あらすじ
世間から軽蔑され虫けらのように扱われた男は、自分を笑った世界を笑い返すため、自意識という「地下室」に潜る。世の中を怒り、憎み、攻撃し、そして後悔の念からもがき苦しむ、中年の元小官吏のモノローグ。終わりのない絶望と戦う人間の姿が、ここにある。後の5大長編へとつながる重要作品であり、著者の思想が反映された主人公の苦悩をリアルに描いた決定訳!
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Posted by ブクログ
暗く、ジメジメした穴ぐらから溢れ出る呪詛。
ポジティブを全て向こうに回し、己の駄目さ加減を棚に上げて捏ねくり回される自己肯定。
でもなんか途中から、なんか自分のこと言われてる‥と感じたり。
妙にハマった。
Posted by ブクログ
ドストエフスキーで笑える作品があるとは・・・そこにまずは驚きました。
主人公はモノローグという中年の元役人で、コイツが一癖も二癖もある大問題児です。妬み、嫉み、僻みといった人間の鬱屈とした闇の部分を全て兼ね揃えていて、それを惜しみもなく全開放した本当にどうしようもない奴が主人公として物語が展開されていきます。
そんな彼が、自らの人生論や哲学に関して80ページにもわたり語り出す前半は難解なこともあり、もはや苦痛でした(笑)
ただ、2部からは学生時代の友人や娼婦との恋に関するエピソードに入り、面白くなります。主人公のどうしようもない屑っぷりが、どんどんとクセになっていって、途中からはもはや愛おしく感じてしまいました。喜劇として展開されていく後半は、第1部の小難しい哲学論からは打って変わって、思わず吹き出してしまう場面も多く出てくるため、前半で投げ出さずにぜひ最後まで読んで欲しいです。
あと、主人公のモノローグは確かにどうしようもない奴ですが、誰しもが心に闇を抱えていて、それを代弁している存在でもあるのかなとも思います、そのため、時には共感し、時にはその不器用さに切なさを感じてしまったり・・・色々と考えさせられる事も多かったです。モノローグがどういう人間なのかよく分かった上で、前半の哲学語りの部分を読み返すとまた違った発見がありそうです。
ユーモアもありながら深みもある、そんな魅力が詰まった素晴らしい作品でした。
Posted by ブクログ
こじらせかまってちゃんな主人公のドタバタな日常は、読んでいて苦笑いさせられてしまいます。
周りを一切幸せにしない生き方ってあるのですね。
自分の中にも引きこもりたい願望はありますが、引きこもったとしても、他者への優しさは失いたくないです。
現実的に将来自分が引きこもった時に、バイブルになるかもしれません。
主人公自身が気に入っていた、屈辱と憎悪の効用に関する名文句が好きです。でも、リーザのように傷つけられた立場からしたら、加害者の不快な屁理屈にしか聞こえません。
ひさびさのドストエフスキーは、やはりロシア的で衝撃でした。
Posted by ブクログ
主人公は、なんとまあ面倒くさい人でしょう。リアルでは関わり合いたくない人ですが、意外と共感できる人も多いのではと思ったり。
第一部『地下室』は、とち狂った男の黒歴史を語る妄言の数々がひたすら書かれていますが、人間の内面に潜む自意識をひたすら省みる内容には、意外にも知見に満ちた珠玉の言葉(一部笑いを誘う言葉)に溢れていて読み応えがあります。なんとまあ、人間の内面の愚かしいこと…。
第二部『ぼた雪に寄せて』は、第一部で語っていた自意識について、それを実際に言葉や行動として表象されたとき、自らはどのような結末を迎えるのかが書かれています。つまり、一見退屈とも難しくも感じられる第一部を読み切ると、第二部での若かりし頃の主人公が、まるで坂道を転がり落ちていくような敗北感や屈辱などを理解できるつくりになっています。これがある意味、非常に面白くもあり呆れもする内容で、第一部を退屈と思いつつも読み切れた人は、最後まで読み通すことをおすすめします。
なお、自分は第二部の後半の独白を読んでいて、なんとなく『白痴』と『カラマーゾフの兄弟』を思い出しました。発表は『地下室の手記』が先なので、後の作品の萌芽が感じられるのかもしれない。
正誤 (第11刷発行)
P56の11-12行目:
「…教養ある人間であればことにそうだ。そうなったら、全生涯を三十年先までも…」
↓
「…教養ある人間であれば、なおさらそうだ。そうなったら、全生涯を三十年先までも…」
P120の6-7行目:
「…それでもそれにも確信を持てぬまま、…」
↓
「…それでもそれに確信を持てぬまま、…」
P164の9行目:
「〈連中が跪(つまず)いて、俺に友情を懇願することなど、…」
↓
「〈連中が跪(ひざまず)いて、俺に友情を懇願することなど、…」
Posted by ブクログ
主人公に、まるで未来の自分が書いたような強い共感を感じた。肥大化したプライドで他者を見下し、同時に自己が矮小で卑劣な存在だと認識していながらも、それを変える為に前向きな、つまり現実と対峙することから逃げ続ける。高すぎる理想で、他人を嘲笑するが、それは自分自身にも適用される。
自己嫌悪、自意識過剰、低い肯定感と高い自尊心、全て共感できた。
主人公が語る事柄も、経験があることばかりだった。物語自体、何も解決せず、循環する陰鬱を記して終わる。救いはないし、読み終わった後に何が変わるでもないが、100数十年前に自分と似たような人間がいて、それを描いた小説が古典的名作として世界中で受け入れられている事を、なんだかとても温かく感じる。しかし一方で、他人がこの小説について語っていると傲慢にも不快感に似た感情を持ってしまう。お前になんかに理解できてたまるか!と。
