鷲田清一のレビュー一覧
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受験生にはぴったりの本です。タームが少し高校生には難しいですが。鷲田エッセイの組み立て方などを書いてあるので、哲学的思考のエッセイを読む上では、役に立ちます。
特に実社会と孤立しがちな哲学について、社会との対話を重視するスタンスはおもしろいです。一枚剥ぐと、通俗になりそうなところが、うまく締めていると思い、すごいです。
西洋哲学の人にこういうことを言っても、無駄とは思うのですが、現代哲学をやると二項対立はだいたいメルロ・ポンティか、その辺り。これにはいつも東洋人の私には違和感を覚えます。おまえだって使っているではないかと言われそうですが、漢文の「対」の概念の方がしっくりきます。「対」については西洋哲学どころか、昨今の日本文学でさえスルーなので、仕方ないか。
臨床哲学はおもしろかったです。これもキリスト教で行われている「分かち合い」に似ています。むしろ西洋人には、こちらのベースがあると思います。
いや、こういうベースをとやかくいうと、新書では説明しきれないのは確かですが -
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内田樹さんと鷲田清一さんの対談が最初と最後にあり、そのあいだに、両者それぞれ2,3編の短い文章が収められている。
正直に言うと鷲田さんの論説はさほど面白くなかった。やはり内田さんの方が冴えているように見える。
同胞愛と同義であるような愛国心は不可能である、という前提をまず受け入れなければならないとする「愛国心論」ともいうべき『大人の「愛国論」』、ネットに飛び交う他者攻撃の言葉の鋒を「呪い」と定義する『呪いと幻論』が非常に良かった。かなり共感できた。特に後者は、ネットを覆う憎しみの嵐を適切に分析して、『呪いの時代』なんかよりも短い文章できっちりと論じている。すべてのネット民にこの文章を読んでもらいたい。 -
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この本を読んでの感想…じゃないかも。
この本は読んでよかったけど。
私は、大人かなぁってよく思う。
自分でもびっくりするような小さなことにイライラしてしまったり、八つ当たりではないけれど、人に冷たくするような態度をとってしまったり
心に余裕がないときに、
自分の行動、今のは正しかったのかなぁなんて、
よく考える。わたしは、プライドが高いのかなぁ。
それで、とても悲しい気持ちになる。
「あんたはさ、そこにいるだけで目立つわけ。だからやっかみの対象にもなるし、あんたがいくら目立たないようにしようとしたって、そうすればそうするほど目立つのよ。人に気を使うとかそんなことしても無駄って言うかさ、ちょっとでも尻尾見せたら叩かれて大変なことになるのよ。ほら、学校時代にクラスでもいたじゃない?ちょっと浮いた感じの子でさ、『わたしなんかが○○さんに話しかけちゃ悪いかなって思って』みたいに勝手に線引きされちゃうような子。あんたはそのタイプなのよ。自分を持ってるって言うのかもしれない。そういう人とさ、面と向き合うと、自分がいかに何もないかってことを思い知らされるのが怖くて近寄りがたくなっちゃうのよ。」
っていうようなことを言われたことがある。
「怖い」とかさ、「オーラあってキャラ立ってるよね。」とかさ、
なんとなく違う感じを、あたかも私が何かしたかのように被害者のような口ぶりで言われたりさ、
もう、そういうの、うんざりなんだよって思うんだけど
自分が何にもないことを思い知らされるような存在って、
身近にいたら、きっと傷つく。
わたしは、自分がまるでモンスターのようだと思うことがあるんだけれど(それは自意識過剰という意味で、自意識にとらわれたモンスターという意味だ。)
わたしはきっと、存在するだけで人を傷つけるような、モンスターなんだろう。
シザーハンズみたいに、泣いた赤鬼の、赤鬼みたいに、
人間と仲良くしたいのに、その存在ゆえに、人の心は離れていく。
どうしたら、人を傷つけずに生きることができるのだろう。
知らぬ間に人を傷つけていることに傷ついているなんて、人は嗤うだろうか。
「そんなにいい人で、いたいわけ?」
