ドストエフスキーのレビュー一覧
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白夜: とある内気で空想家な青年が、橋で泣いている少女に出会う。彼はすぐに彼女を愛するが、彼女には一年前に別れ、再開を誓った人がいて、その人が現れないがために泣いていたのであった。
恋の初々しさを感じるストーリー。
おかしな人間の夢: 自殺をしようとしていた男が、夢で別世界へ行き、互いに愛し合い真の幸福で満たされている人々に出会う。しかし、彼が地球から堕落を持ち込み、その世界は変わり、地球上と同じ状態になっていく。
彼は夢から醒めたとき、自分は真実を発見したと確信し、伝道を始める。己を愛するように他者を愛せよ、と。
幸福状態の描写が美しい。が、堕落を人々は喜んで受け入れていく。
「生を意識することは、生そのものよりも高尚なのだ」「幸福の法則を知ることは、幸福よりも高尚なのだ」
というのが、堕落した世界での価値観であるが、まさにそのような考えは身の回りでよく見かける。 -
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『あれはどこで?』ラスコーリニコフは先へ歩きながら考えた。『どこで読んだんだっけ?なんでも死刑を宣告された男が、死の一時間前に言ったとか、考えたとかいうんだった。もしどこか高い岩壁の上で、それも、やっと二本の足で立てるくらいの狭い場所で、絶望と、大洋と、永遠の闇と、永遠の孤独と、永遠の嵐に囲まれて生きなければならないとしても、そして、その一アルシン四方の場所に一生涯、千年も万年も、永久に立ち続けなければならないとしても、それでも、いま死んでしまうよりは、そうやって生きた方がいい、というんだった。なんとか生きていたい、生きて、生きていたい!どんな生き方でもいいから、生きていたい!……なんという真実だろう!ああ、なんという真実の声だろう!人間は卑劣な存在だ!だが、だからといって、人間を卑劣と呼ぶやつも、やはり卑劣なんだ』一分ほどしてから、彼はこうつけ加えた。
何度読んでも震える、何度でも読む -
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1861年 40歳 第16作。
死の家の記録は、ペトラシェフスキー事件に連座して、反逆罪に問われたドストエフスキーが、1850年1月から54年1月までの4年間を囚人として、頭を半分剃られ、足枷をつけられ、強盗殺人犯や詐欺師や窃盗、農民や貴族、イスラムの異民族から異端のキリスト教徒まで、雑多な人々とともにシベリアの流刑地で過ごしたときの様子を描いた作品。
ときにはチャバネゴキブリが大量に入ったスープが出てくるような境遇の中で、社会の最低辺の人間と文字通り寝食をともにしながら行った人間観察の記録である。
ここまでのドストエフスキーの作品では、デビュー作「貧しき人々」が代表作だが、あの「貧しき人々」は、正直言って内容よりも、巨匠の第一作ということと、あの有名なデビューのエピソードで、必要以上に持ち上げられてきたきらいがあったのではないかと思う。
この「死の家の記録」は、それ以前とそれ以降の作品を画し、ドストエフスキーの名を歴史にとどめる素晴らしい作品。
それまでの、どことなく軽躁なざわめきを背景に感じられる作品群に較べ、重厚で落ち着いていて、陰鬱な中身のはずなのに、どこまでも汲みつくせないという感じを抱かせる。
そういうのを芸術作品というのだと思う。
この流刑地の生活でかれが発見したのは、人間がどこまで卑劣になれるか、どこまで得体のしれない怪物になるのか、それが可能性としてはなく生身の人間として現実に存在しているということと、にもかかわらずそれぞれの人間が持つ自由の意味と必然、そしてひとりひとりの人間の尊厳である。
まなざしの中心はもちろん後者にむけられている。
でなければ人間の総体を捉えきった報告は書けなかったただろう。
そういうとなんだか真面目くさってきこえるが、この作品はそういう堅苦しいものではない。
後期の作品から、かれは観念的な作家と思われがちだが、流刑地の生活を描く筆致はかなりジャーナリスティックで、そういう辺境についてまったく知らない興味津々な読者を飽きさせない。
ドストエフスキーはルポルタージュ作家としても超一流であることを示す作品でもある。
人間にとってもっとも恐ろしい罰は、無意味な作業を続けさせることで、それをすると必ず狂ってしまうという有名な文章は、この作品から。
「もしも一人の人間をすっかり押し潰し、破滅させてやろうとするつもりで、どんな残忍な人殺しでも聞いただけで身震いして腰を抜かすような、最高に恐ろしい罰を科すとしたら、ただ単に一から十までまったく無益で無意味な作業をさせればいいのだ。……囚人に、たとえば一つの桶から別の桶に水を移し、その桶からまたもとの桶に移すとか、ひたすら砂を槌で叩くとか、一つの場所から別の場所に土の山を移して、また元に戻すといった作業をやらせてみれば、きっと囚人は何日かで世をはかなんで首を吊るか、それともそのような屈辱、恥、苦しみから逃れるためならいっそ死んでもいいと、自棄になって犯罪をし散らすことだろう。」(p50-51) -
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下巻では、シュピグーリン工場の連中が起こした火事を契機に、物語が一気に加速する。
ピョートルを中心とする《五人組》と呼ばれる組織がロシアの転覆を企てている。
それを背後で動かしているのはスタヴローギンなのか?
