ドストエフスキーのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
やはり世紀の傑作と呼ぶに相応しい作品であることは間違いない。
とりわけ下巻に関しては、上巻では恐怖の対象でしかなく、
もはや完璧と思われていたスタヴローギンやピョートルといった
革命的思想をもった若者たちの化けの皮が剥がれるかのごとく、
ある意味、誰よりも人間味というものが垣間見えた気がした。
その中でも物語が佳境を迎える舞踏会の混乱から放火事件への流れは、
完璧に組み立てられた構成に変な話しだが美しくもさえ感じてしまった。
全てにおいてドストエフスキーの描く人間模様というものは
現代においても決して色褪せることなく、通ずるものがある。
それはスタヴローギンが選んだ結末においてもだ。
巻末に収録されている本編からは当時はじき飛ばされてしまった
いわくつきの「スタヴローギンの告白」の章。
これを読んだ時、ドストエフスキーの生みだしたスタヴローギンという男に
心の底からの恐怖を抱いたのは言うまでもない。 -
Posted by ブクログ
ドストエフスキーの小説のストーリーはいつもよめないですね。だからこそ飽きずに読んでいられる。
貴族、ヴェルシーロフと農奴の女の間に生まれた私生児、
アルカージイの手記という形でつづられる物語でした。
タイトルにもあるように、アルカージイは19歳だったかな?
未成年なんです。そんな青年の未熟さや愚かしさを隠そうともせず、
アルカージイは(物語の中での)事実を述べていきます。
あまりにもおしゃべりで、なんでもかんでもしゃべってしまうところなんかには、
辟易としてしまうような部分もありました。
また、賭博にはまったり、父の金を当てにして豪奢な生活を
おくるところなんかには、未成年らしいなぁとも思えましたし、
事件の経過を知らずに、一人相撲をとってしまっているところなどにも、
頭がこんがらかってしまいそうな主人公の混沌ぶりがうかがわれて、
そういう時代(19世紀)には、そういう成年前の男子もいたかななんて
考えさせられるところもありました。
才気走っていて、屈折させられるような子ども時代の経験があり、
なおかつ私生児という出自を足枷とさせられながらも、
どこか、この小説の言葉で言えば「善美」というものを体現したいと
思っているのか、もしくは「善美」の方向を向く心をわずかでも
持ち合わせていたのか、どちらも半々くらいあったんじゃないかなんて、
感じましたが、そういう素直さというか、純真さというかは、
読んでいていやになるまどろっこしい部分がありながらも、
最後まで読ませるこの小説の魅力のひとつだったんじゃないかな。
ちょっと考えたけれど、
時代によって、つまり文化や環境のありようによって、
純真さや素直さがどういう形を取るかというのが
違ってくるんじゃないだろうか。
性善説とか性悪説とかの話になってしまいそうですが、
そうではなくて、
悪い時代に光るもの、良い時代に光るものっていうのが
あるような気がします。
ただ、こう、歴史を学んだり、時代を超えて昔の小説なんかを
読んでみることで、価値観を学んだり感じたりして、
おおよその、それこそ子どもが絵本や童話で知るような、
基盤としての人のあり方みたいなのが見えてくるような気がします。
それが今の時代、小学校、中学校…と崩れてくるような感じもするんですけどね。
ただ、その崩れに対して気持ち悪さみたいなものを感じる人も
たくさんいると思うんです。
そういう人はこの『未成年』なんかを読んでみると面白いんじゃないかなぁ。
この作品が発表された当時は、小説の方法論なんかが新しくて、
内容も衝撃を与えたものかもしれませんが、
今となっては、まぁ、30を過ぎた男が言うことですけれど、
適度なおどろきを受けつつ読み進められる本なんです。
ぐらっと考え方が崩れ落ちるようなこともなく、
ある程度の距離感、それはこの作品が発表されてからの時間の経過
によるものですが、そういったものを保ちつつ読めます。
でも、これは個人的な感想かもしれない。
みんながそうだとは限らないでしょう。
なんやかや書きましたが、面白かったです。
ドストエフスキーの五大長編は残すところ『悪霊』のみです。
これもそのうち読みたいです。 -
Posted by ブクログ
農奴解放令によっていっさいの旧価値が崩壊し、
動揺と混乱を深める過渡期ロシア。
悪霊に憑かれた豚の群れが、
湖に飛び込んで溺死するという聖書の記述から
無神論的革命思想を悪霊と見立て、
それに憑かれた人々とその破滅を描く。
そんな裏表紙の触れ込みのドストエフスキーの大作、悪霊。
罪と罰で遅かれ、初めてドストエフスキーに触れ感銘を受け、
そして次に選んだのがこの悪霊。
罪と罰で慣れたのか、今回は読みやすく感じる。
やはり人間の心理描写を描くのにすごく長けているというか、
時代性というものを感じずに読み進めることができる。
