村上春樹のレビュー一覧
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「僕はふとしたことで家出をしたまま二度と家に戻れなくなってしまった。家に戻るための道を忘れてしまったのだ。僕は何度もそういう夢を見たことがあった。それは少年時代の僕の悪夢だった。行き惑うこと、戻る道を失うこと、もう長い間、そんな夢のことを忘れてしまっていた」
この文章を読み、ここだけは、わたしも主人公と同じだと思いました。ただ、わたしの場合は、子どもの頃ではなく、大人になってから、行き惑い、戻る道を失う夢を見るようになりました。目が覚めて「夢でよかった」とホッとして、夢のディテールはすぐ忘れます。現実に戻ると、迷いや不安はとりあえず脇に置き、日々、すべきことに追われ、病気や怪我を負えば、痛みとの戦いです。
第1部「泥棒かささぎ編」で、登場人物の一人、加納クレタは言いました。
「私の言う痛みとは純粋に肉体的な痛みのことです。具体的に申し上げれば、頭痛、歯痛、生理痛、腰痛、肩凝り、発熱、筋肉痛、火傷、凍傷、捻挫、骨折、打撲…そういった類いの痛みのことです。私は他人より遥かに頻繁に、そしてずっと強くそのような痛みを体験しつづけて参りました」
加納クレタほどではないにしても、痛みの苦しさはわかります。痛みとの戦いが生きることの証のようにも思えます。そして、また夜になれば、眠りの中で無意識の夢の世界に潜り、目覚めれば夢のディテールは忘れて現実を生きる…その繰り返しです。
主人公の岡田は、仕事を辞め、今は、現実社会から距離を置いた状態です。そして、自分の心の奥深くと向き合うことを選んでいきます。地上から隔絶された枯れ井戸の底に降りていく場面が印象的でした。
井戸の底で、目を開けていても自分の手のひらすら見えない暗闇の中で、肉体の存在は不確かなものとなり、のどの渇きや、空腹、息苦しさといった感覚だけが残ります。記憶・意識・感情・感覚がさまよう闇の世界は、自己と向き合うのにふさわしい世界だと思いました。
実際に、自分が井戸の底に行って、生死の境をさまようことはできないし、したいとも思いません。でも、読書する中で現実を離れ、意識の奥に潜り込んでいくような体験は貴重で、ある種の癒しにもなると感じました。 -
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村上春樹を刊行順に読むプロジェクトにおいては、「ねじまき鳥クロニクル」の次は「スプートニクの恋人」だったのだが、「村上春樹、河合隼雄に会いに行く」を読んだら、一個飛ばして先にこっちを読みたくて仕方なくなって、手に取った。
地下鉄サリン事件のことはもちろん知っていたし、子どものとき、クラスでは「しょーこーしょーこーしょこしょこしょーこー♪」の歌をみんなで歌ったりもしていた。でももちろん、自分からは遠いものだった。というか、それに対してなんか分かるそぶりでも見せようものなら自分もこの社会の枠の線の外に追いやられるような感じのもの。それがオウム真理教で、地下鉄サリン事件はその人たちが起こしたものだった。禍々しいものという感じだった。
読んでみると、知っていたはずだったのに、驚くほど自分が普段使っている路線で起きたことなのだと実感されて、すごく怖くなった。
丸の内線も、日比谷線も、千代田線も。ほとんど毎日のように使う。時が違えば、自分も自分の同僚たちも、巻き込まれていた可能性があること。
最初は快調に読んでいたのだけど、中ごろあたりから、リアルの自分が落ち込みはじめているのを感じた。わけもなく悲しく、イライラするようになった。眠って体力を回復してまた読んで落ち込んで、眠って…というのを繰り返して読み切った感じだった。そこまでして読まなくてもいいんじゃないかとも思ったけど、なぜか、誰一人の物語も余すことなく読み切らねば、受け止めねばと思った。特に最後の二組のもの。両方とも亡くなった被害者のご遺族へのインタビューのまとめ。亡くなったということもあるのだと思うけど、読んでいてすごく辛かった。涙も出てきた。
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いよいよ、青豆と天吾の世界が重なる展開。
新興宗教団体のリーダーは、本当の「黒幕」ではなかった。
彼もまたリトル・ピープルに利用される存在だったということがわかるのだが…
リトル・ピープルは超自然の存在。
ヤギの死体から現れたり、人数も自在に変えられたり。
宗教コミューンの暗部に切り込んでいく社会派小説と思っていたので、突然のファンタジー展開にやや戸惑う。
青豆がふかえりの「空気さなぎ」を読むことで、不可解なリトル・ピープルや空気さなぎのこと、1Q84という世界のことが少しわかってくる。
リトル・ピープルは選ばれた少女に空気さなぎを作らせ、そこに彼女とうり二つの「ドウタ」を作らせる。
ドウタはマザ(元の少女)のレシヴァ(受信者)となり、知覚をパシヴァ(知覚者)であるマザに送る。
生きているドウタは、リトル・ピープルの世界とこの世をつなぐ通路となる。
ドウタの眼ざめにより、月は二つになり、それぞれにマザとドウタの心を映すようになる。
ドウタを失うとマザは、心の影を失う。
これが「空気さなぎ」の物語で、「1Q84」冒頭から出てきた二つの月の謎がやっと解ける。
ふかえりの美しい耳の描写がやけに生々しくされるのが気になっていたが、それは彼女がパシヴァだからであり、彼女の父(さきがけのリーダー)が「聴くもの」であったことと関わっているのだとやっと理解した。
天吾が手を入れて公開したふかえりの「空気さなぎ」は、彼らの世界支配への「ワクチン」になりうるために、天吾の周辺の人たちを消していく。
