笑いと真理、異端運動、間テキスト、作者の死
理性による絶対的な真理(神)の探究が、真理の存在の否定につながってしまうとしたら、中世のキリスト者はどのように振る舞うのか。ウィリアムは合理的思考と明晰な頭脳を持つがゆえに、信仰の限界に立たされている。ウィリアムは信仰者であり探偵という矛盾する役割を課せられているのである。
これを踏まえると文書館の中心が中庭になっている(なにもない、空)ことにも意味があるように思える。人間は中枢にある真理に近づこうと書物を書き、知識を積み上げてきたが、実は中心には何もないのではないか。この構造は小説の軸である一貫した意志のない連続殺人事件とも一致する。
探偵小説において探偵は徴、記号を読み取り推論を立て、背後にあった一貫した意志を明らかにするのであるが、それは探偵小説のお約束が通用する世界に限られた話なのだ。ウィリアムのように真実らしい推論を打ち立てていたとしても、実際は記号を恣意的に再構成していたに過ぎないということは起こりえる。むしろ、ミステリ好きには馴染み深い典型的な「アンチミステリー」の手法だ。面白いのは中井英夫による日本を代表するアンチミステリーである『虚無への供物』(1964年刊、『薔薇の名前』は1980年)においても薔薇が象徴的なアイテム(しかも空虚さを表すものとして)として登場していることである。
エーコはこの小説において神学的議論と殺人事件を用いて、二重に、世界を律する神の貫徹した意志、首尾一貫した理論、誰にでも適用される大きな物語を否定している。そしてそれはホルヘが殺人を犯してまで隠したアリストテレスの詩学2部(喜劇を扱う、ホルヘの言によれば、笑いによって人は世界の真の姿に迫れる、笑いは人々を悪魔の恐怖から解放し自由にする)や、時代が人間中心主義(依然としてキリスト教の影響下にあったとはいえ)をうたったルネサンス前夜に設定されていることにもつながってくる。
この神の意志の否定によって、人々は自分の目に映る世界の記号を自分の好きなように読み取ることができるようになる。人間が世界の中心になるのである。ホルヘはこれを防ぐために、殺人を犯してまで、書物を隠そうとした。これに対してウィリアムはつぎのように宣言する。
「わたしは戦うだろう、断固として相手の知恵と切り結んで。ベルナール・ギーの灼熱の炎と剣がドルチーノの灼熱の炎と剣を屈服させるこの世界よりは、いくらかでもましな世界になるだろう」
ウィリアムはルネサンス的な人文主義者の先駆けとしての一面もある。
またこれは小説における神である作者の絶対的な地位の否定でもある。本書の末尾にある「覚書」においてエーコはこうまで言っている。
「作者は小説を書いたあとには死んでしまったほうがよいのだ。テキストの足取りを乱さないようにするために。」