司馬遼太郎のレビュー一覧
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幕末の長州藩について
知りたいと思った。
吉田松陰と高杉晋作、
二人の若者の人生と
苛烈な旅に出た。
「世に棲む日日」は長編だ。
全4巻。そのなかに
吉田松陰と高杉晋作の
短くも波乱万丈な人生が
余すところなく語られている。
吉田松陰。長州藩で生まれる。
29歳で処刑される。
高杉晋作。長州藩で生まれる。
28歳で亡くなる。
吉田松陰は
文政13年8月4日、
1830年9月20日に
長州萩城下松本村で
長州藩士である
杉百合之介の次男として生まれる。
叔父で山鹿流兵学師範である
吉田大助の養子となり、兵学を収める。
大介死亡ののち、
叔父の玉木文之進が開いた
松下村塾で薫陶を受ける。
9歳で明倫館の兵学師範に
就任するなど才能を発揮し、
松下村塾でも塾生を指導する。
この塾から、
高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など
多くの人材が輩出され、
まさに明治維新の長州における
揺籃期を作り上げた。
その人生は行動力に満ちている。
兵学を極めながら、その限界を知り、
西洋の兵学を学ぼうとする貪欲さに満ち、
さらには江戸に出て多くの人々と交流し、
幕府の命令に背いてでも、
アメリカに密航としようと試みた。
尊王攘夷の礎を築いた
長州藩の思想的偉人であり、
幕府に背いたことにより、
最期は獄中で死すが、
その思想は塾生たちに
脈々と受け継がれていく。
高杉晋作。
天保10年8月20日、
1839年9月27日に
長州萩城下菊屋横丁で
長州藩士である
高杉小忠太の長男として生まれる。
学の才能があり、
吉田松陰の松下村塾に学ぶ。
師の松陰が捕らえられた際は
江戸で獄中の師の世話をした。
防長一の美人とされた
雅と結婚する。
しかし、家には落ち着かず、
藩の所有する丙辰丸に乗船し、
江戸へ渡ったと思えば、
すぐに海軍を辞め、
江戸で剣術の稽古や
人々との交流を行う。
さらに長崎から中国に渡り、
世界情勢を知る。
帰国後は長州藩で吹き荒れた
尊王攘夷運動に加わり、
江戸や京都で活動を行う。
長州藩は関門海峡において
外国船砲撃を行うが、
これが米仏の怒りを買い、
下関戦争で惨敗する。
晋作は
この後、下関防衛を任され、
志願兵による奇兵隊を結成し、
防衛に当たるも、
すぐに総監を辞める。
京都で尊王攘夷で
勢いがあった長州藩だったが、
おごれる平家久しからずやで
薩摩藩と会津藩による
八月十八日の変で追放される。
晋作は脱藩し、京都へ潜伏するが、
帰郷後、脱藩の罪で投獄の身となる。
英仏米蘭の4か国連合艦隊が
下関を砲撃し、占拠されると
晋作は赦免され、和議交渉を任される。
しかし、長州藩内には尊王攘夷が吹き荒れ、
そのなかで外国と講和するなどは
もってのほかとされ、
長州藩上層部の日和見により、
危険を感じた晋作は逃亡する。
この時期、長州藩は
藩内では尊王攘夷派が主流を占め、
一方、外国からの圧力と
江戸幕府からの長州征伐の動きがあり、
立ち行かない状況にあった。
長州藩は幕府への恭順止むなしとする
俗論派が台頭していたが、
晋作は逃亡先から舞い戻り、
わずかな兵で功山寺で挙兵。
追いつめられていた奇兵隊たちも
加わることにより、
俗論派の首魁である椋梨 藤太を排斥して
藩の実権を握る。
直後、晋作は伊藤俊輔(伊藤博文)とともに
英国渡航を試み、長崎に向かうが、
ここでトーマス・グラバーに諭され、
渡航を断念する。
さらに下関開港を勧められ、
その動きを見せたが、
尊王攘夷派・俗論派の両派に命を狙われたため、
再び、逃亡する。
時機を見て舞い戻った晋作は
再度の長州征伐に備え、
防衛強化を進める役割を命じられ、
