ドストエフスキーのレビュー一覧
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何度も挫折した名作を漫画で読破出来た。
高校時代に積読となり、留学中とキリスト者になってからと、その度に文庫版を買ったが、ついに読破できなかった。しかし漫画で物語を凝縮したものを読んで驚いた。こんなに重いテーマをさわやかに扱っているとは、やはり名作と言われるだけはあると思った。
物語の主旨は、人間の愚かさについて。神を信じる三男アリョーシャと無神論者の二男イワン、そしてとんでもない行動と性格の長男ドーミトリー、さらにその父親であり、曲者のフョードル。彼らが遺産と女と神と無神論で右往左往する物語。最後は圧巻というか、感動というか、人の悪とそれを認め正々堂々と生きようとする人々によってさわやかに終局する。
マンガであるが感動した。あるいは漫画であるからこそ最後まで読めたのかもしれない。文句なく星五つ。 -
Posted by ブクログ
作家、ドストエフスキーが体験した『シベリア抑留』を基にして描かれた小説で、規格外の囚人たちに囲まれる作者の分身の孤独さと、「地獄の沙汰も金次第」という身も蓋もない『真実』を突きつけられてしまいました。
本書は作家、ドストエフスキーが『ペトラシェフスキー事件』に連座し、1850年1月から54年1月までの4年間を西南シベリアはオムスク要塞監獄の獄中体験が下敷きとなって著された作品です。
タイトルにある『記録』というのはノンフィクションというわけではなく、実体験ベースのフィクションとも言うべきで、実際に時間や空間の構造はもちろんのこと、本書の中に出てくる囚人や彼等を取り仕切る側の人間にも、事実とは合致しながらも、ところどころは加工を施して記されており、その重厚さは読んでいて圧倒されてしまうほどのものでありました。主人公であり、また全体の語り部であるアレクサンドル・ペトローヴィチ・ゴリャンチコフは妻殺しの罪で10年の懲役生活を送り、出所後は入植者としてひっそりと余生を送っていたのですが、その彼の死後に、発見されたという手記の中にゴリャンチョフが獄中で体験してきた出来事の数々が綴られているという設定でありました。
塀の中では貴族と一般の囚人とは埋めがたい溝というものがあるらしく、ゴリャンチョフの最後の最後までことあるごとにこれによって苦しめられるのです。この部分にどうやら時を越えたある種の『普遍性』があるみたいで、堀江貴文氏が出版した獄中体験記の『刑務所なう』にもそういうニュアンスのことがそういえば描かれていたなと、そんなことを考えておりました。
ここに出てくる囚人たちもこれまた規格外の人物ばかりで、快楽殺人鬼のガージンや、政治犯でイニシャル表記されているポーランド人たち。金貸しのユダヤ人や、チェルケス人。ありとあらゆる人種が雑居房にひしめき合い、餓えや寒さ、シラミやノミと始終格闘しながら互いのことを豊富なレトリックで罵りあい、殴り殴られする様子は本当に殺伐としていて、空恐ろしささえ感じるのでありました。
さらにびっくりしたのは囚人たちの間で酒が売買されているということで、外部と連絡をとりながら様々な方法で酒が持ち込まれ、法外な価格で取引されている。この現実には度肝を抜かれ、彼等の酒に対する強いこだわりが本当によく理解できました。獄中という閉鎖的な環境で繰り広げられるのは、抑圧的な環境における単純で息苦しいまでの日常から、囚人たちが押し合いへしあいしながら浴場で体を洗う異様な熱気。後の小説群に出てくる登場人物の原型とも言うべき囚人たち…。
刑務所に入るというのは、出来ることならあまり経験したくないものですが、ドストエフスキーはこの囚人生活と兵役を課せられたことにより、かつて自分が持っていた思想とある種の『訣別』を果たすことが出来た…。そういった意味では彼にとって『通過儀礼』だったのかもしれませんが…。それにしても、なんという過酷な試練を彼に与えたものだなぁと、改めてそう思ってしまいました。
