鷲田清一のレビュー一覧
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あとがきにもあるが、「哲学」と「エッセイ」をひとつに編んだ文章であり、決して小難しく考えるものでなく、身近に哲学することが存在していると感じさせてくれる。
個人的に印象に強く残ったのが”対話ワークショップ”であり、平田オリザ氏が開かれた対話ワークショップに著者が参加された時の話になるのだが、なるほどと思わされた。
ワークショップの内容自体は省かさせていただくが、平田オリザ氏云く「何をイメージしているかが問題なのではありません。どのようにイメージしているかというコンテクストをきちんとつかまないと、コミュニケーションにならないのです」と。
最後に著者の言葉で締めくくられるのであるが、ここでもまた考えさせられる。それを読み、ひととひと、国と国の対話で同じ土俵に乗ったとしても、出自(地域、文化など)が違えばやはり分かり合えないのではないだろうか。どれほどその裏付けされたものを学び理解したところで、「対話」が成り立つのだろうか?と。
著者の言葉に、「対話」という言葉に何を託しているのか?とある。その背景にあるコンテクストを丁寧に擦り合わせないと「対話」からますます遠ざかってしまうとも。
身近な存在であるはずの親兄弟ですら理解出来ないままである私にとって、「対話」は非常に壮大なテーマである。 -
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ネタバレ内容は難しくないが独特な文体で頭に入ってきづらかった。
じぶんが誰なのかはじぶんでは決められず他者との関わり合いを通じてそれを確認していくこと。本書ではそれを「他者の他者としてじぶんを確認していくこと」と言っている。そしてそれは受け身の姿勢では実現できない。
ボランティアに身を置く人たちがその一例。
また面白かった話としてオウムの例が挙げられていた。信者たちは常に受け身の存在としてしか語られてこなかった。信じたいというより信じさせてほしいという意識、じぶんのこれからを決めてほしい、なにをしたらいいか言いきってほしいという願望があり、それ故に抜け出せなくなっている。
一方で事件を見る側にとっても、感情的な報道に接すると、異常だ、狂気だと、他者を攻撃することで、じぶんたちの衰弱したアイデンティティを強化しようとするという構図が出来上がってしまっているのだ。 -
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長い、そして難しかった…。
近代以降の国内外の膨大かつ複雑な「所有」をめぐる哲学・思想から、「所有」とは何かを精緻に定義しようとする試み。
本書の内容を正確には理解できていないが、「所有」は「わたしのもの」ではなく、過去あるいは現代の人から適切に配置された「受託」にすぎない、これを「わたしのもの」って国、社会、個人が誤解しているところに収奪、搾取や戦争、紛争が起きるってことなのかなあと。端的に言えば、人は他の人と共生し世代的に連続してるんだよ、そのことを忘れて好き勝手しちゃだめだよってことだと思う。それはおそら著者の思想的・価値的な核だと考えられる。この点には共感できるところもある。
一方、法律上の「所有権」についてはほとんど触れられていない。著者の専門外なので仕方ないが、法律上の所有権は「わたしのものはわたしのもの」って「伝統」を前提としている、という風に理解されているのかもしれない。しかし、憲法は「財産権」の不可侵性を認めつつ、その内容は「公共の福祉に適合するように、法律でこれを定める。」としている。これを受けて民法も(所有権を含む)「私権は、公共の福祉に適合しなければならない。」とし、「権利の濫用」も禁止している。すなわち、法律上も所有権は他の人たちのことも考えて「適切に」用いるべきことが前提となっている。この意味で、実は「所有(権)」をめぐる著者の主張と法理とはそれほど離れているわけではないと思えた。憲法、民法の研究者からの本書の書評を期待したい。 -
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ネタバレ読書メモ&感想
わたしってだれ?
