村上春樹のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ネタバレ(全巻同じレビューを入れています)
・・・
なんだか本作、キャラの作り・彩りが他の作品より豊富かつ精緻であったと感じました。
・・・
一番感じたのは天吾。
天吾は、これまでの村上作品でいうところの「僕」に当たると思います。
たいてい「僕」は文筆・広告関連、或いは飲食関連を生業にしつつ、音楽好き・思想や文学をそらんじ、気怠く生きつつも(あるいは彼なりに模索をしつつ)女性と交わりつつ、そして世の中のフシギと対峙し、最終的に大団円を迎える、みたいな感じでした。そんな彼ですが、不思議とどういう背格好かとか、そういうのは記述がなかったんですよね。まあそれはそれで味がありました。自分を重ねて読むこともできました。
でも今回の天吾は家族構成、身体的特徴(柔道耳!)、大柄でスポーツも数学的センスも(実際は音楽センスも)あり、とにかく器用であることなど、非常に細かい設定であったと思います。よくも悪くも、自分を投影するキャラではなく、外から眺めるべき主人公でありました。
・・・
もう1人の主人公青豆はややラフな作りこみで、彼女の家族の話は余り描かれず、むしろ柳屋敷の女主人やタマルなど、遊び友達の中野あゆみなど、周囲の際立ったキャラとともに物語を彩り深いものにしていたと思います。
もう1人、やはり出色のキャラは牛河でしょう。本作で一番印象深いトリックスター(という程ではない!?)だったかと。実は司法試験合格者とか医者の家の子だとか。こういうのは初めて読んだときに記憶に残りませんでした。
でも彼のこと、他の作品でどっかで読んだ気がしたけどどこで見たんだろうと、気になって仕方なく、googleで検索したら『ねじまき鳥クロニクル』 (1994)で出ていました。そうそう、「僕」の元を離れた奥様の兄の綿谷ノボルの秘書としてでした。
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その他、ふかえりの育ての親の戎野先生、編集者の小松など、かなりエッジのたったキャラが自然な形でそのポジションを占めていたと思います。
あと、17歳で文学賞を受賞したふかえり、あれは綿矢りささんが高校生で芥川賞を受賞したことの影響じゃないかとか、さきがけ・あけぼのってのもオウムの影響じゃないかとか、諸々想像させるところがありましたね。
・・・
もう一つ。終わり近くまで殆ど考えませんでしたが、タイトルについて。
本タイトル、もちろんかのディストピア小説の『1984』を承けたものでありますが、本作は「9」「Q」になっており、一種のパラレルワールドへ迷い込んだという設定です。実際にはパラレルではないとの説明がありましたが。
で、天吾と青豆は会えそうで会えないすれ違いを、結構延々と、最後の最後まで繰り返すのですが、最終巻の第三巻に至ってまだ会えないところで、私気づきました。
そう、この物語は年末までに終わらねばならない。なぜならば、タイトルがそうだから。85年を跨がないように、タイトルが84年となっている。
実は第一巻は4-6月、第二巻`は7-9月、第三巻は10-12月とサブタイトルが振られています。そしてキチンをけりをつけるべく、収束していったことに感心した次第です。
上手く表現できませんが、何というか、タイトルの制約を内容に反映させた?ような作りが面白いと思いました。
・・・
ということで村上作品でした。いやー長かった。10日間弱、読むのにかかりました。
ところで、私の初めて読んだ村上作品は『ノルウェイの森』(1987)でした。そして帯には『究極の純愛』とか何とか書いてあったと記憶します。
そこから20年を経て上梓された本作、これもまた『究極の純愛』と呼んでも良い作品であったと思います。
堪能致しました。 -
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ネタバレ(全巻同じレビューを入れています)
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なんだか本作、キャラの作り・彩りが他の作品より豊富かつ精緻であったと感じました。
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一番感じたのは天吾。
天吾は、これまでの村上作品でいうところの「僕」に当たると思います。
たいてい「僕」は文筆・広告関連、或いは飲食関連を生業にしつつ、音楽好き・思想や文学をそらんじ、気怠く生きつつも(あるいは彼なりに模索をしつつ)女性と交わりつつ、そして世の中のフシギと対峙し、最終的に大団円を迎える、みたいな感じでした。そんな彼ですが、不思議とどういう背格好かとか、そういうのは記述がなかったんですよね。まあそれはそれで味がありました。自分を重ねて読むこともできました。
でも今回の天吾は家族構成、身体的特徴(柔道耳!)、大柄でスポーツも数学的センスも(実際は音楽センスも)あり、とにかく器用であることなど、非常に細かい設定であったと思います。よくも悪くも、自分を投影するキャラではなく、外から眺めるべき主人公でありました。