不条理の極みともいえる獄中での体験。それを綴ったものに自分がなぜこうも惹かれるのか…。それはまだうまく答えるのは僕にとってなんとも難しいものでございました。 -
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『永遠のロストナンバー』という宿命を持ち続けるドストエフスキーの『悪霊』の中にある「チーホンのもとで」の中にある『スタヴローギンの告白』ここでは世界初の試みとして現存する3つの告白を収録しております。
「<告白>のない『悪霊』は丸屋根のない正教寺院である」
これはロシアを代表するドストエフスキー学者の一人であるユーリー・カリャーキンの言葉です。『永遠のロストナンバー』という宿命を持ち続ける“スタヴローギンの告白”を含んだ『チーホンのもとで』。これは小説『悪霊』の劇中で重要なクライマックスのひとつとして第2部9章、もしくは第3部1章に収録される予定ではありましたが、掲載誌である『ロシア報知』編集長のカトコフからあまりにも内容がインモラルであるという理由からNGが出て、その後1年以上にもわたって両者の間であらゆる綱引きが行われた末に結局はドストエフスキー側の敗北に終わるという結果となり、都合100年近くの間、現在我々が目にすることが出来る状態での悪霊を目にすることは無かったという運命を持ったものでございます。
本書では世界初の試みとして3つのヴァージョンの『告白』を訳出し、一冊にまとめたものです。それは『初稿版』『ドストエフスキー版』『アンナ版』です。それぞれ説明をすると
・初稿版…ドストエフスキーが『ロシア報知』に送った最初の原稿を活字に組んだものであり、原書出版のさい、そのプリント(初稿ゲラ)では、誤植などのごく初歩的な誤りの修正のほか、いっさい手が加えられていない。初稿版における「チーホンのもとで」は第2部9章として位置づけられている。
・ドストエフスキー版…ドストエフスキーが初稿ゲラに赤字を加えた版にいくつかの段階での直しが含まれている可能性がある。ドストエフスキーはこれを第3部1章として位置づけていた。
・アンナ版…アンナ・ドストエフスカヤが筆写したもの。筆写された時期は特定できないが、初稿版、ドストエフスキー校版との間に重大な変更が見られる。1,2において欠落しているプリントの15枚目が復元されているのが大きな特色だが夫人が終わりの筆者を断念している。
(本書より引用・抜粋)
内容の流れを簡単に分けると3節で成り立っており、
・スタヴローギンが『告白』を携えてチーホン僧正のところへ行き、そこでの対話。
・チーホン僧正が『告白』を黙読する。
・『告白』を読み終えたチーホン僧正とスタヴローギンとの対話
です。『告白』の特徴は「スタヴローギンより」で始まりその「より」という言葉の使い方は江川卓先生によると『~からの福音書』という使い方だそうで、聖書の福音書になぞらえて自らのおぞましい悪行の数々を語るという構図を後で知ったときはあまりの恐ろしさに言葉もありませんでした。書かれている文章は原語となっているロシア語でも訳出するのは本当に大変だったそうで、亀山教授いわく『あいまいかつ舌ったらずな表現/頻繁に用いられる副詞./回りくどい表現/同語反復/意味不明な言い回し/明らかな事実誤認』という言葉のオンパレードらしく、訳出するのは本当に苦労したのだそうです。
内容を簡単にまとめてみると
1.4つの『罪』の告白―ペンナイフの紛失とマトリョーシャへの折檻。35ルーブル窃盗事件。マトリョーシャ陵辱。マリヤ・レビャートキナとの結婚。
2.世界遍歴の物語
3.黄金時代の夢
4.『告白』発表の意図
です。その中でもハイライトでは『14歳の少女(ヴァージョンによって年齢が違う)を自身のあまりの退屈さに陵辱して、その上に彼女を自殺にまで追いやってしまったはいいものの、事あるごとに出てくる彼女の幽霊に悩まされ続けている』という箇所でしょう。それを読み終えた後に展開されるスタヴローギンとチーホン僧正の息詰まるようなやり取りは本当にスリリングなものでありました。
