鷲田清一のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
やっと読み終わった!!!!めちゃくちゃ付箋貼りながら読んでた
>一つのまなざしで見つめられると、それに従うか拒絶するかの二者択一しかなくなる。オール・オア・ナッシングの対応しかできなくなる。
エスキモーの赤ん坊はめったに泣かない
>肌の接触から子供の要求を察知し、先回りしてすべての欲求をみたしてやるのである。
>赤ちゃんは、この極楽のような羊水と、お母さんの子宮の壁にとてもべったりになります。その居心地のよい母胎の液体からいよいよ産み出されると、体温よりずっと低い温度の気体に包まれます。そうなると、赤ちゃんは皮膚感覚が刺激され、敏感になっていきます。ここから、赤ちゃんの子宮回帰が始まります。つまり、子宮のような空間や温かい人肌を求めていきます。
共通の皮膜
>個体は分離から生まれる。分離は皮膚の引き剥がしとして感受される。個体は二度号泣しないと生まれない。ひとが人生の行路でなにか行きづまるたびに、生まれてこなかったほうがよかった、ないほうがあるよりいい、と思わざるをえないのは、どこか存在を分離としてしか描けないところがあるからだろう。
>物がわたしとは無関係なものとしてただそこにあるということ、その事実が、わたしが取り残された存在なのだという疼きを強いてくるとも言えよう。
>〈わたし〉は一つの損傷として、あるいは存在のダメージとして生まれた。
>濃密であるはずの存在は、じつは必死で密封し、繕われねばならない塊として「幻想」されるしかないものだ。だから、おのれを掻きむしることでひとはその塊としてのおのれのなかに立てこもろうとする。そういう意味では、自身の皮膚への攻撃も、「〈自我〉の境界線を維持し、無傷のまとまった存在であるとの感情を再建するための劇的な試み」として解釈できる。
>ただわたしがそこにいるだけで、それだけの理由で「存在の世話」を享けたというのは、わたしがのちに紡ぎだした後づけの物語である。そうである以外にわたしがその後生き存えることになった理由は考えられないというだけのことである。その物語がいまの〈わたし〉の存在の皮膚を縫っている。
>この幻想にひとは生涯、翻弄される。おそらくは齢を重ねるにつれてより深く。それほど感謝が厚いのは、あるいは傷が深いのは、いうまでもなくそこに自己の存在の根拠が賭けられているからだ。
>相対主義者の議論を憂うときに反相対主義者が依拠しているのは「人間(ホモ)」という「コンテクストに拠らない概念」である。「最小限の装備、本体価格だけのhomoと、正味のみ、添加物一切なしのsapiens」へと約められた、いわば文化抜きの人間概念である。ここに持ち込まれるのは、自然主義的な説明をとるばあいなら「人間の本性」であり、合理主義的な説明をとる場合なら「人間の心性」(お好みならば「知性」や「深層心理」と言ってもよいし、遺伝子や大脳の構造を想起してもよい)である。複数の文化をつらぬいて、そういう不変項もしくは「定数」が見いだされるはずだというのである。
> わたしたちがもし自分が見ている世界の外についに出られないのだとしたら、多様性の称揚はそのまま、人びとは独我論的な世界をしかもてないという主張に反転してしまう。多様性の議論が、人びとを彼らの世界のなかに隔離し、幽閉しようという《認知論的アパルトヘイト》の主張になってしまう。
>他なるものとの遭遇においては《原文のない翻訳》があるばかりなのである。このことは個人としての自己理解・他者理解についても言えることであろう。ここで問題なのは、他者がつけているレンズの屈折率をみずからのレンズの屈折率のなかに翻訳することではなくて、翻訳不可能なものの存在との接触がみずからのレンズの屈折率そのものをずらし、変えてしまうという、その変換の出来事である。
>けれども、「わたし」として統合された人格は、あくまでそのつど"統合されてある"のであって、もともとそのような人格がそれとしてあるわけではない。生きるというのは他なるものとのたえざる遭遇のなかにあるということであり、そのつど「わたし」の存在は綻び、繕いなおされる者である。そのつど多方向に逸脱し、さらにそれを微修正してゆくというかたちでたえず編みなおされるものである。繕いも編みなおしもかなわず、ときに弾けてしまうこと、瓦解してしまうこともある。いずれにせよ、「人格の統一」という正常態とその異常態としての「多重人格」がらあるのではなく、したがってまた正常/異常を測る不動の規準というものがあるのではなくて、人格はつねにその偏差を生み、またそれを組み換える不断のプロセスのなかにある。 -