顔・身体こそ自分が1番知らない
性格や性の差異は社会の中で形成される
「わたし」という言葉も社会に認められて適応する
→個人の私的可能性を捨て社会秩序の中に入れ込んでいる
成長で属性を身につけている訳ではなく、色々な可能性を失っているのでは。これが生きるということ
私たちは物事を解釈し区別して生きている
自分を他者ではないものと認識する
「ふつう」とは世界の解釈を共有していることにすぎない
自分は「非わたし」と差異化して分かることなのに、内部に問う
「アイデンティティはn個の属性によるn次空間上の座標」って良いね
他者にとって意味のある存在としてじぶんを経験する
「他者の他者」という認識によって自分が形成される
ただ、目があったら目線を外してしまうようだとの一般論を立てているが、少し日本人的慣習に寄っているのでは?外国人は目が合うと声をかけてくるよ
「わたし」はどのわたしが使っても成立するので、唯一固有のわたしは死んでいるよね、ふむ。 -
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ネタバレ自分が存在するためには、他者に他者として認められなければならない。だから、親族のためにする家事、介護では、奉仕が当然と受け止められてしまい、自分の存在価値を認めることが出来ない。
しかしながら、自分という存在がぼやけることにはある種の快感があり、他者への異常な献身が例にあたる。(近年の推し活ブームもこれかも)
じぶんになるということは、ありえたかもしれない自分を棄てること。
親に「子供とは気が合わない」と言われたら、親は子を他者として認めたということであり、こちらの勝ちである。
〜ここまで本の内容〜
人生というものを一貫したストーリーとして捉えるのは間違っているが(筆者の主張)、昨今自分の人生を壮大な物語にして、自分のアイデンティティを自ら作り上げたいとする人はかなりいるように思われる。進撃の巨人のイェレナとかこのタイプだと思う。 -
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久々の鷲田清一。
老いや身体の不自由さを身を以て体感しているからだろうか、上手くいかなさをはらんだ言葉の運び方になったような気がする。
「やましさ」という言葉と、面と向き合う機会になった。
災害や争いで苦しんでいる人を知りながら、自分だけがのうのうと生きていることへの罪悪感。
どうして人は、人と比べてしまうのだろう。
知らなければ、比べなければ、味わうことのない感情が沢山ある。
コロナ禍におけるエッセイも沢山詰まっている。
身体や場について論じてきた著者が目の当たりにしたソーシャルディスタンス。
けれど、著者自身も、自身の生のために守らざるを得ない規範であったことだろう。 -
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・様々なテーマから、「表層」への享楽が浮かび上がる
哲学教師の職を得た三十代には、ひとが科学の基礎づけなどという「重い」仕事をやっているときに、顔や皮膚というもっとも表層的な主題に没頭した。そのあと、二十世紀の思想史から消え、だれも見向きもしない二つのテーマ、所有と幸福の問題に取り組んだ。 こだわる対象は刻々と変わってきたけれど、こだわりそのものは全然変わっていない。が、そのかたちには心なしかうらぶれたところがないではない。そう、洗い場の使い古したスポンジのように。
>>>本書、p214
この部分で出てくる、「表層」が、ケアや政治の言説、デザインからファッション、ブランド、果ては教員としての試験との向き合い方や恋愛にまで、その語りの紡ぎ方を決めていたように思う。
これは、千葉雅也『勉強の哲学』で語られていたところの「享楽」、つまり偶然の出会いの痕跡として反復されるテーマであり好き嫌いの基準であると感じた。
こういった享楽があることで、多くの人が見逃してしまうであろうキザなイタリア野郎の仕草からも哲学が紡がれる
>>>
空を向いて、イタリアらしいまぶしいばかりの陽射しを久しぶりに顔いっぱいに浴びるはずが、ふと、ひとりの男に眼を奪われてしまった。顔にではない。支配人のくせに仕事は店員にまかせ、壁にもたれたり、外の風景をぼんやり見つめたり、下を歩いているらしい顔見知りに手を振ったり……。きざなのである。が、優美なのである。そのぶらぶら歩き、しどけなさが。
(中略)
ふと、家の犬のことをおもった。離れにつながる通路のところで、犬がお座りをして、じっと庭を眺めている。その姿が妙に高貴に見えるのである。そうか、イタリア野郎もそうだったが、人間的であるという以上に、動物的であるということのその先にこそ高貴さが漂うのではないか。 フランス語のコスメティックが、コスミックから(英語ならコスメティックスがコズミックから)きていることをご存じだろうか。化粧はもともと宇宙へのご挨拶といった意味をもっていて、あのきらびやかな色に染め上げられた鳥や花に対抗するかのように、空や土に溶け込むかのように、あるいはもっと激しく、しばしのあいだ獣や鳥に変身しようとして、からだに色を塗り、皮膚を刻み、羽根を身につける……。ところがいまの化粧ときたらどうだろう。視線は宇宙ではなく、社会に、他のひとびとに向いている。そしてひとびとのあいだでじぶんがどんなふうに映るか、じぶんの存在をもっと「上等」に見せるにはどう装ったらいいか、つまりそのためのセルフ・イメージの演出や微調整にかまけている。みすぼらしいコスメティックである。 動物的であるというのは、社会よりも宇宙に感応するということなのかもしれない。その微細な気配の変化に感覚を研ぎ澄ませているということ。平原にひとりたたずむ鹿の、あの、ぴぴっと動く耳のように。
>>>p178
イタリア野郎から、動物的であることや化粧へ飛躍する足場としての「表層」という享楽。あるいは、『フローとストック』の枠組みで言えば、単に「イタリア野郎」とラベリングすることで常識的=具体的ストックとして処理するのではなく、特異な一例=具体的フローとして世界を解釈しなおし楽しむための表層の哲学という弛緩剤。
エッセイは平易な言葉で語られるからこそ、哲学者が書いていても人間らしい部分が浮き立つのだなと思った。
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Posted by ブクログ
⚫︎対談形式が多いからサクッと読めるね
⚫︎内田さんは日本辺境論は面白かったし、わかりやすくて読みやすい。ゆっくり読めば咀嚼できる丁度いい内容。あ、これ以上いくと無理だなってとこで止まる絶妙な文体。
⚫︎成熟した大人がいないのは、まあしょうがないのかもなあとか、そもそも自分だってなあとか…政治家は国民のレベルを写す鏡だから、結局日本人が成熟していないってこと?でもそれもなんだか安易な自虐論理みたいで嫌だなあ。
⚫︎内田さん、ネットだとよく炎上しているイメージだけど、本はしっかりしているよね。大学の教授だったこともあり、話が分かりやすい。
⚫︎なんというか、ちょっと神霊的な話も出てくるけど、それはそれで一つの考え方だし、あまり極端ではないから受け入れやすかった。