鷲田清一のレビュー一覧
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私が好感をもっている二人の論客の共著だ。ちょっと考えてみれば、二人とも思想や哲学に造詣が深いし、拠点も関西だし、年もほぼ同じなんだから交流がないはずない。そんな二人が「大人のいない国」なんて、これまた(自分のことは棚に上げといて)私が常々、日本に対して思っていることに触れた本が出ているなんて。
いろいろ話題が出ているけど、最も共感したというか身につまされたのは、終章の対談「身体感覚と言葉」で触れていた内田さんいうところの「大人の芸」ってやつ。
内田さんは、これまで結婚式とかでスピーチするとき、気の利いた面白いことを言ってやろうとか思っていたけど、それが嫌になってきたと。葬式でそんなことをする人はいない。型にはまって、そのなかで万感を出せるようになりたいと言う。鷲田さんも、葬式のときに何といいのか迷う、困るみたいなことを言っている。
つい最近、伊藤理佐さんが新聞に書いていたエッセイで、知り合い程度の人との会話で面白いことを言おうとしていたが、あたりさわりのない天気の話くらいがいいのだと気づいたみたいなことを書いていたのを読んで以来、ハタと思い、いろんな場で気の利いたことを言おうとしては、結局玉砕……どころか不発に終わることがままあるわが行動パターンの換えどきを思っていたんだけど、この本でさらにその思いが深まった。
ちなみに、鷲田さんは葬式で「なんと申し上げてよいのやら」としか言えないと釈徹宗さんに話したら、そう言いながら首を縦か横に振ればいいと教えてくれたとか。こんど会葬の機会があったらやってみよう……って想像してみたら、ぜんぜん板についていない気がする。長い時間と経験をかけて磨いていかないとダメそう。 -
Posted by ブクログ
哲学に対して抱かれている世間の認識が、哲学かを敬遠するものになってしまっていて、しかし人が活動するうえで哲学は欠かすことが出来ないものでもあります。その哲学というものに対してどのように接していけばよいのか。そもそも哲学とは何なのか。そういう疑問に対して、哲学の正体、使い方、付き合い方、という語り口で書かれています。
哲学の難解な書き方や言葉にはそれなりの理由があるし、またそれと対局に位置する対話などの方法も必須だということを、その全てに丁寧に説明をされていて、本書を読むと、自然と哲学するようになるのではないかと思えてしまいました。
哲学を勉強できる(そういう意味で入門書)という内容ではありません。哲学を使えるようにするための本です。そういう意味で非常に重要な本だと思います。 -
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ネタバレ日本人の書く哲学入門書というのは、とかく、西洋の哲学のおおざっぱな解説に終わりがち。
本書は哲学は学問のみに終わらず、人間や世界のあらゆる問いを立てるという活動すべてが哲学になる、その対象領域は科学,倫理、芸術、政治、経済さまざまに及ぶ。哲学が近寄りがたいのは、ときに一般人をけむに巻く難解な言術のせいであるが、社会生活を営むうえで欠かせないものである。
臨床哲学者というだけであって、社会のさまざまな身近な事象やときには村上龍のようなエンタメ文学からも素材をとり、哲学への入口へと誘う。
すべてをまったく理解するのは難しいが、この著者には読者を難解な用語で遠ざけるよな俯瞰的な思考が感じられず、読みあたりがよい。こんな哲学書に出会いたかった。 -
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服装ひとつで人の印象はガラッと変わる。
ファッションは自分を表現する手段のひとつ。
どちらもその通りだと思うのだが、「印象(impression)」の反対語は「表現(expresssion)」である。ファッションは元々、夏に着物に薄地の絹織物をはおることで見る人の目を涼ませたり、艶やかな色の服で見る人の心を明るく楽しませたりする、ホスピタリティの精神から来るものであった。だが昨今では、「自分をどう見せるか」という表現の手段として捉えられることがほとんどである。また、その「どう見せるか」という点についても、自分らしさを追求しつつも、流行に乗った結果、結局周りと同じような格好をしているというどうも矛盾した状況にある。
女らしさも男らしさも、スーツのようなパリっとした格好もジーンズを履いたカジュアルな格好も、100%になるとどれも魅力は半減する。女らしさの中に見え隠れする男っぽさ、カジュアルさの中に入り交じる緊張感など、「ゆらぎ」「中途半端さ」の中に魅力がある。
