鷲田清一のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
なんとなく、厳しい市場原理からするとあまったれた感じもするが、それなりに説得力もある。
(1)「勤め」と「務め」をばらす感覚。長寿化とともに、会社で一生勤めあげるというよりも、勤め人としての生活は人生の半分と考え、それよりはるかに長い人生を俯瞰してものごとをなす、つまり個としてのじぶんの「務め」をさぐるという感覚である。(p186)
悪くないけど、金を稼ぐ現役時代から連続して、自分の使命を果たす務めに少しずつ転換していくことも可能ではないか。
(2)「ヴォランティアという活動が浮き彫りにしたのは、他者のまえで、そのだれかとしての他者にかかわるという、ひさしく労働というものが失っている契機である」(p145)
まあ、そういう見方もできるかな。
ここで一言。
最近、毎日災害関係の審議会を開催している防災関係の非常にドライブ感のある職場にいるのだが、こういうドライブ感は、理系の生物とか宇宙工学、さらには若手にしかパワーがないが建築とか都市計画にはあるが、社会科学系はどうしたのだろう。
これだけ政治が混迷し、社会保障などが問題になっているのに、政治学者、経済学者、憲法、行政法学者、あまりに静かではないか。そのかわりに変な分野から突拍子もない議論をふっかけられているのではないか。
この混迷と閉塞感の時代こそ、明治維新や戦後直後のような社会科学の論争が巻き起こることを期待したい。そうじゃないと、どんどん役人と国会で制度が決まっていてしまって、あとで、ぐちゃぐちゃ批判することになるよ。いいの、それで、社会科学者は? -
Posted by ブクログ
先日、鷲田さんの講演を聞いた。臨床哲学などを交えながら、看護職の専門性について語ったもので、かなり面白く、うなずけることも多かった。話したようなことが書かれている本はないかと探して見つけたうちの一冊がこの本。
……実は、鷲田さんの講演を聞いて本を読んでみたのって初めてじゃないような気がする。そして、いまいち読みきれた感がない読後感っていうのも同じ。浅薄な自分はなかなか哲学の本が読めるようにならない。
書中にこんなことが書いてあった。
――働くこと、調理をすること、修繕をすること、そのための道具を磨いておくこと、育てること、教えること、話しあい、取り決めること、看病すること、介護すること、看取ること、これら生きていくうえで一つたりとも欠かせないことの大半を、ひとびとはいま社会の公共的なサービスに委託している。社会システムからサービスを買う、あるいは受けるのである。これは福祉の充実と世間ではいわれるが、裏を返していえば、各人がこうした自活能力を一つ一つ失ってゆく過程でもある。~中略~ ナイーブなまま、思考停止したままでいられる社会は、じつはとても危うい社会であることを浮き彫りにしたはずなのである。~中略~ 「われわれは絶壁が見えないようにするために、何か目をさえぎるものを前方においた後、安心して絶壁のほうへ走っている」。十七世紀フランスの思想家、パスカルの言葉はいまも異様なほどリアルだ。
生きるっていうことは、言い換えれば死なないでいるということ。いずれにせよ、生きている理由、死なないでいる理由、そういったことを考えながら生きていくべきだと思う。上掲の引用のように、何もかも委ねてしまうということは、意のままに生きることも、死ぬこともできなくなる。
揚げ足とりの問答で、「何してるの?」「人間」ってのがあって、そう答えられるたびに「人間はなってるものであって、しているものじゃない」と思ったものだけど、ある意味では「人間をやっている」という意識も必要かもしれない。 -
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鷲田さんは、哲学者。
東日本大震災後の1年を振り返って、臨床的な立場で、被災者への思いを語っている。
とても繊細な言葉がつづられていて、一部を切り出して、コメントするのが適切ではないが、全体を通して、被災地、被災民によりそって丁寧に対話を続ける姿勢がはっきりしていて好感が持てるし、自分が無意識に不作法な発言をしていないか、反省させられる。
著者の文章を読みながら考えたこと。
(1)鷲田さんはトランスサイエンスということばを使っているが、全体の科学の進歩の状況、社会経済情勢などをきちんと目配りする能力が、鷲田さんは科学者に求められていると書いている。
むしろ、そういう能力が国家公務員に必要ではないか。みんな、大学で勉強した専門に閉じこもっていないか。それから日々成長しようとしているか、日々視野を拡大しようとしているか、自分を含め、役人に対して問い続けたい。
