ドストエフスキーのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ドストエフスキー五大長編の中でも、難解な作品と評されることのある「未成年」。
少年から青年への成長途中である主人公が、父との再会、女性への恋、理想の追求と挫折などの様々な体験をし、一段上の精神の成熟さを獲得していく物語です。
経済的・社会的には「未成年」という留保がつきながらも、思想的には自身を「成熟している」と考え、そのコンフリクトに苛立ち悩んだり、「自分が正しい」という自信と「自分は未熟なだけではないか」という懐疑との間に揺れ動き、一貫性を保てなかったりという主人公の苦悩は現代人にも共感できるのではないでしょうか。
大変示唆深い作品でした。 -
Posted by ブクログ
ドストエフスキー版ラブコメと勝手に解釈。
こんなポップなのも書くんだと意外な一面を見た感じ。
まぁポップとは言っても後の大作群と比べてだが。
一見、はたから見ると呆れると言うか、現代で繰り広げられたら
勝手にやってくれといったナターシャとアリョーシャの恋だが、
ところがどっこい、これはただの味付けであって悲劇はその奥にある。
大まかな流れ、作品を支えているのはもちろん二人の恋物語。
しかしそこには、イフメーネフとワルコフスキー公爵の長年にわたる因縁。
そしてワーニャが出逢うスミス老人の孫娘ネリーが物語の鍵を握る。
虐げられた人々とはうまく言ったもので、
ここでいう虐げられた人々と言うのは
アリョーシャに振り回されるナターシャでも
勿論ワルコフスキーにハメられたイフメーネフでもなく、
母親の遺言をその最期まで貫き通したネリーその人なのではないだろうか。
この物語の一番の悲劇の象徴なのがネリーなのである。
決して誰かが救われるとかそういった内容でもなく、
決して悪は最後は淘汰されるといった内容でもない。
一人の少女がただ悲劇を背負って生まれ、その悲劇を全うして終わる。
その中で、ただ踊らされている悲恋と謳われるもう一つの物語。
ただただ、本当に悲しいお話なのである。
それでもこの少女の悲劇を以て、救われた何かがあると信じたい。 -
Posted by ブクログ
いわゆる、ドストエフスキーの五大長編と呼ばれている小説の中で、
僕が読む一番最後の作品がこの『悪霊』でした。
最初に『罪と罰』を読んで、つづいて『白痴』、『未成年』、『カラマーゾフの兄弟』と
読んでいったのでした。
けっこう、読んだ作品の間の期間が長いのですが、
読むたびに深く作品に入り込めていけているような気がしています。
『罪と罰』よりも『白痴』のほうが作品の理解度が高くなった、というような気がする。
それだけ、ドストエフスキーになれてくるのでしょうね、そのうち何年かして再読したら
もっとよく読めそうな気もします。
こんなことを書いていると、読んだことのない人は、きっと難解なのだろうと
推測してしまうと思うのですが、ドストエフスキーの場合は、
その重厚感に疲れる手合いの小説でしょうか。
たしかに、意味が取れない難しい思想を披瀝する会話文などが出ては来るのですが、
大体においては、やさしい文章が積み重なって、物語の多義性というか、多角的なスケッチの仕方というか、
伏線をたくさんこしらえ、それらが本流に合流していくという形がとられているんじゃないでしょうか。
そして、キャラクターの性格の、文章中での構築の仕方も、無駄がないように思います。
かといって、文章も構成もカツカツしていないですね。
非常にゆとりをもちながらも、そんなあれやこれやを包括してしまう才能を
ドストエフスキーは持っていて、きちんと作品を完結させます。
まぁ、カツカツしていない、きゅうきゅうとしていない、といって、何と比べてそうなのかって話になりますが、
現代の小説と比べてになるのかなぁ。それだけ、五大長編は1作品で2冊とか3冊とかで編まれていますから、
分量のせいでそう感じるのかもしれません。
また、ドストエフスキーの作品は現代の予言書とも形容されることがあるらしいです。
すなわち、いたって現代的なテーマを取り扱っていて、現代的に出来ている。
19世紀の世から彼の作品をリアルタイムに見ていた人々は、
随分新しいものだ、と捉えていたのかなぁとも思います。
しかし、その現代的である彼の小説の背景、つまり産業革命は起こっていても、
まだ近代化していない時代という、なにかそこのところが大時代的と言っても良いようなゆとりを
もたらしていて、カツカツとしていない要素をちょっと感じさせるんじゃないのかなと思うのです。
とはいえ、混沌期の不安定感はありますが。
『悪霊』について言えば、道化が何人か出てきますし、またこれがうまく書かれていて、ドストエフスキーの
