鷲田清一のレビュー一覧
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ネタバレ「実績をあげてから、モノを言え」
職場の上司に、こう言われたことがあります。
それ以上、何かを話したい気持ちになれず。
上司の話を、適度に聞いて流してしまいました。
実績って、何だろう?
売り上げ?
企画立案の数?
たしかに、数字で示せる実績は、大事。
でも、
正直なところ、私は、「実績をあげる」という目標に、あまり気持ちが燃えない。
どこか、冷めて見ています。
そういう姿勢を見透かされているから、「実績あげてから、モノを言え」と、言われてしまうのかなぁ…。
私の話は、愚痴や文句のように受け取られたのかな? と思い、
少し、凹みました。
最近、読んでいる鷲田清一さんの著書「大事なものは見えにくい」の中に、
次のようなことが書かれてありました。
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何をするわけではないが、
じっとそばにいるということがもつ力を評価することを
私たちの社会は忘れている。
例えば、昨今、いろいろな機関で義務付けられている「評価制度」。
そこでは、どんな計画を立て、それがどれほど達成されたかばかりが問われ、
どれだけじっと待ったとか、
どれだけじっくり見守ったかなどということは
評価の対象にはならない。
評価されるのはアクティブなこと、
つまり、何をしたかという行動実績ばかり。
パッシブなこと、
あえて何もしないで、ひたすら待つという受動的なふるまいに注目されることは
およそない。
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営利企業であれば、売り上げをあげなければ継続が難しいし、
社員が何もしないでは成り立たないと思います。
でも、アクティブなことばかりを評価していると、
上面だけのぎすぎすした組織になりそうです。
それは、結局、めぐりめぐって、組織の発展にはならないと思うんだけど…。
私が言っても、説得力ないかな。
そもそも、人と人を比べて評価する(される)方法が好きではないので、
会社という組織は、ちょっと窮屈なのかもしれません。 -
Posted by ブクログ
【目的】
学生時代の知識欲を取り戻す
【引用】
・幼子から青いひとまで、共通しているのは、ことがらには1つしか真理がないこと、そしてその真理はいまあきらかに「われ」の側にあるという確信だろう。
・人間の弱さはそれを知っている人たちよりは、それを知らない人たちにおいてずっとよく現れている。
・…いま起こっている理解困難な問題、その本質が誰にもまだ見えていない問題を、自分がこれまでに手に入れた理解の方式で無理やり解釈し、歪めてしまうというのは最悪の対処の仕方であろう。
【感じたこと】
鷲田清一を追いかけて10年以上経つ。どこかで読んだことのある文章だと思いながらもどこで読んだか思い出せない。
自分は成長しているだろうか。同じ場所をぐるぐると回っているだけではないだろうか。このように問うこと自体が、この本の言わんとするところなのだろう。
【学んだこと】
問い続けること。問いの答えを探すことよりも問いの意味を考えること。
自立とは1人で立つことでもなく、支えあうネットワークの中で「助けてくれ」と声を上げれば、すっと手を差し伸べてくれる。そして自らも差し出すことができるようになること。見ず知らずのなじみのない人とも上手くやってゆけるように自分を鍛えること。
【行動】
問いを発し続けること。
問いの意味を考え抜くこと。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ[ 内容 ]
ピアシング、拒食・過食、あるいは性。
本来なら、ひとを癒し快くする行為が、身体への攻撃として現象している今。
わたしたちは、なにか身体に深く浸透しているはずの「智恵」と「想像力」を失いつつあるのではないか。
医療システムを通してしか関与できない非人称の身体と、フィットネスなどによって完璧に支配されるプライヴェイトな身体。
引き裂かれた身体の状況をさまざまな角度から論じながら、他者との関わりにおいてこそはじめて存在する「身体」の本質について考える。
[ 目次 ]
第1章 パニック・ボディ―身体がアブない。
第2章 からだの経験―身体はいつもアブない。第3章 からだの幸福(間奏1)―身体には想像力がある。
第4章 生の交換、死の交換―もはやだれのものでもない身体は、もう少しアブない。
