あらすじ
語りきれない苦しみを抱えて、人はどう生きていけばいい? 阪神大震災を機に当事者の声を聴く臨床哲学を提唱した著者が、東日本大震災から一年を経て、心を復興し、命を支える「人生の語りなおし」の重要性を説く。
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昨年の大震災の後、さまざまな「ことば」が飛び交うようになりました。「がんばろう日本」「絆」といった言葉です。それらはもちろん、被災者へ向けた励ましであり、被災しなかった国民に対して共に力を合わせようという呼びかけの言葉です。しかし私は、被災者へ心を傷めながらも、メディアを通じて伝わってくるそれらの「ことば」には、どこか違和感を持っていました。被災者の計り知れない傷みに思いを馳せる前に励ましや協力を謳うことには、「ことば」の本来の意味から外れた思惑を感じました。そして、震災から一年経って、その違和感について考え、本物のことばを紡ぐことを提唱する本に出会いました。この本では、癒しの押し売りで傷ついた人たちの時間を奪うのではなく、彼らが自分のことばで人生を「語りなおす」のを、そばに寄り添い待つことが必要だと説いています。◆著者の鷲田清一さんは臨床哲学の第一人者です。著者によれば「臨床哲学」は、「臨床」という語の本来の意味の通り「病んでいる人のところへ出かけること」でなければならない。「自分の専門性を棚上げして」、「街」へ出て市民と語り合うことでなければならない。「聴く」ことと「語る」ことの相互作用の中で、じぶん自身が変わっていく。そんな場の大切さを訴えています。◆鷲田さんの本は、どれも語り口が優しく共感的です。レベルの高い知性で「上から」分析してみせるのではなく、横に座って語ってくれるようなあたたかさを感じます。だからこそ、この本の内容も説得力を持つのだと思います。〈K〉
紫雲国語塾通信〈紫のゆかり〉2012年4月号掲載
Posted by ブクログ
推薦理由:
阪神・淡路大震災を経験した著者が、東日本大震災から1年経った時点で著した本である。哲学者の立場から被災者の心のケアについて考え、現代社会の問題を指摘し、これから私達がどう生きるべきかを示唆している。柔らかい語り口で、心に響く言葉が紡がれている。
内容の紹介、感想など:
人生とは、自分がこういう人間だという物語を自分に向けて語り続け、語り直していくプロセスである。大震災により、家族、友人、家、職場、地域など、自分の存在の根拠となっている大切なもの(アイデンティティ)を失った人々は、破綻した自らの物語の語り直しに取り組まなければならない。その時、その人達に「話したかったらいつでも声をかけてね」と、自分の時間をあげること、黙って寄り添い、語りきるまでひたすら話を聴くことが、本当の心のケアになる。
そう述べる著者の、理論のみではなく、現場を大事にする臨床哲学者としての言葉には重みがある。
便利で快適な都市生活と引き換えに、地域で相互に支えあう能力とネットワークを失った現代社会の脆さや、行政と住民、企業と消費者、科学者と一般市民などあらゆるところで起こっているコミュニケーションの欠如など、大震災後に顕著になった現代社会の様々な問題点に改めて気付かされる。
行政の判断や専門家の見解が信頼性を失った今、私達ひとりひとりが様々な情報から物事の価値を正しく見極める教養を持ち、最終的な価値判断は自分の手で行わねばならないということが納得できる。著者は、その時に必要なのが哲学の知恵であると述べている。哲学は深遠であると同時に最も身近なものである。
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成安造形大学の近江学研究所の特別公開講座の講師になった著者の講演を聴いたばかりです。生老病死という基本的能力を「士」という専門家に任せることで発展した社会が、未曾有の震災に対処することができないことが分かった。専門家なしで何もできなくなった。子供が隔離された社会のなかで、大人の視線から守られなくなった。という状況を読み解くのは哲学者である著者の知性である。
もっとも、なんでも資格社会のなかでアーティストたけが資格がいらないというときの著者の話し振りは楽しい。アーティストだけが目的を持たない。すでに誰かに決められた社会に生きている我々はどうするのか。アーティストとともにゼロからのプロジェクトを体験していくのがよい。
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鷲田さんの本何冊か読んでるけど、ですます調で書いてあるの初めてな気がする。