とても100年以上前の作品とは思えない、ある意味新しさがある。
重苦しい裏表紙の触れ込みからは想像することもできない、
前半のステパン先生の情けなさにどこか安心感すら覚える。
物語はニコライやステパン先生の息子ピョートルの帰還によって
途端に加速感を増し、重みと緊張感を持たせる。
賽は投げられたり。彼らの運命は確かに破滅へと回り始めていた。 -
Posted by ブクログ
一つの長大なメロドラマである。小説を読むことの――ここしばらく味わっていたのとは別の種類の――楽しさを、思い起こさせてくれた。これまで読んできたようなロシア文学に特有の退屈さ・冗長さ(地主階級や小役人による殆ど無内容としか思えぬ埒の開かないお喋りの如き)は些かも感じられず、物語が実に力動的に展開する。或る意味で、娯楽小説といえる部分もあるかもしれない(冒頭に於ける老人の死に始まり、少女ネリーの死によって物語は閉じらるが、この少女の物語が小説にミステリ的な趣さえ与えている)。
アリョーシャは、徹底的に主体性が無く意志薄弱な男として描かれている。更に、彼は自分の思っていることを相手に話さないではいられない。こうした、外面(仮面)と区別される内面がない=自我の分裂がない=裏表がない=幼児的でさえある彼の性質が、ナターシャやカーチャの母性的な愛情を惹きつけるのか・・・?
一方、マスロボーエフの役回り――俗物的でありながら虐げる側には立たない――は、「解説」にある通り、確かに興味深い。
そして狡猾な俗物たるワルコフスキー。彼はニヒリズムを通過してしまった人間の一つの雛型であろう。理想や美徳に一切の価値を見出さず、それを信奉する者を徹底して貶め、自らの富・権力・快楽を i.e. 即物的な価値を徹底的に追求するべく、仮面を被り悪を為す――しかも悪に対して確信的な自覚を持って。ここにはニーチェやフロイトの先駆けを見出し得る。
"すべての人間の美徳の根元にはきわめて深いエゴイズムがある・・・。"
"なぜならば道徳というやつは、本質的には快適さと同じことであって、つまり、快適な生活のためにのみ発明されたものだからです。"
"世界のすべてが滅びようとも、われわれだけは決して滅びない。世界が存在し始めたとき以来、われわれはずっと存在し続けてきたのです。・・・つまり自然そのものがわれわれを保護してくれるんです・・・。"
僕自身は、ニヒリズム後の人間には、「露悪的即物主義」の他にも可能性が在り得るのではないかと思っている。がしかし、ともかくも我々人間はついにニヒリズムを経験してしまっている訳で、時計の針は戻らない。よって、ドストエフスキーがニヒリズムの中の人間を描いたとするならば、彼の作品が今後永遠に読まれ続けるのも、宜なるかな。哲学がニーチェ以前に戻れないように、文学もドストエフスキー以前には帰れないのだろう。
最後に、ナターシャとワーニャの幸福が暗示されているところが、嬉しい。 -
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ネタバレ厨二病臭いなあ。と思うけれど、確かに戦争があったからこそ進化があったのであって、
血が流されたからこそ、今の時代を紡ぎだせたのだと思います。
そういう理論は後からだからこそ言える事だと思うのです。その当時にしては人殺しは人殺しだし。何人も巻き添えで死んでしまうし。
戦争が終われば英雄扱いや、日本の戦後の兵隊たちを、同じ国の人間が蔑む。極端だなあ。どっちが正しいのかはさておいて。
人が傷つくのは駄目なのはどうしてなのか。それは自分が傷つきたくないから。それ故に犠牲を肯定したいロージャは私としてはすごく共感できるし、馬鹿だなと思う。 -
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「革命運動の誹謗書」という本書に対する評価が、ロシアでは根強いようです。
確かに同じ感想を持ちました。左翼革命が結局のところ帰結するところになるおぞましさを見た感があります。「ソ連とは壮大な実験の失敗ではなかったか」という教科書の一文を思い出しました。
ただこれが革命誹謗のみを目的とした書であるとは思えません。
残念ながら自分の読解ではこの感想に至り得ませんでしたが、「ロシア的なものの悲劇性(=スタヴローギン)」を結晶させた、という裏表紙の説明がしっくりきているように思われます。
己のあらゆる点における底の浅さ自覚し、自殺したスタヴローギン。ウォッカがないとロシア人はみんなこうなってしまうのではないか、漠然と思いました。
本作品はドストエフスキー作品の中でも難解だと言われています。
もう一度、読み直したいです。 -
Posted by ブクログ
「無神論を悪霊に見立て、それにとりつかれた人々の破滅を描く―」
裏表紙の文です。
シャートフやニコライ、またそれに迫るピョートルなど、確かに破滅の足音が聞こえてくる感があります。
しかし正直「白痴」同様読みにくさを感じました…。
ステパン氏とは何の描写なのでしょうか?