Posted by ブクログ
講談社学術文庫で、
鷲田清一氏の著作で、
タイトルが『〈弱さ〉のちから ホスピタブルな光景』。
お硬い本を予想して買ったんですが(もちろんどんなにかたいテーマでも優しく語ってくださるのが鷲田清一氏の本なのですが)、あにはからんや、鷲田氏が性感マッサージ嬢やゲイバーのマスターや生け花作家など一癖も二癖もありそうな人に会いに行って、話を聞くという体裁の本。
でも(だから?)、これが深い。
それぞれのインタビューが、それぞれの生き方に裏打ちされて出てきた言葉の積み重ねだから、ちょっとやそっとじゃ「分からない」。
もちろんインタビューだから、書いてあることそのものが分からないわけじゃない。
でもその真意を探ろうとすると「分からない」。
こういうことかな、という感想は持てるけれど、たぶん違うな、少なくとも言わんとされていることを捉えきれていないなという感覚が残る。
だから深い。
何年かごとに、繰り返し読み返したいなと思いながら読みました。 -
Posted by ブクログ
自分がうだうだ悩んでることに対して先人たちはもうずっと前から深く考え続けていてその軌跡を遺してくれてたんだなあ
鷲田清一さんの本、他も必ず読んでみよう
意識はしばしば感覚のひだのなかに身を潜めている。重ねられた唇と唇のあいだ、閉じられた瞼、収縮した括約筋、拳をにぎりしめたときの手、押しつけ合った指、組み合わされた腿と腿のあいだ、一方の足の上に置かれた足といった場合がそれである。(……)皮膚の組織は自らの上に折り畳まれているのだと思う。肌は己自身の上に意識を持っており、また粘膜も自分自身の上に意識を持っている。折り畳まれたひだもなく、自分自身の上に触ることもないならば、真の内的感覚も、固有の肉体もないだろうし、体感も感じなくなり、(……)静止したような失神状態の中で意識もなく生きることとなろう。
悔しくて唇をぐっと噛みしめるとき、気合いを入れようと括約筋をぐっと締めるとき、大事なひとの安全を祈ろうとしっかり掌を合わせる時、そのときその皮膚が合わさった場所にこころはあると、セールは考えるのである。
顔を見つめあうとき、まなざしはすぐに金縛りにあったように、凍りつき、凝固してしまう。目がかち合うと、まなざしはたがいに密着してしまい、相手のまなざしを見るということ、つまり距離を置いて対象として見ることは不可能になる。見ることそのことが膠着するか、そのような膠着のなかで視線を無理やり引き剥がすか……。いずれにしても平静に相手の眼を見つづけることはできない。
……顔と顔のあいだは、言ってみれば、こうした粘着と引き剥がしという相反する力が交差する場、いわば磁場のようなものなのである。
……それは対象となることを拒む。それほどまでに顔は壊れやすい。じっと見つめられたときの居心地の悪さを思い出せばよい。視線が、見返す眼が、顔を壊し、歪める。かぎりなく近くにありながら、まさにそのときにもっとも遠ざかり、もっとも隔てられているというこのもどかしさを経験したことのないひとなど、たぶんいないだろう。
つまり、人間の記憶というのは、縦並びから横並びへと徐々に変わってゆく。記憶は、若いあいだは何がどの年に起こったかが克明に記録されるクロノロジー(年代記)のかたちをとるが、やがてだいたいあの頃と言うふうに前後の秩序だけがはっきりしているパースペクティブ(遠近法)に移行し、最後は遠近もさだかでない1枚のピクチュア(絵)になる、というのだ。……ここには〈時〉をリニアに流れるものとしてとらえるのとは全く別の感受性がある。始めと終わりで区切られる直線の時間ではなく、ぐるぐる循環する円環の時間、輪廻転生の時間でもなく、別の「いま」が折り重なり、散乱している、そんな時間である。
〈時〉がばらけていくと言うのは、自分が、いや世界そのものがばらけてゆくということでもある。世界がそのようにばらけていって、「1枚のピクチュア」のようになったとき、世界はきっと、自分にとって意味のあることばかりが充満していながら、しかしどこか不気味な光景として現れてくるだろう。じっさい、過去のあるイメージが意識の中に現れることを拒み、それを無意識の中に圧しつめてきたわたしたちのそれじたい無意識の操作が、ある時不意にむき出しになることがある。その時、異なる「いま」の散乱のなかで、壮年期まで必死で紡いできた物語がばらけ、これまで意識したこともなかった別の下絵が浮き上がってくる。そのことによって、わたしたちはこれまでの「わたし」の外に出る。
