【感想・ネタバレ】死なないでいる理由のレビュー

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Posted by ブクログ 2018年07月19日

「死ぬ」ではなく、「死なれる」事が、<死>の経験のコア
今は、何かをする中で、ではなく、何かをする前に、自分にどんな個性があるのかを自問する時代。
ケア:一方が他方の世話をしながら見返りは求めない。一方的な搾取の関係。
家族の形は多様化している。婚姻の形にとらわれないペアや共同家族の存在。核家族を社...続きを読む会のユニットとは思わなくなっているが、住居の方は相変わらず核家族を前提に作っている。核家族に代わる社会的なユニットの可能性が見えておらず、定形を失った家族の多様なあり方をゆるやかに受け入れられる空間構成のモデルがない。
生老病死への対応、ほとんどすべてを外部サービス機関に委託するようになった近代家族は、生活過程を公共の機関に寄生させるホームレスとおなじ形態をとるようになっている。
死は、本人や関係者のイニシアティブの及ばないところで処理される出来事になってきている。
教育とは、人として生きる上で編み出したやむにやまれぬ知恵を世代から世代へと伝えること。
学級崩壊は、子供たちがみえなくなったわけでもなく、子供たちが荒れ出したのでもなく、教師の質が落ちたのでもなく、ここまで放置し続けてきたシステムn不具合がついに臨界点まできてしまった結果。同調性の高いクラスを解体して、不確かだが、生きる喜びと確実に結びついたパーソナルな営みとしての学びの方式を探る事が必要。
生きる上で最も基本的な出来事が最も見えにくい仕組み(汚物処理、精肉)
高齢化社会:仕事や子育てを終えてからの人生が長い、というのは人類が初めて経験する人生の段階
わたしのいのち、は、わたし、のものか、否。しかし、わたし、は、わたしのいのち、なしには存在しない。
いのちがつながりの中にあることをきちんと覚え込ませる日常生活の中の先人たちの工夫。いただきます、ごちそうさま。
かつては人は立ち止まって考えたが、現在はそれが難しい。走りながらでしか、時代に距離を置けない。孤独になれるのも、そういう時だけかもしれない。ぶらぶら歩きも難しくなって、今はぶらぶら乗り、が宝の時間。

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Posted by ブクログ 2017年12月26日

過去の哲学者の引用を用いながら展開される幸福論と、身近なストーリーで語られる「生きること」や「わたし」。
自分の今までの人生と重ね合わせて、そうかもなあ。と思うようなこともあり、この本で学ぶ。というより、この本で自分を振り返る。ことができる気がする。
タイトルを見たときに想像していた内容とは違ったが...続きを読む、よしなんとか生きようかとかも思わなかったが、自分に閉じこもらないようにしようとは思えた。人としての成熟とは何か、幸福とは?、自分のいのちをどう考えるか?。理論武装でこうあるべし、と語らず、ある意味作者の頭の中で「これはこういうことかあ」と語られる文章に、ほっこりさせられた。てかこれが「エッセイ」なんだろうな。

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Posted by ブクログ 2014年08月29日

鷲田清一の本のなかでは最も好き。タイトルからしていい。
いくぶん説教的で(そもそも彼のはそれほど嫌らしいものではないが)、ペシミスティックな態度がなくなっているわけではない。当然だ、思想や構えがそれほど簡単に変わってはたまらない。
しかしながら、文体は丁寧だし、分析自体に奇矯なところはない。処方箋に...続きを読むは同意しなかったり、対策のなさにため息をついたりすることもあろうが、認識を提供すること、言語化すること自体、重要な業績だろうし。

読書メモ的になりましたが、こんな感じで。

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Posted by ブクログ 2011年10月07日

家族論、教育論、生命倫理、幸福論、全てを平易で、なおかつ綺麗な日本語で綴っている。ただ途中、西洋倫理思想史に触れる部分が少し難しかった。蛍光ペンで線引きしながら読まずにはいられない。心の底から人に薦めたい哲学エッセイ。

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Posted by ブクログ 2022年12月04日

鷲田さんの本を通しで読むのは初めてかも。「死」やその周辺のテーマ(と鷲田さんが感じているもの)についての思索的なエッセイ集。ひとつの問いを深く掘り下げていく形ではなく書名についてバシッと鷲田さんの答えが出ている訳でもないので肩透かしをくらう人もいるかも。

鷲田さんの思索の方向性は今の自分にはむしろ...続きを読む傷を抉る感じもあったけど、それでもやっぱりこの人の言葉は優しいというか柔らかな感じがするしところどころでハッとさせられる。「死」という人生の究極の場面、事態について考え、自分をメタ認知することでやっと息ができる。そんなときもある。