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もう1人の主人公青豆はややラフな作りこみで、彼女の家族の話は余り描かれず、むしろ柳屋敷の女主人やタマルなど、遊び友達の中野あゆみなど、周囲の際立ったキャラとともに物語を彩り深いものにしていたと思います。
もう1人、やはり出色のキャラは牛河でしょう。本作で一番印象深いトリックスター(という程ではない!?)だったかと。実は司法試験合格者とか医者の家の子だとか。こういうのは初めて読んだときに記憶に残りませんでした。
でも彼のこと、他の作品でどっかで読んだ気がしたけどどこで見たんだろうと、気になって仕方なく、googleで検索したら『ねじまき鳥クロニクル』 (1994)で出ていました。そうそう、「僕」の元を離れた奥様の兄の綿谷ノボルの秘書としてでした。
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その他、ふかえりの育ての親の戎野先生、編集者の小松など、かなりエッジのたったキャラが自然な形でそのポジションを占めていたと思います。
あと、17歳で文学賞を受賞したふかえり、あれは綿矢りささんが高校生で芥川賞を受賞したことの影響じゃないかとか、さきがけ・あけぼのってのもオウムの影響じゃないかとか、諸々想像させるところがありましたね。
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もう一つ。終わり近くまで殆ど考えませんでしたが、タイトルについて。
本タイトル、もちろんかのディストピア小説の『1984』を承けたものでありますが、本作は「9」「Q」になっており、一種のパラレルワールドへ迷い込んだという設定です。実際にはパラレルではないとの説明がありましたが。
で、天吾と青豆は会えそうで会えないすれ違いを、結構延々と、最後の最後まで繰り返すのですが、最終巻の第三巻に至ってまだ会えないところで、私気づきました。
そう、この物語は年末までに終わらねばならない。なぜならば、タイトルがそうだから。85年を跨がないように、タイトルが84年となっている。
実は第一巻は4-6月、第二巻`は7-9月、第三巻は10-12月とサブタイトルが振られています。そしてキチンをけりをつけるべく、収束していったことに感心した次第です。
上手く表現できませんが、何というか、タイトルの制約を内容に反映させた?ような作りが面白いと思いました。
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ということで村上作品でした。いやー長かった。10日間弱、読むのにかかりました。
ところで、私の初めて読んだ村上作品は『ノルウェイの森』(1987)でした。そして帯には『究極の純愛』とか何とか書いてあったと記憶します。
そこから20年を経て上梓された本作、これもまた『究極の純愛』と呼んでも良い作品であったと思います。
堪能致しました。 -
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第二部になってようやくこの物語の大筋、トオルのすべきこと(?)がわかって来た。居なくなったクミコを“連れ戻すこと”。待ってても絶対帰ってこないし、クミコの手紙は事情を説明してるようで核心は隠している。
物語がどんどん進んで来たぞーと思ったら、新しい人物•新しい要素•新しい謎がどんどん追加されて、もうこの物語がどこにどう着地するのか全く検討がつかないよ!!
間宮中尉からの手紙、ノモンハンでの出来事は違う作品を読んでるのかってくらいその時代その場所に引き込まれた。急に戦争の話??!と思ったけど、まあこれも後々関係があるんだろうなあ。と思ってたら井戸!!
何!どういうこと!全くわからない、けど面白い。 -
Posted by ブクログ
心理学フィールドにいる私にとって河合隼雄の存在感は大きく、言わずもがな現代における村上春樹の影響も大きいわけで、この本が1998年に出版されたということに気づけなかった。
スマホも、(少なくとも今のような)インターネットも無い時代で、コロナの経験も持ち合わせていない。対談の中で掘り下げられる生き方は、今のそれとは大きく違う。そして何より大きな違いは、当時の「臨床心理士」、心の専門家の社会の中での位置付けかもしれない。人のあり方を、心や行動に還元せずに全体として、あたかも唯一の答えがあるかのように語り得る専門家が、この時代には存在していたのだろう。
時代を超えて読みに耐える普遍性を携えた一冊に見えて、案外この時代、この瞬間にしか生まれ得なかった奇書なのかもしれない。 -
Posted by ブクログ
「村上ラヂオ」のシリーズは3冊出ている。
2「おおきなかぶ、むずかしいアボカド」
3「サラダ好きのライオン」
なんと、2と3は9年ほど前に読んでいる。しかもこれが初・村上エッセイで、その発想力にいたく感動していた。
「村上春樹って、超ベストセラー作家だけど、私には理解できないかもしれないな」と、ずっと思い続けて何年だろう、「サラダ好きのライオン」を読んで、あら?面白い発想の人なんだ?!
