鷲田清一のレビュー一覧
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100%は理解しきれていないだろうから、ここからきっと何度か読み返すはず。
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【ないがあるということ「しーん」】
しーん
静寂という音がない状態
それだって存在する
これは前後の音がある状態があるから、しーんという状態の存在が浮き彫りになる、意味となる
ないことだって、それ自体で存在する
あることに希望を持ちながら、存在する
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【言葉はこころの繊維】
周りの大事な他者がくれる言葉に癒され、
顔も知らない誰かが残した言葉に救われ、
自分が紡ぐ言葉で傷つき、生かされる
私はとことん世界を、自分を、
言葉を頼りに理解して
言葉に支えられて生きている、 -
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会社を辞めてからずっと、「意味のあること」を仕事にしたいと思ってきた。
しかし、意味と仕事の接続は、簡単ではない。
自分が信じる意味は、時に独りよがりなものになってしまうからだ。
鷲田清一『だれのための仕事』を読んで、仕事のヒントだと感じたのが、「よろこび」と「ひととしての限界」。
まずは、自分がよろこびを感じられること。
それは、生きるうえでの大前提だと思う。
そのよろこびの先に、自分の能力が育まれる。
そして、その能力がだれかの限界を担うことができたとき、はじめて仕事は、ほんとうの意味を持つのかもしれない。
きっと、そういう順番なんだと思う。 -
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まるまるしっかり理解しようとするのは難しいが、断片的にすっと入ってくる部分にはとても救われる。仕事をする意味(というか大義)や自己実現というのをいつのまに求めすぎて苦しくなるとき、自分がスランプにあると感じているとき立ち返る。
労働のなかに〈遊び(=私にとっては業務の中身そのものを改めて考え直したり効率化を試行錯誤したり、そこからプラスアルファで何かを得ようとすること)〉を見出す余裕をつくりたいし、他者との関わりのなかに自分の業務があるという実感を定期的に思い出したい。
そして新卒3年目を目前に色々と葛藤があるいま、改めてこの文章を心にとどめておきたい。
『会社に入ればみな、だれでもできる仕事しかさせてもらえない。だれでもできる仕事を工夫しながら丹念にくり返しているうちに、じぶん流のやり方を見つけ、また周囲にも認められるようになる。そうしてはじめて、他のひとにはできない仕事が生まれる。会社員のみならず、「職人」でも「先生」でも「お坊さん」でも、みなおなじことだ、と。(p.168)』 -
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個人の独立と依存、どちらを欠いてもわたしたちは生きてゆけない。
依存感情は異常だ、誰にも抱きたくないと思っていると同時に、誰かに依存することで楽になりたいと思う私にとって、どこか安心する言葉だなと、
私のプライドなんて取るに足りず、ないほうがいいと思っていたんだけど、本文の最後で「プライドというのは、〜他者から贈られるものだと、わたしはおもう」と描かれていて驚いた、過去に他者から大切にされた経験をもって、粗末にしてはいけないという感情を抱くことになるそうだ、わたしが必死に排除しようとしていたものは何だったんだろうね、自身に価値を見出すことなんて無価値で、自身のことを何もないと思っていたほうが楽だからとこの思想に行き着いたと理解しているけど、他者からの愛情を必死に排除しようとしていたのであればとても悲しいことだな、と、 -
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昨年の大震災の後、さまざまな「ことば」が飛び交うようになりました。「がんばろう日本」「絆」といった言葉です。それらはもちろん、被災者へ向けた励ましであり、被災しなかった国民に対して共に力を合わせようという呼びかけの言葉です。しかし私は、被災者へ心を傷めながらも、メディアを通じて伝わってくるそれらの「ことば」には、どこか違和感を持っていました。被災者の計り知れない傷みに思いを馳せる前に励ましや協力を謳うことには、「ことば」の本来の意味から外れた思惑を感じました。そして、震災から一年経って、その違和感について考え、本物のことばを紡ぐことを提唱する本に出会いました。この本では、癒しの押し売りで傷ついた人たちの時間を奪うのではなく、彼らが自分のことばで人生を「語りなおす」のを、そばに寄り添い待つことが必要だと説いています。◆著者の鷲田清一さんは臨床哲学の第一人者です。著者によれば「臨床哲学」は、「臨床」という語の本来の意味の通り「病んでいる人のところへ出かけること」でなければならない。「自分の専門性を棚上げして」、「街」へ出て市民と語り合うことでなければならない。「聴く」ことと「語る」ことの相互作用の中で、じぶん自身が変わっていく。そんな場の大切さを訴えています。◆鷲田さんの本は、どれも語り口が優しく共感的です。レベルの高い知性で「上から」分析してみせるのではなく、横に座って語ってくれるようなあたたかさを感じます。だからこそ、この本の内容も説得力を持つのだと思います。〈K〉
