あなたは、『犬』が好きでしょうか?
ペットフード協会による”令和5年全国犬猫飼育実態調査”によると、この国では『猫』が906万9千匹、『犬』が684万4千匹飼育されているようです。『猫』が前年度より約23万匹増えた一方で、『犬』は約20万匹減ったという分析には驚きもしますが、それでも684万4千匹もの『犬』がどなたかの家に飼育されていることになります。
私は『犬』を飼ったことはありませんので、そもそも『犬』を飼うという感覚がよく分かりません。しかし、『猫』に比べて、人に忠実で従順、そのような印象は持っています。とは言え、生物を飼うということは大きな責任が伴います。なかなかにその一線を超えることに躊躇もしてしまいます。『犬』を飼うということはどういうことなのか、その実際を知りたい思いもあります。
さてここに、私のように『犬』を飼うということがどういうことなのか、その実際を具に見せてくれる物語があります。
『犬は空気を読む生き物だ』。
そんな言葉を実感しながら、『犬』と共にある日々を生きていく主人公の姿が描かれるこの作品。『犬』のあんなことこんなことが深く描かれてもいくこの作品。そしてそれは、自らも『犬』好きでいらっしゃる近藤史恵さんの優しい眼差しをそこかしこに感じる『犬』どっぷりな物語です。
『ドアノブを握った瞬間に違和感を覚えた』と、『いつもとなにかが違うような感覚』の中に玄関ドアを開けたのは主人公の池上真澄(いけがみ ますみ)。『ドアを開けると、いつも玄関で待っているシャルロットがいない』という中に『シャルロット!』と声を上げる真澄に、『どうしたんだ?』と『浩輔が不安そうにつぶや』きます。そして、入ったリビングは『ガラス切りで切られた窓、中には土足の足跡』と、『なにものかに荒らされて』いました。『シャルロット!』と『悲鳴のような声であの子の名を呼ぶ』真澄。
そんな真澄が『シャルロットと暮らしはじめたのは二年前のこと』でした。『二度目の不妊治療に失敗し』、『泣きはらす』真澄に、『犬を飼わないか?子供はもうなるようにまかせればいいじゃないか』と諭す浩輔。『もともと、子供を欲しがっていたのはわたしのほうだった』という真澄は、『その発想に』胸が揺らぎます。『小さいながらも庭付きの一軒家』に暮らす真澄ですが、『これまで犬を飼ったこともなく、触ったこともな』い中に躊躇します。そんなある日、『家に遊びにきた叔父』は、『わたしたちが犬を探していると聞いて』、『ジャーマンシェパードを飼ってみないか』と提案します。『無理ですよ…初心者です。そんな難しそうな犬は飼えません』と言う浩輔に、『初心者だから薦めてる』、『実は警察犬をリタイヤした子がいて、家庭犬として可愛がっている家を探している。警察犬だからしつけはしっかりできていて、我慢もできる』、『いくつもの難事件を解決した雌犬なんだが、もう引退させることにしたらしい』、『まだ四歳』、『股関節に障害が出て手術をした』が『ペットとして飼うのには問題はない』と説明する叔父。そんな叔父は『すでに三頭のボーダーコリー』を飼っており、『もう一頭というのは難しいと判断したよう』でした。『共働きで犬に留守番をさせる時間も長い』、『それを考えても成犬のほうがいい』と続ける叔父に、『じゃあ、会わせてください』と伝えた真澄。そして『仮預かりの老夫婦の家』に迎えに出かけた真澄は『そこにいたのは可愛らしい女の子だった』と『控えめに尻尾を振る』犬の姿を見ます。『この人はお客様かしら、それともわたしの新しい家族になる人かしら』と考えているように見えたという真澄は『その瞬間から恋に落ちてしま』いました。『ねえ、わたしをあなたのお母さんにしてくれる?』と『みっしりと生えた毛をそっと撫でながら言った』真澄。そして、家にやってきたシャルロットは『おおむねいい子で』『ときどき悪い子』でした。『散歩に行っても、わたしの横にぴしっと寄り添い、歩幅を揃えて歩く』シャルロット。『最初は怖がった人も、すぐにシャルロットの賢さに驚嘆し』ます。しかし、『賢いということは、すぐにズルをすることも覚えるということ』でした。そう、『シャルロットはすぐに理解し』ます。『この家では、警察犬だったときのように、言いつけを全部守らなくてもいいのだ、と』。