カラマーゾフ家の悲劇。上・中・下巻からなる長めの小説だが、これでも本当は二部構成の内の第一部にすぎないらしい。
この第一部では、カラマーゾフ兄弟が長男のミーチャとその父フョードルの間の、ある女性を巡る争いに焦点が当てられている。
ミーチャは、この争いの最中に起きたフョードル殺害事件の被告人となって
...続きを読むしまい、彼の無罪を主張する兄弟と1人の女性の努力虚しく、最終的には有罪となってしまう。
しかし、これではあまりにも雑すぎる。
この小説の醍醐味は、宗教や人生の価値観に対する哲学的な問いを読者にもたらしながら、事件をめぐるミステリー性や、兄弟が三男アリョーシャの純真さが世俗の人々を癒していく過程を楽しむことができると言う点で、純文学的な要素とエンタメ的な要素がうまく融合している点にあるのではないだろうか。
私がこの本の中から得た問いの中に、「どう生きるか」というものがある。
大雑把にいうと、不安と孤独を抱えながら真の「自由」に生きるか、良心や生活を外部に委ねて楽に「自由」に生きるかである。
イワンの話では、この二つの生き方しか人間世界には存在せず、それに絶望した彼はカラマーゾフ的な堕落しか、人生の最後に待ち受けるものはないと語った。
また、それに対し弟のアリョーシャは、その話の中でキリストも行っていた、接吻という形で人生に絶望した彼を無条件に受け入れ、許した。
(罪と罰でも言えたことだが(そしてミーハーな私はこの2作しかまともに読んでいない…)、愛はこの作品の中で、特別の地位を与えられているように感じられる。他の作品も読んでみないことにはわからないが、愛はドストエフスキーの作品の根幹を成すものなのかもしれない。)
大抵の人がそうだろうが、私はイワンのように真面目な人間でも、アリョーシャのように純粋な人間でもない。ミーチャのように素直な人間でもないし、フョードルほど貪欲なわけでもない。
このような人は、フョードルのように嫌われることも、ミーチャのように破滅することも、アリョーシャのように人々から好かれることも、イワンのように精神を病むこともないだろう。
つまり、当然の結果だが、私は彼らとは違う人間であり、対立を恐れなければ、違う生き方や価値観を選ぶ権利があるということだ。なので、元も子もないことを言うと、私はそもそもイワンの話に共感しかねている。
長くなってきたので簡潔にまとめると、私はそもそも、自己の人生に大きな価値を見出すこと自体が誤りであると感じている。これは命を神からの贈り物と考える、キリスト教的な価値観と対立しているように思われる。この時点で、真の「自由」に耐え難い不安や孤独を感じることもないし、楽な「自由」のために良心や生活を外部に委ねることもない。「まあ、なんとかなるさ。」と毎日をそれなりに生きていくことに、なんの疑問も感じないのだ。
もちろん、これは快楽に溺れることを意味するものではない。一日一日を大切に、それでいて謙虚に生きることを旨としているに過ぎない。
この生き方は、上の四人のどの価値観にも適合しないように私には思われる。
難解かつ退屈で、一般的に苦行とも呼ばれているカラマーゾフの兄弟を読んだ後に、このダラダラと長くて面白みのない感想をここまで読むような、酔狂で我慢強く、暇な人間はほとんどいないだろうが、公開記念がてら最後に一つだけ書き残す。
「君たちはどう生きるか」