紫雲国語塾通信〈紫のゆかり〉2012年4月号掲載 -
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鷲田先生による、じぶんとはなにか、わたしとは誰かという壮大な思考実験の一冊、と私は読んでそう解釈しました。
わたしとはなにかを考えるプロセスにおいて、他者の他者という概念から、じぶんとは何かという問いは自己の中に内在するわけではない、がしかし、わたしとする存在を決定づけるのは他者の認識によるとするなら、もはやわたしの生死は関係ないのではないか、固有名称すら必要ないかもしれないという話にまで至るが、やはりじぶんとは何かという問いに答えなどでない、というふうな感じで締めくくられている。
わずか170ページ超の薄いが骨太な新書は、立派な哲学書でした。久々に哲学してあたまが沸騰しています笑笑
余談ですが、題名がわたしとは誰か、としていない、曖昧という言葉で表しているところがまたいいなと、読み終えてそう思っています。 -
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自分とは何か?について考察する本。様々な体験や例え話が登場するが、メッセージは一貫しており、「自分とは、固有なものではなく他者との対比や社会の中に位置付けられることによって見出されるものである」いうもの。
自分らしさなどというものを自分の内部から見つけ出すことは不可能であり(そのようなものは存在するはずがない)、むしろ眼を外に向けて誰にとってかけがえのない人であるかを考えてみたほうがいいとする筆者の考えは、心を軽くしてくれる。
多くのエピソードや、他の学者の言葉を参照しながら、比較的客観な説明がなされているが、74頁の「人生を一本の線だけでイメージするのは、それだけ人生をもろく壊れやすいものにしてしまう」との記述は、自分とは何かについての単なる考察を超えて、鷲田氏の人生観が垣間見え、好感を持った。 -
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鷲田清一さん、高校生のとき国語の教科書で出会い、文章にびびっとくる感覚を教えてくれた人。
やっぱり鷲田さんの言葉は心にスっと入ってきて、自分の話だと思える感覚がある。
だんまり、つぶやき、語らい
だまって相手の言葉を待つこと、綺麗な文章になっていない言葉の大切さを知った。今までそれらをコミュニケーションが途絶えていること、自分の語彙不足だと思っていたが、相手と語ること、自己をつくり直すうえで大切だと知ったので、これからはその時間も大切に思えそう。
自分は人の話を遮って疑問をぶつけてしまうことが多いなと反省した。それは相手の大事な思考の整理の時間を奪ってしまうこと、相手の考えを自分の型にはめてしまうことだと気づけた、気をつけたい。 -
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(2016/10/15)
中高生に、とあるが、我々大人が読んでも十分学べる内容。
物事の考え方を、平易なことばでみごとに説明してくれている。
小田嶋さんの成功者村上龍への食いつきは面白い。「会社員」という仕事がないと。
村上龍は成功しているから会社員をはずしていると。
確かに、13歳のハローワークに上がっている仕事で食っていける人はごくわずか。
みな「会社員」として何とか生きている。
白井さんの「意味」には際限はない、というのはなるほど。
本能的欲求は限度があるが、誰も持っていないものを持つ、という欲求には切りがない。
そこにはまったら最後だな。
戦争中における「国」とは、国民でなく国体だ、と書く山崎氏。
・・まあこれは先日読んだ伊藤氏の本で、掟を破られて黙っているのはおかしい、で反論されそうだが。
中年日本にアベノミクス成長戦略は怪我をする、という想田氏。
勝手に中年になってしまったのだ。少子化を進めて。
学べます。 -
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(2022/1/8)
2020年、まだコロナ第2波くらい、オリンピック延期、という段階で書かれたアンソロジー。
日本の知性が集結している。多くの方が参加している。
読み始めたとき、それぞれのお名前の横に簡単な肩書しか書かれておらず、
もう少し人物紹介すればいいのに、、、と思ったのだが、巻末にまとめて紹介されていた。
この本は中高生向きなので、それぞれの著者を知らない可能性が高く、人物紹介が長いとかえって予断を持って読み始めてしまうので、避けたのかな、と推察。
私は彼らの著作を結構読んでいるので、背景を知って読むとより立体的に読めた気がする。
一つ一つのコラムにコメントをするのは野暮なので辞めておくが、一番心を動かされたのは、雨宮処凛さんのコラム。
ペット連れの要生活保護者をどう支援するか。役所は「犬を処分してから来い」と言い放つ。
確かにその考えは自分の頭の中にもある。生きるか死ぬかの状態で支援を求めるのにペットなんて贅沢!と。
しかしその一方、モノではなく生きているペットを捨てる、殺すなどできるはずもないと、、、
我が家にも猫がいるが、極端に憶病なので、地震で避難所に行くことになったらどうなるのか?いやそもそも避難所が受け付けないか、、
話戻ってそうした人を支援する彼女たち。当然お金が必要。これをどう集めるか。
自分は寄付できるか?
