村上春樹のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ネタバレ深夜から朝までを一連の時間軸で視点が切り替わりながら展開される。「私たち」という三人称的だが、自意識を持つ視点が登場する。 朝を迎えた街を俯瞰し中がら、「一人一人違った顔を持つ人間であると同時に、集合体の名もなき部分だ。ひとつの総体であるのと同時に、ただの部品だ。彼らはそのような荷犠牲を巧妙に、便宜的に使い分けながら、的確にすばやく朝の儀式をこなしていく。」と語られているのが印象的。個人的だった夜の時間から儀礼的で社会的に昼の時間への移り変わりが描写されているのだと思った。 また、「マリは闇の長い時刻をくぐり抜け、そこで出会った夜の人々と多くの言葉を交わし、今ようやく自分の場所に戻ってきたのだ。彼女を脅かすものは、少なくとも今のところ、周りには存在しない。彼女は19歳で、屋根と壁によって守られている。」とあるように、夜はシステムが弱まる分、危うい存在としても描写されてきた。19歳の少女は本来昼の世界に存在し、守られるべき存在なのだ。 エリは他人に求められた自分を演じる人生に疲れてしまった。それでより個人的な夜の世界に引きこもった。マリは夜の世界の人々と関わることでエリの悩みに近づいていき、エリについて理解しようとしたところで物語が終わる。マリはきっとエリに追いついてエリを昼の世界に連れ戻すことだろう。そして、その時にはエリにとっても昼の世界はマリによって護られたものになっているだろう。再三「逃げられない」というセリフが繰り返されてきたように、エリも逃げ続けることはできないように思える。
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Posted by ブクログ
ネタバレ村上春樹の作品にしては珍しく、人から聞いた話(つまり実話)をもとに著者が少しの脚色を加えて構築した作品。改めて、事実は小説より奇なりと思わされる。著者はこれらを個人的な書き物として机に溜め込んでいたが、これらの話が語られたがっていると感じたため、発表する運びになったのだと説明する。その感覚が伝わる程、何れの話もイキイキとしている。実話がなるべく実話のまま提示されているので、登場人物の個人的な営みが詳細に提示され、そのように感じるのかもしれない。
特に以下に引用している、過ぎ去った人生はひとつの部分を終えたということ、平凡故に仕事や結婚生活は面白い、という箇所はその人物の哲学的な部分を感じさせられる。どこまでも個人的な思考にも関わらず、それが普遍性を帯びるという部分が面白い。そしてこれらの思考は、多かれ少なかれ「回転木馬(メリーゴーランド)」をぐるぐる回るだけの生活をしている自分たちが、それでもほんの僅かな自分特有の部分を磨き込む中で、事後的に構築されるものなのではないかと思う。だからこうしろ、という教訓めいたものをこの本は提示していない。只淡々とある固有の実話を語り、その思考の背景に想像を誘うことで、読者自身の哲学を緩やかに問いかける。少なくとも、自分はそのように感じる。
特に印象に残った箇所は以下
・自己実現が精神の解放に寄与するという考えは迷信であり、好意的に言うとしても神話である。少なくとも文章による自己表現は誰の精神をも解放しない。もしそのような目的のために自己表現を志している方がおられるとしたら、それは止めた方がいい。自己表現は精神を細分化するだけであり、それはどこにも到達しない。もし何かに到達したような気になったとすれば、それは錯覚である。人は書かずにはいられないから書くのだ。書くこと自体には効用もないし、それに付随する救いもない(p.14)
・そのことばを思い出すたびに私はこんな風に思うんです。私の人生は既に多くの部分を失ってしまったけれど、それはひとつの部分を終えたというだけのことであって、まだこれから先何かをそこから得ることができるはずだってね(p.58)
・仕事も結婚生活も家庭も、もしそこに何かの面白みがあるとしたら、それは平凡であることの面白みです(p.104)
・もちろん他人の小説作法について決定的な判断を下せるような立場には僕はいない。しかし彼の小説の抱えた欠点がかなり宿命的な種類の欠点であることくらいは僕にもわかった。要するになおしようがないのだ。小説の中にたった一カ所でもいいから突出して優れた部分があれば、それをポイントにして小説のレベルをひっぱりあげることは(原理的には)可能である。しかし彼の小説にはそれがなかった(p.162〜163)
