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Posted by ブクログ
鷲田先生による、じぶんとはなにか、わたしとは誰かという壮大な思考実験の一冊、と私は読んでそう解釈しました。
わたしとはなにかを考えるプロセスにおいて、他者の他者という概念から、じぶんとは何かという問いは自己の中に内在するわけではない、がしかし、わたしとする存在を決定づけるのは他者の認識によるとするなら、もはやわたしの生死は関係ないのではないか、固有名称すら必要ないかもしれないという話にまで至るが、やはりじぶんとは何かという問いに答えなどでない、というふうな感じで締めくくられている。
わずか170ページ超の薄いが骨太な新書は、立派な哲学書でした。久々に哲学してあたまが沸騰しています笑笑
余談ですが、題名がわたしとは誰か、としていない、曖昧という言葉で表しているところがまたいいなと、読み終えてそう思っています。
Posted by ブクログ
自分とは何か?について考察する本。様々な体験や例え話が登場するが、メッセージは一貫しており、「自分とは、固有なものではなく他者との対比や社会の中に位置付けられることによって見出されるものである」いうもの。
自分らしさなどというものを自分の内部から見つけ出すことは不可能であり(そのようなものは存在するはずがない)、むしろ眼を外に向けて誰にとってかけがえのない人であるかを考えてみたほうがいいとする筆者の考えは、心を軽くしてくれる。
多くのエピソードや、他の学者の言葉を参照しながら、比較的客観な説明がなされているが、74頁の「人生を一本の線だけでイメージするのは、それだけ人生をもろく壊れやすいものにしてしまう」との記述は、自分とは何かについての単なる考察を超えて、鷲田氏の人生観が垣間見え、好感を持った。
Posted by ブクログ
1996年に発行されたこの本は、発行以来、版を重ねています。そして、大学入試問題にも何度も繰り返し出題されています。受験勉強に即効性のある読書(という表現そのものがそもそも矛盾していると思いますが)を求める人は、すぐにでも読むべき一冊です。著者の鷲田清一は、大阪大学総長も務めた哲学者。現在も多くの著作を発表しています。
「私とは誰だろう」―― このような問いを耳にすると、哲学好きでもない限り、そんな考えても仕方がないことをよく考えるな、といった反応をする人が多い気がします。しかし、そういう人も、人生のさまざまな局面で、じぶんとは何かをじぶんに問うています。恋愛で、進学で、就職で、そして家族のあり方、そして人生のフィナーレで。ひとは、じぶんとは何かを問わずには生きていけない生き物ではないでしょうか。
じぶんという存在が、じぶんだけで成り立っているのではなく、他者によって成り立つものであることを知るならば、人生はより生き易くもなるかもしれません。じぶんという存在を頑なに保持しようとするよりも、変化するじぶん、変わり得るじぶんをいつも想定し、他者と関わる方が、むしろじぶんらしく生きることであるという逆説、そしてそのことこそが、倫理的な存在としての人間のあり方なのだということを、高校生の時期に本書で理解するなら、この本を読んだ意義は計り知れません。この本から、長く残る衝撃を受けてほしいと思います。(K)
紫雲国語塾通信〈紫のゆかり〉2010年11月号掲載
Posted by ブクログ
>なにをもって「自分」と言えるのか?
身体、能力、行動、いずれも自分を定義するには不十分。本書での思考プロセスを経るとデカルトの我思う故に我ありもちょっと納得。じぶんとは何なのか?今生きているという実感をもっとも瑞々しく得られる生き方をしていくべき?自分を意味づけるために失っているものはないか?
>「われわれにとって不可能でないものを不可能たらしめるのは習慣である」
水を飲むし、唾液も飲み込むけど、水と唾液をコップで混ぜて飲むことはしないよね、という例が私達の当たり前に疑問を呈してくる。ここで言う不可能はCanの否定ではなく、Willの否定ー意志を持たない、という意味だと思う。できない理由は能力にあると思っていたが、実は我々は意志に縛られていたのかもしれない。習慣と常識の不可能生を取り除けば目前に無限の選択肢が浮かび上がってくる。広く世界を眺めるべき
>意味の座標系に自分を挿入し「ひと」になる、座標系の中で周りと相対比較する
座標系の中に身を置いてしまうから、他者と比較して劣等感やしんどさを感じてしまうのかもしれない。社会が構築した座標軸に身を置くのではなく、自分の価値観を基に座標軸を設定して、その中で動いていくべきか。はたまた、座標軸において図ることのできないシュレディンガーの猫となるべきか。
>「わたしの世界」は他人には触れられないもの
この事実は改めて認識すると非常に意義深い。結局、どのような苦しみ・楽しみ・悩みを経ようとも、この自分の世界観は他者に対して共有されない。伝えたとしてもほんのほんの一部分だけである。
1.他人を理解するのはとてつもなく難しい。表面的な言動を見るのは簡単だが、その裏には広大なその人だけのUniverseが広がっている。真に他者理解や顧客理解を行うには注意深いプロセスが必要である。
2.自分の世界は自分だけのものであり、それをどう彩るかは自分次第である。この世界の構築において、他者に対して一切の遠慮は必要ない。この世界の唯一のオーナーである自分こそが主役として世界を創っていくべき
Posted by ブクログ
・“遠い遠いとこ、わたしが生まれたよりももっと遠いところ、そこではまだ可能がまだ可能のままであったところ” (哲学者,九鬼周造)
つねに一定のだれかであるために、ありえた自分をつぎつぎと捨てていくこと、特定の文化や社会的なイメージに自分を合わせていく作業が必要となる。それが、じぶんになるということである。
でも結局は、我々は自分を自分ではわからないし、顔は直接みることもできず、何をしたいかもわからず、自分は他人の中にしか存在しない。
それを証明できないと、不安になるけども、実はそれは自由の喪失ではないかもしれない。だれかであることをやめることによって、誰にでもなれる自由がそこにあるということ。”自分がぼやけることの心地良さ” 。
誰かと親密になる中で、その人の中の自分がぼやけることを畏れたり、どう思われるかを終始気にしているのはとても疲れてしまう。
誰かが定義する私が、自分になってしまうからだ。でも、その”わたし”はわたしが自分に語って聞かせるストーリーで、同じ人生でも、語り方によって、解釈のあたえかたで物語は変わる。ほんとはなんにでもないから、なんにでもなれる、そう思うと少し心が軽くなりました。
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