失礼にも恥ずかしさを覚えるほど、完全に自己投影してしまった。キリスト教や当時のロシア情勢などを関連付けて語ることもできるようだけど、それ以上に現代社会における自己の確立の困難さという普遍的な悩みを扱っているのだから、まずは後者に注目するべきだと思う。
ただ主人公の、おそらくは理想とする水晶宮については納得できなかった。半理性的で非合理で、より感覚的な愛の世界。それを理想としている前提があるから、あのラストがより際立つのは理解しているけど、思想として納得できなかった。主人公自身、本当にそれを望んでいるとは思えない。ルサンチマンとストーリーの言い訳に聞こえた。文学としてはそれが正しいのだとは思うけど、私個人として好みじゃない。
Posted by ブクログ
「俺は病んでいる・・・ねじけた根性の男だ」で始まる非常に暗い小説。小説は2部に分かれ、Ⅰ部の「地下室」はモノローグで主人公のねじれた人生観がくどく語られ、Ⅱ部の「ぼた雪に寄せて」では主人公を「ひどく苦し」めている思い出が語られます。
Ⅰ部は難解で矛盾だらけ(ただ、注意深く読むと論理的一貫性があるのかもしれません)の一見戯言ですが、Ⅱ部で描かれるのは、一転、ほとんどコメディのようなねじれた男の3つの思い出。261ページの中編小説ですが、Ⅱ部に不思議な面白さがあり、一気読みでした。
主人公は40歳の元小役人。遠い親戚から6,000ルーブルの遺産が入ったため、退職して地下室に引き篭もっています。
「自尊心」が非常に高く、19世紀の知性が高度に発達したと自己評価している主人公は、何物にも、虫けらにさえもなりえなかったと考えています。主人公が批判するのは屈託なく率直で実際に行動を起こす「やり手タイプ」。そして、「やり手タイプ」も自然法則には勝てず、合理主義一点張りである点を猛烈に批判し「愚か者」と断定します。
自己については「冷ややかなおぞましい絶望と希望が相半ばした状態や、心痛のあまりやけを起こして我が身を地下室に40年間も生きながら埋葬してしまうことやこうした懸命に創り上げた、それでいてどこか疑わしい己の絶体絶命状態や、内面に流れ込んだまま満たされぬ願望のあらゆる毒素。激しく動揺したかと思うと永遠に揺るぎない決心をし、その一分後には再び後悔の念に苛まれるという、こうした熱病状態の中にこそ、さっき俺が言ったあの奇妙な快楽の核心があるのだ」と難解な分析を行います。
このあたりで挫折しそうになりましたが、訳者の安岡治子さんの解説は良きガイドになりました。特に7章以降に展開される「水晶宮」の理論の意味は解説がなければ読み取れなかったと思います。
16年前の苦痛の思い出を描くII部は、ほとんどコメディで3つのエピソードからなります。
①将校との個人的な心理戦争
②裕福な同窓生たちとの空回りの闘争
③娼婦リーザに挑んだ戦い(?)と敗北
上記のエピソードは主人公のくどいほどの心理描写とともに描かれます。時間をおいてもう一度Ⅰ部を読むと、Ⅰ部の意味がある程度は理解できるような気もします。
以上、難解であると同時に面白い小説。ただ、ドストエフスキーの世界を未経験だと辛いかもしれません。また、大昔に読んだ『人間失格』を思い出し、また読んでみたくなりました。
Posted by ブクログ
マゾヒスト、と呼べば良いのだろうか。氏曰く、自意識自尊心が極めて強い、人並外れて賢い人たちは、 それ故に悩み苦しむ機会が多く、気づくとそこから快楽を感じるようになってしまうらしい。 氏は冒頭でそういう人間がp0「我々の社会に存在する可能性は大いにある」と述べているが、 私自身がこういう感情に一定の覚えがあるから、それはそういうことなのだろう。
氏が若い時分の愚かな行動を振り返った、2章ぼた雪に寄せてでは時折、マゾヒズム(私)の深淵が描かれる。 それらは深淵と言うだけあって、現実フィクション問わず他では見ることのできない描写が続く。 具体的にはまずズヴェルコフの晩餐会への参加に氏が名乗りを上げる場面である。ここでは氏の目の前で氏抜きの晩餐会の計画がなされている。 氏はこれに対して自分が晩餐会に参加することを望まれていないことを理解していながら晩餐会への参加を表明してしまう。 追い込まれた時に(我々のような人種は自尊心が高く、恥をかくことを最も忌避しているので、今回のような場面では 追い込まれているも同然なのである)突発的に悪手を選択してしまうというのが、ある種のマゾヒズムである。※1
深淵は更に深い。氏は先述した、晩餐会への参加表明に対する後悔の弁を述べた直後、p131「しかし、俺がこう憤怒に駆られていたのも、 俺は必ず行くだろう、わざと行くに違いないということが、おそらくは自分でもわかっていたからだ」と狂気の弁を展開している。 その理由もし行かなかった場合、p139「俺はその後一生、自身を嘲り続けるに違いない。『なんで臆病風を吹かせて、 現実に怖気づいたんだ、臆病者!』むしろ逆に、俺としてはあの屑がらくたの連中に、俺が自分で思うような臆病者では、 さらさらないところを証明してやりたいと熱望していたのだ。それどころか...連中を圧倒し、打ち負かし、魅了し、せめて思想の高邁さ、 疑いのようない機知という点だけでも連中に俺を愛してもらいたい、という夢を抱いていたのである」とどうしようもない具合である。 絶対に恥をかきたくないという異次元の自尊心、何時も他人の目を気にして過剰に想像する自意識、 その一方無根拠に自分の能力と評判を見積もり、ひたすらに都合の良い展開を想像する自信過剰。 これらが組み合わさることで、自ら進んで悪手を選択するというマゾヒスト的行動に至るという訳だ。