と、村上エッセイのファンになったのである。
その後買っておいた本書を今読む。
2000年頃にアンアンに連載されていたものらしい。
アンアンの読者が、このエッセイを毎回どんなふうに読んでいたのかに興味はある。
しかし、25年後の今、私が読んでも面白い。 -
Posted by ブクログ
「人はときとして、抱え込んだ悲しみやつらさを音楽に付着させ、自分自身がその重みでばらばらになってしまうのを防ごうとする。音楽にはそういう実用の機能がそなわっている。」
I really resonate with this part. I believe music, memory, and emotions are deeply connected. To keep my mental health in check, I sometimes listen to songs I used to play during better times. -
Posted by ブクログ
この作品は、1990年1月の発行。これの前の短編集が「パン屋再襲撃」で1986年の発行なので、少し間が空いている。ただ、村上春樹は、初期の頃には短編集を頻繁に発表していたが、「パン屋再襲撃」以降は、その頻度ははっきりと落ちている。この「TVピープル」の次は、1996年の「レキシントンの幽霊」。そこからの短編集は、2000年の「神の子どもたちはみな踊る」、2005年の「東京奇譚集」、2014年の「女のいない男たち」、2020年の「一人称単数」となる。また、長編発表とのタイミングで言えば、本作の前は、1988年の「ダンス・ダンス・ダンス」、後が1992年の「国境の東、太陽の西」、また、1994年には「ねじまき鳥クロニクル」を発表している。村上春樹としては、小説作品を比較的多作していた時代と言えるかもしれない。
文庫本の小説(小説に限らずだけれども)には、普通、「解説」がついている。作家以外の人が、その作品についての背景を語ったり、あるいは、作品そのものについて説明を加えたりするものである。ところが、私の記憶の限りにおいて、村上春樹の文庫の小説作品には、「解説」が付されていない(単行本には、村上春樹の作品に限らず、普通、「解説」が付されていないので、村上春樹の小説には、という言い方をしても良いと思うが)。「解説」を付けるかどうかを誰が決めるのかは知らないが、普通に考えると、村上春樹が「自分の小説には解説を付けて欲しくない」と言い、出版社がそれに従ったと考えるのが自然であろう。だから、村上春樹の小説の感想を書こうとすると、「解説」の助けなしに、小説そのものに向き合って考えて書くしかない。それが、村上春樹が読者に対して望んでいることだと思う。
この短編集には、6編の短編が収められている。その中で、自分が一番好きだったのは、3番目に収められている「我らの時代のフォークロア -高度資本主義前史」だった。
「フォークロア」というのは、小説中に「民間伝承」と説明が加えられている。小説は、「これは実話であり、それと同時に寓話である。そしてまた、我らが1960年代のフォークロア(民間伝承)でもある。」と始まっている。ネットで調べると、「民間伝承」とは、「昔から人々の間で語り継がれてきた習慣、信仰、儀礼、説話、民謡、諺などを意味します」とある。
主人公は1949年に生まれた男性である。1960年代に青春・思春期を過ごした。その時代は、主人公によれば、色々なものが洗練される前の時代、すなわち、「高度資本主義前史」の時代であった。主人公は、中部イタリアで偶然に高校の同級生に会い、彼の話を聞く。同級生は、いわゆる「優等生」であり、その後も東大に入り、商社に入社し、その後、自らビジネスを始めて成功する。彼は、高校時代、これも非の打ちどころの無い「優等生」だった女性とつき合っており、彼の話は、高校時代から、32歳(だったよな)までの、彼から見た、彼と彼女のつき合いについてのものだった。主人公は、この「優等生」が苦手だったのだが、異国での偶然の再会でもあり、また、彼の話の興味深さにひかれていく。
彼の話の内容は省略するが、主人公は、短編の最後に、「でもこれは彼の身に起こった話であり、我々みんなの身に起こった話である。」と書いている。要するに、彼と彼女に起こったことは、同じ時代を生きた「我々」の誰にでも起こる話であり、だから、その話が「フォークロア(民間伝承)」であると言っているのである。
私自身は、まずは、それに違和感を覚えた。主人公の昔の同級生の話は、ありふれた、誰にでも起こる話ではない。「高度資本主義前史」である、1960年代の彼らの青春時代にありふれた話とはとても思えない。あるいは、村上春樹は、「こういった話がありふれたものであった時代が1960年代だった」と言っているのだろうか。と考えて、もう少し別の解釈もあり得るな、と考えるようになった。すなわち、彼と彼女の物語の細部は、よくある話ではないが、高校生の男の子と女の子が出会い恋をして、お互いのことを思いながらも不器用にしか相手に接することができない。そのうち、別れてしまい、記憶も薄れていくが、でも、心の奥のどこかで相手のことを思いやっている。そういった歴史はかけがえのないものであり、それを壊さないように、自分たちは生きており、それは、同時代の皆も同じだよね、と語りかけている、と解釈すれば、この題名は理解できるし、物語としても、より美しいものとして読める。