最相葉月のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
4人の作家がそれぞれ宗教についての学びの深い本を1冊ずつ取りあげて紹介・解説している本。とりわけ各章末の考察欄が非常によい。
「宗教は社会や家庭と対話を重ねながら価値観をすり合わせて共に成熟していくことが重要」
「宗教に対して疑いがあって当然、逆に100%疑いがない方が危うい」
「信仰は信じる・信じないの間で揺れ動くが、離れられないと思った時に本物になっていく」
「論理を超えた妄信があるからこそ宗教と呼ぶ。」
「宗教には体感できる非日常性がなければならない。」
「念仏とは与えられるもの(与格的)であり、自分の無力さに絶望し祈ろうという気さえ起きないようなときに初めて他力が開かれる」
要約すると以上のようなメッセージに集約されるが、どれも密度が高い。
私はこれまで論理的・科学的・心理学的・社会学的な目線から宗教を見てきたが、それを超えたトートロジーな部分こそが宗教たる所以であって、そこに功罪があることを知ったのは大きなパラダイム転換になった。
一筋縄ではいかない、多面性を持った「宗教」の本質に近づくことが出来る有意義な一冊だと思う。 -
Posted by ブクログ
ノンフィクションライターの著者が、中学生くらいの子たちに向けて、ノンフィクションの書き方を教えてくれる本。とは言っても、多くはテーマを決めて調査する方法で、ノンフィクションに限らず、学校のレポートやルポ、論文やら小説やら、どんなものにも共通することが多い。フィクションを書くにしても、何かについて書くために必要なノウハウや心構えが揃っている。
個人的には、第五章「さあ、書いてみよう」が面白かった。テーマを決める、本やインターネットで調べる、現地に行く、人に話を聞く。こういった調査方法に関しては、割と類書でもけっこう見かけるし、テーマの掘り下げ方なんかは、それだけでもっと詳しく書かれたものも読んだことがあった。ただ、実際に文章にするあたって、どんな文体で書くのかについて書かれた五章は、自分自身、自分の作品を読むうえで気をつけようと改めて思うような内容だった。
著者が問題にするのは、自分が調べた出来事について、誰のどんな立場から語るのかということだったのだと思う。それは、文章の中では、誰視点で書かれるか、つまり、文章の主語で決まる。
「私」を主語に書かれた文章は、「私」を視点にしているし、同じ「私」視点でも人から聞いたことを伝えようとすれば、「伝聞スタイル」になる。文章を自然にするために「彼」「彼女」を主語にして、「彼」「彼女」視点で書くこともできる。
要するに、一人称で書くのか、三人称で書くのかということなのだが、思うに、自身ノンフィクションライターとして、様々な人の言葉に接していく中で、どのように書くのかを考えてきたからこその文章感覚を伝えようとしているように感じた。だからこそ、どのような書き方にせよ、「その人の身になって考える」ことを大切だと著者は言う。
二章や六章でも言われている通り、実際、文章を書くときに一番悩むのは何を書くか、何をテーマにするのかだと思う。実は、そこが決まれば、あとは何をすればいいのか案外と決まってくる。テーマの決め方のところでも著者は言っている。
では質問です。
あなたには知りたいことがありますか?
人に伝えたいことがありますか?
会って話を聞いてみたい人はいますか?
記録に残しておきたい体験はありますか?
もしすぐに思い浮かぶならば、あなたはとてもラッキーです。それがあなたのテーマです。
そんな「とてもラッキー」な人はなかなかいないと思う。そうではない人が、この本を読んで、そんなテーマを見つけて、文章にすることに少しでも憧れてくれたら、嬉しい一冊だと思う。
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Posted by ブクログ
仕事で、「心の病」のある人、あるいはその家族と話すことがある。
現状、苦しんでいる人がどのように悩み、もがき、治療を受けているのかはわからない。
私たちは、ただ、淡々と、その事実を記録して、案件の処理をするだけだからだ。
だから、各々に対して思い入れはしない。
けれども、たまたま私は治療をするほど追い詰められなかったけれど、かつて自傷したこともあるし、何度も自殺する方法について考えたこともある。
本が私を助けてくれたから、自力で立ち直ることができたが、それはあくまで私の体験であり、すべての人に有効な方法でもないし、共通する経験でもない。
だから、私は苦しむ人々がどんな治療を受け、どう関わりを持っているのか知りたいと思った。
心理療法士、精神科医はどんな思いで、相手と関わっているのだろう?
424〜425頁で女性患者がこう言った。
「この前箱庭を作ったとき、先生はこれで治せると思ったでしょう」
「私は別に治してほしくないのです。私はここに治してもらうために来ているのではありません」。
一瞬何を言っているのかわからなかったし、患者特有の意固地さなのかと思った。
しかし、「治さねばならぬ」という思いは、一体誰のためなのかを考えたとき、自分の子供を思った。
普通級ではなく、支援学級を勧められた時、教育委員会は、何のために、誰のために支援級と判定したのか、その時の怒りに似た感情を思い出したのだ。
「普通」とは何だ、誰のための「普通」なのか。
実際はそんな悠長なことを言っていられないかもしれない。
自傷や他害を起こさせないことは必要なことだし、実際に苦しんでいて治したいと思う患者も多いだろう。
だが、違うことは悪いこと、同じでなければ価値がないというのは、優生思想ではないか。
かつて、人類が何度も犯してきた過ちと同じことをまた、繰り返すのか。
なぜ生き物がこれだけ多様性を持ち、変異を起こしてきたか、私たちに足りないものは、そのゆとりなのだ。
人が人らしく生きるには遊びが必要だ。
心とは、多様性とは、生きるとは。
本書が問いかけるものは、広く、果てしない。