鷲田清一のレビュー一覧
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生きてゆくうえで本当に大事なことにはたいてい答えがない。答えではなくて問うこと、それ自体のうちに問いの意味のほとんどがある。
大事なことは困難な問題に直面したときに、すぐに結論を出さないで、問題が自分のなかで立体的に見えてくるまでいわば潜水しつづけるということなのだ。
「受験勉強でついた頭の癖というのは存外しつこかった。」との鷲田さんの言葉に、自分自身の頭の使い方もそういうことかなと思った。短い時間で要領よく点数を稼ぐ方法を考える。わからなければ答えを見て、そこから解法を考える。常に答えをはやく探そうとしてしまう。
意味、人格、責任、自由など13章に、身近な例を挙げながら優しい語り口で考えが述べられている。答えとして書かれているのではなくても、考えるヒントになることがたくさん書かれていた。特に、身近な人間関係について大きなヒントをもらった。
少しずつまた読み返していきたいと思った。 -
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1996年に発行されたこの本は、発行以来、版を重ねています。そして、大学入試問題にも何度も繰り返し出題されています。受験勉強に即効性のある読書(という表現そのものがそもそも矛盾していると思いますが)を求める人は、すぐにでも読むべき一冊です。著者の鷲田清一は、大阪大学総長も務めた哲学者。現在も多くの著作を発表しています。
「私とは誰だろう」―― このような問いを耳にすると、哲学好きでもない限り、そんな考えても仕方がないことをよく考えるな、といった反応をする人が多い気がします。しかし、そういう人も、人生のさまざまな局面で、じぶんとは何かをじぶんに問うています。恋愛で、進学で、就職で、そして家族のあり方、そして人生のフィナーレで。ひとは、じぶんとは何かを問わずには生きていけない生き物ではないでしょうか。
じぶんという存在が、じぶんだけで成り立っているのではなく、他者によって成り立つものであることを知るならば、人生はより生き易くもなるかもしれません。じぶんという存在を頑なに保持しようとするよりも、変化するじぶん、変わり得るじぶんをいつも想定し、他者と関わる方が、むしろじぶんらしく生きることであるという逆説、そしてそのことこそが、倫理的な存在としての人間のあり方なのだということを、高校生の時期に本書で理解するなら、この本を読んだ意義は計り知れません。この本から、長く残る衝撃を受けてほしいと思います。(K)
紫雲国語塾通信〈紫のゆかり〉2010年11月号掲載 -
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コロナ禍の中、高校で行われた講演録。
わかりやすい言葉で、「ことば」について語られている。
鷲田氏は「ことば」は面倒くさいものだと言う。
自分について語りたい時、過剰になってしまったり、過小になってしまったりしてちぐはぐになってしまう。
でも、ことばがあるからこそ、ちぐはぐであやふやな自分の感情を表現することもできる。ことばに救われることもある。
タイトルにもあるように、「だんまり、つぶやき、語らい」の順でことばについての話が展開する。
だんまりの例では、今の世の中で政治家の話やSNS上でのことばを取り上げて、今、足りないのは「話し合い」ではなく「黙り合い」だと述べる。
つぶやきでは、断片的に少しだけ自分のことばを出してみてその感触を確かめる。
そして少しずつ「かたらう」ことでは、同じものを見ていても違うことを感じる他者と出会い、自分のこれまでのストーリーが揺らいでいく。本気で語らうと、自分が壊れてしまう感覚になる。それはとても怖いことだけど、
自分が生まれ変わるきっかけにもなる。
聴いている人は、語っている人が語り尽くすまで「待つ」ことが大切。自分の理解の枠組みに押し込めるのではなく、存在を肯定してあげることが必要。
「語らいの相手、それは友だちであっても、街で知り合った人でも、なにかの集会ででもなんでもいい。ただ、心がけとして、できるだけじぶんと同じコンテクストのなかで生きていないひと、生きてきた環境ができるだけ離れているひと、さらに言えば、じぶんでどんどん関係のコンテクストをつくっていける、ひらいていけるようなひと、そういうひとと話すよう、出会えるよう心がけてほしい」
と最後に鷲田氏は高校生たちに伝える。
これは自分が国語の授業でやりたいと思っていたことそのものだった。鷲田氏は講演の後に行われた高校生たちとの対話の中で、「人に会えなくても、読書が語らいとなる」と言っている。今後の自分の授業の柱となりそうな言葉に出会えた気がする一冊だった。 -
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>なにをもって「自分」と言えるのか?
身体、能力、行動、いずれも自分を定義するには不十分。本書での思考プロセスを経るとデカルトの我思う故に我ありもちょっと納得。じぶんとは何なのか?今生きているという実感をもっとも瑞々しく得られる生き方をしていくべき?自分を意味づけるために失っているものはないか?
