鷲田清一のレビュー一覧
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1 前のめりの生活
・「時は金なり」という言葉で表現されるように、現代では時間を無駄にしないことが重要だとされる。ジョンロックは、生命と財産の保全のために所有権の理論を構築し、累進的増大を徳目とする思想を提唱した。また、労働は価値ないしは富の源泉とした。資本主義を支えるこの勤勉・勤労というエートスが、人間の活動はたえず価値を生産しなければならない、それもつねにより多く、より速やかに、つまりはより効率的に、という強迫観念を生み出してくる。結果として、現代人は、未来をよりよくするために、今を効率的に生きなくてはならないという思想に縛られるようになった。
2 インダストリアルな人間
・現代では、労働は人生を意味づけるもの、生きがいとして受け止められるようになっている。さらに労働のみならず、余暇や消費、さらにはじぶんの身体といったものにも勤勉・勤労のエートスが浸透するようになる。
・たえず変化していなければならないという強迫的な意識が、惰性的に反復されてきたのが20世紀社会であった。
3.深い遊び
・仕事と遊びが、労働と余暇という関係へと二極化され、労苦とそれからの解放というふうに、両者が対立物として規定され、その差異が強調されることで、皮肉にもそれぞれが空疎なものになってしまった。
4.労働 VS 余暇 のかなたへ
・仕事の「内的な満足」は、未来の目的とではなく、現在の他者との関係と編みあわされている。すなわち自己のアイデンティティとの関連で与えられるものであり、「生きがい」とよばれるものである。
・なにかに向かっているという感触が充実感やときめきを与える。そしてそういう感覚のなかでは目標点ではなく、通り過ぎる風景のひとつひとつが、回り道や道草もが意味をもつこととなる。
・現在を不在の未来の犠牲にするのでなく、「いま」というこのときをこそ、他者たちとのあいだでときめかせたいものだ。 -
Posted by ブクログ
著者は母校の大学に在学中、総長をつとめていて、学生の間でも話題にのぼることもあったし、なんかいまだに印象に残っている人なのだけれど、そういえば本は読んだことなかったと思い、目についた本書を読んでみた。
本書はロック、レヴィナス、ヒューム、ヘーゲルらの「所有(権)論」を重ね読みするように展開される哲学的な議論になっている。
正直、哲学は専門でもなく、全然理解できたとは言えないのだが、
「《所有権》は、歴史のある段階で、個人の(場合によっては組織や団体の)自由と独立と安全とをぎりぎりのところで護る権利として措定されたはずなのに、現代社会ではそれが過剰なまでに強迫的にはたらきだして、逆にそれがその自由と独立と安全にとって足枷や桎梏として立ちはだかる、そのような場面が増えている。」との指摘は、仕事の中でも感じるところがあるし、
プラットフォームを巨大な私企業が所有することが問題とされたり、シェアリングエコノミーも注目されている中で、《所有(権)》について、考え直してみるのもいいのかもしれないと思った。 -
Posted by ブクログ
古代ギリシャ、ソクラテスの時代には存在していた、「『わたし』とは何か」という問いに、易しい言葉で切り込んでいく、哲学的思考の入門書。
「わたしたちは普通、成長するということは様々の属性を身につけていくことと考えているが、ほんとうは逆で、年とともにわたしたちはいろいろな可能性をうしなっていくのではないだろうか」とは、宮崎駿先生も言っていた。
「わたしがだれであるかということは、わたしがだれでないかということ、つまりだれをじぶんとは異なるもの(他者)とみなしているかということと、背中合わせになっている」とは、ソシュール先生の一般言語学講義に似ている。
「『自分らしさ』などというものを求めてみんなはじぶんの中を探し回るのだが、実際わたしたちの内部にそんなものがあるはずがない。」とは、内田樹先生も言っていた。
色々な本の中で語られていた言葉たちを、思い出しながら読んだ。
このように別の知を呼び出すことのできる言葉はまた、優れた知である。
鷲田先生の言葉は平明で優しく、鋭い。
私にとっての「自分」とは、「他者の他者」としてしか認識できないのであるから、その答えは、他者との関わりの中にしか見えてこない。自分の他者性を理解してくれる他者を見つけて、そのような複数の他者との関わりによって、「自分」の輪郭は少しずつ見えてくるのかもしれない。
ところで、僕はそんなに、自分を知りたいと思っているのだろうか。
こんなおぞましい者の輪郭を、そんなにくっきり見たいとは思わない。 -
Posted by ブクログ
命や魂といったものを全力で雑巾絞りにした時に、ようやく垂れた一滴…のようなこの読後の感覚は一体なんであろうか。
創作が個人になろうが、協同になろうが、結果的に多くの人が参与して(見た人も含めて)絞られる、その行為自体を「アート」と呼ぶのか。だとしたら「アート」は「社会」の中で立ち上がってくるものと言えるのだろう。
ただその時、滴った雫が「アート」なのか、皆の手に残る力一杯絞った跡が「アート」なのか、もしくはその双方が「アート」なのかは、よくわからない。
ただこれも「汝」に問いかける所作、「われーなんじ」へと繋がる路なのだろうと思われる。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ読売新聞掲載の人生相談を抜粋したもの。読売新聞は時々ホテルに置いてあるのを読むぐらいだけど、新聞の相談って面白いよね。何やってる人かと思ったら、哲学の先生だった。でもデザインのこととか、いろいろやってきた人だということは最後のを読んで分かった。その最後のやつが面白くて、紹介されてた遠藤さんという障害を持った人の話がとても印象的。「こんな夜中にバナナかよ」と似たような感じだけど、この映画見てみたいなぁ。NHKのロッチと子羊も哲学の番組だけど、私は実は哲学も好きなのだと改めて思う。生きるにあたり、何も考えずに暮らすことはできず、それは哲学なのだ。しかし、自分の弱さをさらけ出して人とつながって生きていくというのは、コミュ障の私にはハードルが高いと思っちゃうけど、生きてるだけで誰かの世話になっているというのは事実なのである。この先私が誰かの役に立つということはあるだろうか。身内以外の人とのつながりができるといいなとは思う。