その人間像は僕には最後までわからなかったが、彼が自殺したときの衝撃は忘れないだろうと思う。
『カラマーゾフの兄弟』よりもはるかに重く、難解な小説である。
「リャムシンさん、お願いだからやめてください、あなたががんがんやるものだから、何も聞きとれやしない」びっこの教師が言った
…
リャムシンが席を蹴った。「だいたいもう弾きたくなんかない!私はお客に来たので、ピアノをぼんぼんやりに来たんじゃありませんからね!」
(下巻115ページ)
ここおもしろいです。 -
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神の存在意義からミステリーへの
前半は、(前編)最終部の「大審問官」から続く神の存在についての考察が続きます。それは、アリョーシャが慕うゾシマ長老の死によって、さらに問われることに。この部分を読み進めるうちに、遠藤周作さんの名著「沈黙」を思い浮かべました。神への信仰が深まるにつれ、本当に神は存在するのか…。永遠に解決されない課題なのでしょうか…。
一転、後半からミステリー調の流れになって、現実に引き戻されます。そして、ついにその時は訪れるのです。
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ネタバレ第2巻では、主人公・ムイシキン公爵について「黄金時代にすら聞いたこともない純真さ、無垢さを披露したかと思うと、今みたいにとてつもなく深い心理観察でもって、いきなり弓矢みたいにぷすりと人の心を射貫く」という人物評が語られる。その評は的を射ているが前巻のムイシキン像に近く、本巻でのムイシキンはそのように聖人然とした様子だけでいることはできず、懐疑や嫉妬といった人間的な感情に苦しんでおり、物語全体にも不安感が漂う。
本巻では、ムイシキンとロゴージンとの対話が印象的だった。特にロゴージンがどのようにムイシキンのことを感じているか語る場面が面白い。
「レフ、おれはな、あんたが目の前からいなくなると、とたんにあんたが憎くなってくる」「ところがいま、あんたといっしょにいて十五分と経っていねえのに、憎しみなんぞまるで消えちまって、あんたのことが、また元どおり好きになっている」「あんたといっしょにいるとき、おれが信じているのは、あんたの声なんだよ」
ここには友情というだけに留まらず、神に対して背を向けようとしている人間の(それでも美しいものから逃れ得ず、背を向け切ることのできない罪人としての)告白の趣きさえあるように感じられる。
次巻以降、2人の関係がどのように変化するか、もしくは変化しないのか、続きを読み進めたい。 -
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神の存在と人間の心の葛藤
19世紀ロシアの文豪ドストエフスキーが描いた、神の存在とこの世に生きる人間の心の葛藤をテーマとした小説。「人を愛する心とは」といった命題について考えさせられました。まだ上巻だというのに、深い。しかし、カラマーゾフ一家の父と3兄弟を中心に語られる物語は親しみやすく、女性を巡る情景やそれに嫉妬する人間の心がわかりやすく表現されており、ドストエフスキー初心者にもすぐ入りこむことができました。次の中巻も期待大。原卓也さんの翻訳も非常に好感が持てます。素晴らしい翻訳、ありがとうございます。
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「未成年」はドストエフスキー五大長編の中でも難解、つまらないなどという噂を良く聞いていたので、読み始めるのが少し躊躇われていましたが、
これこそ躊躇わずにできるだけ若いうちに読んでおきたい本だと強くお勧めできる作品でした。
主人公による一人称の手記として記述されているため、登場人物の激しい心の動きに主人公のこれまた激しい心の動きが重なりあって、確かに全ての筋を理解するのは難しいでしょう。
しかし、自分のことも他人のこともなかなかわからない主人公の目線に入り込んで、「あぁ、この人はこういう人だったんだ」と登場人物を徐々に理解しつつも、たまに裏切られたりする気持ちを共有して読み進めると、登場人物が皆「生きている」ことがわかってきます。
ドストエフスキーの作品の醍醐味はやはり、登場人物が本当に「生きて、悩んでいる」ことが"理解できる"のではなく、ジワジワ自分事のように"感じられてくる"ことだと思います。
「著者に作られた人」が登場人物ならば理解することもできるでしょう。
しかし、ドストエフスキーの作品の中では「生きている人」が動き回っています。
