹な打算能力が、それとは別にその内面のどこかにある狂気のため、きわめて稀ながら破れることがあるらしい。
結局は惨憺たる敗北に終わるのだが、しかし彼ののちの生涯において、この敗北はむしろ彼の重大な栄光になった。
3.我が子・信秀(後に切腹)を陥れた家臣に対して
信長はかつて酒井忠次の詭弁を信じ、家康にその子と妻を殺させた。
それほどの目にあった家康こそ反逆すべきであるが、家康は強靭な自己防衛上の意志計算能力を備えていた。
信長も、いま目の前にいる老中の酒井忠次も、家康にとってはわが子の仇であったが、それを仇であると思ったときには自分は自滅するという事を家康は驚嘆すべき計算力と意志力、冷静さをもっていた。
【引用】
「人よりも猿のほうが多い」
ただ国人が質朴で、困苦に耐え、利害よりも情義を重んずる点、利口者の多い尾張衆とくらべて際立って異質だった。
「三河衆一人に尾張衆三人」という言葉すらあったほどで、城を守らせれば無類に強かった。
p34
家康という、この気味悪いばかりに皮質の厚い、いわば非攻撃型の、かといってときには誰よりも凄まじく足をあげて攻撃へ踏み込むという、一筋や二筋の縄では理解できにくい質のややこしさを創り上げたのは、ひとつにはむろん環境である。
桶狭間によって勢力地図が変わり、家康が今川氏から解放される運命を作ったが、彼はそれでも今川氏と別れず留まっていた。
また、家康はあくまでも今川氏への信義立てを装い、岡崎城が空城になるまで入らなかった。
無論ただの正直者ではなく、正直を演技するという、そういうあくの強い正直であった。
結果、西の織田と東の今川に対し、同時に自分の律儀さを感心させたこととなった。
家康のような弱小勢力としては、律儀さを外交方針にするのがもっとも安全の道であった。
p63
・武田信玄の西上に対して
「敵がわが公野を踏みつけつつ通り過ぎてゆくのに、一矢も報いずに城に隠れているなどは男子ではない。」
何事も慎重をかさねてきたこの男が、血の気を失うほどの形相でこう言った。
家康という人間を作り上げているその冷徹な打算能力が、それとは別にその内面のどこかにある狂気のため、きわめて稀ながら破れることがあるらしい。
彼は全軍に出陣支度をさせた。
結局は惨憺たる敗北に終わるのだが、しかし彼ののちの生涯において、この敗北はむしろ彼の重大な栄光になった。
p218
本能寺の変後、堺にて其の報を聞いた家康は大いに狼狽え、自害しようとさえ考えた。
同席している穴山梅雪を一人取り残し、三河者だけで協議を行った。
家康の奇妙さは、梅雪にその重大情報を明かす時すでに、激情が去っていたことである。
「国へ帰ります」と、家康は穏やかに言った。
家康の性格のおかしさも油断ならなさも、そういうところにあった。
彼は自衛のための構造計算を平素精緻にしておくくせに、それが一旦崩れると人より数倍狼狽え、しかもその彼を破滅的な行動に追いやる激情が、すぐに沈静してしまうのである。
復讐を思い立ったものの、織田家の他の軍勢と違い、家康のこの場の状態は誰よりも哀れであった。
この言葉で自分を絶望から救い出そうとし、気力を鼓舞してみただけで、さしあたって言葉そのものに重い意味はない。
それよりも、この危険な上方地域からどう脱出するかである。
p222
「穴山殿、是非ご同行なされ候え」
家康は言葉を尽くしてすすめたが、梅雪の表情が優れない。
(家康めは、このどさくさにまぎれてわしを殺すつもりであろう。)
「梅雪、多知ノ男ニテ」
当時言われていたように、武田の族党の中では知恵があり、その知恵を勝頼を裏切ることに使い、家康を仲介者として織田方に寝返り、巨摩郡一つをもらった梅雪は、危険を感じた。
が、この甲州人は家康についてもっと知識を持つべきであった。
家康という男はその不透明な見かけのわりには意外なところがあり、それは年少から一度も人を謀殺したことがないということであった。
家康はこの時期よりあとも、そういう所行はない。
梅雪は、このとき不利な判断をした。
梅雪は、この場で家康一行と別れた。
この行動は、おそらく三河人どもの不気味なばかりの団結の様子を見て、彼らが信じられなくなったのであろう。
梅雪はさほどもゆかぬうちに明智方の警戒線にかかり、その場で首にされてしまった。
p232
村重や光秀からすれば、反逆はむしろ正当防衛であったであろう。
殺さねば、いずれは殺されるのである。
信長はかつて酒井忠次の詭弁を信じ、家康にその子と妻を殺させた。
それほどの目にあった家康こそ反逆すべきであるが、家康は強靭な自己防衛上の意志計算能力を備えていた。
信長も、いま目の前にいる老中の酒井忠次も、家康にとってはわが子の仇であったが、それを仇であると思ったときには自分は自滅するという事を家康は驚嘆すべき計算力と意志力、冷静さをもっていた。
p237
「いずれ物事が煮えてから」
やがて起こるであろう織田家の諸将間の権力闘争が泥沼の状態になり、強者たちがヘトヘトになってから立ち上がっても遅くはなかった。
p242
「復讐戦のため、京にのぼる」
そのような颯々とした行動は、家康の性格では無理であった。
ところが復讐しなければ、世間への顔が立ちにくいという困った課題がある。
このため、せめて復讐に出かけたという事実だけを作っておかねばならなかった。
でなければ、世間への声望を失うし、さらにはかれの士卒に対してもまずかった。
人に将たる者は、士卒の心につねに自分が英雄であることを印象させておかねばならない。
このために、「形だけ西上の姿を見せておく」という、いわば演技的行動をしていた。