「好きな人の爪を切るというのは、こんなにも面白いことだったのか」
最近読んだ本の中で断トツ素晴らしかった…!生涯大切にしたい本です。
がんに罹患した妻を看取る夫の心情と、夫を通して見た妻の物語。
当たり前のことのようですが、日本人の死亡原因1位のがんで亡くなるとしても、一人として同じ最期を迎える人はいません。
夫は、妻をがん患者としてではなく、社会生活を営んできた一人の人間として、妻自身がなにをしたいのか、誰に会いたいのか、そして自分とどうやって共に過ごしていきたいのかを看取る瞬間まで、悩みながらも考え続けます。
フィクションとして読むと、そんなの当たり前やんって感じもしますが、実際看取りのときって相手を必要以上に''病人''として扱ってしまう気がします。私は成人してからの看取りの経験はないのですが、相手が家族なら余計、優しさゆえに大事なもの扱いしてしまうと思う。がんになったからといってこれまでの本人の全てが変わった訳では無いのに。
だから夫の思考や妻と接する姿は、ある意味「がん患者を患者扱いしすぎない」お手本のようで、最初は立派だけど現実味ないなぁと思いながら読んでいました。が、読み進めるにつれて、夫の姿はむしろめちゃくちゃリアルなのでは?と印象が変わっていきました。
夫は妻のことがシンプルに好きで、きっと最初は恋だったものが愛となり、そして自然に妻自身を尊重したい、妻と過ごす時間を大切にしたいと考える夫になっていったんだと思います。
例えば、感想冒頭の「好きな人の爪を切るというのは〜」は、だんだん自分の身の回りのことができなくなる妻の髪を梳かしたり爪を切ったりする場面の夫の内心なんですが、文中にこういう妻への「好き」がちょこちょこと出てきます。
妻に直接「好き」だと伝える場面はないですが、だからこそ小説として夫の内心を読ませてもらってるこちらには、その気持ちが妻への正直な愛情として伝わりました…!あと結婚20年ぐらい経っても心の中で妻のことを「好き」と思えてることってめちゃくちゃかわいい!笑
また、看護師さんから話しかけられた時などに、夫は「(妻も)自分でできることは自分でやりたいはずだ」として、極力妻が返答するようにしていたところもすごく大事な視点だと思いました。
看取りに限らず、介護や子育てにおいても、ついつい「やってあげよう」として、本人の自尊心ややる気を削いでしまうことってあるあるなので。
*以下ネタバレ
死別した瞬間で物語が終わらなかったところもよかったなあ。夫自身何度も言葉にしていたように、「死の瞬間」に立ち会うために見舞いに来てるわけじゃなくて、「今この瞬間」のために逢いに来てるんだから。死別してもこちらの生活は続くわけですから。
そして山崎ナオコーラさん著を読むのは初めてでしたが、夫の人間関係、社会関係における絶妙な距離感や微妙な違和感を言語化するのが上手すぎる…!
夫の夢に出てくる妻が、最近の病気の状態からだんだん昔の元気な姿で現れるようになったという描写も、夫と妻の''距離''が離れていくのを現していてすごかったです。
「離れていく距離さえも美しい、遠くても関係さえあればいい」 ─── 「距離が離れる」ことはどうしてもネガティブな意味に捉えてしまうけど、その距離さえも一つの在り方だと、そう思える人を私も大切にしていきたい。
読後は、大事な人と向き合う時間や距離の変化を意識できる、つまり余命を宣告されてタイムリミットを知ったうえで死を迎えることのできる、がんという亡くなり方をあまりにも前向きに捉えられるようになってしまいました。
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【随所の感想】
夫が妻のお見舞いに訪れることについて、お義母さんから「ありがとうございます」と言われる。その度に主人公(夫)が違和感を抱く描写
ーーー こちらは来たくてきているのだからお礼を言われるようなことではない、という気持ちと、お礼を言う側=自分(夫)より妻に近しい身内の人間である気がするいう感覚。感じたことないけどわかるわ…!自分が夫の立場ならお邪魔してます」って言ってほしいかも。
転院する病院によって、治療方針が「改善のための治療」から「最期の過ごし方をケア」に変化する描写
ーーー 自分がどう生きたいかではなく、医療体制や外部社会から「生」の段階を突きつけられるということ。もどかしさは計り知れないし、それを受け入れた上で、自分に合った生き方を選び直すには、さらに相当な時間と心の整理が必要になるだろう。
延命治療をしない=生きる未来を諦めているわけではない、ということ
ーーー めちゃくちゃわかる…!多分自分も同じ感覚。でも上手く言語化できない…。がんの治療はまだ生き続けられる身体にするための治療、延命治療はもう生き続けられない身体をこの世に繋ぎ止める治療。だから延命治療で伸びた寿命は私のものではないって感じかな。
「まだ余命とかという段階ではないの?」
ーーー そんなん聞くなよ!!