丙寅丸を購入する。
さらに薩長同盟の礎を築いていく。
そして、第二次長州戦争、
いわゆる四堺戦争で
海軍総督として戦闘指揮を執り、
幕府軍を敗走させている。
この敗北が決定打となり、
幕府の権威は失墜し、
大政奉還へとつながっていく。
この戦争直後、
晋作は肺結核を患い、
下関で療養するも死去した。
辞世の句が有名だ。
おもしろき こともなき世を
おもしろく
吉田松陰と高杉晋作。
長州藩の二人の若武者は
短い間にみるみる
成長を遂げていくのが
驚異的に思えた。
30歳にもならない、
若さでそれぞれに事を成し遂げる。
幕末という時代に、
長州藩が果たした役割は
この思想と実践の
男たちによるものだ。
のちの明治新政府の
要人たちは
この時点では
まだ若造なのが
さらに興味深い。 -
Posted by ブクログ
司馬遼太郎の長篇。
源頼朝と源義経を軸に、源氏が平氏の天下を覆して鎌倉幕府の基礎を築いていく様を描いた小説。
義経は、父・義朝が平氏との争いに敗れたことで、身分を隠して鞍馬山に入れられ、そこで幼少期を過ごす。元服後、奥州藤原氏に一時滞在した後、挙兵した頼朝の下に参集した。
義経は生まれながらに天才的な武将・軍略家であった。その素質によって木曾義仲を破り(一ノ谷の戦い)、続いて屋島と壇ノ浦の戦いで、戦力的に圧倒的不利だったにも関わらず、平家追討を成し遂げた。
しかし、義経はその軍才とは裏腹に、致命的に政治感覚がなく、それが故に最終的には頼朝に殺されてしまう。
義経には感嘆すべき勇敢さはあっても、人心の表裏を考え、世間を思惑し、配慮し、自分の保身を考えるという感覚が危険なほどに未熟だった。そのため、異母兄であった頼朝に危険視され、排除されてしまったのだ。
彼はその裏表のなさと情の深さによって、(著者曰く)日本ではじめての人気者になった。これがどこまで真であるかはさておき、現在でも人気があるのは間違いない。
ただし、政治的革命を目指す頼朝の信頼を得るには、考えなしで不安定過ぎたのだ。
ここから得られる教訓は、人は生まれ持った才能だけでは世に憚ることはできないということだ。自らの才能を俯瞰的に自覚し、その上で戦略を設計し、着実に実行しなければ天下はとれない。
反対に、先天的な才覚は乏しかったが、執念深くこれに取り組むことができた頼朝は革命を成すことができた。
また、この時代の武士たちは、我々がイメージするような人情深く、忠義に厚く、名誉を重んじる姿とは異なる。忠義や義理よりも実利を重んじ、利害で動く。
だからこそ、頼朝の戦略は上手くいったのだ。
我々が武士に抱くイメージは、江戸後期、安定した政権下で支配階級、一種の貴族的階級となったことで生まれた価値観だということだ。
これは興味深い事象だと感じた。 -
Posted by ブクログ
cotenラジオで取り上げられていた+司馬遼太郎ということでチャレンジ。
作品中一貫して項羽と劉邦の2人の違いが明確に書かれていた。自身の武や価値観を絶対のものとして天下を狙う項羽(力は山を抜き、気は世を覆うという言葉にそれが如実に現れている。てかこの言葉カッコ良すぎでしょ)と武などなく自分の欲求を優先しつつも周りの人間の意見を素直に聞き助けられながら結果的に天下を取ってしまった劉邦。そして誰もが項羽の天下を取ると思っていた(読者だけでなくおそらく項羽自身が1番思ってたと思う。)それがいつのまにか形成が逆転し劉邦のものになっていたという結末にも驚かされた。
