ドストエフスキーのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
『悪霊』というタイトルのくせに上巻のワルワーラ夫人の庇護の元生活しているヴェルホヴェンスキー氏の高等遊民みたいな話で「このおっさん、好き勝手に暮らしてんなー」と気楽な雰囲気がある。
ところが、下巻に進むにつれてヴェルホヴェンスキー氏は脇によけて不穏な動きが出てきて事件が起こし、ラストの方は悲惨。
「ルカの福音書」の引用にからめて、スタヴローギンを中心として(表面的にはピョートルだけど)悲劇に向かっていく展開の仕方、書き方は好み。
神(またはそれぐらいすごいもの)を信じるか、信じないかで全然違う。信じている人は平穏。信じてない人はなんで生きてるのか意味を見つけようとして苦しむ。そんな図式が古典文学にはよく見かける。
キリーロフの考え方も理解できない。だって、〜することで自分が神になるって⁉︎ うーん、大人なんですから妙な考え持たないで下さい…って思ってしまった。
自分自身でもやっぱり自信がなかったのか、揺らぎが見えてたけど。
日本では信仰を持たない人が多いので、自分を信じろ!という感じで、キリーロフとは全く違う。
それにしても、わかりにくい。
何回も何回もじっくり読まないと理解しがたいことだらけ。 -
Posted by ブクログ
面白かったです。特に表題の『おかしな人間の夢』と『メモ』は、ドストエフスキーの作品を理解するために役に立つと思い、学生時代にやったみたいにメモをとりながら丁寧に読みました。『罪と罰』のラストを彷彿とさせる、とても奇妙な、そしてなにか真理を含んでいるように思わされる夢。大胆なキリスト教的信仰告白。彼の作中人物たちが、苦しみにのたうちまわり、傷付いて血を流し、発狂し、殺し殺され首を括りピストル自殺をし、あらゆる痛みを与えられながらも、ほんの数人がようやっと掴んだなにものかを、言葉にするとこうなるのでしょうか? いえ、結論を出すにはまだ早いと思います。これだけが答えではない、むしろこれは彼の思想の一部に過ぎない、という風に思えてなりません。人生と社会秩序に反抗し、己の偉大さを打ち立てようとしたラスコーリニコフやイポリートは確かに苦しみましたが、一方で己を無にし他者に尽くしたアリョーシャやムイシュキン公爵もまた苦しんだのです。現実の世界には正義や信仰への報いも、悪や罪への罰もない。ドストエフスキーの作品はどれも、それぞれになんらかの真理と痛み、そして人間の弱さへの同情に満ちています。1つの思想に容易く収束させられるほど単純ではない。それでも、本書に収録された物語やメモには、彼の本心に迫るに足る思想があり、とても無視できません。大変興味深く読めました。
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Posted by ブクログ
面白かったです。特に最後にナターシャが父親に許される場面がとても好き。ネリーのあまりにも救いのない悲惨な物語と、妻の怒りと、それまでの父と娘の苦しみ…これらから生まれた、必然的で無理のない、人間心理に即した許しだったと思います。
頑なさがなにを生むというのでしょう? 残酷さばかりが蔓延るこの世界で、どうしてわざわざ人間同士が傷付け合わなければならないのでしょうか? 我々人間は皆それぞれに必ず苦しんでいるというのに。泥と血に塗れ、胸に剣を刺され、折れて思う通りに動かない脚で、それでもどうにか立っているのは、言葉と心を持つ仲間同士が互いに支え合っているからではないのか…。娘を呪い、許しを与えぬまま死なせてしまい、狂人のように街をさ迷い野垂れ死んだネリーの祖父は、どんな理由があろうと間違っていたとしか思いようがありません。許すこと、なんといってもこれが大事なのだと思います。
…なんだか大袈裟な書き方になってしまって、もしこの無意味に長いレビューを読んだ方がいたなら、馬鹿馬鹿しく思われそうですね。まあ、聞き流してください。いや、本当に、ドストエフスキーの作品は面白いですね。 -