我々が現実世界において「生きている人」たちをはじめから理解することなんてできないのと同じく、ドストエフスキー作品の登場人物とはじっくりと関わり合って、徐々に分かり合っていくような気持ちで読んでいくのがよいと思います。
生きているものは総じて難解なのです。 -
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(今はまだ読んでいる段階ですが)
面白すぎる
(読み終えました)
びっくりしました。こんなに面白い本があろうとは。
漫画という手法の無限の可能性にも触れることができた気がします。
RGPのようにのめり込む要素があって、すぐに読み切ることが出来ました。心の中の苦悩や葛藤が、一気に外に漏れだすような感覚。これもデトックスのひとつですね。
この本を読んで、本作に挑戦する意欲が湧いて来ました。この本を常に横に携えてね。漫画→本作→漫画→…のように延々と繰り返せるんじゃないかって。そう思えるほど、素敵な作品に出会いました。
私にとっては、映画で言うクリストファーノーランの作品のようにずっと味わっていられるものに出会えた気分です。
この作品の最大の魅力は「人間は普遍的な存在」という点に尽きるかなと。人間はそれだけ奥深く興味深く愛すべき存在であるということです。 -
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下巻では金持ちのスヴィドリガイロフが登場。これは解説によるとラスコーリニコフの影の分身のような男であるらしいが、机上の選民思想と強烈な自尊心から殺人を犯したラスコーリニコフと比べれば、最後は善行で終わっているわけであるし、彼の立ち振る舞いはおよそ作中でラスコーリニコフとドゥーニャが罵るほどの悪人には思えない。
エピローグでラスコーリニコフは自殺しなかったことを後悔するが、スヴィドリガイロフは自殺した。死を恐れ、話題に出されることも嫌っていたのに。ドゥーニャはソーニャのようにスヴィドリガイロフを救えなかったから、という単純な比較で自殺した・していないを論じることはできない。
なぜスヴィドリガイロフは自殺したのかといえば彼の中には信じるものが何もなく希望がないからだろう。夢想から一時的な心神喪失状態とでも言えるような状態で殺人を犯しただけで根は人を思いやる心をある程度もっているラスコーリニコフと違いスヴィドリガイロフはほとんど享楽の元に生きている。彼を助ける人はいなかった。ドゥーニャに一種の夢を見ていたが彼女に明確に否定された。ドゥーニャに銃を突きつけられてそれでも前進する彼はラスコーリニコフのような強烈な自尊心もなく生への執着心もない(死への恐怖はあるがそれは自殺の恐怖でドゥーニャに殺されるのは全く別の視点の話だと思われる)。一瞬我に返り彼女を部屋から返し、そのままズブ濡れで歩き疲れ悪夢を見て自殺する。ここでドゥーニャはただ彼にとって信じられないほどの聖女として彼の胸の中にいるだけでこれが別にドゥーニャである必要はなく、スヴィドリガイロフにとって信じられるものであれば人物でなくても良かったのだろう。ドゥーニャが自分のもとに来ず何も希望がなくなってしまったのである。
対してソーニャはラスコーリニコフを哀れに思い彼に愛を捧げることそのものに人生の意義を見出していく。限りない隣人愛、他人の中に生きることそのものを目的としてその対象が自分の人生に劇的な影響を及ぼしたラスコーリニコフなのである。
このあたりドゥーニャを求めたスヴィドリガイロフと、むしろソーニャから求められているラスコーリニコフでは全く立場が違う。
あまりにソーニャはラスコーリニコフにとって理想的な人物である。
解説にもあるがエピローグでラスコーリニコフはソーニャの愛の元に屈し更生の道を歩む。けれども今まで尋常ならざる執拗さでラスコーリニコフの狂的な精神状態を描写してきたドストエフスキーがここでは「ソーニャの膝下に突如顔をうずめた」というおよそ2行程度の行動で愛に屈してしまう。それまでの説明が足りなく納得のいくものではない。
罪と罰の物語は第六部で完結していると感じた。エピローグで語られていることがあまりにも駆け足で、そこで更生したと言われても付け足しに思える。
躁鬱の気があるラスコーリニコフの自白シーンがラストにふさわしい。
他ポルフィーリィの尋問、カテリーナ・イヴァーノヴナの発狂などもこれだけで一遍の物語が組めそうなほど長い。色々な読み方があり様々な要素があるというのは逆に煩雑であるということでもある。
その点では地下室の手記の方が面白いし完成度が高い。
けれども人物の真にせまった描写は彼ら彼女らが生き生きとまるで眼前にいるかのような迫力を持って迫ってくる。この点がこの小説の良さだとしたら脇役の出番や台詞がとても長くなるのは仕方ないことなのかもしれない。