鷲田清一のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
高校2年生の時に一度読み、
自分の価値観に影響を与えた本。
当時は不明確な箇所が多かったのを覚えている。
今回、久々に自分の成長を感じる期待も込めて再読。そして2周した。
内容としては『じぶん』とは何?という問いに対しての著者の思考の流れが描かれた本。
(以下、あらすじ)
まず、自分の身体は自分ではよく分からない。医者や機械に診てもらわないと何が起きてるのか不明確。また、身体は他人や別のもの(義足など)と取り替え可能であるし事故などで喪失しうる、しかしその場合でも『わたし』は変わらない。では『わたし』とは物理的・身体的な特徴ではないのだろう。
(紆余曲折と少しの飛躍を行い)『わたし』とは社会的なルールを前提として『わたし』じゃない人との差分ではないだろうか。
つまり、『わたし』固有のものなんてなく、『わたし』は社会につくられた存在で、『わたし』とは他者にとっての他者である存在と言える。
他者との関わりの中でその人の自分への反応こそが自分であり、他人の他人として他人を鏡のようにしてでしか、自分を認識できないのである。、、、
と言った具合にかなり難しめのロジックが、優しい日本語で書かれている。一部理解不能な箇所もあったが、その部分を理解するには他の著書などを通じて著者の考え方を探る必要があると感じた。
以下の2点だけたまに思い出して生きていきたい。
・自分とは他人の反応の集合体。
・自分の認識している世界は自分だけのもので、死んでいる状態と実は同じではないか。(最終章のくだり)
以上 -
Posted by ブクログ
大学は勉強するところではない。大学とは、知識を商品のように学生に売るところではありません。知とはデジタルデータではなく、身体と感情を持った人間一人一人が身につけ、実践し、対話し、試行錯誤する中でしか役立たない。
あらかじめ用意された正解をたくさん覚えることが優秀だというのは、いわば知識ベースの勉強です。しかし、非常事態に対処するには、そんな勉強だけでは限界があります。そこで力を発揮するのが、物事をいろいろな角度から観察し、今までに知った事実と組み合わせて、全体の構造を考えるという知性ベースの学びです。
まだ答えがない問題への対処については、先生と生徒の立場は対等です。 -
Posted by ブクログ
自分とは何者か?を語ること、定義することって今までも本当に難しいと思ってましたが、その難しい問題をとことん色んな角度から考察して突き詰めようとする試み。
とてもいい思考の練習になりました。
私って何?自分らしさって?とアイデンティティに悩んでいる人は読んでみるといいですよ。著者がとことんその悩みについて付き合ってくれます。
そしてきっと、ちょっと気持ちが楽になって、家族や友人や会社や社会の人間関係の中にまた笑顔で戻って行けるのではないかなと思います。
最後に、個人的に「お〜!」と思った箇所を一つだけ引用。
“ちなみにドイツ語では、「ある」ということを「それがあたえる」( es gibt)と表現する。” -
Posted by ブクログ
「わたしとは他者の他者としてはじめて確認されるものだ」
私とはだれか、1人部屋の中で考えていても答えは見つからない。この本は繰り返し語る、わたしとは他者の他者である。言い換えてもおり、他人の中にじぶんが意味のある場所を占めているか、だそうだ。なかなか理解が難しい言葉だ。極端な例を挙げるとボランティアで肉体労働を望む若者たち、ヒモとなっている交際相手に身を削ってまで働き奉仕してあげる人、のような人で義務ではなく積極的にそれを行なっている人である、本書ではポジティブな受け身と呼んでいる。他人と積極的に関わっていく中で自分というものを規定できていくことだろう。 -
Posted by ブクログ
労働、勤勉が、資本主義の中で神聖化されていく。マルクス主義の観点でも、実は「労働者の提供する資源」という形で神聖化される。余暇や快楽までが消費の対象になる。
ついには「たえず変化していなければならないという強迫的な意識が、(逆説的にも)惰性的に反復されてきたのが、二十世紀社会なのであった」(P86)と喝破する。
さすが鷲田清一氏の論考でこの辺りまでぐいぐい読ませるが、では、それに対置されるべき「遊び」とは何か、というあたりからやや論旨が迷走している感あり。
氏が肯定的にとらえようとしている「深い遊び」という概念が、前段で批判的に検討していた「レクリエーション(再生産の準備としての余暇)」とどう違うのか、結局よくわからない。
「労働VS余暇のかなたへ」という問い建て自体には強く興味を惹かれるだけに類書も並行して読み進めたい。