全体を一度通して読んでみると、構図そのものはあまり変わらないといえば変わらないのですが、細部のディティールに当時、ドストエフスキーと『ロシア報知』側との鬼気迫るような攻防が構成を表す太字の箇所から感じることが出来るのです。スタヴローギンがペテルブルクで放蕩生活を送っていたときに重ねた悪行の数々は先述しましたが、35ルーブル入った給料袋を盗んで飲み代に使って後日、持ち主の役人から問い詰められてもシラを切りとおしたり、その3日後にマトリョーシャを陵辱した後、彼女がしきりにうわごとで
「恐ろしい」
「神様を殺してしまった」
という言葉には彼自身が恐怖を感じ、後日、マトリョーシャが絶望の末、スタヴローギンのところに行って、小さなこぶしを振り上げ、顎をしゃくりあげたあとに彼女が縊死を遂げるまでの描写は何度読んでも恐ろしいものです。「黙過」という言葉をこの小説で知ることが出来ましたが、それを象徴する出来事のひとつだと思います。
さらにスタヴローギンは自分に夢中になっているマリヤ・レビャートキナとの結婚を決意する際にも、《酒盛りのあとの飲み比べ》や
「かのスタヴローギンがこんなくずみたいな女と結婚するというアイデアが神経をくすぐった」
という恐ろしいことを言うのです。立会人となったのはピョートル。レビャートキン。プロコル・マーロフ(故人)。キリーロフで、ここで彼はこの事実を他言無用とするのです。その後、帰省するもスタヴローギンは気候を起こし、放逐されるのです。
その後、彼は聖アトス山→エジプト→スイス→アイスランド→ゲッチンゲン大学で聴講生となる→パリ→スイスというまさに「魂の遍歴」をし、彼が「黄金時代」と称する『アキスとガラテア』を見たりするのですが、得られたものは何も無く、大きな徒労だけが彼を包むのです。最後のほうにも女性を死なせた話や決闘で二人の命を奪ったこと。さらには一人の命を毒殺で奪ったことが記されており、これを公開する意図があるとほのめかし、『告白』は終わります。ここまで書いていて本当に疲れました。
これを1時間かけてチーホンは読み終えた後、スタヴローギンと対話をするのです。チーホンが『懺悔に見せかけた挑戦』と『告白』を断じ、
「汚辱のためにわざと費やされた、大きな無為の力」
といい、対するスタヴローギンも
「あらいざらい真実を言いましょうか。ぼくはね、あなたに許してほしいんですよ。あなたのほかもう一人、いや、二人ぐらいのひとにはね」
と揺れ動く複雑な心理を表します。さらには
「自分で自分を許したいんです。これが最大の目的、目的のすべてです!」
とまで言うのです。
チーホンはスタヴローギンに修行を勧め、さらには『告白』の公開の延期を示唆します。しかし、最後のほうにはチーホンが
「(中略)新しい犯罪に身を投げ出してしまう。それも文書の公表を逃れるためだけに」
(ここはヴァージョンによって表現が違う)
というようになり、対するスタヴローギンも
「この、いまいましい心理学者め!」
と吐き捨ててチーホンの暗室を去り、決裂してしまうのです。
アンナ版以外には最後まで記されているのですが、そこに至るプロセスが「微妙に」違うのです。前述しましたが、この「微妙さ」が重要なのです。しかし、ここまで自分がこの「告白」に固執したのはなぜなのでしょう。それは恐らく「内なるスタヴローギン」を出してみたかった。その理由に負うところが大きいのかもしれません。 -
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ドストエフスキーが後年に著した『五大長編』の内、政治的な意味あいが最も強いといわれる『悪霊』その完結編です。全ての物語上の複線が回収され、狂乱と崩壊に向かって疾走する様子が描かれております。