認知症になっていた父が危篤状態になり、駆け付けた天吾は、そこで空気さなぎから青豆が生まれていくのを目にするところで、この巻は終わる。
生身の青豆と天吾はまだ出会えていないが、たぶん早晩出会うことになるだろう。
決して単なるハッピーエンドには終わらないだろうという予感がする。 -
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映画『ドライブ・マイ・カー』が素晴らしくて村上春樹の原作読んだときは断然映画が好きだった
この前観たアニメ映画『めくらやなぎと眠る女』も良かったので(ねじまき鳥の鳴き声が聞ける!)、その映画の原作ではないけど『1Q84』をなんとなく読み始めた
半分くらいまで読んでみて、村上春樹の長編を映画化するのは難しいのではないかと思い始めている
とにかく現実世界と架空世界の情景描写や心理描写が映像が浮かぶくらいに精緻だから、これを映画化した場合、とんでもなく長時間の映画になると思うし、頑張って3時間くらいにまとめたら原作のスーパーダイジェスト版になってしまう(原作者は別だけど映画『国宝』でそれを強く感じた)
ちなみに最初に挙げた映画は、原作短編に大幅な創作を加えるとか、原作短編6編を再構成するとか、映画監督のオリジナリティがかなり入っている(そしてそれがうまく融合している)
I absolutely loved the movie "Drive My Car," and when I read Haruki Murakami's original story, I definitely preferred the film. I also recently watched the animated movie "Blind Willow, Sleeping Woman" (you even get to hear the "Wind-Up Bird Chronicle"!), and although it’s not based on the original story of that film, I somewhat randomly started reading "1Q84."
After getting about halfway through, I'm starting to think that adapting Haruki’s long novels into movies might be really difficult.
Both the real world and the imaginary world he creates are depicted so intricately—his descriptions of scenes and psychological nuances are vivid enough to conjure images like a film. If this were adapted into a movie, it would be an incredibly long film, and trying to squeeze it into around three hours would turn it into a super-condensed digest version of the original (I felt this strongly with the movie "National Treasure," though that’s based on a different author).
By the way, the movies I mentioned earlier add significant original elements to the original short storiy or rearrange six original short stories, incorporating a lot of the director’s originality—which, importantly, blends together very well. -
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以前「心は孤独な狩人」を読んだ時とは大きく異なる印象のマッカラーズ。心は孤独な狩人は現代社会にも通じる閉塞感について考えさせられる一冊であった(らしい。自分の感想を見る限りではある)けれど、この何とも奇妙な物語は何かを静かに考えさせるという雰囲気は、一見、ない。訳者の村上春樹も最初に読んだ時の印象をこう語っている。
『これはいったいどういう小説なのか? いったいこの小説は何を語ろうとしているのか? この本を読み終え、多くの読者はそのような疑問と戸惑いを抱いたまま、あとに取り残されることになるかもしれない。最初に読み終えたとき、正直言って僕もそんな読者の一人だった』―『訳者あとがき』
時代がかった西部開拓時代を思わせる舞台。作家マッカラーズにとってはひょっとすると馴染の風景であったのかも知れないが、白黒の西部劇に出て来そうな半ば治外法権的な雰囲気が漂うNowhere、どこでもない町。物語としては、荒くれもののカウボーイ達が夜中に荒野のただ中で焚火を囲みながら針小棒大に語る与太話、といった印象。
