ドストエフスキーのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
人間は子供の頃に持っていたものを取り戻すために生きているのではなかろうか。
自分を三人称化する
今の愛vs過去の愛
ドストエフスキーは愛と恋をどう分けているのだろうか。
愛は存在を対象とし、恋は性質を対象とする、という考えではなく、愛は恋の上位互換のような扱いだろうか?
「われわれは自分が不幸のときには、他人の不幸をより強く感じるものなのだ。」
「でもやっぱりあたしはなんだかあまりにもあの人を尊敬しすぎてるみたいで、これじゃまるで二人が対等な人間じゃないようね?」
「いったいどうしてあたしたちはみんなお互いに、兄弟同士みたいにしていられないんでしょう?どんなにいい人でも、いつもなんだか隠しご とでもあるみたいに、決してそれを口にださないのはどういうわけなんでしょう。 相手に向っ てちゃんと喋っているんだと知っていたら、なぜすぐに、ざっくばらんに言ってしまわないのでしょうね?」
「空想の女神」 -
Posted by ブクログ
亀山郁夫訳「カラマーゾフの兄弟」を長い間積ん読してきたが、遂に全5巻一気に読み終わった。
詳細を読み込むと到底一回読むだけでは理解できない膨大で難解な小説。とは言え、大まかなあらすじを追った読み方でも十分に楽しめる。完璧に読み込むととても骨が折れると思う。各巻の巻末に「読書ガイド」が付いていてあらすじをさらってくれるのと、最終巻5巻の、「ドストエフスキーの生涯」「解題」を読むと、より深く内容を理解できる。特に「解題」は良い。
各巻のしおりに主要登場人事物名が書かれているので便利である。登場人物の名前がよく置き換わるので、このしおりで確認しながら読むと読みやすい。
世界十大小説の一つとも世界最高の小説とも言われている。作家・村上春樹は「世の中には二種類の人間がいる。『カラマーゾフの兄弟』を読破したことのある人と、読破したことのない人だ」と言い、評論家・小林秀雄は「およそ続編というものが全く考えられぬほど完璧な作品」と言う。また「論理哲学論考」の著者ヴィトゲンシュタインはカラマーゾフの兄弟を50回読んだと言われている。
大まかなあらすじを述べる時、題名のカラマーゾフの三兄弟と父親が主要登場人物として挙げられる。まず初めに、三男アレクセイとゾシマ僧長のキリスト教的聖性とは何かということを感じながら、二人がいる修道院を舞台の中心にして話が進む。次に大審問官の場面。最後に三兄弟の父フョードル・カラマーゾフの殺害を巡るミステリー部分。大まかに言って山場はこの三つ。
ストーリーを肉付けしている哲学的・思想的な部分はわかりづらい部分が多く、難解である。知識不足や読解力不足だけではなく、わかりようもないからわからないという感じで先へ先へと読み進めるしかないという部分も多い。多分カラマーゾフの兄弟を途中で挫折してしまうのは、このわかりようもない記述をわかろうとしてしまうことによって止まってしまうことによって起こると思う。わからないところをどんどん読み進めると、後になってわかることもあるということに加えて、残念ながらわからないままのところもある、といった諦めをもって読み進めたいところである。そしてより深く読み解きたい場合は、読み込むしかないだろう。
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誰でも名前くらいは耳にしたことがあるであろうドストエフスキーの名作であるが、何せ文庫にして最低でも三冊にわたる大作である。興味はあってもなかなか手は伸びない。そんなわけで原作は未読であるが、仄聞するところによると説明部分が冗長で、読破するのに骨が折れると聞く。こういう漫画があるのは正直助かる。無論、一冊の漫画で長編小説のすべてを描き切れるわけもないが、名作の粗筋を面白く読めるというのは有難い。最後まで一気読みできたからだ。ただ相当に端折っているのは、原作未読の私でも分かる。筋立てにいくつか唐突さや不思議を感じる部分があった。例えばスメルジャコフはなぜあれほどイワンに傾倒したのかの説明が弱い気がしたし、グレゴリーはなぜ俗悪な主人に忠実なのか実に不思議であった。原作を読むと分かるのだろうか?イワン率いる一派のテロ活動の描写もとってつけた印象があった。きっともっと深遠な彼の思想が背景にあるのでは?などなど、いろいろな感想が出てくるのも面白かったからであろう。ドストというと難解な哲学小説といった印象があるが、その一端は垣間見えた。原作への興味を喚起してくれただけでも読む価値はあったと思える漫画である。
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Posted by ブクログ
読書として長い旅だった。数十年前は分からなかったことが少しはうなづけるようになり、ドストエフスキーの生涯と解題を読んでさらに理解が進んだ。
キリスト教と社会主義、農奴解放後の混乱という19世紀のロシア特有の空気と、著者が実生活で持つ背景が作品に及ぼす強い影響。ミーチャ、イワン、アリョーシャという3兄弟と父親、スメルジャコフやコーリャ、女性たちとの会話など、どんなに分かりやすい翻訳でも、おそらく原語が理解できないとその面白さは半分以下なのだろうと、訳者の解説を読みながら実感。それでも他作品を間に挟みつつ3か月で読み通せたのは、活力ある言葉での翻訳に徹した訳者のおかげだ。
著者が予定していた第二小説が永遠に読めないのは残念だが、ここまで5冊でも十分に体力の要る読書だったし、読み方によっては十分に完結している物語でもあった。 -
Posted by ブクログ
3.8
斬新な方法で書かれてて1800年代にもうこう言う手法を思いついてたんだと思うと、本が今でも読まれてるのが不思議 その当時はこうでもしないと売れないみたいな感じではなかったんだろうけど、それでもファンタジーやフィクションってやはり有限のもので型を変えていかないと飽きられてしまうのもneedles to sayだと思うからこの作品が令和の今刊行されたものなら頷けるけど1800年代にこれをやろうと思うのはドスエフはなるほど名のおける作家なのだなーと感嘆せざるを得ない!
