鷲田清一のレビュー一覧
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期待して開いただけに、最後まで読んでも「死なないでいる理由」の大した理由を得られなかったのが残念。新聞の掲載分を継ぎ接ぎしてある文章が多く、タイトルの壮大なテーマに対し、その回答である内容は小題が矢継ぎ早に変わり、とりとめなくようやく核心に迫ったかと思うと今度はまた別の話題へと移っていってしまう。もう少しテーマを絞り、深化させて欲しかった。
孤独について、h.アレントさんのprivacyとは「他人によって見られ聴かれることから生じるリアリティを奪われる事」という言葉を引用しているのがおもしろい。その後、社会を織物に喩え、織物の組成の一要素であった筈の個々が途絶し浮遊した時孤立してどうしようもなく孤独になると説いていて、ああ、やっぱり、他方位、かつ多層に織り成すコミュニティに所属し、存在を認識される事が孤立感孤絶感から解放される道なのだとまたしても思う。
それから、他者の死が何故これほどまでに堪えるのか、という問いには、何故なら私たちは他者にとっての他者である私、である時はじめて社会的に生きている、という事になるからだ、と説いており、更にそこから、そのいろんな他者にとっての他者である私、その集合として私がある。その為、他者の死とは、その亡くなった他者にとっての他者であった私の死でもあるから、これほどまでに堪えるのだ、と大体こんな感じのような事を説明しており、ああ、なるほど。やっぱり交友関係が狭い人はあっという間に孤絶するな、と思い怖くなった。
仮に日頃10人の人と関わって生きて居る人が、そのうちの一人に死なれてしまう場合、その死は勿論堪えるが、残りの9人には依然私が生きて居る事は認められている。が、仮に人生で関係する人が1人しか居らない人の場合、この1人が亡くなると、もうこの人の存在、これまでの経験を認める他者は皆無となり、その人は忽ちそのまま社会的死を迎える。人生なかなか課題は多い。
匂い立つような生々しい独特の表現や言葉遣いに、これが、鷲田清一が支持される所以で、この一見私小説かのようにも思える文章がこの人の魅力なんだろうナとも思った。 -
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近代において成立した労働と余暇の二項対立を乗り越え、他者とのつながりのなかで生きる自己のあり方に注目しながら、「働くこと」の意義について考察している本です。
フランクリンに代表される近代人は、勤勉・勤労に何よりも大きな価値を認めました。一方、1960年代以降に青年たちを中心に広がったカウンター・カルチャーのムーヴメントでは、「モーレツからビューティフルへ」ということばに象徴されるように、「労働」よりも「余暇」に大きな価値を見ようとしました。しかし著者は、こうした「労働」と「余暇」の二項対立そのものが問題だと考えます。
勤勉・勤労に価値を置く近代においては、つねに前方を見つづける「前のめり」の時間意識が支配的だと著者は主張します。そして、仕事中毒からの離脱願望としてのレジャー志向のなかにも、同様のエートスが息づいていると著者は指摘しています。たとえばジラールが分析した欲望の模倣のメカニズムは、われわれの欲望が同一の物語に回収され、一定の方向へと回送されていくことを白日にさらしました。しかし、有用性と有意味性の連関のこわばりに対しては、レッシングが功利主義者たちに問いただしたように「ところで効用の効用とは何か」といったような冷や水を浴びせてやることが、ときには必要なのではないかと著者は問いかけています。そのうえで、阪神大震災以降に日本の社会においても定着することになったボランティア活動に注目しながら、労働と余暇の二項対立から逃れ出る道をさぐっています。
著者の結論をわたくしなりにまとめてみると、「顔」という概念を軸にして、広い意味での「社会的包摂」のなかで個々人のアイデンティティが充実されていくことに「働くこと」の新たな意味を見いだそうとしているといえるのではないかと思います。 -
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大人のいない国
内田樹22冊目(鷲田清一との共著)
・教養についての考察が面白かった。なぜ自分はこのことを知らずにきたのか、知ることを拒んできたのかという、自分の無知の構造に目を向けられた瞬間に教養が起動するということや、教養とは自分のわかっていないことについてわかるということということがうなずけた。自分の経験から照らしてみても、さらに、この人ならこのことについて知っているかもしれないという風なセンサーが働いて、お願いできれば、たいていのことは何とかなるとも思う。
・人がそのかけがえのなさに気づかず、ないがしろにしているものに対して注意を促して、その隠された価値を再認識させる言葉の働きを「祝」と言い、そのことが主役となる「祝」の文体では、誰が言ったかは副次的要素となる。一方、不当な利益を占有している他者が、その不当な利益を失うことを強く念じることを「呪」と言い、これもまた、誰が言ったかは副次的な要素となる。「呪い」は誰から到達したものかいうことが出来ないという、発信者の欠如によって、機能する。そして、その呪いを行っている当の本人も気づかないことが多い。
