Posted by ブクログ
2018年05月18日
「胡蝶の夢」新潮文庫全4巻。
司馬遼太郎さん。1976-1979新聞連載。
幕末を舞台に司馬凌海、松本良順のふたりを中心として「蘭方医たち」を描いた長編小説です。
不思議にしみじみと面白かったです。
#
司馬遼太郎さんの長編小説群は、勝手ながら僕の感想としては
①第1期:「梟の城」1959~「...続きを読む竜馬がゆく」1966連載終了くらいまで
=えげつなくエンターテイメント。熱い名作多し。
基本、司馬さん初心者、若い読者などには圧倒的にこのゾーンに含まれる「燃えよ剣」「竜馬がゆく」「国盗り物語」「関ヶ原」がおすすめ。
なんというか、カツ丼天丼ハンバーグデミグラスソース、しかも極上の味付け。濃いめ。
②第2期:「最後の将軍」「殉死」1967くらい~「坂の上の雲」1972連載終了くらいまで
=編集者に押しつけられたかのように見える、「序盤でHだけしてやがて消えていく女性キャラ」とかが、ほぼ無くなる(笑)。
ドラマチックな人生描写だけでなく、歴史考察エッセイ風へと芸風を探っていく行く感じ。
「新史太閤記」で秀吉、「義経」で平家物語など、「古典的な王道歴史物語を再編」した意欲作などは、十分に相変わらず娯楽作。
娯楽作だけど、省略の妙味など、自由度が強くなっていく。
「世に棲む日々」「花神」あたりが、ヒーロー的娯楽王道小説の、最後の輝きな感じ。
なんとなく、「和定食」「魚中心」など渋さが増してきますが、まだまだ「寿司定食」みたいな大衆性があったり、「和風スパゲッティ」だったりします。
③第3期:「覇王の家」1973とか「翔ぶが如く」「空海の風景」1975~「項羽と劉邦」1980くらいまで=
エンターテイメント指向と、「もののあはれ的な雑談閑話指向」が最後のバランスを取っている感じ。
時折「これはもう娯楽小説とは言えないのでは?でも娯楽的なんだけど…」という不思議さが。
なんかもう歴史小説を書くのが上手くなりすぎて
「どうしても演奏しているうちに淡々としたフリージャズになっちゃって、おっといけないってポップに戻る感じ」みたいな。
娯楽作で言うと、なんと言っても中国史、史記の世界に挑んだ「項羽と劉邦」。
これは、憧れの司馬遷に挑んだせいか、「ポップに娯楽に描かねば。中国史なんか知らない多くの人に読んで欲しい」という緊張感?が漂っている。
でもそれでいて実は恐ろしく小説的な誇張省略をしないと描けない難しい題材を料理しています。
あとは、全然娯楽ぢゃないけれど「空海の風景」はもの凄いワン・アンド・オンリーな境地。
なんかもう自由な創作料理で、気が向いて中華とか作ると普通にこってり美味しいんだけど、和食だと「極上出しのぶっかけうどん」とか「極上卵かけご飯」とか、もうそういう日替わりメニュー。
その上、良い素材しか使ってないから、「えっ!卵かけご飯が700円かよっ!」みたいな。でも食べてみれば、普通の定食を食べ慣れてる人からすると「すごくうまい…」。
④第4期:「ひとびとの跫音」1981~「韃靼疾風録」1987=
もはや、普通の感覚では面白くない(笑)。少なくとも40代より若いような読者、特に司馬さん初心者、読書オタクではない人、にとっては、まず確実に面白くない(笑)。
だけど、そのなんだか面倒くさそうで淡くて自由な感じが、ツボにはまると堪りません。
なんていうか、もう別段、ウケようとなんてもうしない柳家小三治さんの佇まいというか。
個人的には「ひとびとの跫音」がとにかく、絶対に余人には描けない不思議ワールドの傑作小説だと思います。
小説なんだかエッセイなんだか、内容もとにかく淡すぎてハッキリ言うとツマラナイ?よく分からないかと思いきや、忽然とココロ揺さぶられる、という...。
定食屋に入ったのに、「煎茶と煎餅」しか出てこないとか。「塩にぎり」しか出てこないとか。「ご飯と塩」とか。
あるいは小さなトーストにしらすがのってるだけ、とか。もうそういう感じ。ところがそれが涙が出るほど旨かったり(でもさすがにこれぁ無いよな、という日もあったり)。
と、分類されるのでは。
まあ、だからどうって言うことも無いのですが。
閑話休題。
#
「胡蝶の夢」は実に第3期らしい傑作でした。
告白すると、大昔に「司馬さんの長編小説は(ほぼ)全部読んだ」と思っていて、
「胡蝶の夢」も一度読んだつもりだったのですが、今回読んでみて「あ、これは読んでないな」と思い至りました。思い込み、恐ろしい。
時は幕末です。主人公は、幕府のお抱え医師・松本良順と、佐渡出身の異能の男・司馬凌海。後他にも数名、この時代の「蘭方医たち」の物語。
坂本竜馬も高杉晋作も西郷隆盛も出て来ません。そういう王道物語とは、確信犯で一線を画しています。