…などなど、「ファッション」を切り口に人間の魅力や個性、現代人の感覚など様々な観点についての哲学的考察。どれも新しい視点で読んでいて楽しかった。 -
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哲学者鷲田清一の哲学エッセイ最新刊。前作の『大事なものは見えにくい』『おとなの背中』などと同様、著者が新聞や雑誌で発表したエッセイを収録したものである。短い文章で易しい言葉で書いてあるので読みやすいと思いきや、一編ずつその意味する所をきちんと理解し、自分なりの考えをまとめながら読み進めていくためには結構頭を使う。
例えば昨今「自分探し」「本当の自分」などという言葉が流行っているようだが、鷲田は「自分らしいとはどういうことかという問いかけはそもそも奇妙だ」とし、「ありのままの自分」「本来の自分」という言い回しが奇妙なのは、その問いが他者の存在を考えず、自分の中だけでの閉じた状態にあるからだと説く。「自分とはだれかある他者に対していつもその他者として存在しているものだ」とは鷲田がいくつものエッセイなどで繰り返し説いていることであるが、改めてその意味を考えさせられる。
鷲田清一の臨床哲学者としてのエッセイは、短文ながら様々なことを論じており、日常の物事を違った目線でとらえて考えなおすきっかけになる。「哲学」と身構えずに気楽に読んで欲しい。 -
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推薦理由:
阪神・淡路大震災を経験した著者が、東日本大震災から1年経った時点で著した本である。哲学者の立場から被災者の心のケアについて考え、現代社会の問題を指摘し、これから私達がどう生きるべきかを示唆している。柔らかい語り口で、心に響く言葉が紡がれている。
内容の紹介、感想など:
人生とは、自分がこういう人間だという物語を自分に向けて語り続け、語り直していくプロセスである。大震災により、家族、友人、家、職場、地域など、自分の存在の根拠となっている大切なもの(アイデンティティ)を失った人々は、破綻した自らの物語の語り直しに取り組まなければならない。その時、その人達に「話したかったらいつでも声をかけてね」と、自分の時間をあげること、黙って寄り添い、語りきるまでひたすら話を聴くことが、本当の心のケアになる。
そう述べる著者の、理論のみではなく、現場を大事にする臨床哲学者としての言葉には重みがある。
便利で快適な都市生活と引き換えに、地域で相互に支えあう能力とネットワークを失った現代社会の脆さや、行政と住民、企業と消費者、科学者と一般市民などあらゆるところで起こっているコミュニケーションの欠如など、大震災後に顕著になった現代社会の様々な問題点に改めて気付かされる。
行政の判断や専門家の見解が信頼性を失った今、私達ひとりひとりが様々な情報から物事の価値を正しく見極める教養を持ち、最終的な価値判断は自分の手で行わねばならないということが納得できる。著者は、その時に必要なのが哲学の知恵であると述べている。哲学は深遠であると同時に最も身近なものである。 -
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成安造形大学の近江学研究所の特別公開講座の講師になった著者の講演を聴いたばかりです。生老病死という基本的能力を「士」という専門家に任せることで発展した社会が、未曾有の震災に対処することができないことが分かった。専門家なしで何もできなくなった。子供が隔離された社会のなかで、大人の視線から守られなくなった。という状況を読み解くのは哲学者である著者の知性である。
もっとも、なんでも資格社会のなかでアーティストたけが資格がいらないというときの著者の話し振りは楽しい。アーティストだけが目的を持たない。すでに誰かに決められた社会に生きている我々はどうするのか。アーティストとともにゼロからのプロジェクトを体験していくのがよい。 -
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子どものころからの、評価される自分は偽の自分である、という感覚と、仕事をしていてその意味づけに苦労したり、誰かの役に立っているという実感をもとめたりすることが無関係ではないと気付きました。
仕事について書かれた本だけど、これからどうやって生きようか、整理して考えることができます。
阪神大震災の後に書かれた本なので、ボランティアのことも書かれていて、311のあとで感じた、何かしなければ、という感覚と、でも理性ですぐに被災地に乗り込んでいくのを抑えていた時の感じがどこから来ていたのか、分かってすっきりしました。
ここから先、成功も失敗もするだろうけど、自分が仕事に求めることの軸は失わずに、丁寧に社会に関わっていきたいなと思います。