鷲田清一のレビュー一覧
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講談社学術文庫で、
鷲田清一氏の著作で、
タイトルが『〈弱さ〉のちから ホスピタブルな光景』。
お硬い本を予想して買ったんですが(もちろんどんなにかたいテーマでも優しく語ってくださるのが鷲田清一氏の本なのですが)、あにはからんや、鷲田氏が性感マッサージ嬢やゲイバーのマスターや生け花作家など一癖も二癖もありそうな人に会いに行って、話を聞くという体裁の本。
でも(だから?)、これが深い。
それぞれのインタビューが、それぞれの生き方に裏打ちされて出てきた言葉の積み重ねだから、ちょっとやそっとじゃ「分からない」。
もちろんインタビューだから、書いてあることそのものが分からないわけじゃない。
でもその -
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自分がうだうだ悩んでることに対して先人たちはもうずっと前から深く考え続けていてその軌跡を遺してくれてたんだなあ
鷲田清一さんの本、他も必ず読んでみよう
意識はしばしば感覚のひだのなかに身を潜めている。重ねられた唇と唇のあいだ、閉じられた瞼、収縮した括約筋、拳をにぎりしめたときの手、押しつけ合った指、組み合わされた腿と腿のあいだ、一方の足の上に置かれた足といった場合がそれである。(……)皮膚の組織は自らの上に折り畳まれているのだと思う。肌は己自身の上に意識を持っており、また粘膜も自分自身の上に意識を持っている。折り畳まれたひだもなく、自分自身の上に触ることもないならば、真の内的感覚も、固有の肉 -
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哲学者で元大阪大学総長の鷲田清一氏と、ゴリラ研究で著名な山極寿一京都大学総長の対談。
ただ第1章からリーダー論がぶっ放されていて、改めて知を探究すると射程は広く、そして「僕たちはどう生きるか」という問題に集約されていくのだなあということを実感。
文科省が学習指導要領で「生きる力」を提言してからでも随分経つが、文科省が(あるいは日本の政府が)進めようとしている教育改革が、たとえば本書で述べられているような「生きる力」を涵養するものであるかと自問すれば、甚だ疑問であるというよりは、正反対の方向に進んでいるような気がしてならない。
複雑化する国際社会と日本の現状を踏まえた上で、大人としてどのよう -
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あらゆる場面で見つけた弱さのちからをまとめた本。
精神科の病棟で見る患者は、この本にあるように”どう生きるかを、いつも目に見える形で突き詰めないと生きられない人たち”で、” 普通は人知れず悩むことを、過剰なまでに抱え込んできている人たち” 。その姿を見るうちに自分の歪さや弱さに気づく。精神科にいると、自分の過去を振り返ることにもなる、といった先輩医師の言葉通りであった。それから友人の脆さや作り上げた歪な自分らしさも少しずつ垣間見えるようになって、自分の生きづらさがほんの少しだけど肯定されたような気になった
べてるの家では、精神疾患を治すものとして捉えない。
疾患で生じる苦労を治しても、他の -
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・“遠い遠いとこ、わたしが生まれたよりももっと遠いところ、そこではまだ可能がまだ可能のままであったところ” (哲学者,九鬼周造)
つねに一定のだれかであるために、ありえた自分をつぎつぎと捨てていくこと、特定の文化や社会的なイメージに自分を合わせていく作業が必要となる。それが、じぶんになるということである。
でも結局は、我々は自分を自分ではわからないし、顔は直接みることもできず、何をしたいかもわからず、自分は他人の中にしか存在しない。
それを証明できないと、不安になるけども、実はそれは自由の喪失ではないかもしれない。だれかであることをやめることによって、誰にでもなれる自由がそこにあると -
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良い本だった! ファッションそのものというか哲学の本で、時代に廃れぬまなざしがある。身にまとうものを含めた自分というおしだしについての哲学。
その人がそのまま表出されているすがたというのが一番魅力的なんだと語るような場面(ちょっと受け取り方に語弊があるかもしれないけど)が何度となくあって印象的。あるがままのシワとか、そのひとの人生史(時間の澱という言葉が心に残る)をいつわらぬ顔というものに価値を見いだすこと、それはやはり豊かだよな、かくありたいね、と思える。
そしてなにより言葉選びがつくづくツボで、非常につやっぽい。読んでて無性にどきどきした。乾いた肌に湿り気を取り戻すような読書体験だった -
Posted by ブクログ
「死ぬ」ではなく、「死なれる」事が、<死>の経験のコア
今は、何かをする中で、ではなく、何かをする前に、自分にどんな個性があるのかを自問する時代。
ケア:一方が他方の世話をしながら見返りは求めない。一方的な搾取の関係。
家族の形は多様化している。婚姻の形にとらわれないペアや共同家族の存在。核家族を社会のユニットとは思わなくなっているが、住居の方は相変わらず核家族を前提に作っている。核家族に代わる社会的なユニットの可能性が見えておらず、定形を失った家族の多様なあり方をゆるやかに受け入れられる空間構成のモデルがない。
生老病死への対応、ほとんどすべてを外部サービス機関に委託するようになった近代家族