・僕の望遠レンズの中で、彼女はふたつに分かれるんです。彼女の体と彼女の行為にです。もちろん通常の世界では体が動くことによって行為が生じます。そうですよね?でも拡大された世界ではそうじゃないんです。彼女の体は彼女の体であり、彼女の行為は彼女の行為です。じっと見ていると、彼女の体はただ単にそこにあり、彼女の行為はそのフレームの外側からやってくるような気がしてくるんです。そうすると彼女とはいったい何か、と考えはじめるんです(p.176) -
Posted by ブクログ
村上春樹の自伝的エッセイ。
一見、小説の書き方のようにも見えるのだけれど、そんなことはない。仕事への向き合い方の伝授のようにも感じられた。
誰からも好かれるようなものを作り上げるなんて、不可能であり、自分がただ好きだと思えるものを作り続けていくべきだということ。
どんな食べ物だって誰かが絶対に嫌いなわけで。どんなに美味しくても、嫌いな人はいる。その少数派の「嫌いな人」に好かれようとするよりも、今自分のことを好きだと言ってくれる人を裏切らないように生きたら良いのである。
そして、体は資本。どんなことを成し遂げる上でも、体力がないと乗り越えられない。私も毎日運動継続したい。毎日を楽しく、充実したものにするべく。 -
Posted by ブクログ
手でつかもうとすると、スルスルと手の中を掻い潜っていつの間にか手にはそこにいたという実感だけが残るような物語だった。
物語は自分の内省に潜るようにできているかと思えば、社会に翻弄され生きている主人公はそれを出口の付いた犬小屋と例えた。
世界の終わりの中にする人々は、僕が失ったものかもしれないし、あるいは、世界を作ると言ううえで獲得せざるを得なかったものかもしれない。
とにかく、資本の中に自分という曖昧さを保ったまま観測者として、淡々と生き続ける主人公は社会との接点をある種見損なってしまったのかと思う。
それは、彼自身には社会と接続をするということだったのかもしれないが。
そのようにして形成された社会は世界の終わり、しかしそれは柔軟に完結し続けるというのはまさにだと思う。
村上春樹は、街というシステムで構築され、そこに過去の豊かさや、世界の曖昧さ不完全性を損なったものと、生きるということに直結をして生きていくシステムを失った自律的な空間森とを比較した。
そして、街を自分で形成したことを踏まえ、森を選んだ。
これは頭の中につくる僕たちの社会に対するシステムかもしれないし、あるいは誰かが既に定義をし、それを強引に僕たちに押し付けただけなのかもしれない。本当に産業革命があったと言い切ることができる人間はもうここには生きていないのだ。
みながシステムに生き、それでもそのシステムの中で揺らぎながら、社会という街の中で生きている。
それを、影、僕、私と存在を分離させ、まるでワンダーランドのように曖昧に線を引くことで描いた本作は力作出会ったように思える。
作中、線を引くのではなく、線を引かなければそれは曖昧さを失ってしまう
線は線としてそれ以上の奥行きを失ってしまう、と語った。
それはまさに彼の小説であり、ワンダーランド、世界の終わりという曖昧さこそが、何かを手繰り寄せそこに焦点を合わせる唯一の手段だったのであろう。
とても面白かった。
果たして村上春樹はこれをどのように作ったのだろうか、 -
Posted by ブクログ
最新の「街とその不確かな壁」を読んでみたくて、まずはこちらから。
村上春樹さんの長編は、「ノルウェイの森」と「海辺のカフカ」しか読んだ事がないのですが、こちらの「世界の終わり」や「ハードボイルド・ワンダーランド」に出てくる主人公も共通して…フラフラ流されてる感じだなぁと思いました。笑
でも、それはさすが〜という想像力の村上ワールド上の事で、掴みどころがないし、次々と不思議な事が起こるしで、もうなるようにしかならない感じなのかもしれないですが。笑
(当たり前に存在する"音"を抜くなんて発想だとか、その"音抜き"一つから戦争への利用まで瞬時に推測してしまう想像力とか凄い!)
こちらの作品は物語の骨子もわりと分かりやすくて(いよいよ下巻では二つの世界が交錯するのかな?)、比喩表現が吹き出しちゃうくらい面白くて、村上春樹さんの作品の中でかなり読みやすい方なんじゃないかなと思いました。二人組が出てくるあたりやピンクスーツの女性とのやり取りも無茶苦茶で可笑しかったです。
ただ、核心のところや大事なところで表現の抽象度が上がったり、煙に巻かれたりするので、さすがだなと思ったり、置いてけぼりになったなと感じたり。(心についての描写が好きでした!)
とにかく下巻が気になります。