第5章 からだのコモンセンス(間奏2)―身体には智恵がある。
第6章 「ゆるみ」と「すきま」―ひたすら(わたし)であろうとする身体が、いちばんアブない。
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
Posted by ブクログ
ファッション心理学(?)の本です。
流行に乗っかるも乗っからないもスタイルの一つではあるんだなぁと思いました。
モードは自身を裏切ることを宿命としていると言われると、そうだなぁと思うと同時に
じゃあ確かなファッションというものはあるのだろうかと考えてみたり。
他者を慮るファッションという考え方も私には新しいものでした。
京都生まれで舞妓さん(ドレスアップの極み)とお坊さん(ドレスダウンの極み)を
見て育ったことが著者に影響を与えたそうです。
ちょっと新しい発見が多すぎて何を書こうか迷うくらい面白い本でした。
「モードは、いまなにかが終わり、別の新たななにかがはじまりつつあるという感情を煽る。
つまり、現在という時を、過去と未来を分ける分水嶺として浮き立たせる。」
(ドイツの哲学者、社会学者 ゲオルグ・ジンメル) -
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著者:鷲田清一(角川ソフィア文庫・700円) 評者:山崎正和
毎日新聞 毎日の本棚より
サブタイトル:とつおいつ、ラディカルに
人はみな、選択権を行使して生まれてくるのではない(※)。
自らの意思で生まれたのではない命。
とはいえ、生まれ落ちたそのときから、否、受精したその瞬間から、
細胞レベルでは、そこに宿った命を存続させようとするエートスが
備わるといってよいだろう。
だが。
生を選択するということは、他方の選択肢に死が存在することと
表裏を為す。
死も一つの選択肢として存在するのに、なぜ殆どの人はすべからく
生を第一義とし、死を選ばないのか。
死を選択するということに、どのような意味性があり、そこに
どんなタブーが存在するのかを、作者は本書で解きほぐしていく
と、評者は解説する。
作者は、かねてから臨床哲学という概念を提唱している。
スコラ哲学以降、言葉の迷宮に嵌まり込んだ哲学を、一度臨床の場に
据え直すことで、言葉遊びに等しい理念の楼閣を築くのでは無く、
日常使われる平易な言葉やシンプルな概念の中から、今必要な言葉や
理念は何なのかを導き直そうとする、いわば哲学の再起動とも言える
概念である。
その氏が向き合う「死」の問題。
そこに、どのような解が導かれるのか、大いに興味が沸くでは無いか。
作者は、ともすれば個人の中に完結してしまいがちな生と死という
問題を、社会性という観点から見つめ直す。
そこにあるのは、人は自分だけの存在などでは決してなく、他者との
関わりの中で存在するものだ、という人間関係である。
そのことを称して、「自分があなたのあなただと実感できる社会」
という表現を、作者は用いる。
このままでは、平易過ぎて逆に分かりにくいが(笑)、評者はこれを
うまく整理して、「理想は能力誇示の自立でもなく、依存と密着の
家族主義でもなく、異質者が距離をおいて肯定しあう社交的な人間
関係なのだ」と、要約する。
ただ、難しいのは現実社会は成果主義(メリトクラシー)が横行
する一方、その反動としての個人主義や利己主義も世に横溢する
中で、どこまで何のケレンもない目線でもって、異質な他者を
あるがままで許容するということが可能か?ということだと思う。
かつて、劇作家の一堂令は、その作品「ゆでたまご」の中で、
葛西佐紀に「おまえ自身であること。それがおまえのとりえだ。」
と言わしめた。
その言葉が語られた詩的な情景(ボッコリという、人型のウサギ
のような生き物の子供達が遠足に行っているところ)と相俟って、
劇「ゆでたまご」の中でも一際幻想的で、柔らかく心に染み渡る
シーンではあるが、その言葉は平易であるが故、持つメッセージは
じわりと聞く人の心に重く突き刺さる。
そこで語られている言葉は、ボッコリ達の住む世界でしか実体
し得ないのではないか?という名状しがたい恐怖も感じてしまう
からである。
元より、そうした思いを伝えることは、一堂令の本意では無い
だろう。
だが、一堂令がストレートに伝えたかったその思いは、明るく
希望に満ちているが故、その影となる部分は漆黒となる。
折りしも世間では、不況により社会層が二極分化されていく傾向
にあり、それを心理的に補完するかのように、No1よりもOnly1
という、砂糖菓子のようにべたつく言葉が蔓延るようになった。