つまり、苦しみや鬱ぎを当初あったのとは別の地平と移し変えるところに、他者を前におのれについて語ることの意味はある。語るということは、相手に回答をもらうということではない。見えない自分の姿を移すために、その鏡の役を相手にしてもらうことであるのだ。
……言葉というのは不思議なもので、交わせば交わすほどたがいの違いが際立ってくる。たがいに理解しあうということ、相手のことをわかるということは、相手と同じ気持ちになることだと思っているひとが多い。しかしそれは理解ではなく合唱みたいなものであって、同じものを見ていても感じることがこんなにも違うのかというふうに、違いを思い知らされることが、ほんとうの意味での理解ではないかと思う。
……聴くというのも、話を聴くと言うより、話そうとして話しきれないその疼きを聴くということだ。そして聴き手の聴く姿勢を察知してはじめてひとは口を開く。そのときはもう、聴いてもらえるだけでいいのであって、理解は起こらなくていい。
……こうして一つ、たしかなことが見えてくる。他者の理解とは、他者と一つの考えを共有する、あるいは他者と同じ気持ちになることではないということだ。むしろ、苦しい問題が発生しているまさにその場所にともに居合せ、そこから逃げないということだ。
むきだしの〈個〉
できないことを「できる」ことの埋め合わせるべき欠如と考えるのではなく、「できない」ことそのことの意味を考え、そこからあえて言えば、「できなくなることでできるようになること」というか、かならずしも「できる」ことをめざさない、そういう生のあり方をこそ考えねばならないであろう。
家族とは葛藤のるつぼである。しかもそこから下りることを許さない関係である。よほどのことがなければ解消できない関係である。
では、思考のその肺活量とは何か。それは、いますぐわからないことに、わからないままつきあう思考の体力と言ってもよいし、あるいはすぐには解消されない葛藤の前でその葛藤にさらされつづける耐性と言ってもよい。
……「これはこれです」
曖昧なものを曖昧なままに正確に表現する、一箇所もゆるがせにしないで、正確に、これしかないという表現へともたらすこと、これが画家の力量である。
……大事なことは、困難な問題に直面したときに、すぐに結論を出さないで、問題が自分のなかで立体的に見えてくるまでいわば潜水しつづけるということなのだ。それが、知性に肺活量をつけるということだ。目の前にある二者択一、あるいは二項対立にさらされつづけること、対立を前にして考え込み、考えに考えてやがてその外へ出ること、それが思考の原型なのに、そうした対立をあらかじめ削除しておく、均しておくというのが、現代、ひとびとの思考の趨勢であるように思われてならない。
哲学の仕事は、だれもが仄かに感知しているのにまだよく摑めていない、そういう時代の構造の変化に、概念的な結晶作用を起こさせることにあるはずだ。未知の概念をそこに挿入することで、その変化にある立体的なかたちを付与するものであるはずだ。時代はつねにそういう発見的な言葉を求めている。
そういう視界を概念によって開くためには、「わたしたち」の生のうんと外側に光源をとって世界を見るようなまなざしが必要である。「わたしたち」の思考のなかに安住していては、そういう補助線は引けない。ひとが見たいと思っているのは、その視野のなかで最良のものでしかない。ひとは「わたしたち」の外輪山のさらにその外側に視点をとって、いわばもっと「大人げない」夢を見なければならない。
→プロレタリア、無意識、狂気、飼い慣らされていない生の芸術(幼児や精神障碍者の描画)、過去の社会 -
Posted by ブクログ
鷲田清一式辞集。
2007年度から2011年度の大阪大学での式辞と、2015年度から2018年度の京都市立芸術大学での式辞が掲載されている珍しい本(だと思う)。
大学時代に得た、深く専門的な知識を自身の源とするのは良いのだけど、俯瞰的に物事を見られるからこそ、自身が担う部分が「どこ」に存在しているのかが分かる。
そのためには教養や幅広い視野が必要で、社会や職場では自分以外の人が持っている知識や役割を尊重することでもある。
京都芸術大学の方では、自分一人の才能と考えずに、生まれた時代や歴史が「私」という存在の礎にある(言い方は語弊があるかもしれないけど)感覚を持っておく話が面白かった。
また、みんなに見えているはずなのに誰にも見えていない隙間を見つけることが科学的発見だと言い、それを表現することが詩であり音楽だと言い、哲学だと言う。
