第2巻を読み終え、主人公アリョーシャに対する印象が劇的に変化した。第1巻における彼は、周囲が強欲の怪物ばかりであったがゆえに、相対的に「若くして完成された聖人」のように見えていた。しかし今巻では、「中途半端な人物」という印象になった。兄に侮辱されたスネギリョフに恥辱を忘れる代わりにお金を無心する、という浅慮に手を貸してしまったり、恋愛経験などなさそうなのに、カチェリーナに、本当はイワンが好きなのだと言ってみたり、どこか浅くて半端な行動をとっている。そういえば、物語のまえがきに、アリューシャは「明確さを欠いた活動家」と作者が言っていた。
スネギリョフがアリョーシャの提案を拒絶する場面は、今巻の白眉だ。貧困のどん底にある家族を救える大金を前に、彼は一瞬、希望に突き動かされそうになる。しかし、父の恥辱を雪ごうとする息子の思いを想起し、彼はそれを拒絶する。金を握りつぶし、地面に叩きつけ、踏みにじる。誘惑を退け、名誉を選び取った誇らしさと、同時に、家族を救う唯一の機会を自ら断ち切ってしまったことへの絶望。その二つの感情に引き裂かれ、歪んだ顔で泣く彼の姿には、「生きた人間」の厚みがある。ドストエフスキーの描く人間は、単なるキャラクターではなく、血を通わせた存在としてそこにいる。
言わずとしれた「大審問官」の章。ここで突きつけられるのは、「人間に自由は必要なのか」という根源的な問いだ。キリスト教において、自由意志によって神を信じることは至上の命題とされる。聖書の言葉に従い、神に服従することが真の自由へと繋がるという「牧人思想」。この自由と服従という一見矛盾する論理が、うまく理解できない。なぜ神は自由を人間に与えたのか。老審問官の言う通り、盲信させておけば、自由の不安は存在しない。自由意志によって、神を信じることが、キリスト教において、いかほどに重要なことなのか。自由は理念だが、その結果と責任は現実だ。結局のところ、理念というものはどこまで行っても「それが正しい」と信じ続けるしかないのだろうか。近代社会は、信じる対象を「神」から「自由」や「平等」といった抽象的な理念にすり替えただけではないのか。この対話の直後、ゾシマ長老が死に、その死体から腐臭が漂うという「奇跡の不在」が描かれる。民衆は失望し、不信に陥る。この冷酷な現実は、老審問官の正しさを証明しているようにも見えてしまう。
大審問官の話をアリョーシャにした後の、スメルジャコフとイワンの不気味な会話の場面も強く印象に残っている。別れ際のイワンの笑いは何だったのか。「そのとき彼の顔を一見したものならだれしも、彼が笑ったのは決して愉快だったためではないと、確実に結論を下したであろう。それに彼自身にしても、その瞬間彼の心に何がおこったのかは、とうてい説明できなかったにちがいない。」あまり目立たない場面だが、こういう多重の意味がありそうな描写が好きだ。
また、語られるゾシマ長老の生涯は、既存のキリスト教的枠組みからは少し浮いているようにも感じられる。自然を崇拝していた兄の死、決闘直前の唐突な回心、過去に殺人を犯した男との、鬼気迫る接触の記録。
読み進めるうちに、キリスト教的思考には、因果関係の追及をある地点で強制的に停止させてしまう装置があるように思えてきた。「なぜか」と問うていくと、最後には「神のなすことは人知を超えており、理解不能である」ということに行きついてしまうような気がする。