Posted by ブクログ
えげつない、遊川和彦さんのドラマ(「家政婦のミタ」「〇〇妻」)みたいな、崩壊夫婦の葛藤と、死の物語。
大爆笑の失恋ドラマのような、19世紀最高の振られっぷり、と言いたくなるボーイ・ミーツ・ガール。
ドストエフスキーさん、敬遠するのはホントに勿体ないですねえ。
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ドストエフスキーさんというと、矢張り、「罪と罰」「白痴」「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」の四大長編になります。
(茫漠たる昔に読んだ記憶で言うと、読み易いのは「罪と罰」だと思いますが)
なんだけど、「貧しき人々」も「虐げられた人々」も「地下室の手記」も面白かった。ほかも読んでみたいな、と思っていたところで衝動買い。
「やさしい女」と言えば、映画ファンとしてはロベール・ブレッソン監督の映画ですね。なんですが、これ、実は未見なんです。今後の愉しみ。
ロベール・ブレッソンさんは、とにかくドストエフスキーさんが大好きなようで、「スリ」だってほとんど「罪と罰」です。「白夜」も映画化しています。
だからこの本は、ある意味「ブレッソンが映画化した中編をふたつ併せました」という編集になっています。
それはさておき。
「やさしい女」。
かつてそれなりに名誉ある仕事をしていた男性が、おちぶれて、失業者になって、そこから這い上がって、質屋としてけちけちと小さく暮らしています。
その男が、金で買い取るように10代の少女と結婚します。
ほとんど会話もなく、笑顔も無く、淡々と冷たい結婚生活。
その間に、大人しい少女だった妻は、ふてぶてしくなったり、夫をなじったり、浮気しそうになったり、夫を笑ったり。
なんとも愛想なくそんな妻をぶざまなプライドを見せながらあしらいつつ、どんどん仮面夫婦になる。
そして、ある日、妻は飛び降りて自殺してしまう。
少なくとも判りやすい小説ではありません。
どうして?なんで?と思い始めると、そこに真犯人や真相があばかれる快感がある小説では、ありません。
旨く言えませんが、人間関係の温もりのある部分を、
とにかく恐れて自分の殻に閉じこもってしまう、夫。
尊厳とか生きがいとか喜びとか笑いとか、そういうものを奪われて、タダ生きている妻。
自分とそして相手とをまとめて破壊する、まとめて汚すような、自傷行為のような素行。嘲笑う。悪魔の顔を見せる少女。
きっと。多分。
さびしいから妻を買ったのに。相手まで破壊してしまうことを知って、おずおずとわがままに、やり直そうとする夫。
許されることや幸せそうになることを、拒絶してしまったのか。飛び降りちゃう妻。
うーん。
解釈とか、言い出すと大変にムツカシイのですが、解釈することは本を読む喜びの、ほんの数%でしかないんじゃないでしょうか。
そういう風景を眺めることの歓び、と言いますか。
宍道湖でもグランド・キャニオンでも、夕焼けでも富士山でも星空でも、解釈するために観光に行く訳じゃないですものね。
でも、小説としての語り口は大変にエンターテイメントなんです。娯楽的です。
夫の男性の一人称。だれの心の揺れ具合を見つめながら読んで行けばいいのか、大変になんというか、手すりがしっかりした階段です。
ドストエフスキーさんお得意の、なんとも惨めで滑稽な「負け組」男の心理描写が、混沌とした悲劇にいたる。
なんとも茫然な訳ですが、まあ、書き手の心情としてはキリスト教的な考え方もあるはずですから、
とっちらかった、ある意味大変に自由で現実的な島国の21世紀を生きる僕たちが、無理やり「解釈」をする必要はないと思います。
むしろ正直、「いやー、こんなんやったらしんどかろうなぁ」「かわいそうやなあ」「そんなんもありかもなあ」と自分の身の丈の思いで愉しく読んでしまいました。
