最相葉月のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
被害者が加害者となり、加害者が被害者になるような不思議な感覚が、たちのぼり言葉の構成で成り立つ。最相葉月は、『絶対音感』で、すごい探究心の強い人だと思い、『青いバラ』で、丹念にインタビューを積み重ねて理解していく作者だと思った。そして、この本を読んで、ズシーンときた。鋭利なナイフで切り取ったような凄みがある。境界線があり、その境界線は簡単に飛び越えることができるのだ。そして飛び越えた時に、自分の在り方が問われることになる。
「生む・生まれる」「支える・支えられる」「狂う・狂わされる」「絶つ・絶たれる」「聞く・聞かれる」「愛する・愛される」「見守る・見守られる」という7つのエッセイ。
「生む・生まれる」
中国で、一人っ子政策によって、男の子の方が多いという状況を作り出したのは、妊娠の最中の検査で、女の子であればいらないと堕胎してしまうという闇があった。
それが、さらに出生前のDNA診断によって、ダウン症や遺伝的病気がわかり、その子を生むかどうか悩む問題を取り上げる。さらに、遺伝子操作によるデザイナーベイビーの誕生など、妊娠し、生むということさえも、人為的にコントロールする技術の進展をどう見るのか?を問いかける。
「支える・支えられる」
東日本大震災の被災地などで、他者を「支える側」として不眠不休で活動した自衛隊員や支援者たちが、あまりに過酷な現場で自身が凄まじいトラウマやPTSDを抱えて、自死をしてしまうという問題を取り上げる。心のケアとは?
「狂う・狂わされる」
著者の母親が、認知症になり、馬の話をしたがり、双極性障害だった。その母親の過酷な介護をしていた。そして父親は、病気で声を失っていた。そんな経験をした後に、著者自身も「双極性障害Ⅱ型」の診断を受ける。身近に狂う人がいて、自分もその境界を超えてしまう。その理不尽さ。
「絶つ・絶たれる」
高い知性を持ち、自ら望んで学問の道を極めようとした博士号取得者(ポスドク)たちが直面する現実の社会の厳しさ。教授がポスドクの成果を独り占めしてしまう学究の世界。博士になって、社会的な地位を得られるわけでもない状況。そして、自死を選ぶ。なぜ?真理を究め、夢を能動的に追いかけたはずの若者が、社会のシステムによって未来を「絶たれる」構造的な悲劇のあり方を問う。
「聞く・聞かれる」
無響室体験をすることで、音のない世界の怖さを感じる。そして、見えない人の体験も合わせて考える。見えていない世界よりも、聴こえない世界の方が、もっと深刻だと語る。
「愛する・愛される」
田宮虎彦と千代の純愛物語。毎日あったのに、毎日手紙を交換する。そして、それを貶す平野謙。中学生でもあるまいし、という批判。妻を亡くした田宮虎彦への刃の言葉。そして、文壇を離れる。愛し、愛されて、何か、問題があるのか?
「見守る・見守られる」
親を見守っていたのに、今度は自分が見守られる年齢に。人間は老いる宿命があり、それをどう受け入れるのか?どこで死ぬのか?自宅で死ねなければ、死ぬ場所がない。せめて、枯れるように死ねればいいが、その時は、誰に見守れているのか?そして、死んだ骸は、誰が片付けるのか?自分で自分の骸を片付けることはできない。最後に、ありがとうを誰にいうのか?