そうした、日本型資本主義の行き着く果てに、まるでマンモス
の牙のように袋小路に追い込まれていく人々の精神の有り様を、
作者は玉葱の皮を剥く様に解きほぐしていく(※2)。
解してはいくが、玉葱に芯が無いように、こうした哲学に
アルティメットな解などは無い。
そのことを示唆しつつ、評者は以下の言葉でこの書評を締めくくる。
「ソクラテス以来、哲学は結論をめざす科学ではなく、永遠に
続く思索の過程だと、この人(作者)は確信するからである。」
答えの無い問いに対して、思索を続けることこそに意味があるとする
その指摘は、正にシーシュポスの岩の寓話を彷彿とさせる。
だが、そこに示されたシーシュポスが自らの生きる意味を掌中に
収め、不遇の中にも喜びに満ちていたのに対して、現代に生きる
我々は、その取り得る人生の自由度の広さの故、反って閉塞感に
満ちてしまっている感がある。
「おまえ自身であること。それがおまえのとりえだ。」
この言葉が人々の胸にきちんと届くような日が来ることを、
切に願う。
そのための一助となるものが、作者の唱える臨床哲学であれば。
本書の存在意義も、そこに見出せるというものだ。
(この稿、了)
※ この真逆のことは、ヒプノの世界ではよく耳にする。
過去世からの繋がり(いわゆる輪廻)の中、人は生きている。
過去世で遣り残したこと、間違えてしまったこと(業)を
解消するために、今生の生がある。
その生を全うするために、もっとも相応しい時間と場所と人を
選んで、人は今生に降り立つ、とするもの。
ちなみに、こうした考え方、嫌いではない。
不可知論を突き詰めて、切り捨てる程頑迷でも無い積りである。
※2 進化とマンモスの牙の相似性は、星野之宣の著作「サーベル
タイガー」に教示を得たもの。
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Posted by ブクログ
「何かを伝えようとする時に発する言葉、見つめる視線、そして沈黙」 誰かとコミュニケーションをする際に、当然のように行っている筈の「聴く」という行為を、「他人を受け入れる」という行為としてあらためて考えている本です。 また、「他人を受け入れる」行為を職業としている人達 - 医者、看護婦、カウンセラー、教師……etc,etc - にとって、日常化している「他人を受け入れること」「ホスピタリティ」とどうつきあうか、それによって生じるストレス・問題をどうするべきなのか、といった問題に真っ向から取り組んでいます。 哲学にあえて「臨床」の名を冠し、あくまで現場(職場というだけでなく、介護や家族の問題もふくむホスピタリティなすべての現場)の人間にとっての「受け入れること」を突き詰めた内容は、専門的な人間だけではなくすべての人に感銘を与えるものだと思います。 「臨床哲学」という未知の領域を定義するという目的もあってか、1章は多少難解な表現で綴られていますが、2章以降はむしろ読みやすい内容になっています。 安売りされる「ホスピタリティ」や「聴く」という行為の本質に一石を投じる一冊です。 この本を読んでからは、誰かを受け入れたり、誰かのために時間を割く事の幸せとかをより自覚的に感じるようになりました。また、話をする際に「話す内容・言葉そのもの」よりも「相手自身」を感じながら話すことを重視するように心がけています。 「その瞬間、その人ただ一人に届くたった一つの言葉」それだけを信じて。
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Posted by ブクログ
ネタバレ子供の頃から感じていた疑問がそのままタイトルになっていたので気になって購入
問いそのものに元々奥深そうなイメージを持っていましたが、イメージそのまま、読んでいてかなり難解でした
他者の他者、他者にとってじぶんは他者、と言う関係が成立してこそのじふん(あえて、作中はずっとひらがな表記)、生死とか関係なし、他者がその他者をどういうふうに位置付けてるか、ということがじぶん、と言うことなのかなと思いました
ただ、最終的に「解は無い」という結論で結ばれており、うーん、そうなんか…
哲学的な内容でなかなか苦しみながら読み進めましたが、腑にはなかなか落とせませんでしたが、じぶんにとってじぶんが何者なのかはわかりようがない、ということなんかなと、だからよくわからん、答えはない、そういうことなんかな、という自分なりの理解に辿り着きました -
Posted by ブクログ
自分とは、他者ありきで存在する。
全体的にひらがなが多くて読みにくかった。ふわっとしててまあそうだなぁくらいの感覚で読んだ。