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Posted by ブクログ 2022年11月12日

鷲田清一氏による哲学エッセイ。自己の存在、社会の在り方、幸福論などを軸に『死なないでいる理由』を語る。しかし『死なないでいる理由』が明確に解答として書かれている訳ではない。そのあるか無き輪郭をそっとなぞっているに過ぎない。人によっては肩透かしを食らったような気分になるかもしれないが、答えなのい問いを...続きを読む問い続けている事に本書には大きな意味があると思う。読んでいると、私がこれまで生きてきた事に不思議な感慨を持った。良く言われる事ではあるけれど、人は決して独りでは生きられない。それを本書は様々な切り口で語っているのだが、中でも『死ぬとわかっていて、なぜ人間は生けてゆけるのか』との問いにはっとさせられた。明確な答えは本書には書かれていない。自分でじっくりと考えたい問いである。

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Posted by ブクログ 2021年02月21日

鷲田清一氏の哲学エッセイ。
1章で寂しくなりつつある現代を表現し、2章で「いのち」・「幸福」をもとに死なないでいる理由を考察している。
プロローグで死について記載しているが、
『「死ぬ」ではなくて「死なれる」ことが〈死〉の経験のコアにある』、これにははっとさせられた。
現代の生命のあり方を身近な視点...続きを読むから分かりやすく問題提起し、解き明かしており、読みやすい。普段分かってるのに自分が全く意識していないことも多かった。

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Posted by ブクログ 2020年08月03日

鷲田清一さんの文章にふれるたびに
暮らしの中でご飯を食べているように
暮らしの中で音楽を聴いているように
暮らしの中に哲学があるような
そんな感覚がする

だから どこから読んでも
ひょいと 寄り添ってくれる
そんな感覚がとても心地よい

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Posted by ブクログ 2019年03月21日

鷲田清一のエッセイは感情的に好きなので時々読む。そして泣く。彼の言っていることが一般に確からしく感じるということではなく、何か出口が見えてくるものでもない。でも「思いの宛先」の無い私は「さみしいね」「そうだね」という宛はないけど、何となく通じる他者とやりとりをしているような気になる。まあとにかく腹が...続きを読む立たない綺麗な文章を求めると鉄板定番って感じ。

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Posted by ブクログ 2017年08月11日

タイトルがすごいし、結構好きな哲学者なので買ってみた。
どうして、生きている理由ではなく、死なないでいる理由なんだろう?

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Posted by ブクログ 2013年10月06日

鷲田さんの、ずっと前から読みたかった本。
むずかしい。追いつきたい。
やはり鷲田さんの臨床哲学は、ひととひととの関係があるからこそ存在する学問で、鷲田さんの文章のやさしさはそこから来るんやろうなあと思う。
ひととひととが支え合う、ケアについての部分が印象的でした。

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Posted by ブクログ 2012年12月12日

ひさしぶりのわっしぃ本。

ふつうおもわれているのとは反対の地点からものごとを考えてみること。
このことが本書では貫かれている。

タイトルからして、「生きている理由」ではない。
プライドについて語る件でも、「自助努力とそこから帰結する立派な達成によって自分に自信を持て」という陳腐な啓発本のような語...続きを読むり方はもちろんしない。

実は知らず知らずのうちに盲目になってしまっているわたしたちの、目隠しを外す手助けをそっとしてくれる。
いつもそんな語り口のわっしぃがわたしはとても好きなのだ。

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Posted by ブクログ 2012年07月29日

単行本で同じ本を読みましたが、文庫版は内容がさらに練られ、テーマへの絞り込みも効いています。他者との関係で自分の存在を知るアプローチは受け入れやすく、広く薦められる内容です。ただ、猛毒を以て救済するようなものでもなく、そのような語り口でもないですから、人により多少、物足りないかもしれません。

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Posted by ブクログ 2009年10月04日

著者:鷲田清一(角川ソフィア文庫・700円) 評者:山崎正和
毎日新聞 毎日の本棚より

サブタイトル:とつおいつ、ラディカルに


人はみな、選択権を行使して生まれてくるのではない(※)。

自らの意思で生まれたのではない命。
とはいえ、生まれ落ちたそのときから、否、受精したその瞬間から、
細胞レ...続きを読むベルでは、そこに宿った命を存続させようとするエートスが
備わるといってよいだろう。

だが。
生を選択するということは、他方の選択肢に死が存在することと
表裏を為す。

死も一つの選択肢として存在するのに、なぜ殆どの人はすべからく
生を第一義とし、死を選ばないのか。

死を選択するということに、どのような意味性があり、そこに
どんなタブーが存在するのかを、作者は本書で解きほぐしていく
と、評者は解説する。

作者は、かねてから臨床哲学という概念を提唱している。
スコラ哲学以降、言葉の迷宮に嵌まり込んだ哲学を、一度臨床の場に
据え直すことで、言葉遊びに等しい理念の楼閣を築くのでは無く、
日常使われる平易な言葉やシンプルな概念の中から、今必要な言葉や
理念は何なのかを導き直そうとする、いわば哲学の再起動とも言える
概念である。