最後に、以下のとおり。 p150「俺は連中全員を、朦朧とした目で無遠慮に見回した。ところが連中は、俺のことなどまるきり忘れてしまっていた。」 p155「ただ、なるべく連中の誰も見ないようにしていた。一人、できるだけ孤高の姿勢を貫いていたのだが、実は、連中のほうから 先に話しかけてくれないかと、それをじりじりしながら待っていたのだ。」 p157「俺は...壁沿いに、食卓から暖炉へ、また暖炉から食卓へと歩いていた。俺は、お前たちなんぞなしでも、やって行けるんだ、 というところを全身全霊で見せつけてやろうとしていたのだ。...俺はじっと我慢しながら、連中の目の前を8時から11時まで...歩き通しに 歩いた。...この3時間のうちに、三度大汗をかいては、三度その汗が引いた。」 これらの行動を想像だにせず面白おかしく読むことができるなら、それはなんと幸せなことか。少なくとも私は、自らの苦い思い出が 蘇りとてもいい気分で読むことはできなかった。周囲から浮いてしまった我々がどれだけ自尊心と自意識を高まらせても、 周囲は我々に何らの注意も向けていない。それに気づかず、一人大汗をかくのがマゾヒストなのである。
マゾヒズムの深淵から浮かび上がるのは、先述した自尊心、自意識、自信過剰というキーワードだ。氏は、これについて、 p15「意識しすぎることーこれは病気だ」p20「例えば俺は、やけに自尊心が強い。」「そもそも俺は周りの誰よりも賢いのだから、悪い。」 と述べている。 氏によれば、怒ることのできるタイプ(馬鹿)の人間というのが存在し、彼らは、p22「ひとたび復讐心に取り憑かれたら、もはやしばらくは その全存在には、この感情のほかには何一つなくなる」タイプの人間である。その一方で、p23「正反対の強烈な自意識を持つ人間」がおり、 彼らはp24「強烈な自意識ゆえに、この際正義などというものは否定する」という行動をとる。自意識の人間は発散できない怒りを溜め込み、 それらを馬鹿に笑われ、やがてp25「自分の受けた屈辱をその最も些細な恥ずべき細部に至るまで一つ一つ思い出しては...自分でわざわざ いっそう恥ずかしいディティールを付け加え、自分で作り上げたその虚構で、意地悪く己をからかい苛立たせる」ようになる。 これにやがて快楽を感じるようになるとマゾヒストが完成する。
本書で特筆すべきことは、マゾヒズムの深淵だけでは決してない。 p50「あんた方はこう言うだろう 『自然法則を発見しさえすれば...人間のすべての行動は、ひとりでにこれらの法則にしたがって計算に基づく対数表のように配分され... 行事日程表に記入されることになる。...そうなったら数学的正確さで算出され、完全に準備の整った新しい経済関係が確立され...ありと あらゆる問題はたちどころに消え失せることになる。』 」当然この発言はドストエフスキーのそれではなく、むしろ氏はこのロシア流ロマン主義的主張(まさにロマンとしか言いようがない)を わざわざ用いこれに反論する形でp53「人間はいついかなる時も、いかなる人間であっても、決して理性や利益が彼に命じるようにではなく、 自分の望みどおりに行動することを好んできたのである。...人間に必要なものは、ただ一つ、自発的な欲求のみである。」と述べている。 この問答はコロナ禍初期に浮上したcocoaなる接触確認アプリに端を発する議論を想起させる。cocoaの理論は、コロナ感染者がアプリを 通してスマートフォンに記録された自身の移動履歴を提供することで感染者と接触した者に通知が届くという代物である。なるほど、 理論としては正しい。数学的にはこの理論でコロナ禍という未曾有の危機を解決できるはずだったというわけである。しかし、 蓋を開けてみれば「バッテリーを余計に食う」「政府のやることは信用ならない」「面倒臭い、知らない」など数多の理由を作って 人間は自然法則に従わず、ものの見事に試みは頓挫した。
また、cocoaの土台となったAI信仰、シンギュラリティの物語と関連して、 やがてAIに仕事を奪われることとなる大多数の人間は、AIの開発や上手い利用を行う超少数派の勝組にパンとサーカスの如く娯楽を与えられて 生きていくだけの存在となるなどという真に悪夢のような言説も存在する。これを否定する論としてドストエフスキーが述べているのが、 p62「人間にありとあらゆるこの世の恵みを浴びせかけ、ただぶくぶくと泡が幸福の水面に浮かび上がるほど、幸福の中に頭までどっぷりと 浸からせてみるがいい。...まさにそんな状況のなかでさえも、人間は...最も悪質なナンセンスを、最も非経済的なでたらめをやりたがる。 それもただ...次のことを確認したいためである。それはつまり、人間は依然として人間なのであり、決してピアノのキーなどではないと いうことだ。...いや、それだけではない。実際に人間がピアノのキーであることが判明したとしても...人間は決して納得せず... わざとなにかしらその証明に反することをしでかすに違いない。何の手段もない場合は破壊と混乱、ありとあらゆる苦しみを考え出してでも、 自分の主張を押し通すだろう!」 ということである。 このドストエフスキーの、客観的に見ると本当に愚かとしか言いようのない人間観はしかし、言い過ぎとも言えないくらいに人間の本性を ぴたりと言い当てているふうに思えてならない。 あなたの考えていることは全てわかるから、私の最良の指示に従いなさい、と言われたらカチンと来るし、あなたは何もせずただ気の 向くままにゴロゴロしていればいいのよ、と天国のような条件を提示されれば途端に物足りなくなるのが人間なのではなかろうか。 そういう、人間の愚かな本質を指摘する立場とそれを乗り越えられるとする立場の対立が100年以上前から現在に至るまで 意味を持っていることが本当に面白い。