劉邦は意識していないが作品中何度も語られていた劉邦の力というのが「周りの声に耳を傾ける姿勢」と「自身の価値観に縛られずに周りの意見を採用すること」だった。それを象徴するように劉邦の周りの人間の背景や性格の描写などは項羽のものよりも多く濃いものだった。人の集団ができる以上、色々な人間がいて、それぞれの人間には歴史やドラマがあって、それがあるから考え方や能力もそれぞれで。その様々な人材を必要な所で複合的に活用して行くことで英雄と呼ばれる絶対的な個人でも生み出せない力を発揮することができるのではと感じた。現代でも会社組織やスポーツでも同じことを言われるがこの物語は、それを出来る人と出来ない人の究極の典型だった気がする。(漫画でもこういう二項対立はよくあるが、この物語が元祖でしょ)
二項対立や登場人物の魅力もあってあまり飽きずに3巻読むことが出来た。ただ司馬遼太郎の竜馬が行くほどの感動は何故かなかったのでこの評価。(同じ作者だと作品同士を比較してしまいがち) -
Posted by ブクログ
読書仲間が鹿児島に帰省した時に読んで、強く感じるものがあったと聞いた。その話に触発されて久し振りに司馬遼太郎の世界に触れることになった。
若い頃、彼の小説にのめり込んで身につまされながらよく読んだがこの作品は題名が気になりながらもついつい読まずにきたものだ。
歴史的な紀行文とでもいうのだろうか、翻弄される
民族精神やナショナリズムについて考えさせる。
45歳頃の作家として乗りに乗った時期の作品で、
冴え渡る文章と独特の表現が心のひだを刺激する。
沈寿官は370年前秀吉の朝鮮出兵で、薩摩軍団に南原城の戦いに敗れて捕虜となり、日本に連れてこられた高麗人陶工の末裔である。彼は集団の代表家系の14代目を務める。
司馬ははじめて存命の人物を主題に物語を描いた。
彼らは島津藩から丁重に扱われ、誘われても裏切り者の住む鹿児島城下には住まず、70軒ばかりで苗代川の麓に居付き、陶磁器を作ることで一村をなした。
当初漂着した漁村の浜で故郷に帰りたさのあまり乗ってきた船に縋りつき海中に浮かべるが、小舟ゆえ風浪に押し返された時の望郷の悲しみ、それを彼らは伝承し家霊として家々に棲みつけた。
村には沈氏の他に朴氏・金氏・鄭氏や李氏漂着組17姓があり「朝鮮筋目の者」として礼遇された。
一部例外を除いて帰化して以来姓名を変えていない。地元の学校では朝鮮人差別の暴力洗礼を受けるが耐えることで凌いできた。当然戊辰戦争や西南戦争、太平洋戦争を薩摩人として戦ってきた。
薩摩の日本人という国籍に人一倍誇りを持つ。
明治までは一村ことごとく韓語を語ったが維新後はオノリソといわれる祭祀の歌謡や窯仕事の技術語だけに韓語が残った。
村の鎮守を玉山宮といい、日本の天照(アマテラス)のような朝鮮開国の神祖檀君を祀り、そこから海の彼方の故郷を望み折々に参ることを今も絶やさない。
島津義弘は朴平意に島津家御用のみの白薩摩を作らせ評判を上げ、黒薩摩は御前黒を除いて民間需要に供した。薩摩焼は薩摩、江戸、明治と日本を代表する重要産業となる。
沈寿官氏が招待されてソウル大学で講演をした。
「これは申し上げていいかどうかと前置きして、私には韓国の学生諸君への希望がある、韓国にきてさまざまの若い人にあったが、若い人のたれもが口をそろえて36年間の日本の圧政について語った。最もであり、そのとおりではあるが、それをいいすぎることは若い韓国にとってどうであろう。いうことはよくてもいいすぎるとなると、そのときの心情はすでに後むきである。あたらしい国家は前へ前へと進まなければならないというのに、この心情はどうであろう。‥‥
あなた方が36年をいうなら、私は370年をいわなければならない。」 聴衆は拍手をせず静まりかえった。
しかし沈氏に送る友情の気持ちに愛誦青年歌の熱唱で会場を湧き上がらせた。彼は薩摩人らしく振るまおうと涙を抑えて冗談を言おうとしたが、身を震わせて立ち尽すのみであった。
郷土意識の強い薩摩で日本人になりきった高麗人陶工たちの、長い年月で熟成した民族意識は人間が隔てをなくしてともに生きることの価値を教える。
歴史の荒波に晒された望郷の思いも司馬遼太郎が語ると爽やかな生きる希望に感じるから不思議である。