「二人の生活のためにサンドウィッチ屋を経営しているのではなく、社会活動としてやっているのだ」
ーーー このマインドで個々が自立した夫婦になりたい
紫陽花はガクが色づいているんだって。初めて知った。
亡くなる直前の呼吸の描写は、きちんと裏取りされたものなのだろうということが伝わってきた。死はこうやって急に、でもじわじわと込み上げてくるのかな。
死後、妻に着せる服について、二人(自分)の思い出のワンピースを着せたいと思っていたが、妻が生前魂を捧げたパン屋の服装にしようという義母からの提案に、目からウロコ状態になる夫
ーーー 自分も夫と同じ発想になりやすい性格だからこそ思うけど、これは妻の気持ちを蔑ろにするような間違っている感覚では無い。でも「かつての妻(と自分)」に目を向けた発想であって、「今の妻」が大切にしていたものとは違う。残された側が「自分のための思い出」ではなく、「その人自身が大切にしていたもの」に目を向けるって、やっぱり簡単じゃないんだなあと改めて感じた。
妻の葬儀の手伝いに、自分の知り合いではなく妻の知り合いに声をかけるシーン
ーーー こういう対応ができるように、家族の交友関係は知っておきたいなと思う。
「(綺麗に化粧は施されているが、生前の妻とは全く違う、死に)顔を見たくない、見せたくない」
ーーー この感覚はまだ自分には分からなかったなあ。自分は大人になってから葬式に参列したことがないから、葬式のシーンで世間話したり夫に妻の病状についてはっきり聞いたりする描写は意外だった。案外日常の延長みたいな、悪くいえば野暮な空気なんだなぁという印象を持ってしまった。
「関係が遠くなるのもまた嬉しい」
ーーー とてつもない信頼と情愛がないと、そんなふうに思えないだろうなあ。その人との関わりすべてを、距離も含めて愛おしむような、穏やかな愛。そんな気持ちを自分も抱ける日が来るだろうか。
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【響いた言葉】
●主人公(夫)
仕事というものを、誰かを幸せにする行為だと思い込んでいた。他の誰かを幸福にする代わりに自分が社会で生きていくことを許されるのだ、と。だが、違うかもしれない。幸福だの不幸だのというのは当人の感覚で判断するもので、他人がジャッジできるものではない。〜〜〜本当の「ありがとう」、本当の「幸福」だけを求め、社会に役立つ自分に酔おうとしたばかばかしさに思い当たった。
病気になると実年齢を離れるのだろうか。子どものように他人から扱われる。
来年まで生きると思っていないのだろう。でも、そういうことを言ってこちらを困らせる気もないのだろう。言葉を詰まらせて、ちょっと笑うわけだ。
しかし、これまではずっと、未来を見ることで明るく生きてきたのだから、未来を見ずに明るく生きる方法が、今はわからない。
配偶者というのは、相手を独占できる者ではなくて、相手の社会を信じる者のことなのだ。
好きな人の爪を切るというのは、こんなにも面白いことだったのか。
だから、「上手くいかなくなってしまう人間関係」を作っているのはこちらの感受性の問題なのだろう。
「忌引き」という休みがあるが、死んでから休みをもらってなんになるのだろう。むしろ、死ぬ前に休みが欲しい。
鼻に酸素の管、腕に点滴、尿道にカテーテルが差し込まれていて、体が管だらけな上に、手にミトンをはめさせられた姿は痛々しく、人間らしさがうすくなって、屈辱的な環境に貶められているようにこちらからは見えた。でも、「では、管に繋がれていなければ尊厳のある状態なのか」と改めてかんがえると、そんなに単純なものでは無い気もしてくる。「自然な状態」という既成の理想を頭に置いて、「みていられない」とこちらの勝手な感性で捉えるから、尊厳がないとか自然ではないとかといった感覚を味わうだけのことかもしれない。
死の瞬間を、大事な瞬間のように捉えたくない。死の瞬間なんて重要視していない、それのために見舞いに来ているのではない、今のこの瞬間のために見舞っているのだ、と医者にもみんなにも声高に訴えたい。
●妻
「〜〜〜元気がなくても社会と関わりたい。元気がない社会人だっている」
「仕事相手は大事だよ。自分がこの社会に存在することを許してくれる」
●解説より
いい小説が備えている美点のひとつに、読む前にはなかったものの味方を与えてくれるという効能がある