日ごろ人の役に立ちたい、などと言っていても、そこに目が向くか。
反省。
それに関連して、ベーシックインカムに注目するコラムもいくつか。
クソ面白くない仕事をAIに任せる。
イギリスをダメにした高福祉、働かなくても食えることに劣等感、感情を持たせるようにしたサッチャー。これは今の日本にもある。生活保護を受けづらくする。
しかし金はあって暇がある、という状態が様々な文化を生む側面もある。
オリザさんも別の切り口ではあるが、不要不急の芸術の必要性を訴える。
・・・もしAIが何でもやってくれて、富がうまく社会に分配されるようになれば、人々は金のためにあくせくするのではなく、本当に人の役に立つために、自分の好きなことをして働けるのではないかな。
なまじ労働が貨幣価値に代替されるから、怠ける人が出るのでは、、、
いくつかのコラムからそんなことを感じた。
あ、それと、「椎名林檎になるための方法を教えてくれるのはどこの学校か?」と真剣に聞く大学生がいたという話は衝撃的だった。増田聡さん。
正解が学校にある、と思っている日本の教育システムの膿のような話。
。。。しかし、こういう本があるということは、日本の知性が捨てたもんじゃないことの証でもある。希望はある。
こんなコロナ禍ではあるが、前を向いて生きていきましょう! -
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読み終えて、とてもびっくりした。
こんな素人みたいな始まり方で申し訳ないが、この衝撃は、京都について、余所の者とそこに住み続けている者との見方の差異や、京都がこんな街だとは思わなかったとか、そういう事ではなく、あくまでも、街という存在が、目には見えないところで燻っている、底の知れない人と歴史の複雑な積み重ねで、今なお生き続けている、不可思議なものであることを、まざまざと実感させられたからである。
とは書きつつも、哲学者の「鷲田清一」さんの視線で見た、京都の裏ガイド的意味合いがあるのも確かなので、まずは、親しみやすいところから書いていきます。
京都は、元祖ヴィジュアル系の「ザ・タイガース」を生んだ街であり、それに抵抗が無いのが太秦の存在だという面白い一面を持ちながら、『個』としての時間をもてる喫茶店という空間が、自然と自立を促すことの出来る、近代都市としての支えになっていた、誰でも受け容れてくれる自由な一面も持ち合わせている。
また、意外と知られていない京都の凄いところとして、琵琶湖疏水の工事を指揮した23歳の技師は、世界で二番目の水力発電所も建設し、飲み水としてだけでなく発電用水として活用しようとした、その試みは、後の西陣織等の伝統産業の近代化と、わが国初の路面電車の敷設に繫がっている事や、深泥池(みどろがいけ)の水生植物群落は、屋久島の縄文杉の比では無い、ウルム氷期の植物「ミズガシワ」等の氷河期の生き残りであり、その壮大なロマン故に、かつては幽霊が出るとの噂もあった、おまけ付きだ。
いや、おまけ付きだなんて失礼なことを言ってはいけない。そもそも京都の地には幽霊が見えるといった、嘘のような本当のような話も聞いたことがあるが、それは鷲田さんによると、『弱い者の自衛手段』なのであり、平安末期以来、外部者の権力争いに繰り返し巻き込まれてきた京都人の、それこそ『千二百年も都市であり続けた』故の、無意識に染み込まれていった、自我を持ち続ける為の必死な思いの継承もあったのかもしれず、だから京都人は、『身の丈を超えた京自慢などせずに、それぞれの地域で小さくて濃くて高度な幸福をしずかに堪能している』のではないかと感じさせられる。
しかし、そんな弱い者の自衛手段を分かっているはずの京都人が、それに相反するような行い─覆いや緩衝を許さない視線の暴力─をしている事も知り、それを『都市はいま空襲を受けている』と表現された鷲田さんには、京都という街に対するただならぬ思いに加え、京都から何か大切なものが消え去ってしまいそうな、大きな危機感も窺えるようで印象的だった。