村上春樹は、ここに登場する三人の登場人物たちの間を繋ぐ一方方向の感情を、「愛」という概念に昇華させこの短篇の持つテーマを一般化させてみるが、物語としてはとてもそんな生易しい言葉でここに蠢く感情を感じ取ることはできない。まず、三人の登場人物は誰一人としてどこにでもいるような普通の人ではない。誤解を恐れずに言うなら、正面から向き合うことを躊躇わせるような人々。男として、あるいは女として、という世間がはめたがる典型的な型から逸脱した人物。その意味では現代的なテーマである「多様性」というものを捉えていると読めないこともない(作家がそんな言葉に集約される概念に機微であった可能性はあるだろう)。そして確かに三人の間にある感情は輪舞のような関係にあり、その捻じれ方にも一般的と言われる形ではない関係性が描かれており「包摂」というテーマを読み取ろうと思えば読み取れる(再び、1967年に50歳で無くなった作家がそのような現代的なテーマに既に気付いていたとするならば。確かにこれは古くて新しい問題ではあるし、心は孤独な狩人の印象からすれば可能性はあるだろう)。しかし、それがどこかに着地するような展開は訪れない。少なくとも、ここまで救いの無い物語である必然性を、残念ながら自分は読み取れずにいる。もちろん、本質的にはそれが容易に答えの出る問題ではないとは思うけれど。
この短い物語に添えられた山本容子の銅版画は、挿絵という概念を越えて多くの頁の背景に(時に文字の配置さえも規定するように)表れる。それも抽象的な背景の描写ではなく、作中の人物を具体的に表現する形で。何となく二つの物語を同時に読んでいるような印象を持つほどに独立した作品という感じが漂う。ただ、これは好みの問題だとは思うけれど、主人公の顔や容姿をこんな風に見せられてしまうと、自分は返って物語の世界に没入し難いのだけれど、他の人たちはどうなんだろう。 -
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青豆、天吾、二人の接点がいよいよ明らかになる。
けれども、まだ大人になってからの二人は出会わない。
物語として局面が一つ大きく進んだ感がある。
教祖が少女に対し性的暴力をふるっている。
その被害者であるつばさは、マダムに保護されたはずなのに、ホームから忽然と姿を消す。
それどころか、女性警官のあゆみまで殺害される。
青豆はマダムの依頼を受け、「最後の仕事」として、この教祖を殺すべく、整体師として教祖のもとに向かう。
―えっ?ラスボスがこんなに早く現れる?
と思ったら、どうやら彼自身も超自然的な力に操られ、放っておいてもやがて朽ちて死んでいく運命にあることが判る。
むしろ、彼の後継者を欲しがっている「リトル・ピープル」の動きを封じないことには、つばさたちを守れないのだ。
一人のカリスマより、組織の方が怖いということか。
一方、天吾の物語でも、女性が姿を消す。
彼の「ガールフレンド」であった人妻、安田恭子が「失われ」る。
これは、リトル・ピープルが関わっているのか、まだよくわからない。
ふかえりの文章を書き替え、世の中に放ってしまったことで、彼自身が危険視され、監視されていく。
不穏な気配が濃くなっていた。
天吾が認知症を発症して今は介護施設にいる「父」を訪ねる場面がとても印象的だった。
天吾は、これまで苦しんできた父や母との関係に、少しずつ気持ちの整理がついてきているようだが、おそらく血がつながっていない天吾を、どんな思いで育てていたのか。
それは今後も明かされることはないのかもしれない。
猫の町の話は、次の展開に何か大きな意味があるのだろうか。 -
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中高生のときに「華麗なるギャツビー」を読んで、それから「雨の朝パリに死す」を読んで、なんとなくフィッツジェラルドという作家の醸し出す雰囲気みたいなのを背伸びしていいなぁと思おうとしているようなところがあった。
なんか人間の切なさみたいなのを絶妙に掬い上げるような感じの印象があって、それ自体がなんかすごくわかるような感じでいることがカッコいいことのように思っていた。太宰の「人間失格」を読んで、自分はこの感じわかる、と言いたいようなああいう感覚。若い時特有の。
それで今大人になって、だいぶ久しぶりにフィッツジェラルドを読んだら、わかる気がするというより、分かってしまう、という感覚だった。でも本当は人生、この感じはわからないほうが幸せなんだろうということも含めて。大人になって分かってしまうそれは、人間のカッコ悪いところだったのだ。そしてそのカッコ悪さがあるところが、どうしようもない人間くささで、フィッツジェラルドという人は、自分が多分にそのカッコ悪さを抱えていることを分かりながら、そんな自分をどこがで愛おしいと思ってること(=自分のことを愛おしいと思うというより、人間のその性質を愛おしいと思っている)を隠さず示している人なのだと感じた。それはなんというか壮大な励ましで、この人がそういうならそうなんだろうっていう、生き様も合わせた迫力のある存在の人なんだ、な。 -
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1995年は阪神大震災と地下鉄サリン事件が起こった年。地震と宗教、共通点があるはずはないのですが、同じ年にこの二つの出来事が起きたということは、この世には人の手の届かない何か大きなものがあるのでは?そしてその大きなものを村上春樹は知っているのでは?などと思わせるような不思議な短編集。
登場人物は、被災者や被害者ではないけれど、この2つの出来事が心に小さな余波を残している人たち。独特な文体を取り混ぜて、言葉を話すカエルや天の光の中でひたすら踊る若者など不思議なキャラクターも登場します。彼らが何を抱えているのか、何をしたいのかはさっぱりわからず、ただ淡々と流れるように物語が進み、結局謎のまま終わり。でも心に何かが残ります。メッセージがあるとすれば、「静まり返った心のいちばん深い場所でそれは起こった。生きること、死ぬこと、そして眠ること。」という一節か。