>「われわれにとって不可能でないものを不可能たらしめるのは習慣である」
水を飲むし、唾液も飲み込むけど、水と唾液をコップで混ぜて飲むことはしないよね、という例が私達の当たり前に疑問を呈してくる。ここで言う不可能はCanの否定ではなく、Willの否定ー意志を持たない、という意味だと思う。できない理由は能力にあると思っていたが、実は我々は意志に縛られていたのかもしれない。習慣と常識の不可能生を取り除けば目前に無限の選択肢が浮かび上がってくる。広く世界を眺めるべき
>意味の座標系に自分を挿入し「ひと」になる、座標系の中で周りと相対比較する
座標系の中に身を置いてしまうから、他者と比較して劣等感やしんどさを感じてしまうのかもしれない。社会が構築した座標軸に身を置くのではなく、自分の価値観を基に座標軸を設定して、その中で動いていくべきか。はたまた、座標軸において図ることのできないシュレディンガーの猫となるべきか。
>「わたしの世界」は他人には触れられないもの
この事実は改めて認識すると非常に意義深い。結局、どのような苦しみ・楽しみ・悩みを経ようとも、この自分の世界観は他者に対して共有されない。伝えたとしてもほんのほんの一部分だけである。
1.他人を理解するのはとてつもなく難しい。表面的な言動を見るのは簡単だが、その裏には広大なその人だけのUniverseが広がっている。真に他者理解や顧客理解を行うには注意深いプロセスが必要である。
2.自分の世界は自分だけのものであり、それをどう彩るかは自分次第である。この世界の構築において、他者に対して一切の遠慮は必要ない。この世界の唯一のオーナーである自分こそが主役として世界を創っていくべき -
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内田樹さんんが呼びかけて「中高生向き」に書いてもらった,オムニバス本。わたしが知っていた人は6~7人だが,それぞれの呼びかけが面白かった。
本書のメッセージは,30代~70代の年代別に分かれていて,70代なんて,中高生が大人になった頃はほとんど現役ではないわけで,だからこそ,なにを呼びかけているのかが,気になる。
新型コロナによって暴き出された現代社会の矛盾は,コロナ禍が過ぎ去ったとしても,なんらかの修正を迫られるはずだ。会社に行かなくても仕事ができる…と分かったからには,満員電車に乗って会社へ行くこと自体が,すでに「必要なこと」ではなくなってしまった。密を避けることは,過疎地域では当たり前であり,過疎であるわたしの地域で影響を受けたのは「年に一番密になる地元のお祭」ぐらいだ。
指導者たちは,巨大な経済システムの中で,無駄を省くことを第一条件として進めてきたことのツケが,あまりにも大きかったことにやっと気づいたのだろうか。もっとも,10年前の東日本大震災の津波による原発事故のときにも気づいたはずだったのだが…それが,いつのまにか,どっかへいってしまっていた。今回,また,違う形で自然が教えてくれたんだが。
内田さんがいうように,今後の社会は決して楽観的に過ごせるわけではないだろう。高齢化率や出生率などを見ても,その大変さがよく分かる。
じゃあ,今後はだれがどんな社会を作ってくれるのか…いや,君が作っていくんだよ,それは君がやりたいことを選んでやっていくんだよ…というメッセージが,少しだけ勇気を与えてくれる。
60代のお爺ちゃんは,孫たちの世代に何を残せるのだろう。まだわたしにできることはたくさんありそうだ。 -
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終始一貫して、競争社会を生き残れだとか勝ち上がれといったことは言わず「賢い市民」になること、ただ絶対的な自分の価値に目を向けるよう主張されているように感じました。このあたりはSDGsの理念、誰ひとり置き去りにしないというのと通ずるところがあるように思います。
「複眼をもつ」ことで教養が身につき、「ディスオリエンテーション(方向を見失うこと、自分の位置がわからないこと、そして居場所がないということ)」は自分のいままでの生き方を根本から変えるチャンスになる。困ったら、教えてもらう、手伝ってもらうということが、何の遠慮もなくあたりまえのようにできる空気は、わたしたちの社会にもっとも必要なものでもある。といった言葉には、社会人になってから相応の地位にいる方から聞くと勇気づけられるものがありました。ここ数年話題になっている心理的安全性につながっているのも印象的でした。
工学分野では大学の研究成果が世に出るまで十年くらいかかると言われますが、人文系の学問も似たようなところがあるんだなと思いました。全体を通して、校長先生の話は退屈だという先入観を覆されました。
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グローバル化に伴う均質化やイノベーションの加速の中で感じる違和感について、鷲田清一の滔々とした語りをまとめた本。1年半ほど塩漬けにしていたけど、今になって一気に読めた。
思索集なので特定のテーマについて語られる訳ではない。
しかしその語りの根底には「共通の対価を稼ぎ、対価を持ってサービスを買う」ことに慣れたため自らの「いのちの世話」が出来なくなった現代人への不安と、「難民化」を想起させその脆弱性を浮き彫りにした東日本大震災の経験がある。
各々が当たり前のように肩代わりをしあい互いの「いのちの世話」を成立させていたコミュニティが機能を停止し個人の「自立」が進んだ現代では、ヒト同士の対話、摩擦の機会が失われた。自立したはずのヒトは摩擦による方向感覚を失い、自己の足元が覚束無い不安に苛まれるとする。
伝えたいという気持ちがないのであれば「対話技術」などは意味を持たない。そして伝えたいという気持ちは「分かり合えない」という痛い経験の最中にあり、その経験が今の子どもには不足している。という教育信念を紹介しているのだけど、個人の自由が何よりも優先されてしまう今の世界には強く刺さる。
自分が広く広くと人と関わろうとするのは、他者の価値観を浴びる事で自己輪郭を自分に感覚させるためなのだけど、止まらぬリベラル化の波の中で自分の輪郭を失わず顔を上げて歩き続けられる人がどれほどいるのかとはもう何年も不安に感じているところであり、かなり共感がある本だった。
鷲田清一の本って難解で「なに言っとんねん…」みたいなのが多いんだけど、この本は縁側でおじいちゃんの語りを聞いているような感覚だった。語りの根底には経験があり、それを押し付ける訳でもなくボヤいているような。
世の無機質さに嫌な感覚がある人は、読むと腑に落ちるものがあるかもしれない。