※1 ここでは追い込まれているという点がポイントで、もしも追い込まれていなかった場合、つまり冷静に判断できていれば悪手を 選択していなかった可能性がある。実際、氏はその後p131「一体なんの魔が差して、あんなところへ出しゃばって行っちまったんだ!」と 語っている。しかし、実はこの論理はあまり意味がないのかもしれない。何故なら、追い込まれたその瞬間に選択を促すのは深層心理で あるはずで、つまりそれが本質なのではないかと思われるからである。まあ、この話はこれ以上広げようがないのでここら辺にしておく。
「どこか仕切り壁の向こうのほうで、何かにぎゅっと押し潰されるか、さもなければ、誰かに絞め殺されてでもいるように、 時計がジーッとしゃがれ声を出しはじめた。不自然なほど長くそのしゃがれ声は続き、その後か細い不快な、思いがけず忙しない時 を打つ音が響いたーまるで誰かが不意に前方へ跳び出したかのようだった。」 押し潰され、絞め殺されるというおよそ時計の描写には似つかわしくないワードの選択。「不自然」「不意」「不快」と良くないイメージの 形容詞の多様。誰かが前方へ跳び出したかのようだ、で終わることによってこちら側への関与を匂わす(本当に誰かが時計から飛び出してきた のなら、時計の前にいる我々との接触は不可避であるから)という、ひたすらに暗く静かで不穏な印象を抱かせる本作第2章ぼた雪・・・の悲しき 6幕の開幕にふさわしい名分だ。
第2章ぼた雪・・・6幕以降、クライマックスにかけて情婦リーザとのやりとりが展開される。 氏は自分より間抜けそうな若い女を前に、氏曰く燃え上がり、自らの願望とも理想ともつかない状態について力説を始める。 いかんせん弁の立つこの男はベラベラとそれっぽく調子のいい文句を垂れ流すのだが、本性を知っている我々はその姿に比喩ではなく 吐き気を感じ得ない。その後なんやかんやあってリーザと抱き合った後、ソファにうつ伏せになって号泣を始めるのだが、 ここでふと我に帰って気まずさを感じたり、最後にはリーザを追い出してすぐに後悔して追いかけるも無理やり自分を納得させて 引き返したりとマゾヒスト節(というか、それにとどまらない屑?)全開で物語は幕を閉じる。
氏が屑であるのは別としても、マゾヒストが自らがマゾヒストであることにさえもある種の快楽を感じ、 自身のどんな悪行もそれを原因にして片付けてしまうことは重大な問題である。彼らのそれはハッキリ言おう、 自身にとって損失でしかない。これを自覚し、自身の身の振り方を考えるべきであろう、マゾヒストの諸君!!
娼婦を感動させたのに...
娼婦に気持ちが伝わったのは感動だ。
でも、主人公は分裂した感情を持つ。
単純でないのはつらいことだ。
だが、読者が
アンビバレンツを直視するなら
何かが見えるかもしれない。
娼婦ではないが汚れた状況下の女性である
『ブギーポップは笑わない』の織機綺、
『青春の門・筑豊篇』の牧織江、
また、同時期の作家トルストイの描く、
厳しい状況下にいた
『戦争と平和』のナターシャ
たちには、理解ある彼が現れて、
筋が単純だが、この手記では
誰も救われなくてつらい。
でも、矛盾や苦悩の中で
とにかく生きていると思う。
出世とかの土俵違いのところで
戦っている役人には
知識や思考を生かす場を与えてあげたい。
Posted by ブクログ
肥大する自己意識。ちっぽけであると分かっていると同時に、どこか偉大であると信じている自己の存在意義。結局、極悪にも、善良にもなりきれずに世界を恨む。人間の普遍的な自己意識と世界との関わりの間で揺れ動く悩みは時代や場所が変わっても色褪せずに多くの人々の心に問いかけ、また、慰めてくれている。
自意識過剰と書いているけど、実際は人の悪意を正面から受け止め過ぎた悲しい主人公だと思いました。人間は脳髄で考えているのではなく手足からつま先に至るまで、それぞれ別々に考えている。頭も尻もない下等動物の連中が暑い寒いを正確に判断したり、喰い物の選り好みをするのはまだしも、人間の脳髄なんぞが寄っても附けない鋭敏な天気予報までもはっきり表しているのだから。主人公は言動だけでなく人間の態度や、ささいな行動からも人の悪意を感じ取ってしまうのではないだろうか。
この主人公の考え方は狂っているように見えるが、それは他の人より目立っただけだと思う。
Posted by ブクログ
新訳ではありますが、久々に手にしてみました。
凄いですな、これは。
主人公の倒錯の果ての自意識過剰・自己中心意識には憐れみを覚えると同時に読者(あるいは当方)自身の欺瞞を抉り出されているようで慄きを感じる。
また、リーザの設定などヨーロッパを知っていればより深くこの本を味わえるんだろうと思いますな。
それにしても「本を読んでいるみたい」とは痛烈な知識人(あるいは良心ぶる市民)批判、とにかく身を隠すばかりです、当方は、はい。
Posted by ブクログ
この手記の主人公の惨めな姿に、自らを重ね合わせてしまうのは私だけであろうか。
