鷲田清一のレビュー一覧
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労働、勤勉が、資本主義の中で神聖化されていく。マルクス主義の観点でも、実は「労働者の提供する資源」という形で神聖化される。余暇や快楽までが消費の対象になる。
ついには「たえず変化していなければならないという強迫的な意識が、(逆説的にも)惰性的に反復されてきたのが、二十世紀社会なのであった」(P86)と喝破する。
さすが鷲田清一氏の論考でこの辺りまでぐいぐい読ませるが、では、それに対置されるべき「遊び」とは何か、というあたりからやや論旨が迷走している感あり。
氏が肯定的にとらえようとしている「深い遊び」という概念が、前段で批判的に検討していた「レクリエーション(再生産の準備としての余暇)」とど -
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期待して開いただけに、最後まで読んでも「死なないでいる理由」の大した理由を得られなかったのが残念。新聞の掲載分を継ぎ接ぎしてある文章が多く、タイトルの壮大なテーマに対し、その回答である内容は小題が矢継ぎ早に変わり、とりとめなくようやく核心に迫ったかと思うと今度はまた別の話題へと移っていってしまう。もう少しテーマを絞り、深化させて欲しかった。
孤独について、h.アレントさんのprivacyとは「他人によって見られ聴かれることから生じるリアリティを奪われる事」という言葉を引用しているのがおもしろい。その後、社会を織物に喩え、織物の組成の一要素であった筈の個々が途絶し浮遊した時孤立してどうしようも -
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近代において成立した労働と余暇の二項対立を乗り越え、他者とのつながりのなかで生きる自己のあり方に注目しながら、「働くこと」の意義について考察している本です。
フランクリンに代表される近代人は、勤勉・勤労に何よりも大きな価値を認めました。一方、1960年代以降に青年たちを中心に広がったカウンター・カルチャーのムーヴメントでは、「モーレツからビューティフルへ」ということばに象徴されるように、「労働」よりも「余暇」に大きな価値を見ようとしました。しかし著者は、こうした「労働」と「余暇」の二項対立そのものが問題だと考えます。
勤勉・勤労に価値を置く近代においては、つねに前方を見つづける「前のめり」 -
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大人のいない国
内田樹22冊目(鷲田清一との共著)
・教養についての考察が面白かった。なぜ自分はこのことを知らずにきたのか、知ることを拒んできたのかという、自分の無知の構造に目を向けられた瞬間に教養が起動するということや、教養とは自分のわかっていないことについてわかるということということがうなずけた。自分の経験から照らしてみても、さらに、この人ならこのことについて知っているかもしれないという風なセンサーが働いて、お願いできれば、たいていのことは何とかなるとも思う。
・人がそのかけがえのなさに気づかず、ないがしろにしているものに対して注意を促して、その隠された価値を再認識させる言葉の働きを「祝 -
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ネタバレこれからを生きていく人へ贈るメッセージ。
日本の現状に危機感を抱いた内田樹が,中高生へとメッセージを送るために様々な人へ文章を書いてくれるよう依頼をした。統一感はあるような,ないような。しかし,皆,日本の現状に(というか,現政権に)危機感を覚えている人たちである。出版されたのは2016年7月なので,書かれたのはその少し前とすると,その後,イギリスEU離脱が国民投票で決まり,トランプ大統領が誕生し,また日本は重要法案を急いで通そうとしている。危機は加速しているのでは。
戦後の,戦後すぐの平和主義がそろそろ機能しなくなっている,そう感じる。軍隊を持たない,平和を守る国でありたい,でも,他国に攻 -
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「臨床哲学」を提唱する著者が、震災以後の問題について論じた本です。
ところどころに著者らしい繊細な精神のきらめきが見られますが、意外にも紋切り型の意見が多く目につくように感じました。とりわけコミュニティの崩壊について論じている個所は、少なくとも表面的には、保守派の懐旧と重なってしまいます。
確かに、「語りきれないこと」というタイトルが表わしている問題は、どこまでも重く受けとられるべきでしょう。著者自身、震災からの復興のプランを声高に語るメディアや評論家を批判しながら、みずからの言葉が「語ることができない者に代わって語る」という身振りを反復していることを自覚していないはずはないと思います。そ