そんなシャルロットは、『大きい図体をしているくせに、犬に対しては少し臆病で、フレンドリーな子には自分から近づいていって挨拶はするものの、うなり声を上げられたり、吠えられたりすると一目散に逃げ出』します。『小さなトイプードルにがうっと吠えられた瞬間、キャンと悲鳴を上げたこともある』シャルロット。『普段は吠えることもほとんどない』というシャルロットでしたが、『ときどき火がついたように吠えるときがあ』ります。『窓際で激しく吠えたて』る様に、『シャルロット。黙って』と言うも『すぐにまた吠え出』したシャルロットは『どうしてわかってくれないの?』というような『上目遣いの恨みがましいような目でわたしを見上げ』ますが、『その理由がわか』りません。そんな真澄は『その夜に』『向かいの家に空き巣が入ったということを』知りました。『次に吠えたのは、深夜遅く。浩輔が外に出てみると、二軒隣の家からうっすらと煙が上がってい』ました。そしてまた、『向かいの老人が、押し売りのようにしつこいリフォーム業者につかまって、玄関で押し問答をしているとき、シャルロットが吠え出した』ことで『隣の主人が、その業者を追い払った』ということもありました。『シャルロットの賢さは近所の評判になっていた』というそれから。『この子はやはり優秀な警察犬だったのだ』、『シャルロットさえいれば安心だ』と思う真澄。
しかし、『家は荒らされ、シャルロットはいない』という今。『もしかするとあの子は、果敢に泥棒に戦いを挑んで、殺されたのかもしれない』と思い詰める真澄。そんな中、『二階からかすかな物音がし』ます。『鼻を鳴らす切ない音』を聞いて『思わず二階に駆け上が』る二人。そして、『寝室のドアを開け、中に入る』二人。そんな二人の前には…と展開する冒頭の短編〈シャルロットの憂鬱〉。シャルロットが真澄たちと一緒に暮らしはじめた日々の中にまさかの事件が起こるという、この作品世界に一気に引き込ませてくれる好編でした。
“シャルロットは六歳の雌のジャーマンシェパード。警察犬を早くに引退し、二年前、浩輔・真澄夫婦のところへやってきた。ある日、二人が自宅に帰ってみると、リビングが荒らされており、シャルロットがいない!いったい何が起こったのか。いたずら好きでちょっと臆病な元警察犬と新米飼い主の周りで起きる様々な“事件” ー。心が温かくなる傑作ミステリー”と内容紹介にうたわれるこの作品。十三歳(人間でいうと七十前)の黒いトイプードルを飼育されていた作者の近藤史恵さん。この作品はそんな近藤さんが、リクエストアンソロジー『ペットのアンソロジー』のために短編を書き下ろしたものの、”書き終えた後、頭がよくて可愛い元警察犬シャルロットと別れるのがつらくなってしまった”という先に、連作短編として刊行されたという経緯を辿るようです。そして、現時点で「シャルロットのアルバイト」という続編も刊行されるなど近藤さんにとっても思い入れのある作品となってもいます。
そんなこの作品の魅力はなんと言っても『犬』が直球ど真ん中に登場するところです。私たちが身近な動物を思う時、そこには『犬』と『猫』が思い浮かびます。そして、この両者とも小説に登場する割合はとても高いように思いますが、作家さんの思いの丈がこもった作品となると、圧倒的に『猫』が優勢だと思います。それは『猫』好きな作家さんが如何にたくさんいらっしゃるかを示しているとも言えます。とは言え、『犬』が登場する作品もそれなりに目にします。私が読んできた作品からご紹介しましょう。
● 『犬』好きの方に是非読んでいただきたい作品
・飛鳥井千砂さん「はるがいったら」: “ 十四歳の老犬”ハルのことを大切に思い、そんなハルを自室で介護していく姉と弟の日常が描かれる物語!
・伊吹有喜さん「犬がいた季節」: ”元気でね、という言葉を聞くと、長いお別れが来る”と高校生たちの青春を見続けてきた犬のコーシロー視点で描かれる物語!
・加納朋子さん「1(ONE)」: “どうぞよろしく、と付け加えたら、仔犬はぼくに向かってひと声、「ワン」と吠えた”から始まる犬と共にある日々を描く物語!
・近藤史恵さん「賢者はベンチで思索する」: 母親が保健所から貰ってきた犬を飼うことになった七瀬家。一方で犬の虐待が近所で相次ぐという事件に主人公が巻き込まれていく物語!
・高瀬隼子さん「犬のかたちをしているもの」: 幼き頃に飼育していた愛犬『ロクジロウ』を思う気持ちに今を重ねる主人公の感情の変化を描く物語!