(2)様々な分野の間でのコミュニケーションの能力が問われている。特に、専門家と住民、専門家と役人、役人と住民、それぞれがわかり合い、尊敬しあって、自由にそしてじっくり話ができる環境をつくらないといけない。そして、コミュニケーションを通じて、なんらかの合意形成をつくっていく技法をちゃんとみにつけないといけない。
(3)原発のこととかイメージしているのだが、大変だけど、やはり政策の判断を逃げずに一人一人の国民がしないといけない。まず、自分が専門家がやっているから大丈夫と思わないで、まてよ、といって勉強しなければいけない。
哲学者の本なので、ここがすごいという情報量があるわけではないが、読んでいる人間に頭の整理を求めるところがすごいなと思う。 -
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ネタバレ臨床哲学の第一人者鷲田清一氏による臨床哲学の入門書にふさわしい一冊。
他人の話を「聴く」行為はまさに「他人を受け入れる」ことだと冒頭では述べられている。
当然の行為である「聴く」ことを哲学的行為と定義し
聴く側の自己を創成する上で大きな意味を持っていると本書では指摘する。
ことばを受け止めることこそが、他者の理解に繋がっていく。
「聴く」行為の主体者になるよう語りかけてくる。
鷲田の論考を読み解く際に、掲載されている植田正治のモノクロ写真は本文の雰囲気を一層醸し出す。
哲学的視点から「聴く」ことの意味を明瞭にし、
一人一人の読者が他者とのより関係を構築する際のヒントを提示する。
哲学という学問の可能性を、また一つ広げたに違いない。
ネットが発達し、コミュニケーションが重視される世の中で、疎かにしやすい「聴く」行為。
本書を読み終えた時には、聴くことの重要性に気付かされることだろう。 -
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「臨床哲学」ということば自体つい最近知ったが、そういえば中村雄二郎も「臨床」を使っていた。能動知に対する受動知という意味あいであった。
哲学とはとにかく個人的な思惟を語ることであった。もちろん時代との交渉はあったにせよ、その語りのほとんどは古代ギリシャ以来の伝統の文脈に沿ったものであった。それがどんどん世間とかけ離れたものになっていった。
「臨床」とは社会というベッドサイドのことを指す。それはある特定の当事者に寄り添うことであり、当事者の声を聴くことによって物事の本質を見出す作業とされる。自分というものを中心におかない。
カール・ロジャーズの心理カウンセリング理論がすぐに思い浮かぶが、著者はメルロ=ポンティの現象学やR.D.レインからむしろこの着想を得ているようだ。
レインとロジャーズは親交があった。ふたりの思想の低音は明らかに共通していた。
やや形を変えてでも、今の時代にこの考え方と実践が生きるとしたら、これは喜ばしいことである。
しかし、心理療法の現場ではロジャーズ理論はいささか分が悪いように見える。当事者本人による自己変容が起こるのを支援するというスタイルでは不確実で時間がかかりすぎるというのだ。従って、あたかもビジネス・プロジェクトのような計画表や思考法や行動の規約を作ったりする指示的な解決策に流れがちである。要するに待つことができなくなっているのだ。ロジャーズ理論の弱みでなく、そのような現代社会のひずみこそ問題とされるべきではないかと思う。著者はこれについては別のところで考察しているようだ。
植田正治のECMのアルバム・ジャケットのような写真がページの中にちりばめられている。この人のこともはじめて知った。 -
Posted by ブクログ
20/8/10
噛み切れない理論>棄てる側ではなく「棄てられる」側の噛んでも噛み切れない論理しか信用しない
哲学を馬鹿にすることこそ真に哲学することである>パスカル
言葉が他者との間に成り立つときには、まず働きかけとして機能する。働きかけること、感情を忘れること、対象にふれようとすること
どう変わって欲しいのかがはっきりしないと相手は変わらない
言葉をうけとめるといっても、そこには常にアースがひつようだ。自分がきちんと受け止めたら、自分のほうがもたない。それにがしっと受け止めると、それが反射して相手に悪影響を与えることもある。
私たちがいま失いかけているのは「話し合い」などではなくて「黙りあい」なのではないか。
「やり場の無い怒り」>ひとたびその怒りに、ある「物語」を付与してやれば、案外、感情の混沌たる嵐はしかるべきかたちに秩序づけられるのかもしれない。
不幸の経験は言葉を持たない。そこに不幸の本当の困難がある。
「ふれあう」ことを回避しようとして、皮肉にも気が「ふれて」しまうのだ。
「いる」ということがすでにゼロをこえている
意味、条件なしで「ともにいる」こと、つまり「時間をあげる」こと>ケアがケアでありうる
人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。>フランクル