それだけ慎重に言葉を選んで書いてるんでしょうね。
鷲田さんの専門や難しい話は一切なく、読みやすい。
「いつでもさりげなく時間を空けられる関係」
「絶対になければならないもの、あったらいいけどなくてもいいもの、端的になくていいもの、あってはならないことの見分けられることが教養」
「言葉は心の繊維」
「言葉の意味ではなくて言葉の感触。その背後にあるじかんをくれているということ。そのなかに、話された内容とは無関係に人をケアし、支える真実があると思います。」
「ケアの現場は、ケアの゜小さなかけら゜が編みこまれたもの」
「言葉の根っことは、体のうねり、うごめきのことにほかならないのですか、そこに希望の最後の小さなかけらがあるように思います。」
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東日本大震災から1年。映像的な振り返りはまだ見ることができない自分ですが、書物は少し読めるようになりました。この本は、震災後の1年をフェアにまとめ、何が足りないのか、何ができるのかを語りかけてくれました。自分のことをよく知っていくこと、いろいろとあらわになった問題を考え続けていくこと、新しい社会のカタチについて考えていくこと、これらをメッセージとして受け取りました。それは奇しくも、僕がこの2年間考えていたことで、勇気づけられました。
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「臨床哲学」を提唱する著者が、震災以後の問題について論じた本です。
ところどころに著者らしい繊細な精神のきらめきが見られますが、意外にも紋切り型の意見が多く目につくように感じました。とりわけコミュニティの崩壊について論じている個所は、少なくとも表面的には、保守派の懐旧と重なってしまいます。
確かに、「語りきれないこと」というタイトルが表わしている問題は、どこまでも重く受けとられるべきでしょう。著者自身、震災からの復興のプランを声高に語るメディアや評論家を批判しながら、みずからの言葉が「語ることができない者に代わって語る」という身振りを反復していることを自覚していないはずはないと思います。それでも、現在の日本の哲学者の中では例外といえるほど細やかなことば使いと繊細な知性を示している著者にしては、ややことばが「鈍い」のではないかという印象を拭えませんでした。
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臨床哲学。
それは机上の論理でも理論でもなくて、現場の知恵の哲学的な総体のことだ。
そう私は理解した。
研究・理論と現場との懸け橋。
そういった頭と体の使い方ができる人間になりたいと思った。
私にも語り直しが必要だ。
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鷲田さんは、哲学者。
東日本大震災後の1年を振り返って、臨床的な立場で、被災者への思いを語っている。
とても繊細な言葉がつづられていて、一部を切り出して、コメントするのが適切ではないが、全体を通して、被災地、被災民によりそって丁寧に対話を続ける姿勢がはっきりしていて好感が持てるし、自分が無意識に不作法な発言をしていないか、反省させられる。
著者の文章を読みながら考えたこと。
(1)鷲田さんはトランスサイエンスということばを使っているが、全体の科学の進歩の状況、社会経済情勢などをきちんと目配りする能力が、鷲田さんは科学者に求められていると書いている。
むしろ、そういう能力が国家公務員に必要ではないか。みんな、大学で勉強した専門に閉じこもっていないか。それから日々成長しようとしているか、日々視野を拡大しようとしているか、自分を含め、役人に対して問い続けたい。
(2)様々な分野の間でのコミュニケーションの能力が問われている。特に、専門家と住民、専門家と役人、役人と住民、それぞれがわかり合い、尊敬しあって、自由にそしてじっくり話ができる環境をつくらないといけない。そして、コミュニケーションを通じて、なんらかの合意形成をつくっていく技法をちゃんとみにつけないといけない。
(3)原発のこととかイメージしているのだが、大変だけど、やはり政策の判断を逃げずに一人一人の国民がしないといけない。まず、自分が専門家がやっているから大丈夫と思わないで、まてよ、といって勉強しなければいけない。
哲学者の本なので、ここがすごいという情報量があるわけではないが、読んでいる人間に頭の整理を求めるところがすごいなと思う。