ストーリー自体がしっかりしたものだとは言い難いけど何も起きない貧乏人の文通のやりとりでよく飽きさせず読み進められる作品ができるなーと思う それにしてもロシアの名前むずすぎる いっそカタカナじゃなくてそのまま書いてくれた方がスッと読めるんじゃない -
Posted by ブクログ
ネタバレ古典作品と呼ばれるものがどうして読み継がれているのか、この歳にしてようやくわかった気がした。
ラスコーリニコフの苦悩、その時代に流行った思想を先鋭化しているという意味では、ロシアの帝政末期の人間しか持ち得ない苦悩なのかもしれない。けれど、普遍的な、簡単に言ってしまえば、自分という存在の価値を信じきれない人間の苦悩、がその根底にあると思った。キリスト教の思想を言語化できるほど理解をしていないので、ラスコーリニコフと宗教の関係性について深く考えられないことがとても悔しいが、ラスコーリニコフがソフィアに対して抱いていたある種の畏怖と乞いたい赦しは共感できる気がしており、罪を打ち明ける場面、自首をしにいく途中で跪く場面、エピローグでソフィアの膝に頭を預ける場面、泣けてしまった。
ロシア史とキリスト教史を学んでからもう一度読んで深く潜りたい。 -
Posted by ブクログ
ネタバレカラマーゾフ家の悲劇。上・中・下巻からなる長めの小説だが、これでも本当は二部構成の内の第一部にすぎないらしい。
この第一部では、カラマーゾフ兄弟が長男のミーチャとその父フョードルの間の、ある女性を巡る争いに焦点が当てられている。
ミーチャは、この争いの最中に起きたフョードル殺害事件の被告人となってしまい、彼の無罪を主張する兄弟と1人の女性の努力虚しく、最終的には有罪となってしまう。
しかし、これではあまりにも雑すぎる。
この小説の醍醐味は、宗教や人生の価値観に対する哲学的な問いを読者にもたらしながら、事件をめぐるミステリー性や、兄弟が三男アリョーシャの純真さが世俗の人々を癒していく過程を楽しむことができると言う点で、純文学的な要素とエンタメ的な要素がうまく融合している点にあるのではないだろうか。
私がこの本の中から得た問いの中に、「どう生きるか」というものがある。
大雑把にいうと、不安と孤独を抱えながら真の「自由」に生きるか、良心や生活を外部に委ねて楽に「自由」に生きるかである。
イワンの話では、この二つの生き方しか人間世界には存在せず、それに絶望した彼はカラマーゾフ的な堕落しか、人生の最後に待ち受けるものはないと語った。
また、それに対し弟のアリョーシャは、その話の中でキリストも行っていた、接吻という形で人生に絶望した彼を無条件に受け入れ、許した。
(罪と罰でも言えたことだが(そしてミーハーな私はこの2作しかまともに読んでいない…)、愛はこの作品の中で、特別の地位を与えられているように感じられる。他の作品も読んでみないことにはわからないが、愛はドストエフスキーの作品の根幹を成すものなのかもしれない。)
大抵の人がそうだろうが、私はイワンのように真面目な人間でも、アリョーシャのように純粋な人間でもない。ミーチャのように素直な人間でもないし、フョードルほど貪欲なわけでもない。
このような人は、フョードルのように嫌われることも、ミーチャのように破滅することも、アリョーシャのように人々から好かれることも、イワンのように精神を病むこともないだろう。
つまり、当然の結果だが、私は彼らとは違う人間であり、対立を恐れなければ、違う生き方や価値観を選ぶ権利があるということだ。なので、元も子もないことを言うと、私はそもそもイワンの話に共感しかねている。
長くなってきたので簡潔にまとめると、私はそもそも、自己の人生に大きな価値を見出すこと自体が誤りであると感じている。これは命を神からの贈り物と考える、キリスト教的な価値観と対立しているように思われる。この時点で、真の「自由」に耐え難い不安や孤独を感じることもないし、楽な「自由」のために良心や生活を外部に委ねることもない。「まあ、なんとかなるさ。」と毎日をそれなりに生きていくことに、なんの疑問も感じないのだ。
もちろん、これは快楽に溺れることを意味するものではない。一日一日を大切に、それでいて謙虚に生きることを旨としているに過ぎない。
この生き方は、上の四人のどの価値観にも適合しないように私には思われる。
難解かつ退屈で、一般的に苦行とも呼ばれているカラマーゾフの兄弟を読んだ後に、このダラダラと長くて面白みのない感想をここまで読むような、酔狂で我慢強く、暇な人間はほとんどいないだろうが、公開記念がてら最後に一つだけ書き残す。
「君たちはどう生きるか」