・親族の構造分析にて、叔父と父から出される対立的・矛盾したメッセージが、もたらす葛藤が、子供を成熟へといざなう。このような矛盾したメッセージを子供がいっぺんに受けることによって、子供は「世の中には矛盾したことがある」というメタメッセージを受け取る。子供に理解できないメッセージを与えることで、絶えず子供の「理解できる容積」の改訂と拡大を要請する。これは、両親でも同じである。叔父と父は同性の親族であり、同性による成熟へのいざないであるが、これは両親でもおなじであって、同一の意見に充溢した家庭は「北朝鮮化された家庭」と同じで、子供を子供に留めてしまう。 -
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ネタバレこれからを生きていく人へ贈るメッセージ。
日本の現状に危機感を抱いた内田樹が,中高生へとメッセージを送るために様々な人へ文章を書いてくれるよう依頼をした。統一感はあるような,ないような。しかし,皆,日本の現状に(というか,現政権に)危機感を覚えている人たちである。出版されたのは2016年7月なので,書かれたのはその少し前とすると,その後,イギリスEU離脱が国民投票で決まり,トランプ大統領が誕生し,また日本は重要法案を急いで通そうとしている。危機は加速しているのでは。
戦後の,戦後すぐの平和主義がそろそろ機能しなくなっている,そう感じる。軍隊を持たない,平和を守る国でありたい,でも,他国に攻められたらどうするの? 尊い理念は尊い。でも,現実は。もっと話し合いをしたいと思う。相手の理論を叩きつぶすのではなく,全否定するのでもなく,落とし所を探る。それには時間がかかるけど。 -
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「臨床哲学」を提唱する著者が、震災以後の問題について論じた本です。
ところどころに著者らしい繊細な精神のきらめきが見られますが、意外にも紋切り型の意見が多く目につくように感じました。とりわけコミュニティの崩壊について論じている個所は、少なくとも表面的には、保守派の懐旧と重なってしまいます。
確かに、「語りきれないこと」というタイトルが表わしている問題は、どこまでも重く受けとられるべきでしょう。著者自身、震災からの復興のプランを声高に語るメディアや評論家を批判しながら、みずからの言葉が「語ることができない者に代わって語る」という身振りを反復していることを自覚していないはずはないと思います。それでも、現在の日本の哲学者の中では例外といえるほど細やかなことば使いと繊細な知性を示している著者にしては、ややことばが「鈍い」のではないかという印象を拭えませんでした。 -
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目もくらむようなスーパー秀才エリートだった人たちが、声をそろえてもはや反対することができない空気があったと言っている。ドイツ語で日記を書けるような、言葉を自由自在にあやつることができるエリートたちが、一億人の運命を左右するような決めごとを、最後には言葉でなく空気を読んで身を委ねたと語っている。
福島の原発事故直後の危機を回避するための政府首脳の重大会議、40年以上も続いた政府の憲法解釈を内閣の形式的合議だけで大きく変えてしまった経緯、いずれも議事録が残っていない。それが僕たちの国の致命的な欠陥だ。これはもう病気と呼んでもさしつかえないと思う。かつて有名な政治学者はこれを壮大なる無責任体制と呼んだ。 -
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この本さえ読めば素人でも哲学の使い方、仕方がわかると
いうようなハウツー本、マニュアル本ではないので要注意。
この現代という時において哲学とはどのような役割を果たす
べきか、どのようにあるべきか、そもそも哲学は意味ある
ものとして存在しうるのかどうか。哲学者が哲学者として
哲学と向き合う上で発せざるを得ない「悲痛な叫び」として
私はこの本を受け止めたのだが、さほど間違ってはいないと
思っている。
日本の教育には宗教教育(ある一つの宗教の教義を教え込む
のではなく、人間として宗教というものとどう向き合うか
を教える教育)が欠けているのが大問題であるのと同様、
哲学教育も欠けているのは大問題である、と思う。 -
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面白いタイトル。
サブタイトル「哲学者の都市案内」とあるように、京都をぽつぽつとカメラのように辿りながら、そこから「まち」とは何かという考察に昇華する。
すうっと一本道を歩いていたかと思いきや、深い思索の世界に飛んでいく、不思議な文章である。
暮らしをビジネスに破壊された町並みを空襲と例え、どこも均質化していく都市を非難する。
舞妓と坊主、三奇人、隙間、孔。
そういったきわもの、場末が確立しているからこそ、その中で人は学び移ろい、生きることが出来る。
なんでも平等主義、見え透いた善だけを頼りにしている人たちが読めば、なかなかのショックを受けるのではないか。
都市の孔は、そんな人たちによって抹殺されていく一方で、鷲田清一の形勢は不利に思える。
けれど、塞がったはずの孔が受け止めていたものは果たして?そんな、行き場のない不安を感じた一冊でもあった。