その氏が向き合う「死」の問題。
そこに、どのような解が導かれるのか、大いに興味が沸くでは無いか。


作者は、ともすれば個人の中に完結してしまいがちな生と死という
問題を、社会性という観点から見つめ直す。

そこにあるのは、人は自分だけの存在などでは決してなく、他者との
関わりの中で存在するものだ、という人間関係である。

そのことを称して、「自分があなたのあなただと実感できる社会」
という表現を、作者は用いる。

このままでは、平易過ぎて逆に分かりにくいが(笑)、評者はこれを
うまく整理して、「理想は能力誇示の自立でもなく、依存と密着の
家族主義でもなく、異質者が距離をおいて肯定しあう社交的な人間
関係なのだ」と、要約する。

ただ、難しいのは現実社会は成果主義(メリトクラシー)が横行
する一方、その反動としての個人主義や利己主義も世に横溢する
中で、どこまで何のケレンもない目線でもって、異質な他者を
あるがままで許容するということが可能か?ということだと思う。

かつて、劇作家の一堂令は、その作品「ゆでたまご」の中で、
葛西佐紀に「おまえ自身であること。それがおまえのとりえだ。」
と言わしめた。

その言葉が語られた詩的な情景(ボッコリという、人型のウサギ
のような生き物の子供達が遠足に行っているところ)と相俟って、
劇「ゆでたまご」の中でも一際幻想的で、柔らかく心に染み渡る
シーンではあるが、その言葉は平易であるが故、持つメッセージは
じわりと聞く人の心に重く突き刺さる。

そこで語られている言葉は、ボッコリ達の住む世界でしか実体
し得ないのではないか?という名状しがたい恐怖も感じてしまう
からである。

元より、そうした思いを伝えることは、一堂令の本意では無い
だろう。
だが、一堂令がストレートに伝えたかったその思いは、明るく
希望に満ちているが故、その影となる部分は漆黒となる。

折りしも世間では、不況により社会層が二極分化されていく傾向
にあり、それを心理的に補完するかのように、No1よりもOnly1
という、砂糖菓子のようにべたつく言葉が蔓延るようになった。

そうした、日本型資本主義の行き着く果てに、まるでマンモス
の牙のように袋小路に追い込まれていく人々の精神の有り様を、
作者は玉葱の皮を剥く様に解きほぐしていく(※2)。

解してはいくが、玉葱に芯が無いように、こうした哲学に
アルティメットな解などは無い。

そのことを示唆しつつ、評者は以下の言葉でこの書評を締めくくる。

「ソクラテス以来、哲学は結論をめざす科学ではなく、永遠に
 続く思索の過程だと、この人(作者)は確信するからである。」

答えの無い問いに対して、思索を続けることこそに意味があるとする
その指摘は、正にシーシュポスの岩の寓話を彷彿とさせる。

だが、そこに示されたシーシュポスが自らの生きる意味を掌中に
収め、不遇の中にも喜びに満ちていたのに対して、現代に生きる
我々は、その取り得る人生の自由度の広さの故、反って閉塞感に
満ちてしまっている感がある。

「おまえ自身であること。それがおまえのとりえだ。」

この言葉が人々の胸にきちんと届くような日が来ることを、
切に願う。

そのための一助となるものが、作者の唱える臨床哲学であれば。
本書の存在意義も、そこに見出せるというものだ。

(この稿、了)



※ この真逆のことは、ヒプノの世界ではよく耳にする。
  過去世からの繋がり(いわゆる輪廻)の中、人は生きている。
  過去世で遣り残したこと、間違えてしまったこと(業)を
  解消するために、今生の生がある。
  その生を全うするために、もっとも相応しい時間と場所と人を
  選んで、人は今生に降り立つ、とするもの。

  ちなみに、こうした考え方、嫌いではない。
  不可知論を突き詰めて、切り捨てる程頑迷でも無い積りである。


※2 進化とマンモスの牙の相似性は、星野之宣の著作「サーベル
  タイガー」に教示を得たもの。

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Posted by ブクログ 2009年10月04日

タイトルはタイミング的に親にはみせられないが、
すばらしい本だと私は思う。
しかし、かゆいところに手は届いたのだけれど、
まだ掻きたりない。
「個性という幻想」に書かれていることは、わたしもやった勘違いである。
そこで鷲田氏は憤り、私は喜んだのである。
そして、勘違いした個性のまま、すすんだ現在、悩...続きを読むめるのである。
しかし、そこで勘違いしたのも、なにかの運命であったようには思う。