この主人公は現代に特有の深刻な人間像の、1つのモデルになっていると思う。高度な知識人、教養人にありがちな、自意識の肥大化、その自意識と目の前の外界がうまく結合せず、自意識の中でもがき苦しむ人々。高等教育が普及した現代にこそ、書物や受け売りの知識で作り上げられた脳内が最上の世界と考える、このような人間が増殖しているのではないだろうか。
高度に知識、教養が発達したからこそ、外界での人間関係が上手くいかず、もがき苦しんでいるのであろうか。主人公はあくまで、周りの人間が無条件に自らを蔑んでいるような述懐をしていたが、その実、周りの人間にそうさせてしまうような、本人の陰険なたたずまい、雰囲気があったのだと推察することもできる。あくまで自分が世界の中心であり、自らの理性・意志をもってして不可能なことなどない、という考えのもと行動しているのであろう。これは、宗教がその権威を失墜させてしまった現代において特有のことであるとも考えられる。神の存在について思量をめぐらせる筆者の、後続の作品にもつながるものを感じる。神と人間との関係性を考える上で、重要な作品だと感じた。
印象的だったのは、説教する主人公に対してリーザが言い放った、「まるで本を読んでいるみたい」という一言。自らの意思で作り上げた言葉かと思っていたが、実はそうではなく、書物の受け売りの知識を並べたに過ぎなかった。意思の自由を獲得するための勉学であるはずが、そうはならなかった矛盾を孕んでいるように感じた。他者との関係性の中でしか、自らの意思の存在意義は保ち得ないのであろうか。
Posted by ブクログ
今の気分になんてピッタリな小説なんでしょう。主人公は自意識過剰な引きこもり。今は中年なんだけど、若い頃の恥ずかしい話を敢えて手記に書いてみたりして。その気持わかるわかる、虚勢を張ってみたりオドオドしたり。いろいろと空回りして結局、<生きた生活>をするより、地下室にじっとして<平穏無事>でいるほうがいいんだってなる。
なんか、共感しすぎて恥ずかしいくらいでしたね。
そんなにズバズバと思ってること文章化されると、私も同じなんで恥ずかしいんですけど、と……。
最近、ドストエフスキーを読む若い人が増えているらしいけど、この本は今の時代に合うと思う。新訳のせいもあるだろうけれど、読みやすい。ロシア人の長ったらしい名前や愛称や複雑な人間関係なんてものがほとんどなくて、どんどん読めてしまう。なにせ引きこもりですから。
ドストの長広舌は古風だと思ってたけど、修正。この自意識過剰なおしゃべりこそ現代風なのだな。
Posted by ブクログ
とにかく陰鬱で何一つ上手くいかず、この世で1番くらいに捻くれた男の物語であり、読むのは大変だった。
しかし、共感できる箇所、「もしかしてあの人に似てるのでは」と思う箇所が数々あった。自分の、人の、そして人生の普遍的などうしようもなさや苦しみを共有してくれてる本なんだと感じた。だから、こんなに世界的に有名で読まれてる本なのかな?と。
Posted by ブクログ
4.0/5.0
強烈に過剰な自意識と自己批判、そして世間に対する攻撃的な憎しみと諦観。
あまりに絶望的な1人の男によってひたすら綴られる手記。
世の中の矛盾や人の愚かさなど、共感する点もあれば、正直かなり難解に感じる部分も多かった。(特に第一部)
この手記の書き手の男がどこか「自分は劣等生だ」ということをある種の誇りに思ってるようにも感じた。
Posted by ブクログ
ドストエフスキーらしい文体、生々しさ、そして抉ってくる感じがとても良かった。自分もこういう人間じゃないか?と考えさせられ、ちょっとした不快感すら感じる。でもその「生々しい等身大の姿」をこうして文章で表現できてしまうのだから、ドストエフスキーは恐ろしいなとも感じる。
Posted by ブクログ
主人公は、自意識過剰で妄想癖があり、人を征服することが愛だとのたまう、救い用のない駄目人間でサド気質がある。しかし、主人公は自分がダメ人間であることに気づいているのにも関わらず、欠点を修正するどころか、逆に拍車をかけるように、欠点の上から欠点を重ね続けているので、マゾ気質な面も持ちわせている。そんな彼が若かりし頃の独白における行動は、滑稽で笑える。しかし、勿論主人公ほどではないが、過剰な自意識の覗く瞬間が私にも多少なりともあるので、共感した部分があったのも事実だ。
Posted by ブクログ
とても他人事とは思えない、悲惨な物語でした。今この瞬間、一体どれほど多くの地下室の住人が、日本はもちろん世界中に存在するのでしょうか? 推測するに、インターネットの世界で見かける、異常に自己顕示欲が強くて無意味に悪意を振り撒く人々や、突然無関係の他人に襲い掛かるタイプの犯罪者達等は、この地下室の住人にあたるのではないかと思います。プライドだけは高いのに、現実には何事もできず、疎外され、嘲笑を浴び、傷付き果てて、対象のはっきりしない憎しみを抱いており、なんでもいいから復讐をしたい、恨みを晴らしたい、と思っている…。彼らのような人々は、一体どうすれば救われるのでしょう? 確かに、傲慢という点で彼らには罪がありますが、だからと言っていつまでも苦しみ続けなければならないというほどの罪だとは私には思えません。少なくとも、他人を傷付け始めるまでは。けれど、誰かが彼らに近寄り、「私だけは味方だよ」と言ったところで、きっと彼らは信じないし、そもそもそんな誰かはまず現れないでしょう。なにしろ、そういった誰かが現れなかったからこそ、彼らは地下室へ潜ったのですから。本当に悲しいことですが、もしも彼らが地下室から出る方法があるとすれば、それは彼らが自分から地上へ向かう決心をする以外にないのではないでしょうか。そんなことができるなら、誰も地下室になんか入らないでしょうけど…。