わたしは、最近そんなことを言われた。
「いい人で、いたいわけではないです。ただ、率先して人から嫌われる必要も、ないんじゃないですか?」なんてことを答えたのだけど、
心の中で、「あぁ、今私の言葉は、吐き出した途端に、上滑りしていった。」と思った。
「いい人で、いたいのだ。わたしは。」と思った。
わたしは、嫌われることが、怖いのだと思った。
それは、「人並み以上にそう思っているのかどうか」は、私には分からない。
おかしいなぁ。
「愛されファッション、愛されメイク。」
いったい誰に愛されたいんだよ
心の中で突っ込みを入れる私が、
一番、不特定の誰かに、愛されたいのだ。
とかなんとかつぶやくほど、私は今、心に澱が溜まっている。
自分の時間が保てないと、決まってそうなる。
自分の時間なんてものがなくても、その澱を、見ない振りするか、どこかに捨て去ることのできる人が、
社会に求められる人なのだろうと、最近よく思う。
だったら私は、社会にいらない存在なのだと、最近よく思う。
悲しくて。
何の話かは忘れちゃったのだけど、家の中にいて、誰かの帰りを待っている、でも外にはモンスターがいるらしくて、誰も家に帰ってこない。次第に、家で待っている人は、誰も帰ってこないので、実は自分がそのモンスターなのではないかと思い始めるというような話が、どっかであった気がする。
わたしは、人の顔をかぶった、人が近寄りたくもないと思ってしまう、モンスターなんだろう。でも、自分は、人間だと思い込んでいる。人間の振りをすることができていると思い込んでいる。
わたしは、いったいどこで、道を踏み誤ったのだろう。
人を傷つけることは、仕方のないことなんだろうか。
できるだけ、うまくやりたいと思うことは、罪なことなんだろうか。
それを悲しいことだと思うのは、私の自由だ。
傷つくことは、自由なのだ。
でも、他人が、自分のせいで傷つくことは、
「傷つくことなんてあんたの勝手でしょ。」なんて、思えない。
できるだけ、謙虚に。
できるだけ、人を傷つけないように。
できるだけ、そのことで、自分も傷つかないように。
そう思いながら、私は今日も、
人の皮をかぶって、
人間社会を生きる。
「終わりなき安穏を受け入れることは、死に等しい」
そう思い生きるだけで、重たい罪を私は抱えているという自覚を、忘れてはいけないのだ。
罪を自覚しているにもかかわらず、その軌道修正をする選択を選ばない。
おそらく私の最大の罪は、そこにある。 -
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鷲田さんの本何冊か読んでるけど、ですます調で書いてあるの初めてな気がする。
それだけ慎重に言葉を選んで書いてるんでしょうね。
鷲田さんの専門や難しい話は一切なく、読みやすい。
「いつでもさりげなく時間を空けられる関係」
「絶対になければならないもの、あったらいいけどなくてもいいもの、端的になくていいもの、あってはならないことの見分けられることが教養」
「言葉は心の繊維」
「言葉の意味ではなくて言葉の感触。その背後にあるじかんをくれているということ。そのなかに、話された内容とは無関係に人をケアし、支える真実があると思います。」
「ケアの現場は、ケアの゜小さなかけら゜が編みこまれたもの」
「言葉の根っことは、体のうねり、うごめきのことにほかならないのですか、そこに希望の最後の小さなかけらがあるように思います。」 -
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著者は元大阪大学学長の哲学者で、専攻はたしか現象学。
本中に「臨床哲学」という言葉がでてきますが、これは何かというと、哲学を使う感じ、よくわからないけれど。机上の空論としての哲学じゃなくて、哲学をフィールドワークするってことで、とてもアクティブな人。
哲学者としての専門は確か現象学なんですが、「モードな身体」なんかではファッションについて考えてみたりと、いろんなことに口をだしている。
で、地上に降りて哲学を実践する場面において、「聞く」という態度のアクチュアルな側面を考察した本書。彼の文章はどこかの試験の問題文にもなっているらしく。とても豊かな日本語で書かれています。読みやすくはあっても、わかりやすくは無いという、入試の問題文にしやすそうな文体です。(知らない日本語がいっぱいでてきます。)