それぞれ別の式辞の中で、こうして同じテーマが繰り返されるのだけど、それは焼き直しというより、鷲田さんの中に流れている変わらないメッセージがそこにあるんだと感じて、個人的には肯定的に読んだ。
こういう儀式的な言葉って、形式に沿って話をしているように受け止めてしまうこともある。
けれど、鷲田さんの式辞は「伝えたいこと」の比重が大きくて、それは単に情熱的なのではなく、場に相応しい言葉選びをされていて、すごい。
一時期、上野千鶴子の東大での式辞が話題になった。
個人的には山極寿一の式辞も聞いてみたいなと思う。
心に残る言葉に触れることは、人生の「オリエンテーション」なのかもしれない。 -
Posted by ブクログ
哲学者で元大阪大学総長の鷲田清一氏と、ゴリラ研究で著名な山極寿一京都大学総長の対談。
ただ第1章からリーダー論がぶっ放されていて、改めて知を探究すると射程は広く、そして「僕たちはどう生きるか」という問題に集約されていくのだなあということを実感。
文科省が学習指導要領で「生きる力」を提言してからでも随分経つが、文科省が(あるいは日本の政府が)進めようとしている教育改革が、たとえば本書で述べられているような「生きる力」を涵養するものであるかと自問すれば、甚だ疑問であるというよりは、正反対の方向に進んでいるような気がしてならない。
複雑化する国際社会と日本の現状を踏まえた上で、大人としてどのように振る舞えばよいか。
最近自問していることは、結局そういうことに尽きるような気がしてきた。 -
Posted by ブクログ
あらゆる場面で見つけた弱さのちからをまとめた本。
精神科の病棟で見る患者は、この本にあるように”どう生きるかを、いつも目に見える形で突き詰めないと生きられない人たち”で、” 普通は人知れず悩むことを、過剰なまでに抱え込んできている人たち” 。その姿を見るうちに自分の歪さや弱さに気づく。精神科にいると、自分の過去を振り返ることにもなる、といった先輩医師の言葉通りであった。それから友人の脆さや作り上げた歪な自分らしさも少しずつ垣間見えるようになって、自分の生きづらさがほんの少しだけど肯定されたような気になった
べてるの家では、精神疾患を治すものとして捉えない。
疾患で生じる苦労を治しても、他の苦労がある。人間が耐えきれない苦労を支える装置として、治療するのでなく会社を作った。
“人と競ったり、嘘をついたり、誰かになろうとした時、見ないようにしてきた大事なことを、病気のスイッチがちゃんと入る人たち。脆さを持った人たちが、いてくれることの大切さを考えた時に、とっても大事な存在だよね。社会にとっても大事だよね。” というように、地域の人もべてるの家の住人たちと交流することで、内に秘めていた、もしくは顕在化させてなかった悩みを話せるようになり、それは時に疾患のある患者よりも深刻であることもあった。
ひとはみな、歪な弱さを秘めている。それを補完していくことが人生の目的ではなく、その弱さのやりとりのなかで他人を内在化したり、自身を肯定することができるのでないか。
“人は転ぶ人をみると、無意識のうちに手を差し伸べる。 弱さは、それを前にしたひとの関心を引き出し、内にかすかな力を感じさせる。介助とは、おたがいにそのいのちを生かし合う、そういう関係を作り上げていくための窓口なのだ。”
医療者としても、1人の生きづらさを感じる人間としても、何度も立ち返りたい本だ。 -
Posted by ブクログ
・“遠い遠いとこ、わたしが生まれたよりももっと遠いところ、そこではまだ可能がまだ可能のままであったところ” (哲学者,九鬼周造)
つねに一定のだれかであるために、ありえた自分をつぎつぎと捨てていくこと、特定の文化や社会的なイメージに自分を合わせていく作業が必要となる。それが、じぶんになるということである。
でも結局は、我々は自分を自分ではわからないし、顔は直接みることもできず、何をしたいかもわからず、自分は他人の中にしか存在しない。
それを証明できないと、不安になるけども、実はそれは自由の喪失ではないかもしれない。だれかであることをやめることによって、誰にでもなれる自由がそこにあるということ。”自分がぼやけることの心地良さ” 。
誰かと親密になる中で、その人の中の自分がぼやけることを畏れたり、どう思われるかを終始気にしているのはとても疲れてしまう。
誰かが定義する私が、自分になってしまうからだ。でも、その”わたし”はわたしが自分に語って聞かせるストーリーで、同じ人生でも、語り方によって、解釈のあたえかたで物語は変わる。ほんとはなんにでもないから、なんにでもなれる、そう思うと少し心が軽くなりました。