この作品の作者である近藤史恵さんは、上記した「賢者は…」以外でも『犬』が登場する作品を執筆されており大の犬好きでいらっしゃることがよく分かります。では、そんな近藤さんがこの作品で『犬』を飼う魅力を記された箇所を見ていきましょう。
『最初は、わたしと浩輔もこんな大きな犬を家の中で飼えるのだろうかと躊躇した。だが、一緒に暮らしてみると、シャルロットを外で繫いで飼うことは、家族を家の外に放り出したままにするのと同じほど不自然なことに思えてくる。家族だから、いつも一緒にいる。安全で目の届く場所に。それは子供を一日中庭で生活させないのと同じくらい当たり前のことだ』。
最近はペット飼育可というマンションが増えてきました。その場合には当然室内で飼育することになります。私は『犬』を飼ったことがないので、私たちが暮らす室内に『犬』を入れるという感覚はちょっと想像がつかないのですが、この作品の主人公・真澄も飼い始めて、このような気持ちに変化するところを見ると実際に『犬』を飼うとなった場合には人の気持ちも変化していくのかもしれません。『犬』=『家族』という感覚、確かにこの真澄の思いには強い説得力を感じます。
『頭を撫でられることが好きでない犬は多い。自分に見えないところから手が降りてくるのは怖いし、そもそも頭自体はそこまで気持ちのいい場所ではない。好きな人に触ってもらえるからうれしいというだけだ』。
これも『犬』を飼ったことのない身には驚きでしかありません。遠い遠い記憶に『犬』の頭を撫でたことがあるようなないようなという私ですが、この説明は『犬』と共にある生活を送られている方でないとわからないものだと思います。というより、『犬』の気持ちに相当入り込んでこそ気付くものでもあると思います。そういう意味でも『犬』好きな方には、この本はご自身の思いをすべからく代弁してくれるような作品だと思います。
『吠えずに黙っていたり、大人しくしていたりするとき、褒めてやるのは大事なことだ。人間同士ではそういう「なにもしていないこと」を褒めるという習慣がない。ともすれば、悪いことをしたときだけ叱り、大人しくしているときは放っておくということになりがちだ。そうすると、犬は大人しくしていることが、いいことだとわからない。悪いことをしたときだけかまってもらえるから、悪戯や吠え癖を悪化させてしまうケースがあるらしい』。
いやあ、これまたもうビックリ!というレベルのお話です。確かに静かに何もしていない人を褒めるというか意識することは普通ありません。一方で、何か行動を起こした時に人はその人を評価、判断します。『犬』に接する時はこの感覚は通用しない、ということですね。『しつけ』のできていない『犬』について悪口を聞くことがありますが、それは『犬』が悪いのではなく、人と同じ感覚で『犬』と接している飼い主に問題がある、もしくは勉強不足、ということなのですね。なるほど、『犬』を飼うと言ってもとても奥深い世界があることがよく分かります。
そんな物語には、上記したような『犬』に感してのそうなんだ!的なことだけが記されているわけではもちろんありません。
・『わたしたちが仕事に行くときは、豊かな尻尾をしょんぼりと下げ、玄関まで見送りにくる。寂しそうな目で、わたしたちを見送る』。
・『犬は不思議だ。力も攻撃力も、人間よりずっと勝っているはずの大型犬でも、飼い主に怒られるとしょんぼりする』。
・『じゃあ、お散歩に行こうか』、『そう声に出して言うと、尻尾が大きく振られた。口が開いて笑っているような顔になる。犬を飼うまでは、犬というものがこんなに表情豊かだなんて知らなかった。全身で表現する分、人間よりわかりやすいかもしれない』。
そんな風にシャルロットと生活するようになって、それまで経験したことのない『犬』の生態を知り、『犬』と共に生きていくことの喜びを全身で感じる二人の生活が描かれていくこの作品。もちろん、それによって二人の今までの生活も変化していきます。
『シャルロットがくる前とあとでは生活はまるで変わった。昔のように夫婦で出かけたり、外食をすることはめったになくなった』。
そんな新しい生活を『不自由になったとは思わない』と思う真澄。物語は、シャルロットが三人目の『家族』として池上家に加わったのとイコールな生活を送る二人の活き活きとした日々を描いていきます。この作品は6つの短編が連作短編を構成していますが、表題作の他も〈シャルロットの友達〉、〈シャルロットとボーイフレンド〉、〈シャルロットと猫の集会〉、〈シャルロットと猛犬〉、〈シャルロットのお留守番〉というように短編タイトルにはすべて『シャルロットの』という言葉が入っています。そうなのです。ここまで散々書いてきたようにこの作品はもう一から百まですべて『シャルロット』が中心の物語なのです。そんな物語には近藤さんらしく”ミステリ”の要素が盛り込まれています。上記で冒頭を少しご紹介した表題作では、帰宅すると部屋が荒らされているというショッキングな場面から物語はスタートします。ここには、その犯人が誰なのかという展開は当然必須です。また、『警察犬』だったシャルロットがいたにも関わらずという点に”ミステリ”要素が生まれもします。他の短編でも例えば庭に足跡が…というミニ事件が起こったりと、真澄の日常に起こる身近な”ミステリ”が一から百まで『犬』の物語に起承転結を作り出していくため、読者が飽きるということはありません。想像の数段上をいく『犬』づくしの物語が展開するこの作品。私のような『犬』を飼ったことのない人間にも『犬』と共にある生活の魅力を垣間見せてくれる、そんな作品世界がここには描かれていました。
“犬と一緒に暮らすと、世界が少しだけ変わる”
そんな風におっしゃる作者の近藤史恵さん。そんな近藤さんの『犬』に対する熱い想いを全身に感じるこの作品。そこには、シャルロットを迎えた真澄の生活がそれまでとは別物に輝いていく様が描かれていました。『犬』に関するあんなことこんなことにすっかり物知りになるこの作品。『犬』を飼いたい思いが芽生えてくる読後があなたを待つこの作品。
『犬』好きな人には必読書と言い切って良い、『犬』にはじまり『犬』に終わる、もう全編『犬』づくしの素晴らしい作品でした。