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そして、「白夜」。
これはまた一気に、書き手も若いんだろうなあ、という小説。こっちのほうは恐らく数十年ぶりの再読なんですけど、当然まったく記憶になかったです。
これまた、少なくとも生きるの死ぬのという話ではないので、娯楽的な愉しみが炸裂する青春恋愛心理小説ですね。
とにかく大都会で、若い男が泣いてる女と出会う訳です。
男はしがない勤め人で、大都会の孤独。友人も無く、不器用に小さく生きているだけ。だけど、ロマンチックが止まらない感性だけは豊かな、まるで小説家みたいな青年です。
女はこれまたしがない労働者で、病気の身内に縛られて幸少なく生きています。
女は、言い交した恋人がいるんですね。熱愛です。まあ、言ってみれば婚約者です。
しかし、婚約者は仕事の都合で1年だか3年だか、別の街へ。「必ず戻ってくる。ここで会おう」みたいな。遠距離恋愛。電話もLINEも無い時代。
で、その約束の時期になったけど、婚約者が来ない。この町に帰っているという噂だけど、来ない。手紙を出しても梨のつぶて…。
そんな身の上を聴いて、青年は同情します。
でも当然、あわよくば、な訳です。このまま戻ってこなければ、なんです。
そして、事態はそうやって進みます。
「もういいわ。彼のことなんかもう愛していない。あなたと愛し合って生きていきましょう」。
手に手を取って、新しい人生へ歩き出したその瞬間に。あっ! とすれ違ったのが。その婚約者。
ただの行き違いで、婚約者はずっと彼女を愛していて、やっと現れたんですね。
と、その瞬間。
主人公の青年の腕の中から、彼女はスッっと抜け出てしまう。
あああっ…という間に、婚約者の腕の中に。「ごめんなさい」。
この鮮やかな。「恋愛の、ごめんなさいツバメ返し」とでも言うべき、水も漏らさぬスパァンッ!という切れ味。
もう、これだけでもタマラナイ小説ですね。
なんてえげつない。なんてドベタに判りやすい。
美しい。というかもう、笑うしかない。大爆笑。いやあ、痛いです。
もう、ほんとに「男はつらいよ」シリーズの、車寅次郎の振られっぷりの、原作がココにあるんじゃないだろうか、という素晴らしさ。
ドストエフスキーさん、やっぱり面白いですよねえ。
まだまだ未読の小説もありますし、再読するのも愉しみです。
※ちなみに、「ドストエフスキーさんを初体験する上で、何から読んだら良いのか」という問題は実に奥深いですね。
それだけで大いに楽しく酒が飲めそうです。
無論、読み手側のタイプによるんですが、僕は「虐げられた人々」「貧しき人々」「地下室の手記」あたりかなあ…と。「罪と罰」もあり得るか…。
間違っても「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」はマズイと思います。キリスト教がらみの神学的な言葉と問答が多すぎますから。
そういうのをざっくり読み飛ばしても、残った物語で十分にオモシロイのですけど、
そういうのをザックリ読み飛ばすことがなかなか、難しいですからね…。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ今の気分になんてピッタリな小説なんでしょう。主人公は自意識過剰な引きこもり。今は中年なんだけど、若い頃の恥ずかしい話を敢えて手記に書いてみたりして。その気持わかるわかる、虚勢を張ってみたりオドオドしたり。いろいろと空回りして結局、<生きた生活>をするより、地下室にじっとして<平穏無事>でいるほうがいいんだってなる。
なんか、共感しすぎて恥ずかしいくらいでしたね。
そんなにズバズバと思ってること文章化されると、私も同じなんで恥ずかしいんですけど、と……。
最近、ドストエフスキーを読む若い人が増えているらしいけど、この本は今の時代に合うと思う。新訳のせいもあるだろうけれど、読みやすい。ロシア人の長ったらしい名前や愛称や複雑な人間関係なんてものがほとんどなくて、どんどん読めてしまう。なにせ引きこもりですから。