人間は、ある意味では、塀の上を歩いているようなものだ。生きて、そして100%死ぬという現実の中で、能動的な生活だけでは、成り立たない。孤立死という選択はない。そんなことを突きつけられた本だった。 -
Posted by ブクログ
中等教育でのプロテスタント体験と、大人になってからはときどき日曜礼拝に行くか行かないかくらいの教会との距離感。
キリスト教の世界をこの本で描かれているほどマイノリティワールドだとは一度も思ったことがなく、インタビューに応えるクリスチャンたちもちょっと独りよがりだったり視野狭窄だったり浮世離れしている人(言葉を選ばず言えば、変わった人とか生きづらそうな人とか)が多い印象でした。いや、クリスチャンってもっとフツーの人たちだと思うけど。そもそも登場する方々が高齢の方ばかりに偏っているのも違和感でした。若者クリスチャンだってたくさんいるのに。
神の愛を信じること、他者を分け隔てなく愛すること、それによって穏やかな人生を生きることって、こんなに非日常な世界観ではないです。
とはいえ。日本全国のこんなにたくさんの方々にお話を伺われていることには脱帽。ここ最近の出版界ではなかなか出会えない、著者と編集者の熱意を感じる本でした。読んでよかったです。
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Posted by ブクログ
科学技術と人間、スポーツ、精神医療、カウンセリングなどをテーマに、堅実な取材と冷静な筆致で定評のあるノンフィクションライター最相葉月。
『れるられる』は生む生まれる、支える支えられる、狂う狂わされる…などの章にわけて、その境目を考えるエッセイ。
出生前診断で、ダウン症が選別の対象になったことについて背景や過程を詳細に取材している。
『いったい妊婦たちは何を選ばされているのだろう。
知らないでいることの不安と、知ってしまうことの恐怖のせめぎ合いの中に、妊婦だけを置き去りにして良いはずはない。』p27
人の親でありながら、今まで深く考えてこなかったことを悔いる。最相葉月のエッセイは、私の心に深く刺さり、学びや気づきを教えてくれる。
どの章も読み応えがあるのだが、1番印象に残ったのは「愛する愛される」の章。夫婦の愛がどのようなものであったかは、当事者しかわからない。田宮虎彦を冷淡にこき下ろした評論家は、自身がそのような感情しか妻に持てなかったというだけではないか。もしくは少しの羨望が歪んで表層に現れたのか。
しかしこれによって、田宮虎彦の人生が狂ったのは確かである。話の趣旨とはずれると思うが、評論とはいったいなんなのかと憤りを感じる。
『世の中が、目の前にあるあちら側への想像力を取り戻すためにも、私はまだ筆を措くことはできないのだと思う今日この頃です。』岩波文庫版あとがきより
また、大切な作品に出会えた。
多くの人に読んでほしい。 -
Posted by ブクログ
宗教とは何かを考えるうえで参考になる名著を、4人の有識者がそれぞれ1冊ずつ紹介している本です。
どの章も非常にわかりやすく、宗教(的な考え方)の大事さも恐ろしさも感じさせてくれる作りになっています。
別の本で半分ファンみたいになっている釈徹宗氏の著作だったため購入。認知的不協和や自我防衛機制、成熟した宗教的人格について述べている同氏の章は、読んでいるだけで何だか安心感を覚える内容です。
―宗教はどうしても信じている人と信じていない人との境界を生み出します。その境界ができないようであれば、生きる力にもならないことでしょう。しかし、その境界を超える回路がどれだけ多様にあるか、そこが大切です。(釈徹宗)
―そこから見えてくるのは、「信じる/信じない」という境界がはっきりあるわけではないということです。それはどこまでもグラデーションになっていて、人はその狭間で揺れ動き続けるのでしょう。信仰は揺れ動く。しかし、それでも自分はそこから離れられないと思ったときに、信仰は「本物」になっていく。(最相葉月)
―宗教は倫理や道徳ではありません。かくかくしかじかだからこうなるのだと合理的に納得させられるとしたら、それは科学であって宗教ではないのです。言い方を変えれば、科学ではないから宗教と呼ばれ得るのです。信じるか信じないかです。(片山杜秀)
―「自分の意志で選んだわけではない」という思いが、彼にとっての神という存在の根本にあるのではないかと思うのです。大津にとって信仰とは、「私が信じる」といった主格的なものではなくて、「私に信仰がやってきてとどまっている」といった与格的なものだったのではないでしょうか。(中島岳志)
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Posted by ブクログ
(2024/10/10 2h)
最相葉月『証し』を読み終え、著者について調べたら本書が出てきました。
2024年1月のNHK放送分をまとめたもののようです。
釈徹宗「人間と宗教のメカニズム」(『予言が外れるとき』)★★★☆☆
最相葉月「信仰に生きるということ」(『ニコライの日記』)★★★★★
片山杜秀「絶対的な「信じる心」と戦争の時代」(『大義』)★★★★☆