例えばそれは、財布が軽くても、それでも「見かけ」に、「装い」にこだわった、戦後市民の心の張りに見られた、『損得を超えた心意気という「芯」』の喪失が、「着倒れ」がまさに倒れかかっている理由であることや(不況のあおりなどではなく)、ファッションについて、ここまでは何をやっても良いといった、リミットの存在に加え、自由と秩序が共にはっきり明確であることを説いているのは、いのちを保ち続ける多面体としての都市のあり方であり、おそらく、そうしたものが失われる事への多大な危機感を抱いたのだろうと私は思う。
ただ、そんな京都の弱い者の自衛手段を素晴らしい形に転換したと感じられた事の一つに、ファッションを『発姿音』と書かれた、「堀宗凡」さんが主人の、「玄路庵」の喫茶去を称えた、松岡正剛さんの、奇想天外ならぬ『奇想天内』という言葉があり、そこには、単なる奇人の奇想天外なものがあるのではない事に加え、京都でいうところの奇人は、リミットの基準となる程の達観した粋を持つものであり、それを自然に受け容れる度量を持つ京都人は、当然その基準を知っており、外から見えるなんて、そんな品位に反する野暮なことはせずに、その内なる空間でひっそりと華やかに、他では決して見ることの出来ない極上の芸術を披露する。これを粋と言わずに何と言おうか。
そして、更にそれを実感させられた文章を、少し長いが掲載したくて、これは私も目から鱗の思いだった。
『「ワンポイント・チャーム」という言葉があるが、これは褒める言葉がないときに、無理してなにか褒めるべきところを探したときに出てくるものだ。ほんとうに魅力的な物や人には、そんなチャーム・ポイントは探す必要がない。圧倒的な存在感があるだけだ』
まさに私は、この圧倒的な存在感を京都という街に感じられた上で、その存在感には、どこか隙があり過ぎるようでもあり、思わず見るに見かねて、つい手を差し伸べたくなるような、放っておくことのできない魅力的な街なんだと思う。
本書の表紙や本編に収録されているモノクロの写真たちを見ていると、色などには決して惑わされない、『ものの本質』がそこにあるように感じられる。そして、それは普遍的なことだから、きっと言葉も時代性も必要ない。
学校の歴史の授業で教えてくれるのは、「何かが起こった」という結果のみであり、そこから、未来の人達にどのように影響したのかは、自ら知ろうとしない限り、おそらく一生知らずに生涯を終えてしまうのかもしれない。
だからこそ、今回本書を読むことで、京都の街の中に潜む、数え切れない歴史と人々の、美しいことも汚いことも派手なこともささやかなことも全て引っくるめた、数え切れない思いが詰まりに詰まった、街自身の、永きに渡るいのちの歩みを知ることが出来て、とても嬉しかった。
本書は、Macomi55さんのレビューをきっかけに、知ることができました。
ありがとうございます。 -
Posted by ブクログ
当たりの本でした。
大人とは、幅のある人。本音と建前とか。矛盾を理解。
今は一様、幅がない。
・学びの意味、価値は事後的に知る。消費者マインドは受入れ不可。
・個性とは他者から与えられるもの。探すものではない。
・対話:両義的。善し悪しを理解して変わらないと成果ではない。
・周りの大人の価値観はずれてた方がいい。両親の価値観一致は有害な条件。心のひだ(人としての幅)ができる。
・SNS 投稿は呪い。だから匿名が有効。ネットのでのいじめ自殺は呪殺。言論の自由は呪詛を許容するわけではない。誤解。
言論の自由とは、何でも言って良いのではなく、その価値、扱いを世間に決めてもらうことに同意すること。
・話を「ずらす」ことも大切。煮詰まる前に。
・子供のまま、は厄災。矛盾を受入れ納得して幅が出てくる
・オノマトペ。オメオメ。日本語は特集号。舌が内臓の先端。ケアしていきましょう。外しましょう