Posted by ブクログ
実に、実に久しぶりのドストエフスキーさん。
「罪と罰」「悪霊」「白痴」「貧しき人々」「虐げられた人々」「カラマーゾフの兄弟」。
以上の作品を新潮文庫で読んだのは、中学生か高校生のとき。もう25年くらい前のお話です。
そのときのことを正直に述べると、「良く判らん。でも、時折、恐ろしく面白い。そして、読み終わった時に、面白かった!と思った」。
それからずいぶん時間が経って。19世紀ロシアの事情とか、キリスト教、ロシア正教的なこととか、ロシアの貴族階級、社会制度のこととか。
そういうことが判らないと、ホントに隅から隅まで楽しめる訳がないんだな、と。
なんだけど、そういうのを差し引いても面白いから、翻訳が何十年も売れているんでしょう。もう、100年になりますか。
さて、「地下室の手記」。
本当は、新訳で「罪と罰」とか読み直したいなあ、と思っていたんです。
けれども、同時に、「読んだことない本を読みたいなあ」という思いもあって、妥協点がこの本になりました。
1864年発表だそうです。ちなみに、明治維新が1868年です。たしか。
ドストエフスキーさんが、金持ちの若き息子で、理想に燃えるやや社会主義的な小説家だった時代がありまして。
それで警察につかまって、死刑になって。でも土壇場で恩赦になってシベリアで4年、働いて。
そこから復帰して、再び小説家デビューします。
そんな、再デビュー後、間もない小説です。
この後に、「罪と罰」とか、超ド級の小説を書いていくことになります。
そういう、「後記の、ほんまにすごかったドストエフスキーさんの、精神のエッセンスが詰まっている」と、研究家の人たちから言われるのが、この「地下室の手記」だそうです。
いやあ、凄かった。
主人公は、「40代の、小役人」。
何ていうか、貧民という階層ではないのだけど、ホワイトカラーでインテリ、という層の中では、貧しい。
そして、独身。独り暮らし。
性格は気難しく、孤独。友人はほぼ、いない。体格も貧弱で、ブ男。
でも、インテリで、色んなことを考えている。そして、プライドが高い。でも人前で上手くふるまえない。
恥をかくのが怖い。孤独も怖い。貧乏も怖い。人から見下されるのは嫌だ。
そして、他人に対して、優しくない。常に威張りたがる。
まあつまり、かなりイヤな奴。
ポイントは、イヤな奴なだけではなくて、哀れな男。惨めな勤め人。
そして、この男が、どうやらちょっとした小銭を相続したんですね。
だから、もうとにかく、外の実社会に出るのが嫌になっちゃった。
地下室に籠ります。こもって妄想します。自分を認めない世界を呪詛します。罵倒します。
自分を見下した人々を、自分が見下せる人々を、強い物、勝利者、恵まれた人々を、非難、批判、論難、侮辱します。
そしてそれを延々と書き付けます。
そして返す刀で自己嫌悪します。後悔します。
そしてそれも、延々と書き付けます。
もう、これで判りますね。そうです。これって、永遠不変の人間臭さなんですね。
ま、今で言えば引きこもり。ネット生活ですね。
それって、大なり小なり、誰でも抱いている気持ちですよね。
僕たちはみんな、誰しもが自分の「地下室」を多少なり抱えて生きている訳です。
主人公は、そういう、イヤで惨めな男なんですけど、
同時に、まるで小説家のドストエフスキーさん自身かのように、
一方で非常に知性がある。学がある。高い高い自意識がある。そこで、この小説の味噌としては、その主人公の自意識を、膿をいじってつぶすように、ねちねちと苛めて自己告白させます。
これぁ、すごい迫力です。
で、じゃあ何の話題をしているのか、というと、前半、三分の一くらいまでは、正直哲学的というか、恐らく当時の哲学的命題についての議論が多いです。
19世紀ロシア西欧のそうした意識をはっきり判るのは難しいのですが、
「2×2は、4である」という言葉に代表される、理性というか、科学というか。
そこから敷衍して、人間の合理性、啓蒙性みたいな考え方。
それに対して、ドストエフスキーさんが、いや、違った主人公が。「人間そんなわけぁ、ないでしょう」という主張を繰り広げます。
このあたりについては解説を読むと、やはりドストエフスキーさんとしては、キリスト教(ロシア正教?)というものがやっぱり大事だよね、というパスカル的な話をしたかったそうです。
なんだけど検閲とかで、削られちゃったそう。まあ、その辺はいまひとつピンと来ません。
それはさておいて。後半になると、まず小説の時間が、
「40代の主人公が回想する、昔の話。主人公が30代?20代の頃かな?」という時間になります。
この後半は、割と、物語になっています。
主人公は、貧しく惨めでかっこつけてばかり。
その上、楽しい趣味も喜びもなく。女性にもてないし。妄想はしても単調な日々。結局、恐らくは今の日本で言うところの性風俗に人に隠れて通い詰めています。
で。友人たちとの社交で、しくじって、惨めでみっともない思いをします。
もう、ここのところの心理描写が、エグくて、スゴくて、読ませます。
誰でもありえる、惨めな心の動き。仲間になりたくて、でも面倒で、尊厳は保ちたくて、うまくやりたくて、やれなくて惨めで、孤立して不安で、みたいな…。
そんな主人公が、性風俗の売春宿?の若い娼婦に、なんだかカッコつけて説教たれます。