話す/聞くということにおいては、「話す」ほうがクローズアップされがちです。話し方、プレゼンとかいったみたいに。しかし、聞くという行為、聞くものの態度が話すという行為を誘発する/できるのではないかという内容。その空間を支配しているのは、むしろ聞くものなのではないかという内容。
これはカウンセラーが意識していることでもあって、ここで、臨床哲学とは話す/聞くという場面がそのフィールドだということがわかります。
なんとうか、このやわい感じ、読んでみなければわかりません。 -
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内田樹さんの〝追っかけ〟になってから5年くらいは経つでしょうか。書棚にずらりと並んだ内田作品の背表紙を眺めて、「はて、初めて読んだのはどれだっけ?」と考え込みました。でも、他の書き手が書かないようなことを選択的に書きながら、読み手を説得してしまう手腕に舌を巻いたのを今でも覚えています。恐らく、これが内田さんの魅力でしょう。
でも、それだけではありません。作品全体に流れる自由さというか、風通しの良さも内田さんならでは。読み手との距離が近いと言ってもいいかもしれません。
学者さんの書いたものって、偉そうなのが多いじゃないですか。特に文系の学者さん。甚だしいのに至っては、読み手に学術的成果を伝えるというより、もっぱら自分の知的威信を高めるために書いているのが見え見えという方もいて辟易することもしばしばです。これは学者さんの性分なのかもしれません。
なぜ、内田さんはその陥穽を免れているのか。本書でも一部触れていますが、内田さんって、仲間と雀卓を囲むし、漫画もよく読みますし、お酒もよく飲むようですし、睡眠もかなり取っているようです。「偉い」学者さんはこういう、自身の価値を損ないかねないことは隠すか積極的に書かないものだと思います。
でも、内田さんは違うんですね。「お前らはバカだから俺が教導してやる」みたいな態度は決して取らないですし、むしろ「みんなでワイワイやろうよ」という開放的な態度で読者を迎えてくれます。
本書の共著者、鷲田清一さんが「文庫版あとがき」に書いてます。
「内田さんを結び目とする人の輪、もちろんそこからいっぱい内田さんぬきの輪も生まれてきました。その輪を結ぶ人がみなとにかく気持ちのいい人ばかり。逢うのが初めてなんて信じられない。この人のつながりにぼくは無限に近い信頼を置いています」
内田さんの人となりを雄弁に物語っているように感じました。
ああ、何というレビューでしょう。本書の内容にはひとつも触れずに1,000字くらい書いてしまいました。
本書は内田さんの年来のテーマのひとつ(たぶん)である「成熟」について、内田さんと鷲田さんの論考を交互に並べ、それを両者の対談で挟むという、なかなか凝った体裁。
文庫で189ページとかなり薄いですが、内田さんの魅力がギュッと詰まっていますし、鷲田さんの話も実に面白いです。
FBにも書きましたが、非常に印象に残った個所を本書からひとつだけ引用して終わりにします。子を持つ親として、胸に響きました。肝に銘じます。
「教育の目的は信じられているように、子どもを邪悪なものから守るために成熟させることにあるのではない。子どもが世界にとって邪悪なものとならないように成熟を強いることに存するのである」(内田樹「第6章 もっと矛盾と無秩序を」) -
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市バス循環206番の沿線の景観・風俗を題材にした京都論、都市論、コミュニティ論、哲学、そして一風変わった京都案内の本であり学者さんの本。本書自体が万華鏡のような切り口によって様々な表情を見せ、至る所にあやかしの異界が顔をのぞかせる京都を体現しているように思える。
などと難しいことを考えなくても、素直に206番に乗って京都をぐるりと回る前に予習しておく本として読めば良いのではなかろうか。ただし実際に206番に乗るときには本書を持っていくような無粋なことをせずに、読後の記憶をたどりながら回るのが京都や本書の楽しみ方だと思う。
「おもろい」本としてオススメです。