登場人物の実に3分の1が何らかの形で死を迎えるという陰惨極まりない小説であるドストエフスキーの『悪霊』その完結編です。しかし、改めて思うのはストーリー全体の時間軸が秋から冬にかけての「一季節」であるということに衝撃を受けた、ということです。ようやくこの第3部で全ての複線が回収され、物語は一気に崩壊へと突き進んでいくのです。『革命組織の内ゲバリンチ殺人事件』と美貌。知力。腕力に加え、貴族という特権的な身分と、巨額の資産まで併せ持ったニコライ・スタヴローギンという一人の人間が以下に自壊し、その最期を遂げていくのか…。この二つを主軸として、無政府主義、無神論、ニヒリズム、信仰、社会主義革命などの多種多様なテーマを詰め込みに詰め込んでいる小説であると思われます。
第3部の最初のクライマックスであるところの第1章及び第2章の『祭り』と『祭りの終わり』では、今まで『権威』とあがめられた存在が貶められ、辱められることになります。ユーリヤ夫人の肝いりで始まった『慈善パーティー』で、まずは『前座』としてしたたかに酩酊したレビャートキン大尉が現れ、どうしようもない詩を披露したあと、強制的に退場させられます。ここからすでに不穏な空気を発し始めるのですが、次に壇上に上った『大作家』であらせられるカルマジーノフやステパン氏の持つ『聖性』や『権威』の『仮面』が次々と剥ぎ取られ、冒涜と否定と笑いと奪還のカオスの中へと引きずり込まれていくのです。カルマジーノフ先生は自身の作家人生の集大成である「Merci(ありがとう)」というエッセイを読み上げるのですが、聴衆からの轟々たる罵声により、内容を途中でショートカットし、結びの部分を強引に読み上げる形で控え室へと戻ってきます。
ステパン氏の講演も大失敗に終わり『美は全ての事象の上にある』という趣旨の発言をしたときに、ある神学生から、脱獄囚のフェージカは昔あなたがカードで負けたカタに売り飛ばさなければああならずにすんだのでは?と野次を投げつけられ、ステパン氏はそれに答えることができずに壇上を後にするのです。3人目の男は『偏執狂』と呼ばれ、彼がロシアを公然と侮辱し、さらにはヴィルギンスキーの親戚も舞台に上がり、しっちゃかめっちゃかの状態となっていきます。夜の舞踏会に至っては参加者が少なく、その少ない参加者達も胡乱げな連中ばかりという体たらくでございました。
いっぽう、マヴリーギーという婚約者がありながら、ひそかにスタヴローギンを思い慕うリーザはそんなカオスそのものとなった舞踏会の混乱に紛れ、婚約者であるマヴリーキーを振切って、スクヴォレーシニキに走りスタヴローギンと一夜を共にするのですが、ペテルブルグ時代から続く彼の放蕩三昧の遍歴に『生ける屍』と化した彼の姿に幻滅してしまうのです。
第3章の『愛(ロマン)の終わり』に彼らの会話の様子が描かれるのですが、リーザは自分の『運命』を予感していたことを言うのです。彼との『関係』を示唆する《》付きのあれほどの幸せ。その一瞬。一時間。一瞬。というフレーズ。スタヴローギンの
「ぼくを苦しめてくれ、ぼくを罰してくれ、ぼくに憎しみをぶちまけてくれ」
といった果てに彼らの元に来たピョートルにリーザが出て行った後『彼女を愛していない』とのたまい、さらには
「いや、ぼくは自分の中の猿を笑っているだけです」
という。この恐るべき空虚さに戦慄しました。その一方で舞踏会が終ろうとする夜更けに、何者かの手によって対岸の郊外の家々に火が放たれ会場は大混乱となっていくのです。その混乱の中、レンプケー氏はその様子を見て
「ぜんぶ放火だ!こいつはニヒリズムなんだ!燃えているものがあればそいつはニヒリズムだ!」
と叫び、発狂するのです。G氏はレンプケー氏の政治生命は終わったと述懐しております。
そんな狂乱の一夜の翌朝に、炎上した川の向こうの一軒屋(借主はスタヴローギン)からスタヴローギンの『正妻』であるマリヤ・レビャートキナとその兄であるレビャートキン大尉。そして女中の惨殺体が発見されるのです。レビャートキン大尉は喉をかき切られ、マリヤは全身をナイフでメッタ刺しにされ、女中は頭を叩き割られるという陰惨なものでした。スタヴローギンから
「彼らが殺されることは分かっていました。それでも、人殺しどもをとめようとしなかった」
というまさに『黙過』の告白を聞いたリーザは婚約者のマヴリーギーの静止も聞かず、スクヴォレーシニキの屋敷から火事の現場に駆けつけ、現場にたどり着いた彼女は
「そいつだぜ、スタヴローギンの女は!」