性格の悪さというかユーモアを感じさせずにはいられませんでした。
そして、1300ページくらいある中で、最後の300ページくらいは目を離せない展開なのですが、
それまでの前置きとでもいえる部分には読むのに忍耐が必要でした。
それは僕の読解力や想像力が至らないだとか、本当の読書好きじゃないだとか理由は出てきます。
だけれど、普通の本好きとしては、やや読むのが面倒くさいです。
さて、その最後の300ページですが、その展開とそれまでの流れからくる計算を考えてみると、
ドストエフスキーは本当に酸いも甘いも噛み分けた、
悪党であり識者であり才人であり愚か者だなぁという感想を持ちました。
愚か者だっていうのは、小説に出てくる愚かな人物にすごく血が通っているから
これは彼の分身じゃないのかと思うせいもありますし、
登場人物を苦しめすぎだという気もするからです。
ただ、後者の、登場人物を苦しめすぎだ、という感想は的外れなのはわかっています。
そうでもしないと、表現できないことというのがあるからですよね。
それにしても、主人公のニコライ・スタヴローギンはどれだけイケメンだったんだろう。
これだけの色男で悪漢っていうのはなかなかいませんよね、創作の中の男だとしても。
逆に、ファム・ファタールなんて呼ばれる、魔性の女はわんさかいませんか。
女ってやつぁ…。そしてそれにひっかかる男ってやつぁ…。
ん。なんで、魔性の女にひっかかる男っていうのはちょっと哀れだけど愚かな感じがして、
スタヴローギンにひっかかる女はすごく哀れで可哀相なんだろう。
女ってものの一途さがそう感じさせるんですかねぇ。
この作品のテーマの一つに、無神論がありますが、
現代ではそれが当たり前になってしまいました。
とくに、日本では、ほぼ無神論だったりしないでしょうか。
19世紀のロシアでは、無神論の世界こそ退廃であり終わりであるみたいな
捉え方をしているところがありますが、
それだけ、人間という存在は神様抜きでは暴走して破滅するであろうことを
自覚しているといえるでしょう。
はたして、現代の無神論の世で、神様の代わりに秩序を繋ぎとめられる存在というのは、
なんなんでしょうね。法律、愛。ぱっと思いつくのはそういうところかな。
そういえば、人間の脳には電気で刺激すると神様を思い浮かべる部位があるそうです。
神様を信じたり、その存在を考えたり、祈ったり、そういう行為は遺伝子にすら記載され
設計されているものなんですかね。
人間の人格の安定のためには、神様が必要なのかもしれない。 -
Posted by ブクログ
ドストエフスキーの寿命が長ければ、この作品の続編があったという構想が遺されていたようです。悲惨な物語でなければ読みたかったですね。アリョーシャみたいな人はあなたの知り合いにいませんか?
ついに、この大作を読みました。
芥川賞作家の金原ひとみさんが、上巻を読むのに4ヶ月かかったとか
中巻の帯に書かれていました。最初はつまらない、と。
でも、僕は読んでみて、そんなことはなく、初めから面白く読めました。
これからどう物語が展開するんだ?という興味をひかれるんですよね。
俳優のきたろうさんの息子さんはこれを読むのに半年かかったとか
『ほぼ日』で読みましたが、僕みたいな「今、自由人」にさえ、
読むのに1ヶ月ちょっとかかったのだから、それくらいかかるものかもしれません。
面白かったですよ。著者がもしも死ぬことが無かったなら、
第2部もあったようなんで、それが読めないのが残念。
解説を読むと、小林秀雄さんが、第1部だけでも続きが考えられないほど完成されている
みたいなことをおっしゃったようで、未完というほど物足りなさは感じません。
ドミートリイ、イワン、アリョーシャという三人兄弟。
僕は誰に一番ちかいだろうかと考えてみましたが、イワンやアリョーシャほど、
頭が良くない。じゃ、消去法でドミートリイかということになります。
たしかに、僕の心の奥底にはドミートリイのような、放埓な部分があります。
小学4年生のころに、一つの上の学年ですが、神奈川から引っ越してきた
友人がいました。そのころの僕らには思いもつかなかったような、金遣いの荒さ、
活動的な遊び人気質に、価値観に大きな影響、それも破壊的な影響を与えられましたが、
そんな彼を思い出させる人物でした。そういう人っているんだよなぁ、と。
また、無神論など、神に対する考察とかいろいろな思想的な言い合いとかも
あるんですよね。犯罪について、真実を知ることの難しさなんかもある。
数年前に、東大の教授にアンケートをとって、学生に読ませたい本はなにか、
というのがありました。その第一位がこの『カラマーゾフの兄弟』でした。
歴史に残る大作、重要文学の一つですね。
じっくり読書をしたい人にはおすすめです。