(そういう王道物語を、言ってみれば講談からルネッサンスして定着させたのも司馬さん自身だったりしますが)
松本良順は、幕臣だけど、もっと自由に、もっと西洋医学を学びたい。
人柄もからっとしていて親分肌。「プチ竜馬」みたいな、いかにも司馬物語の主人公のような「陽性」タイプです。
その愛嬌で、新選組のBIG3近藤・土方・沖田とも「友達関係」だったという風変わりな人物。
何しろ世が世ながら江戸城の奥でひたすら威張っていただけの「奥医師」なワケですから、言ってみれば良順の存在と半生が「幕末維新」そのものとも言えます。
ただ、良順さんは痛快児だったけど、革命児でもなければ天才児でもなく、政治家でも政治屋でもなく。
言ってみれば彼の美徳と限界点は、とどのつまりが落語に出て来て「やいやいやいやいっ!弱いモノいじめはするねえっ!」と啖呵を切ってくれる大工の棟梁レベルだった、ということなんですね。
だからこその美しさと、であるがゆえの「小物感」みたいなものを、融通自在に物語ります。
司馬凌海。なんと魅力的で幻滅的な主人公であることよ。
この若者は、佐渡の町人から出て来て、つまりは「語学の異能の天才」だったんです。
当時の唯一の西洋語、オランダ語。これを、松本良順の弟子をやっているうちに、師匠を軽く超えて会得してしまう。
ドラえもんの「記憶パン」かの如く、とにかく書物と字引を食べるようにむさぼっては、どんどん知識を増やしていきます。
そして彼は、語学の意欲が満たされることだけがどうやら学問の快楽で。
長崎に良順と暮らすうちに、独学耳学問勝手流で、中国語、英語、どうやらドイツ語とかまでどんどんと、なんだかこう、
チフスとかペストとかが大陸を侵食していくかのように、彼はじわじわと会得していってしまうんです。
ところが、人間関係がからっきし、だめ。
傲岸です。偉そうです。気が使えません。空気が読めません。挨拶が出来ない。愛嬌がない。礼儀を知らない。
言ってみれば…「西洋人が描く、協調調和型の典型的な日本人像」から、100万光年の彼方に司馬凌海だけが屹立している感じです。
そして彼は、語学の才能と同じくらいの、ほぼ100%というスーパーウルトラ高打率で、人に嫌われるのです。
嫌われて、町人なのか何なのか微妙な身分でさげすまれます。
そうなんです、結局幕末維新の物語というのは、みーんな、「武士」の物語なんです。
これまで司馬さんが描いてきた維新ヒーローたちも、つまりはみーんな、武士なんです。当時の人口の7%もいなかった、生まれながらの特権階級の人々。
そういう人々と、一瞬ながら同じようなステージに、司馬凌海も上がるんです。何故上がったか?それは、彼に異常な語学の才が、つまり、能力があったんです。
でもそのステージに上がると、「武士ぢゃない人」ってのは彼だけだったんですね。彼には、武士階級に特有の、共通言語的な「思想」とか「プライド」とか「勇気」とか、
そういうものが一切かけらも無いんです。
そしてまた、司馬凌海は語学の天才なのですが「語学を使って何かをする」ということに、関心も才能も、何にも無いんです。もう、存在自体が笑うしか無いんです。
当時の世界万巻の医学書を読めるけど、医師として患者と向き合うことは、児戯にも等しい不器用さ。
思想書も兵学書も工学書も読めるけど、思想にも兵学にも工学にも愛情も関心も志も無い。
この存在自体が無駄にいびつで哀しい若者の姿を、実に軽く淡々と映し出します。
#
話としては、あっちに飛んでこっちに飛んで。良順と凌海を中心に起きながら、「蘭学」「蘭方医」というキーワードで、
保守既得権だけに汲汲としていた幕府のシステムそのものを糾弾して、そこから羽ばたこうとする青春をまぶしく見上げます。
そしてその青春の滑稽さと欠点も触りながら、時代がさまざまな政治と利権に回転していくなかで、波に乱れる幾人かの生をスケッチのように。
その軽さ、そのふわふわした「もののあはれ」感にたゆたいながら、油断をしていると。
司馬凌海が「なぜ自分はいつも人に嫌われるのか」と涙する長崎の宵に、猛然と涙腺を攻撃されます。
そうですね、この小説は、幕末の長崎という町の魅力を描いた、という意味でも極上のカステラのような小説です。ざらめです。
いつもながらですが、司馬さんの描く幕末、という大きな物語性みたいなものに、これまで全く未接触な人が、いきなりこの4冊を読んだら面白いんだろうか?
というもやもやしたものは感じますが。
ただ、それを知ってさえ居れば、この小説の闊達自在で、ドライに見えて情に棹させば流されまくって脱線続きの語り口。
とかくこの世は生きにくいのはその通りなんですが、これほど四冊があっという間の面白さ、こんな不思議な小説があるのであれば、かなりこの世も楽しき哉、という満足感でした。