(別の方向から)「殺すだけじゃ足りねぇで、見物にまで来やがった」
という声とともに狂乱した群集によって撲殺されるのです。まさに死に向かって疾走するかのようでした。
第4章の『最終決断』では「五人組」を脱退しようとするシャートフが密告する恐れがあるということで、彼を殺害し、その罪を「人神思想」のために自殺するキリーロフに負わせるという計画をピョートルが使嗽するのです。ここでもピョートルは旺盛な食欲を発揮し、ステーキを平らげ、キリーロフのところに行って自殺の意思を「念押し」するのです。そこで、脱獄囚のフェージカが登場し、ピョートルは殴り飛ばされるのですが、彼はその後、シュピグリーンの労働者であるフォームカを使い、彼を始末してしまうのです。
第5章の『旅の女』ではその翌日、シャートフの元妻であるマリヤ・シャートワ(マリイ)が彼の元へと戻ってくるのですが、彼女はスタヴローギンの子供を妊娠しており、シャートフの家で居候しているときに産気づいてしまいます。シャートフはキリーロフや「五人組」のメンバーであるヴィルギンスキー、リャムーシン達のところを駆けずり回り、金や出産にかかわるもろもろのものを確保しようとします。産婆は要らないと言い張るマリイ、それを助けたのはヴィルギンスキーの妻であるアリーナ・ヴィルギンスカヤでした。彼女はシャートフ夫妻の面白さに無償で産婆を引き受け、一人の男の子が生まれます。その際にマリイは
「ニコライ・スタヴローギンはろくでなしよ!」
と叫びます。こうして生まれた赤ちゃんにシャートフは彼に「イワン」と名づけ、養子にしようというのです。
運命の第6章『多難な一夜』ではいよいよシャートフ殺害のために「五人組」のメンバーが集まります。しかし、結構の直前にシガリョーフは異を唱え、現場を去ります。スタヴローギン公園の隅に呼び出されたシャートフは3人掛で地面に押さえつけられ、ピョートルが銃を額に押し当て、射殺されるのです。その遺体は重石をつけたあとで池に投げ込まれます。とても陰惨な場面でした。その数時間後に、ピョートルはキリーロフの家に行き、ピョートルははシャートフ殺害の罪をキリーロフに請負わせ、彼を自殺させてしまうのです。そのときの狂気に満ちたやり取りはここだけでも是非ご覧になっていただけるとありがたいのですが…。二人の「せめぎあい」が本当に鬼気迫るものがあるのです。そして、ピョートルは国外逃亡を果たし、二度と戻ってくることはないのです。
第7章の『ステパン・ヴェルホヴェンスキー氏の最後の放浪』で全てを失ったステパン氏は失意のうちに放浪の旅に出るのです。そこでであった福音書売りの女であるソフィアと出会い、彼女と行動を共にするのですが、熱病を患い、死の床に就くのです。聖書の一説を読んでほしいと懇願するステパン氏に対し、ソフィアはエピグラフにあるルカ福音書第8章32-36節ともう一つ。「ヨハネ黙示録」の中にある『ラオディキアの教会にあてた手紙』を読むのです。印象的な内容なので、ここに引用したいと思います。
『ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。 「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。 あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。』
という箇所を告げられ、激しいショックを受けるのです。その後彼は自分を追ってきたワルワーラ夫人に愛を告げ、彼女の腕の中で息絶えていくのです。
全ての終わりである第8章の『結末』ではまずシャートフの死を知ったマリイは無茶をした挙句産褥で死に、イワンもまた病死してしまいます。シャートフとキリーロフの遺体が次々と発見され、『五人組』の仲間たちは次々と逮捕されていきます。『リャムーシンは持ちこたえられなかった』という記述があり、自壊した彼の供述が事件解決の決め手となりました。リプーチンはペテルブルグに滞在2週間後に逮捕され、エルケーリは減刑の見込みはなく、トルカチェンコは逃亡後10日ほどして、どこかの郡部で逮捕されます。リーザの婚約者であったマヴリーギーは行方不明となり、母親であったドロズドワ老婦人は精神崩壊を起こしてしまいます。最大の衝撃は主人公であるニコライ・スタヴローギンの『自死』でありましょう。ダーリャに