アンチ無神論者であるが滑稽に描かれている彼の様は何の意味を持っているのでしょう。
風車に向かうドン・キホーテのような無謀な挑戦をする存在としてでしょうか?つまり新時代の自由思想に無謀にも向かっていく、哀れな過去の遺物という役割を背負わされているのか。
悪霊という題は何を意味しているのか?
ただ単に著者の嫌悪感を表しているのか?
それともいつかは駆逐されるものとして、逆にキリストの福音を強調するものなのか?
また無神論に対する教会という存在がシニカルに描かれているのも気になります。
…正直理解は難しいと思いますが、それでも読んでいきたいです。 -
Posted by ブクログ
禍々しい表紙とは裏腹に、滑稽な描写が目立った上巻。しかし、下巻も中盤以降に入ると、じわりじわりとその禍々しさが露見してくる。表紙に内容が追いついた、とでも言えようか。
本編を読んだ段階では、『悪霊』と形容できる具体的人物はスタヴローギンではなくピョートルであるように感じた。上巻のおしゃべりはどこへやら、極悪非道の限りを尽くすピョートルに、あるいは魅せられる人もいるのではないだろうか、と思うくらいだ。事実、巻末解説によると、元来は主人公はピョートルであり、ドストエフスキーはその設定で700枚以上の原稿を書いていたらしい。
ここで注を入れておくと、物語冒頭で引用されている聖書の中の、悪霊に取り付かれた豚が次々と自ら溺死していくと言うエピソードと、革命、共産主義、無神論に取り付かれたロシア人たちが次々と破滅していくと言うこの物語は呼応しており、悪霊とは特定の人をさすわけではなく、これら共産主義や無神論を指しているものであるらしい。
いずれにしても、人間があたかも悪霊に取り付かれた豚さながらに次々と滅亡していく様にはある種の爽快感すら感じさせる何物かがある。また、物語終盤で展開されるキリーロフの人神思想は、必読とされるスタヴローギンの告白に勝るとも劣らないすさまじさで、読んでいて恍惚感のような、人間を超えた何かとでもいえるような、異質なものを感じたことを記しておきたい。
下巻は面白い、とよく言われる本書だが、すぐに面白くなってくれるわけではないのでご注意を。話がスリリングになるのは第三部に入ってからである。第二部の残りは、そこで挫折することがないように、自分のペースで読むのが望ましい。
さて、『スタヴローギンの告白』を読み終えた。まず感じるのはその異質な読後感だ。殆ど全ての本は、読み終え次第、開放感や爽快感、そして達成感を得られるものであるが、ことこの本においては違ったわけだ。
そもそも『悪霊』と言うタイトルの本からいい読後感を得ようとすること自体が間違っているのかもしれない。得られた読後感は、個人的には『カラマーゾフの兄弟』以上の謎と、「1度では殆ど理解できていないだろう。せめて『告白』だけは再読しなければ」と言う気持ちだった。ゆえに消化不良の感が否めないが、これは本のせいではなく僕の読書力のなさのせいだろう。
星は上巻下巻ともに4つとなったが、詳細に述べると上巻は星3.5、下巻は星4.5と言ったところだ。…と、『告白』を読む前は考えていたのだが、『告白』のあまりの密度の高さに、星5つを進呈せざるを得なくなってしまった。