いや、説教というのではなくて…自らの思想を述べるというか。俺は凄いんだぞ的なことを言う。
その引き合いで、むしゃくしゃした気分で、その娼婦を辱めて貶めるようなことを言う。
なんだけど、その娼婦に恋してもいる。
で、いろいろあってその娼婦が自宅に来る。
で、混乱しちゃって、結局その女性を受け入れることができない。侮辱しちゃうような別れ方をする。
で、そうした直後に大後悔。雪の街に出て探すけど、もう見つからない、という。
いや、これは、凄い小説ですね。
ブンガク史的な、というか、物語歴史的な意味で言うと、もう、これは確実に一里塚、記念碑、金字塔ですね。
太宰治だって誰だって、もう、この心理的な描写に比べたら、真似事だけで弱いのでは?と思ってしまいます。
また、解説に書いてあって面白かったのは、ウディ・アレンが、この作品のパロディを書いている、という。
確かに、これ、ちょっと乾いて諧謔味を増せば、ウディ・アレンなんですよ。
というか、ひょっとしたら、もともとの「地下室の手記」を書いたドストエフスキーの想いとしては、誇張して笑えるでしょ?という思いがあったのかもしれませんね。
ただ、翻訳してブンガクとして謹上されると、諧謔味はなくなりますね。
もっと言えば、ラスト、娼婦のリーザを辱めて、自分の部屋から追い出しちゃう主人公。
でも後悔して、すぐに雪の街に追いかけていく主人公。
ここは読んでいるときから、「ああ、これって”ブロードウェイのダニー・ローズ”の最後の場面に似ているなあ」と思いました。
(映画の方は、それでもって心温まるラストになるんですけどね)
宗教とか、大家族制とか、身分制度とか、農村の閉鎖性とか。
そういうものが、徐々に、都会でもって消費でもって、貨幣経済で情報で新聞で社交で自由で個人で…というものに襲い掛かられていきます。
そうすると、やっぱり個人なんですね。なんだけど、淋しいんですね。なんだけど、プライドを肥大させていくと、こもっちゃうんですね。
そして、どうしてそうなるかというと、賢くなったからなんですね。知性が高くなるからなんですね。理性を持つからなんですね。自意識ですね。
そういうことが、きっと西欧を筆頭に、19世紀くらいから起こる訳です。
そこで先頭切って、ドストエフスキーさんはその救いの無さの濃厚な人間ドラマを書いちゃったんですね。
この本の中で、主人公は「実際の生活」とか「人生」とか、そういうものに憧れています。
つまりは、実際の恋愛。尊厳ある幸せな友情、交際。やりがいのある仕事。興奮するような快活な遊び。レジャー。そんなようなことです。
同時に、自分がもうそういうものは得られないと絶望しています。
そして、そういうモノゴトに、嫌悪と憎悪も持っています。
言葉はともかく、2014年現在の日本で言うところの、「リア充」「非リア充」みたいな考え方。
もう、150年くらい前に、ドストエフスキーさんが、言ってるんですね。
で、だからって、安易な解決も救いも何にもありません。
でも、面白いですね。ドロドロの人間ドラマ。葛藤。
そして、どこかしら、自分の姿をチラっと鏡で見せられたような。そんな、ハッとしちゃう感じ。ドキッとしちゃう感じ。
いやあ、これはタマラないですね。
濃厚ブルーチーズを食べたような。
苦いけど、旨い。
脱帽。パチパチ。
いつも通り、光文社古典新訳文庫。読み易かったです。
Posted by ブクログ
僕が初めて『地下室の手記』に触れたのはこのヴァージョンでした。内容については亀山郁夫教授が訳したヴァージョンでさんざやったのであまり触れませんが、ここではエッセイ風に書いていることをご了承下さい。
僕が初めてドストエフスキーの『地下室の手記』をすべて読んだのがこのヴァージョンで、記録によると2009年のころになるそうです。内容や解説については先日書いた亀山訳のほうでやってしまったので、こちらではそのかかわりとをつれづれに書いていこうかなと、そんなことを考えております。
そもそも、この存在を知ったのは中学生のとき読んだ太宰治の『人間失格』の末尾に収録されている解説で、引き合いに出されていたからで、ずっと気にはなっていたものの、読むことはなく、なし崩しに社会人になってから怒涛の生活を送るまで読書そのものを数年ほどしていなかった時期もあり、そのこと自体を忘れていた時期もありました。
しかし、なんだかんだあって『本を読む』という時間だけが皮肉にも膨大にあった時期がちょうど2009年のころだったのかもしれません。今自分のことを振り返っても今まで自分がやってきたことがすべて潰え、さぁ、これからどうしたらよかんべかなぁと思っていたころあたりではないかと推測せられます。
先ほど『地下室の手記 中二病』でググってみると12500件もヒットしたので、そう考えている人はかなり多くいる、ということなのでしょう。内容はというと遺産が転がり込んだことを機会に役所勤めをやめて『地下室』と称するアパートに引きこもり、今まで散々自分のことを嘲笑した世界を「手記」という形で嗤い返すという陰鬱なことこの上ないもので、こういうものを好んで読む人間は心の中に『昏い』部分を多かれ少なかれ持っているんだろうなということを、何より自分がそうであるがゆえに感じてしまうのでございました。
読み終えたあとには非常に『ダウナー』な気分になってしまうこと請け合いですが19世紀のロシアから向けられた『問い』の数々は21世紀を生きる我々の中に否応なく突き刺さってくるものではないのでしょうか?「終わりのない絶望と戦い続ける人間の姿」とコピーには書いておりますが、その惨めで、無様で、もがき苦しむ姿に何を見出すのか?それは個人個人で異なっているかと思いますが…。