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以下抜粋
しかし、それにしてもなぜ、ひとはいつも「だれか」になろうとするのか。「ほかでもないこのわたし」でないと、どうして生きていけないのか。しかし、それがなければくわたし)がやっていけないもの、それは、ほんとうはわたしではなくて、他人がまず先に確認したいものだということはないだろうか。
ひとそれぞれのアイデンティティというのは、レインが言っていたように、各人がじぶんに語って聞かせる物語のことである。その点で、つまりそれが物語の一つであるという点で、アイデンティティにはどこまでも恐意性がつきまとう。同じ人生、同じおこないでも、いろいろな語りかたができるからだ。しかし、じぶんをかたちづくっているその物語は、けっして恣意的に選択したり、取り替えたりすることのできるものではない。これは部品交換のようにかんたんには交換できないものなのであって、というのも、物語の破綻はそのままわたしたちの人格の破綻につながるからだ。
このように見てくると、アイデンティティを手に入れるには、どうしても他者が存在しなければならないことがわかる。他人と共謀して一つの物語を紡ぎだし、それを共有することで、それぞれがより深く物語のなかに埋没していくということがなければならないのだ。こうしてひとは、いまあるのとは別の生きかたというものへの想像力を、すこしずつそぎ落としていく。より深く、じぶん(たち)を夢見るようになるために。
くわたし>というものは<他者の他者>としてはじめて確認されるものだ、という考えかたをここで思いだそう。他者とは他人とはちがう。母親もじぶんではないひととして他者である。そういう他者にとって意味のある他者たりえているかが、わたしたちがじぶんというものを感じられるかどうかを決めるというわけだ。母親に「この子とは反りが合いません」と言わせたら勝ちである。母親はいよいよ子どもを別の存在として認めたのだから。 -
Posted by ブクログ
「待つことは、待たれているものとのあいだの、切っても切れない、しかしけっして埋めることのできない距離を、いたみとともに、しかしあくまでもいつくしみともに、ひきうけること」という文句に強烈に引かれた。大好きな人を失い、返事が来ないのに縋るようにメールを送り続けてしまう今の私に、必要な本だと思った。
本書は「一切の希望がついえ、できることがなくなり、憔悴しきり、それでもなお『待つ』とき、それはいかなる行為なのだろう?」という問いに貫かれていた。
やっぱり哲学書は難しく、理解できなかった部分もたくさんあるけど、私はこの答えを、「祈りや希いを超越し、自分のイニチアシブを一切放棄し、ただ何が起きる場を受け入れられるように自分を開いておく」というほどのことだと受け止めた。
筆者の言うように、「何かを待ちながら待つ」のはつらい。視野が狭窄になり、ぎりぎりと身を削られる。だから早く「待たずして待つ」、いわば「待つを超えて待つ」の状態に達したい。この本を何度も読み返し、そのための一助としたい。
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Posted by ブクログ
オノマトペは、表現しがたい思いを表出するための発明のようなものなんだなと感じました。心と言葉を繋ぐ、とても興味深いオノマトペ論でした!
前半のオノマトペの例の文章を読んでいる時、どうしてはっきりとした定義を習った訳でもないのにも関わらず、ころころとごろごろなど少しの違いしかないオノマトペを多くの人は使い分けができるんだろう?と思っていました。
読み進めると、以下の文章がありました。
「オノマトペとして表出されるのは、意味として分節される以前の、言語の原体ともいうべき感覚である。これらはたしかに〈わたし〉の身体の奥深くに潜む感覚の記憶ではあろうが、けっして私秘的なものではない。」p157
この文章にたどり着いた時、オノマトペは多くの人に共有された感覚から生まれたものだから、自然に使いこなせる人が多いということか!と納得し、すっきりした気持ちになりました。
また、現在使われているオノマトペは、多くの人の感覚に馴染むものだったからこそ残っているとも言えるのかな?と感じました。
オノマトペ以外にも言えることだと思いますが、同時期にいろんなところで自然発生的に同じことばを思いついた人がいて、そのことばが口コミのように広がっていき現在使われているのか?と思うと、ことばの誕生やそのことばが変化していく様って不思議だな〜と思います。