あらすじ
ボディ・ピアシング、拒食・過食、ゆがめられ萎縮する性。本来なら、ひとを癒し、快くするはずの行為が、身体への攻撃として現象している現在。本書では、専門の現象学研究に加え、モード批評などで活発な言論活動を展開し、最近では臨床の知としての「臨床哲学」を提唱する著者が、このような身体状況を濃やかに描写する。 ●第1章 パニック・ボディ ●第2章 からだの経験 ●第3章 からだの幸福 ●第4章 生の交換、死の交換 ●第5章 からだのコモンセンス ●第6章 〈ゆるみ〉と〈すきま〉 著者は、私たちの身体は、今、一方では〈私〉という個の中に閉じ込められ、また、一方では〈私〉という存在から遠く隔てられているという、引き裂かれた状態にあるという。では、そもそも身体に深く浸透しているはずの〈智恵〉や〈想像力〉、そして〈他者との関わり〉の中にある身体性の回復はいかにして可能か。リアルな問いを投げかける一冊。
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Posted by ブクログ
読み始めました。
(2012年10月29日)
痛快。
(2012年11月1日)
これは、よい本です。
お薦めします。
(2013年1月23日)
読み終えました。
まだ読んでない人は、ぜひどうぞ。
体をデザインできるという錯覚に陥っている人は、必読。
(2013年2月1日)
Posted by ブクログ
これまで私が読んできた本とは相当に傾向の違うものです。 とても参考になりました。
身体には、遊び、ゆるみ。すきまが必要という主張には共感しました。
Posted by ブクログ
最終的には、『現代は身体に遊びの部分かま少ない』ということで、力みすぎ(拒食・過食等の摂食障害やストレス等)と、ゆるみすぎ(うつ病等)の、極端な身体状態が問題で、もっとバランスが取れないとまずいですよ~、ということが言いたかったんだと思います。
まあそれにしてもダラダラ文章が進んで、イマイチ分かりづらかったです。
僕の評価はAにします。
Posted by ブクログ
著者は、人間においての「自然」である身体が、過剰に観念化され硬直してしまっている現代の危機を「パニック・ボディ」と名づけています。
「幸福とはなにか」という問いに対し、著者は「幸福について考えずにすんでいること」と答えます。同様に、身体もそれが機能しなくなってはじめて、その存在が意識されるようになります。ところが現代人は、健康や美容の観念にとりつかれ、身体をみずからの意識の支配のもとに置こうと努めています。これは、「身体」が自然にもっていたはずの適度な「ゆるみ」が失われてしまっていることを意味していると著者は考えます。
さらに、身体はその振る舞いを通じて、われわれが世界とつながることのできる厚みをもった媒体だと考えることができます。われわれは出産から死に至るまで、家族の中で身体的な相互交渉を通じて、ある原初的な「親密さ」を獲得しており、これが人間社会における「信頼」の根底をかたちづくっていると著者は考えます。こうした「親密さ」が喪失すると、社会の「信頼」は単なる観念となってしまい、脆さを露呈することになります。
また著者は、マルセルの『存在と所有』の議論を参照しつつ、近代的な所有権の観点から身体を把握することの抽象性を指摘し、逆に有機的な媒体としての身体が、自己を世界へと「劈く」可能性を示唆しています。このように自己が「劈かれ」ていくところを、著者は「いのち」と呼び、その豊穣さを、「飢えて死にかけている息子に「おい、俺を食え」と呼びかける父親、誰かの死に際して死路の道連れになれたらと自害する人、あるいはおのれを献身という行為のなかに置く殉教者」などの印象的な例を通じて示そうとしています。
Posted by ブクログ
身体は誰のものか?
わたしのもので、わたしが自由にしていいのか?
答えはノーである。
いのちが宿る身体。
いのちはいのち相互のやり取りによって生きられている。
そのことからいのちが私個人のものなどではあり得ないことが導かれる。
わたしの身体がガチガチで悲鳴をあげているのは、わたしがあまりに観念的であるからのようだ。わたしの未熟な観念で私の身体を縛り付けているということのようである。
そうであれば無私を目指すべきなのだろう。いやまったくの無私というのではなく程々の欲望ということだろうか?
Mahalo
Posted by ブクログ
[ 内容 ]
ピアシング、拒食・過食、あるいは性。
本来なら、ひとを癒し快くする行為が、身体への攻撃として現象している今。
わたしたちは、なにか身体に深く浸透しているはずの「智恵」と「想像力」を失いつつあるのではないか。
医療システムを通してしか関与できない非人称の身体と、フィットネスなどによって完璧に支配されるプライヴェイトな身体。
引き裂かれた身体の状況をさまざまな角度から論じながら、他者との関わりにおいてこそはじめて存在する「身体」の本質について考える。
[ 目次 ]
第1章 パニック・ボディ―身体がアブない。
第2章 からだの経験―身体はいつもアブない。第3章 からだの幸福(間奏1)―身体には想像力がある。
第4章 生の交換、死の交換―もはやだれのものでもない身体は、もう少しアブない。
第5章 からだのコモンセンス(間奏2)―身体には智恵がある。
第6章 「ゆるみ」と「すきま」―ひたすら(わたし)であろうとする身体が、いちばんアブない。
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
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☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
Posted by ブクログ
オキシトシンが分泌されるような深い共感体験もオキシトシンの体への影響という意味で、「体を通す」体験と言えるだろうか。
体を通して何かを味わうことが、ヒトを人間たらしめると言えるのか。自己の隙間部分に他者を入れることによってしか安定した「私」は感じられないということだとすると、人間は他者に依存しないと生きられないというのも、さもありなんといったところだ。
p132より
黙過は身体に秘められている。それが他者との「出会い」を通して現れざるを得ない時(何かを破壊する文脈時)に、二人の共謀として現れる。その意味で黙過は常に共創造されたものと言えるのではないか。
Posted by ブクログ
現代において、身体を自分のものとして、コントロールしようとする行き過ぎたダイエットや整形といった問題の構造を分析したり、身体に対しての考え方、命に対しての考え方の変化がなぜ起きてきたのかといったことに関して筆者なりの分析で記されている。全てが納得いくものではなかったが、これを元に、自分で考えてみるのもよいと思う。
Posted by ブクログ
健康であることを強迫されているという感覚にははっとした。特に日本人は真面目で、集団心理が働きやすいためか。
患者さんを看ていくうえで、自分の健康主義を押し付けないようにしたいと思った。
人間の身体はその個人自身のものでありながら、社会的存在であるがゆえに社会のものでもある。
Posted by ブクログ
この本を読んでいると、身体が悲鳴をあげているかも、と思わずにはいられない。
もう一度、繰り返し何度も読むべきだ。
日本中の人達にこの本を読んでほしいと思った。