「スイス・ウリー州への市民登録を済ませ、家もあるから一緒に行きませんか?」
と誘いながらも別荘の屋根裏部屋で縊死を遂げる…。その最後にはただただ絶句するともに、
『だれも責めてはならない、ぼく、自身だ』
とだけ記された遺書。事前に選び抜かれたであろう丈夫な絹紐や釘、そして苦痛を和らげるために絹紐にべっとりと塗った石鹸…。彼の死は『神になろうとした男』が最後に敗れて自壊していった末の死であり、彼の『限界』こそが人間の持つ『希望』なのかもしれないと思い、ここで筆を擱きます。この陰惨極まりない話にやっと『出口』が見えたことに安堵の息をもらしつつ…。 -
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『ネチャーエフ事件』に発想をえて綴られたドストエフスキーによる政治小説です。『内ゲバリンチ殺人』という陰惨なテーマとスタヴローギンという悪魔的な主人公に『人間とは何か』ということを突きつけられます。
ロシアの誇る文豪、ドストエフスキーが後年に発表した『五大長編』のうち、内容的にはもっとも『危険』とされる小説である『悪霊』それが亀山郁夫氏の新訳によって現代の社会に甦りました。
この小説の構想を得たものは1869年に発生した『ネチャーエフ事件』と呼ばれる内ゲバリンチ殺人事件で、架空の世界的革命組織のロシア支部代表を名乗って秘密結社を組織したネチャーエフが、内ゲバの過程で一人の学生イワン・イワノフ(物語中ではイワン・シャートフ)をスパイ容疑により大学の構内で彼を殺害し、池の中に遺棄したというなんとも陰惨な事件でございました。ちなみに、このネチャーエフをモデルとしてピョートル・ヴェルホヴェンスキーという人物が造形されております。
しかし、ドストエフスキーの関心はある一人の登場人物に移っていくのです。創作ノートに
『いっさいはスタヴローギンにあり、スタヴローギンがすべて』
『小説のパトスは公爵(引用者注:スタヴローギンの創作ノート中の呼称)』
『残り全てのものは、彼のまわりを万華鏡のようにめぐる』
と書き記すほどになっていくのです。そんな悪魔的な人物であるニコライ・スタヴローギンを中心に『地獄編』ともいえるような物語が綴られていく、ここではその長い長いプロローグ的な一冊でございました。正直な話、僕はこの亀山郁夫教授による新訳でなければ、最後まで読み通すことができたかどうか、これを書いている現在でも疑問に思っております。
全体の構成はレポート・ナビゲート役を務めるアントン・G氏の『クロニクル』という形をとられており、彼の『視点』を通してこの壮大な救いようのない物語が幕を開けるのことになるのです。年代及び舞台は、1869年の秋から冬にかけてロシアのとある地方都市と、その郊外にあるスクヴォレーシニキと呼ばれる別荘地です。
プロローグである第1部第1章ではこの領地を統括するスタヴローギン家の女主人であるワルワーラ・スタヴローギナ(以下ワルワーラ夫人)とかつてはロシアの思想界をリードすると目されていながら、現在はワルワーラ夫人の庇護を受け、年下の人間相手に酒とカード賭博に明け暮れるというステパン・ヴェルホヴェンスキー氏との20年にもわたる『友情』物語の経緯が綴られております。僕はここを読んでいて読み飛ばしてしまおうかと思いましたが、後の展開に繋がる重要な『複線』があるそうなので、我慢して読みました。
それにしても…。ステパン氏の会話の部分。日常会話であるロシア語の間に当時のインテリ、もしくは貴族階級の必須教養であったフランス語を交えるという話し方は読みながらなんとも言いようのないものを感じ、日本語と英語がちゃんぽんになってしゃべる人間…。たとえて言うならジャニー喜多川氏を連想してしまいました。第1部を読む限りではステパン氏は『いい人』です。ただ、この『いい人』ぶりが全体から見るとものすごく浮いているのですが…。しかし、この20年間の間に二人の関係は『行き詰まり』を迎えつつあるという暗示的な予感がところどころに挟み込まれております。