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Posted by ブクログ 2018年07月03日

期待して開いただけに、最後まで読んでも「死なないでいる理由」の大した理由を得られなかったのが残念。新聞の掲載分を継ぎ接ぎしてある文章が多く、タイトルの壮大なテーマに対し、その回答である内容は小題が矢継ぎ早に変わり、とりとめなくようやく核心に迫ったかと思うと今度はまた別の話題へと移っていってしまう。も...続きを読むう少しテーマを絞り、深化させて欲しかった。

孤独について、h.アレントさんのprivacyとは「他人によって見られ聴かれることから生じるリアリティを奪われる事」という言葉を引用しているのがおもしろい。その後、社会を織物に喩え、織物の組成の一要素であった筈の個々が途絶し浮遊した時孤立してどうしようもなく孤独になると説いていて、ああ、やっぱり、他方位、かつ多層に織り成すコミュニティに所属し、存在を認識される事が孤立感孤絶感から解放される道なのだとまたしても思う。

それから、他者の死が何故これほどまでに堪えるのか、という問いには、何故なら私たちは他者にとっての他者である私、である時はじめて社会的に生きている、という事になるからだ、と説いており、更にそこから、そのいろんな他者にとっての他者である私、その集合として私がある。その為、他者の死とは、その亡くなった他者にとっての他者であった私の死でもあるから、これほどまでに堪えるのだ、と大体こんな感じのような事を説明しており、ああ、なるほど。やっぱり交友関係が狭い人はあっという間に孤絶するな、と思い怖くなった。

仮に日頃10人の人と関わって生きて居る人が、そのうちの一人に死なれてしまう場合、その死は勿論堪えるが、残りの9人には依然私が生きて居る事は認められている。が、仮に人生で関係する人が1人しか居らない人の場合、この1人が亡くなると、もうこの人の存在、これまでの経験を認める他者は皆無となり、その人は忽ちそのまま社会的死を迎える。人生なかなか課題は多い。

匂い立つような生々しい独特の表現や言葉遣いに、これが、鷲田清一が支持される所以で、この一見私小説かのようにも思える文章がこの人の魅力なんだろうナとも思った。

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Posted by ブクログ 2012年04月22日

先日、鷲田さんの講演を聞いた。臨床哲学などを交えながら、看護職の専門性について語ったもので、かなり面白く、うなずけることも多かった。話したようなことが書かれている本はないかと探して見つけたうちの一冊がこの本。
……実は、鷲田さんの講演を聞いて本を読んでみたのって初めてじゃないような気がする。そして、...続きを読むいまいち読みきれた感がない読後感っていうのも同じ。浅薄な自分はなかなか哲学の本が読めるようにならない。
書中にこんなことが書いてあった。
――働くこと、調理をすること、修繕をすること、そのための道具を磨いておくこと、育てること、教えること、話しあい、取り決めること、看病すること、介護すること、看取ること、これら生きていくうえで一つたりとも欠かせないことの大半を、ひとびとはいま社会の公共的なサービスに委託している。社会システムからサービスを買う、あるいは受けるのである。これは福祉の充実と世間ではいわれるが、裏を返していえば、各人がこうした自活能力を一つ一つ失ってゆく過程でもある。~中略~ ナイーブなまま、思考停止したままでいられる社会は、じつはとても危うい社会であることを浮き彫りにしたはずなのである。~中略~ 「われわれは絶壁が見えないようにするために、何か目をさえぎるものを前方においた後、安心して絶壁のほうへ走っている」。十七世紀フランスの思想家、パスカルの言葉はいまも異様なほどリアルだ。
生きるっていうことは、言い換えれば死なないでいるということ。いずれにせよ、生きている理由、死なないでいる理由、そういったことを考えながら生きていくべきだと思う。上掲の引用のように、何もかも委ねてしまうということは、意のままに生きることも、死ぬこともできなくなる。
揚げ足とりの問答で、「何してるの?」「人間」ってのがあって、そう答えられるたびに「人間はなってるものであって、しているものじゃない」と思ったものだけど、ある意味では「人間をやっている」という意識も必要かもしれない。

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Posted by ブクログ 2011年05月05日

あえて言おうと思う。鷲田さんのここでの議論はすでに古い。
というか、この問いが湧きあがってきた時への応答としては
端的に間に合っていない。

死なないできた理由を挙げておられるが、
それらが自明でなくなったからこそ、ではないか。

変わらず、生命は人のあいだにあるとしても、
自明でなくなった感覚は取...続きを読むり返しようがないように思う。
そして、それにもかかわらずいまだに我々は生きながらえるだろう。

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