ドストエフスキーの後の五大長編『罪と罰』『白痴』『悪霊』『未成年』そして、未完ながら畢竟の大作である『カラマーゾフの兄弟』につながる原点がこの作品であり、またドストエフスキー文学の『鍵』である本書は良きにつけ悪しきにつけ、永遠に残っていく作品であることは疑いようがございません。
Posted by ブクログ
冒頭のとっつきにくさから想像できなかった、切ないラスト。
あまりに自身の行動と気持ちの負の部分を突き詰めて考えているので、よく考えるなーと、嘲笑すらしてしまう。けれど、私自身を振り返った時、共感できる部分が多々あることに気がついた。
普段感じているが、言葉にすることのできない人の心の汚い部分を、はっきりと文章にして綴ってあり、ドストエフスキーの凄さを知った。
Posted by ブクログ
正直私の読書力が低く、この本の面白さを完全には理解できていないと思います。特に独白部分は意味がわかっても頭に染み込まないように感じてしまいました。
ストーリーはかなりぶっ飛んでいて、主人公の行動や考えがかなり理解できません。しかし、時々共感する部分もあり、それはそれで心が辛かったです。
旧友達への酷い行動も意味わからないし、リーザに対して説教厨になる意味もわからなかったし、アポロンに強くあたる意味もわかりません。常に何かに不満があって爆発しそうな中でリーザに対してだけ自分の弱いところを見せてしまう失態も犯す人間臭すぎる男の訳のわからない話がとても面白かったです。
最後はリーザに金を握らせることでリーザに会えなくなるという悲しい終わりでした。
もっと前段部分が理解できていればこの物語をより楽しめたんだろうな、と悔しい気持ちが溢れてます。
Posted by ブクログ
ううううう。
呼ばれてもいない飲み会にいかないでー。
二次会に行くのにお金かりないで!!。
ううううう。
2部に分かれていて一部は独白。
二部はわちゃわちゃ。
よく自分自身がわかってる。な。
太宰治の人間失格はたぶんこの作品に影響受けているなあ?
Posted by ブクログ
むき出しの自己愛。
むき出しのエゴ。
確かにこの男は嫌な奴で、そばにいてもらいたくない。
しかし、この男は、確かに私たちの中にいる。
この勝手さ。
この醜さ。
私たちは、この男を調教してコントロールして、社会生活を送っている。
そんな気がした。
地下室は、私たちが自分自身の中に作った檻なのだろう。
そして、私たちには、ときおり、どこか奥底からこの男の叫び声が聞こえてくる瞬間がある。
人によっては、この男をむき出しにして生きている部分がある。
綺麗な顔で、体裁を取り繕って生きているけれど、お前たちはこの男とどれほど違うというのだ?
と、見せつけられているような気もした。
Posted by ブクログ
ドストエフスキーのエッセンスが詰まっている中編という印象を持った。周りとの距離をうまく取れない四十路の役人。心と行動が一致しないことがままあり、一人の時に自己を内省しつつ混乱していき行動もちぐはぐなものになっている印象。一章目の「地下室」の文には慣れるまで時間がかかったが二章目の「ぼた雪に寄せて」からはぐっとひきこまれた印象。
Posted by ブクログ
自意識過剰で気が弱い、生身の人間と付き合いたいが避難ばかりが先をついてうまくいった試しがない。同情しようとした女性に逆に同情されてしまう。どこに救済を見出すことができるのか。苦悶する人間。2022.8.17
Posted by ブクログ
地下室に引きこもった人が書いた恥ずかしい記憶の一部。
自意識過剰。そして性格がとても悪い。
愛を知らず考えがねじれている…
自分の中でこれだけ破壊してるのだから、辛いだろう。
かわいそうだけど、あまりにも極端なので少し滑稽だった。
なんでそんなこと言うの!大丈夫??って何回思ったか。
せっかく愛を出されても愛の受け取り方がわからず、酷い態度に。
自分を馬鹿にする人たちから「こいつはすごいな!」と思われたい一心。周りにそれを認めさせたいのだけど、上から目線で必死になって言うものだから、余計にバカにされ、反感を買い、本人は惨めになる。
自分の居場所が見つからないし、これ以上恥ずかしい思いをしたくないので、地下室にこもる。
認知療法して、自分をバカにしない人たちの中で生きていければいいんだろうけど、地下室にこもってしまったのなら、それはちょっと難しそう。
Posted by ブクログ
あまり面白さを感じられなかった。これに限って言えば、面白さを求めるものではなかったのかもしれないけれど、結局自分が求めているのは面白さなので、それが求められないのであれば読まなければ良い、となる。
主人公の語りが、ずっと滑稽に見えていて、ちぐはぐだと感じていたけれど、解説を読んで初めて、表現する何かであることに思い至った。
そう言われてみると、そういう気もする、というレベルでなく、きっと描き出されようとされたものがとても正確に描き出されていた。
150726
Posted by ブクログ
【本の内容】
世間から軽蔑され虫けらのように扱われた男は、自分を笑った世界を笑い返すため、自意識という「地下室」に潜る。
世の中を怒り、憎み、攻撃し、そして後悔の念からもがき苦しむ、中年の元小官吏のモノローグ。
終わりのない絶望と戦う人間の姿が、ここにある。
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]