ドストの長広舌は古風だと思ってたけど、修正。この自意識過剰なおしゃべりこそ現代風なのだな。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ2015/01/05
ドストエフスキーはこの作品をわずか27日間の間に口述筆記で書き終えている。
ルーレットに取り憑かれた病的な青年の絶望的な恋が悲しい。
ドストエフスキーの経験が大きく影響しており、後半の展開は熱中させられた。
2026/07/22
10年来の再読。アレクセイ、フランス野郎、将軍、ポリーナをはじめ登場人物の露骨さや熱情さは日本でまずお目にかかることがないほど極端なため、思わず笑ってしまった。自分も歳を取って、今回は特に誰にも感情移入することなく、ただの傍観者として読み進めたため、素直に物語として楽しめたと思う。 -
Posted by ブクログ
好色で吝嗇、品性下劣なフョードル・カラマーゾフの下に生まれた3人の兄弟――激情的で心の弱いドミトーリイ(ミーチャ)、賢く冷笑的なイワン、純朴で信仰深いアリョーシャ。物語は、信仰の意味をめぐる問い――神がなければ、すべてが許され、人は何事をもなしうるのか?――を背景におきながら、ひとりの女性と金をめぐる父と子の対立から、殺人事件の発生と裁判劇に展開していく。
キリスト教が維持してきた規律を否定してしまったとき、社会はどうなるのか、人間の良心は耐えられるのか、とは、現代のわれわれから見ると、あまりに大上段すぎて的外れな問いに思えるけれど、当時の大変動の中にあったロシア社会においては深刻な問題だったのだろう。現代でいえば、グローバル化の波によって国民国家や地域社会が崩壊してしまったら、人は「自由」に耐えられるのか、それとも自ら宗教やナショナリズムの軛を求めるのか――という問いに匹敵するのではなかろうか。
特に、イワンが語る「大審問官」の寓話は普遍的な真実を突いていて、もっとも印象的な部分だ。現世によみがえったキリストに対し、異端審問で民衆を盲従させている大審問官が、人は自由の重みに耐えられはしない、人々にパンをあたえて自由を手放させてやるという重荷を担う少数者が必要なのだと論じる。これをキリストは黙って微笑みながら聞き、最後に大審問官にキスをするのだ。だがもしも「愛」をもって答えとすることをよしとしないのであれば、私たちは、耐えられない自由の重さという問題に、どのような答えを提出しうるのだろうか?
みなに尊敬されていたゾシマ長老の死体が、期待に反して腐臭を発したときに引き起こされる秩序の崩壊と悪意の噴出を描いたシーンも、恐ろしく衝撃的であり、その後の歴史の暗示にさえ見えてくるくらいだ。
宗教的要素が強く打ち出されているために、一見、現代においては関連性を失っているように見えて、時代の秩序の崩壊と人間の自由と倫理という、時代を超えて届く重みのある問いを差し出している小説と受けとめた。
ただ、これだけ魅力的なテーゼを提出していながら、物語全体に力強い一貫性が欠けているように見えるし、キャラクターも弱すぎるように感じる。アリョーシャは面白みのない善人にすぎないし、冷笑的に既存の秩序を否定してみせるイワンやスメルジャコフでさえ、良心の重みに耐えかねて自ら死に赴いてしまう脆さを露呈する。『悪霊』のスタヴローギンやペトルーシャほどの悪の魅力が感じられない。
結論からいえば、ドストエフスキーの小説の中で、これが最高の傑作とは、私には思えません。『悪霊』の方がずっといい小説だと思う。
もっとも、ひさしぶりにドストエフスキー読んで、人間観察の鋭さにはあらためて舌を巻きました。クズなふるまいをするために軽蔑されているフョードルが、だからこそもっとクズなふるまいに走る心理だとか、相手を愛してもいないくせに、傷つけられたプライドを愛と思いこんで突っ走るカテリーヴナとか。そしてもちろん、スメルジャコフの指摘に、はじめて自身の責任と怯懦とを自覚するイワンの衝撃。さまざまに魅力的要素をはらんだ小説であることには間違いないと思います。