中島岳志「神はどこにいるのか」(『深い河』)★★★☆☆
宗教にまつわる書について、さまざまな視野から選ばれ、解説されています。
新興宗教と信者と信仰のメカニズムについて、正教の伝導について、天皇信奉(絶対観念)について、与格としての信仰について。
特に『大義』のほうは意外性もあり、面白い選書と思います。
4冊の解説を100余ページで読めるお得感がありました。 -
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医療、心理学、教育と多方面からの歴史的背景を知れて面白かった。
言葉にするということは、自分を理解したり、してもらったりするために、非常に重要なものではあるけれど、言葉にならない言葉以前のものが存在するのだと、そうだよね?そうだよね?とドキドキしました。
心の病からの回復とは発病前に戻ることではなく、新しい地平に立つことだとのこと。他の病気からの回復は、例えば熱が下がったとか傷が消えたとかなんとなくわかりやすいけど、心の病が治るとはどういう状態なんだろうかと不思議に思っていたので、そう捉えたら良いのかとホッとして、なんて素敵と思いました。 -
Posted by ブクログ
著者が、心理学やカウンセリングの世界を取材し、掘り下げたルポルタージュ。しかしジャンルを「ルポルタージュ」とまとめてしまうのはちょっと違うかも、と思える。著者本人の物語も含まれているし、日本にカウンセリングが持ち込まれてから、「心の病を治す」という分野の仕事がどのように研究・発展してきたのかを掘り下げた、歴史書や分析書のようでもある。
今や「カウンセリング」という言葉は世の中に浸透して、精神病ではなくても心が不安定になったとき、誰でも「カウンセリングが必要かも」と考えたりする。あきらかに病気ではなく、いじめや職業(職場)との不一致など、環境による不安であっても「カウンセリング」で何とかしようと考えたり。
私も不安感に耐えかねて、職場が紹介している窓口に問い合わせたことがある。(実際に受診するまでには至らなかったが)。
今ではそのように一般的になった「カウンセリング」だが、日本に持ち込まれてまだ70年しかたっていないらしい。心の病を引き受けるのは医者(精神科医)なのか?心理学者なのか?教育者なのか?そもそもそのような線引きもなく、”自称セラピスト”のような人も多数存在した。今でも民間の団体が主催する研修を数時間受けた程度で、もっともらしい看板を掲げてセラピーやカウンセリングを行う人がいる。今では「臨床心理士」という国家資格があるが、資格を取るのは大変難しく、経験が必要なのにも関わらず、待遇はあまりよくない。
それでも現代社会には、心に不調を抱え、カウンセリングを求める人がたくさんいる。社会はどのように対応していけばよいのだろう?求められる「セラピスト」とは?
本書の大部分は、かつて注目を浴びた「箱庭療法」や「絵画構成法」といった芸術療法の解説や、河合隼雄に影響を受けた研究者たちを取材した内容が占めており、日本の”心の診療”がどのような歴史をたどって発展したかをひもといている。箱庭療法はいかにして日本に持ち込まれ、どのように発展したのか。どんな人がどんな箱庭を作ったかの興味深い事例も少々取り上げられている。私も箱庭療法にとても興味がある!やってみたい!・・・しかし、今はそのような手法は下火になったようで、認知行動療法が主流だ。(これは私も仕事上多少の知識はある)。
残念ながらカウンセラーとクライアントが箱庭や絵画を通して心に向き合い、深いところに降りていくような治療は、もう現在はできないということだ。時間がないから。一人のカウンセラーが一日に何十人も診ている。数分間の診察で、抗うつ剤や睡眠導入剤を処方して終わり。それが当たり前になってきている。
本書を読んで、本当に病気で、薬の処方が必要な場合でなければ、一番のセラピストは身近にいる親しい人なのではないかと私は思った。そばにいて、相手の話に耳を傾け、深く共感したり、一緒に悩み悲しんだりして時には深く降りていってしまい(時にそれは危険なことでもあるらしいが)、そして一緒に上がってくる。
今は心療内科などの看板を掲げるクリニックに行っても、そんなに時間をかけて話を聞いてもらえないのならば、よっぽど素人であろうとそばで話を聞いてくれる人の方が心の回復の支えになるだろう。
私の友人に、個人でサロンを経営しており、とてもカウンセリングマインドがあり聞き上手な人がいる。時々無性に彼女に会いたくなり、友人として、ときには顧客としてサロンに通っている。先日会ったとき、「ねえ、あなたはサロンをやっていくために、なにかカウンセリングの勉強や研修をしたの?」と聞いてみた。本人曰く、傾聴ボランティアをするときにほんの少し研修を受けたがたいしたものではなく、もともと人の話を聞くのが好きなのだと言っていた。
傾聴っていうのも、誰にでもできそうで、できないよな。やっぱり彼女はもともと、向いているんだろうな、人の心を癒やす、何かを持っているんだろうな、と思った。
そういう興味もあって本書を読みました。数十年前の研究や、心理学の歴史の記述などは少々難しかったけど、とても興味深く読めました。