われらが主人公『ロシア負のファウスト』ことニコライ・スタヴローギンがようやく出てくるのは第1部2章の『ハリー王子。縁談』からになります。ニコライ・スタヴローギンはステパン氏から養育を受け、学習院へと進学し、軍務に就くというエリートコースの人生を歩みます。しかし、その頃からにわかに放蕩にふけりだし、さらには二度の決闘事件を起こし、ワルワーラ夫人を心配させるのです。ステパン氏はそんなニコライ・スタヴローギンの行動をシェイクスピアの戯曲である『ヘンリー四世』の登場人物である「ハリー王子(ヘンリー五世の青春時代のあだ名)」を引き合いに出し、「一時的なことだ」
となだめるのですが、ワルワーラ夫人の胸の中には言いようのない不安が渦巻いているのでした。
さらに地元にいるときのニコライ・スタヴローギンの起こした『事件』があり、それは
『公衆の面前でガガーノフという男の鼻をつまんで引きずり回す』
『リプオーチンの妻の唇に心行くまでキスをする』
『県知事であるイワン・オーシポヴィチの耳を噛む』
などのもので、どう考えても常軌を逸したものです。ニコライ・スタヴローギンは一連の事件が元で、故郷の町を追われることになります。それが物語の始まる4年前ので出来事でございました。
一方、ワルワーラ夫人はヴェルホヴェンスキー氏との『関係』を解決するために自らの養女であるダーシャと彼とを結婚させようと、あれこれと画策するのです。
物語の『転』である第1部第3章では何かにひきつけられるかのように、『悪霊』の登場人物たちが次々とこの町に帰還します。
さらに第1部第4章では足の悪い『神がかり』の女であるマリア・レビャートキナが登場し、大きな転換点を迎えることになります。
そして第1部のフィナーレである5章において物語はいよいよカオス的な方向へと導かれていくのです。マリアの兄であるレビャートキン大尉がニコライ・スタヴローギンからマリアに贈られた300ルーブルを横取りし、さらにその上、領地を貰い受けたと主張し、ヴェルホヴェンスキーと長年離れて暮らしていた息子であるピョートル・ヴェルホヴェンスキー。彼と父親であるステパン氏との『断絶』した関係を示すやり取りは、本当に読んでいてつらいものがありました。これらによって全体が引き裂かれていく中で現れたニコライ・スタヴローギンがマリア・レビャートキナと結婚していたのかという問いに、その『真実』をやんわりと否定したスタヴローギンがその事実を知るイワン・シャートフに殴られ、スタヴローギンはてを後で十字に組み、されるがままになっていたのです。それにはある恐ろしい『意味』が…。ひそかにスタヴローギンに思いを寄せるシャートフの妹であるリーザが絶叫して気を失うというところで終わります。
第1部でこのすさまじさ。残りを読むのが楽しみでもあり、また恐怖でもありますが、この『悪霊』がとてつもなく『危険』だといわれるゆえんだけは、なんとなく分かったような気がしてなりません。 -
Posted by ブクログ
「イワンデニーソヴィチの一日」と、この「死の家の記録」は、
私の中でベスト・オブ・シベリア流刑小説の地位を常に争っています。
いや、これらの他に読んだことないんですが。
こちらに関しては、貴族がいきなりシベリアに来て精神的にかなり参ってる感じにぐっときます。
お風呂の不潔さにうひゃー、とか囚人服がベトベトしててうげーとか。
特にお風呂(サウナ?)の描写は圧倒的に迫ってきます。
囚人の垢とか髪の毛とかが、自分の足にからみついてきてぬるぬるしてる気がします。
とにかくもう迫力があるんですよ。
他に好きな場面は囚人がクリスマスなどのイベント事に心からウキウキしてるところかな。
どんなにどん底に落ちても、素朴にイベントを楽しみにできるなんて、
なんて人間って愛しい生き物なんだ!と感激したものです。