村上春樹のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
第二部を読み終えて強く印象に残ったのは、
出来事が起きることよりも、
むしろ「次々と人が去っていく」ことだった。
猫が消え、
妻がいなくなり、
加納クレタが離れ、
笠原メイもまた距離を取る。
主人公の周囲は何かで満たされていくのではなく、
静かに空白によって形作られていく。
それは劇的な別れではなく、
説明のつかない形で
関係そのものが剥がれていく感覚だった。
世界との接続が、
一つずつ抜かれていくような印象が残る。
第一部で感じられた「空洞」は、
第二部ではより明確に、
外界とのつながりの喪失として現れていた。
その流れの中で、
井戸というモチーフが持つ意味が
より深く立ち上がってきたように思う。
井戸の底へ降りる行為は、
一見すると異世界や夢の世界へ向かう入口のように見える。
しかし実際に起きているのは、
外の世界への移動ではなく、
自分自身の深層へと降りていくことだった。
横に進むのでも、
上へ向かうのでもなく、
ただ「下へ降りる」。
それは、
社会的な自分や他者との関係から切り離され、
より根源的な自己へ近づいていく動きと重なっている。
周囲の人々が去っていくことと、
井戸へ降りていくイメージは、
互いに無関係ではないように感じられた。
外界との接点が失われていくほど、
人は内側へと向かわざるを得ない。
井戸は逃避の装置ではなく、
必然的に訪れる下降の象徴として現れている。
第二部は、
何かを得る物語ではなく、
むしろ喪失によって世界が静かに変質していく過程を描いていた。
その中で井戸は、
異世界への通路ではなく、
自己の深層へと通じる入口として機能している。
読み終えたときに残ったのは、
出来事の印象ではなく、
外界から切り離されながら
内側へと降りていく感覚そのものだった。 -
Posted by ブクログ
有名だけどあらすじ含めて何も知らない古典は読んでおきたい、と思って手に取った。翻訳が村上春樹というのも読んでみたくなった理由のひとつ。映画も一切観たことはないのだけれど、オードリー・ヘップバーンの写真だけは流石に観たことがあるので、そのイメージが離れずに困った。(原作者のイメージとも翻訳者のイメージとも全然ちがう、との評価を、先にあとがきで読んでいたので。)
主人公ホリー・ゴライトリーの奔放さにはあっけに取られた。あれだけ好き勝手やっても、助けてくれる男たちに事欠かないのがすごい。
一番かっこいいシーンは、ホリーが捕まった後、自分を結果的に連絡係として使っていた麻薬王兼囚人のサリー・トマトを、いいやつと弁護するところ。
一番悲しいシーンは、出国前に逃した猫を思い直してもう一度探し出そうとするところ。
ホリーがその後どうなったのか、は直接は書かれておらず、冒頭の木彫の件で間接的に示唆されるのみ。最後まで謎のまま終わる方が美しい、ということだろう。
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ネタバレ村上春樹がどんな人なのかを知りたくて手に取った本。
ランニング、執筆への向き合い方がメインで書かれているのだが、習慣化のtips が散りばめられており、学びも多かった。以下引用
このような能力(集中力と持続力)はありがたいことに才能の場合と違って、トレーニングによって後天的に獲得し、その資質を向上させることができる。これは前に書いた筋肉の調教作業に似ている。日々休まずに書き続け、意識を集中して仕事をすることが、自分という人間にとって必要なことなのだという情報を身体システムに継続して送り込み、しっかりと覚え込ませるわけだ。そして少しずつその限界値を押し上げていく。気づかれない程度にわずかずつ、その目盛りをこっそりと移動させていく。
村上春樹の小説以外がいつも面白いのは、この継続の賜物なのだとひしひしと感じた。
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Posted by ブクログ
『ねじまき鳥クロニクル』第一部を読んでいると、
物語を追っているだけのはずなのに、
心が勝手にこれまでの人生を整理し始めるような感覚に陥った。
猫の失踪、仕事を辞めた主人公の日常、
奇妙な電話や不可解な人物たち。
表面的には淡々とした出来事が続いているだけなのに、
読み進めるほどに、
自分自身の内側が静かに揺さぶられていくのを感じた。
第一部でとりわけ印象に残ったのは、
間宮さんが語るノモハンでの体験である。
涸れ井戸の底に落とされ、
一日に数秒だけ差し込む光を浴びた瞬間、
彼は「自分の人生はそこで終わった」と感じたという。
助かった後の人生は、
生きているのに生きていない、
死んでいるのに死んでいないような感覚だったと語られる。
その一節を読んだとき、
それは決して極限状況に置かれた他人の話には思えなかった。
大学時代や精神科病院で働いていた頃、
私自身もまた、
何かに全身全霊で打ち込めるものを見つけられず、
心を燃やす対象もないまま、
ただ「死んでいないだけ」の状態で
日々を過ごしていた時期があったからだ。
第一部に登場する主人公もまた、
仕事を辞め、目的を失い、
どこか世界との接点を見失ったような状態にある。
本田さんから受け取る中身のない箱は、
彼の空洞化した生を象徴しているように感じられた。
また、加納クレタの語る
「痛みを失った瞬間から、生を実感できなくなった」
という言葉も強く印象に残っている。
痛みから解放されたはずの彼女が、
引き換えに世界の手触りそのものを失ってしまったように見えたからだ。
間宮さん、加納クレタ、そして主人公。
第一部に描かれる彼らの姿は、
形こそ違えど、
「生きているのに生を実感できない」という一点で
静かにつながっているように思えた。
私はもともと、
自分の感情に敏感な人間ではない。
面倒な感情には蓋をして、
深く考えずにやり過ごしてきた。
それでも第一部を読み終えたとき、
その蓋が少しずつこじ開けられ、
押し込めていた感覚が
表に浮かび上がってくるのを感じた。
『ねじまき鳥クロニクル』第一部は、
不思議な物語というよりも、
自分の中にあった
「生きているのに生きていない感覚」に
輪郭を与える読書体験だった。