私にとって、最終巻の主人公はイワンだ。
最終巻を読むまでは、ミーチャの激しい情熱やアリューシャの素朴な聖人さに魅力を感じていたが、最後になって、イワンの印象が強烈に変わった。あの冷徹な理性を持った彼が、「大審問官」の挿話を語った彼が、「神がいないなら、すべては許される」と考えていた彼が、スメルジャコフの殺人を聞きてひどく狼狽し、悪魔にとらわれ、衰弱していくとは驚愕だった。これまで、あれほど知性の強さを誇っていたのに、いざ自分の罪を眼前にすると、あれほど脆くなるとは思わなかった。
彼にとって「神がいないなら、すべては許される」という思想は、あくまで頭の中の仮説だった。しかし、スメルジャコフはその思想を「実行の手引書」として受け取ってしまった。 自分の知的な遊戯が、実父の殺害という「生々しい血と腐臭」を伴う現実として突きつけられた時、彼の強固な論理は一気に決壊したのだろう。実態の伴わない思想は、実行という現実の前には脆い。
スメルジャコフはイワンに向かって、「あなたこそが真の殺人者だ、私はあなたの手先に過ぎない」と言い放つ。イワンにとってスメルジャコフは、自分の中にある「醜悪な本音」を具現化した鏡のような存在になった。あれほど軽蔑していた男が、自分と最も深く繋がっていた。この自己嫌悪は絶望に近かったであろう。
スメルジャコフとの最後の会談の後のイワンの様子の急速な変化は最終巻の白眉だ。彼は、必ず法廷でスメルジャコフの殺人を告発するという決意を固くし、自己満足と歓喜を感じていた。帰り際、酔っぱらって雪の中で眠りこけていた農民を1時間もかけて助けるほどの余裕も見せていた。しかし、家に着くや否や、その自己満足も歓喜も余裕も消え失せ、悪魔との長い対話が始まる。この短い間に彼の中で何がおこったのか。あの自己満足と歓喜は、正気の最後の灯だったのか。
イワンが雪の中の農民を助けたのは、自分自身に対する道徳的なアリバイ作りだったと思われる。直前に「父殺しの教唆」というおぞましい真実を突きつけられた彼は、無意識にその対極にある「人命救済」を行うことで、魂のバランスを取ろうとした。また、「自分は明日、法廷ですべてを告白し、真実を明らかにするのだ」という決意が、彼に一時的な道徳的優越感を与えた。このアリバイと道徳的優越感により、自己満足と歓喜が一時的に訪れた。しかし、イワンが自室に戻ると、この一時的な麻酔が溶け、自分が置かれている地獄のような恐怖の板挟みに陥っていることに気づく。告白すれば、世間に軽蔑され、スメルジャコフと同じ地平にまで堕ちる。黙っていれば、 一生、スメルジャコフの影(共犯意識)に怯えて暮らす。麻酔が切れた瞬間、この板挟みに押し潰されてしまったのだ。
そして、自分自身の醜悪な部分を具現化した悪魔との長い対話がはじまる。悪魔は、「新しい人間は、神の座に立ち、古い道徳や法律を超越することができる、こうして「すべてが許される」」、と会談の最後に言うが、大審問官の挿話を考えたイワンにしては、稚拙な内容に感じる。これまでのイワンが言う「すべては許される」は、人類の苦悩を背負い、神に反旗を翻す言葉だった。しかし、スメルジャコフとの会談を経て現れた「悪魔」が語る「すべては許される」は、あまりに安っぽく、俗悪なスローガンに成り下がってしまった。スメルジャコフの醜悪な実行によって、高邁な思想が、殺人の稚拙な言い訳にまで引き釣り下ろされてしまった。
イワンの結末はあまりにも救いがなく、憐れに思う。法廷で、正気とは思えない言動で、自分とスメルジャコフの犯行を告白したことによって、その告白の内容は真剣に取り上げられず、しかも、彼の愛する女性カチェリーナに憐れまれ、彼女に恥辱を伴う救いの手まで取らせてしまう。さらに、それによって、自分の代わりに訴えられている兄の冤罪を確定させる結果になってしまった。イワンが望まなかった結果がすべて実現してしまった。彼は発狂したが、まだ死んではいない。果たして救われるのだろうか。
この長い物語は、ヨハネ福音書第12章24節の引用からはじまった。
「まことに、まことに汝らに告ぐ。一粒の麦、もし地に落ちて死なずば、一粒のままにてあらん。されどもし死なば、多くの実をもたらすべし」
長兄ミーチャは冤罪で流刑地に飛ばされ、次兄イワンは発狂し、私生児スメルジャコフは自死した。最後に残ったカラマーゾフ、アリョーシャは子供たちと「カラマーゾフ万歳」と合唱し、物語が終わる。死んで子供たちに新たな実をもたらしたイリューシャとそれを導いたアリョーシャ。(自我を捨てずに)死んでいき何の実ももたらさなかった者(スメルジャコフ)、死に切れない(自我を捨てられない)者(イワン)、死んで子供たちに新たな実をもたらした者(イリューシャ)、それを導いた者(アリョーシャ)。最後に希望的な雰囲気で万歳が唱えられたということは、イワンもいずれ救われるはずだと思う。
「カラマーゾフの兄弟」を初めて読んだのは10年以上も前だった。大審問官の話以外はほとんど忘れてしまったが、深くて暗いという印象だけは頭の片隅にずっと残っていた。以前はただひたすらに暗いという印象だったが、今回10年以上ぶりに読んで、その暗さは豊かな暗さ、人間の深さの表現だったのだと気づいた。それゆえに、この名作は救いでもあるのだと思う。人間は複雑で、豊かで、深いものである。しかし、日々の生活の中で、単純になっていく。単純であると枠にはまりやすくなる。社会に都合の良い枠、他人の欲望に都合の良い枠にはまって、精神の身動きが取れなくなる。この名作は、人間が、自分が、本来複雑で、豊かで、深いものなのだということ、御しがたいものだということを、思い出させてくれる。第3編 第3章「熱い心の告白——詩に託して」でミーチャがアリョーシャに自らの情熱と苦悩を独白する場面での言葉が頭に浮かぶ。
「・・・人間の心は広いよ、あまりに広すぎるくらいだよ、おれは狭めたいくらいだ。・・・」
この名作は、読む者を精神の窒息から救い出してくれる。