あらすじ
父親殺しの嫌疑をかけられたドミートリイの裁判がはじまる。公判の進展をつうじて、ロシア社会の現実が明らかにされてゆくとともに、イワンの暗躍と、私生児スメルジャコフの登場によって、事件は意外な方向に発展し、緊迫のうちに結末を迎える。ドストエフスキーの没する直前まで書き続けられた本書は、有名な「大審問官」の章をはじめ、著者の世界観を集大成した巨編である。
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Posted by ブクログ
いや凄かった。ありとあらゆるテーマ、人間社会の問題や物語のベースとなるものが詰まっている。
児童虐待、身内殺し、階層社会、宗教の限界を描きつつ物語は最後の法廷劇でクライマックスを迎える。
正直、父親殺しの話、くらいの知識しかなく読み始めたので、最後までどうなるか分からずハラハラドキドキしながら読みました。
正直消化はできていないし分からない。
以下メモ。
スメルジャコフがフョードルを殺したのは、結果なぜだったのか。金ではなかった。知能は高いが同じ兄弟として扱ってもらえず、自分の出生を憎み、その原因を作ったフョードルに復讐したいと思っていたとしても不思議ではない。
何でミーチャは有罪にならなければならなかったのか。イワンにしても、殺してやりたいと思っていたとしても、それほどの罪が彼らにあったのだろうか。
裕福でも下劣で、憎しみ合うカラマーゾフと対比して描かれるイリューシャとその父親。悲惨なほど貧しいが、高潔な心と愛情に満ちている。
なぜイリューシャは死ななければならなかったのか。
再読時に少しでも理解は進むだろうか。
いや凄まじかった。
Posted by ブクログ
現代の小説で語られる問題提起の原型がここに全て大集結してるな、という感じがする、とんでもない小説だった。
昨日の夜、読み終わった直後は、気持ちを全くまとめられる気がしなくて、一晩寝かせた(笑)
一日経った今、感想を綴りたい!!
まずびっくりなのは、こんだけ長いのにここまでは実は第1部だったようで、本当は第2部に続く予定だったけど、ドストエフスキーさんはその前に亡くなられてしまったとか。
でも、もうこの1部で物語として完璧だと思う。本当に。
人間社会のテーマって他にある?って思うほど、全てがここに詰まってるという気がする。
いろんな世界の流れを感じているドストエフスキーさん、プーチンをも予言してるかのようで、怖かった。(今のロシアを見てドストエフスキーさんは何を思うのかな…)
人間から神を奪い自由を与えると、神以外にひれ伏すことができる対象を探すのが人間。でもそれはものすごく困難だから、自由を与えられた人間は結局全く自由になれていない。では何が正解?
というようなことを書かれていて、
何なの?この人間の根本?なんでこれをこんなに面白く書けるの?やっぱり本当にすごいんだ…やっぱりすごいんだ…19世紀にこれを書いてたんだ。朝井リョウさんの『イン・ザ・メガチャーチ』に、この部分が繋がる。
しかもエンタメやサスペンス要素になりがちな殺人とか、犯人探しってところをも、ドストエフスキーさんは思想小説にする!!人の死を、殺人を、人間の暴力的な部分を、彼はエンタメとして「消費」してもらうように読者へ提供しません!!!なのに?だから?面白い。とんでもなく。
私は、もうドストエフスキーさんにひれ伏したい。ひれ伏す対象(=神)は彼に決定でも良いのでは(笑)「ドストエフスキーさんにひれ伏したい」はパワーワードだと古典専門の某インスタアカウントの方にも言ってもらえたので!!(笑)
無神論者の落とし穴、信仰深い人の落とし穴。
どっちの人の立場からも、『ポリフォニー』という技法を使って、登場人物それぞれのイデオロギーや意識を書きまくるんです!!とにかく書きまくるんですよ!!!長いんです!!長いんです!!
でもそれが私はたまらなく好きだった!!沢山の思想が私に覆い被さってくる感じ。様々な方向から延々と覆い被さってくる。重いんです。押し倒されるんです。何なら押しつぶされそうになる。でもそれが快感に繋がるんです。理解したい、受け止めたい、読み続けたいという中毒症状が出るんです。(変態と呼んで)
こんな読書体験、死ぬまでに出来て良かった。
そして最後に!多分ドストエフスキーさんが、子供という存在を何よりも尊重していて、「子供にはなんの罪もない」ということをはっきりと書かれているんだけど、それが信心深い登場人物(ゾシマ)の独白にも、無神論者の登場人物(イワン)の独白にもはっきりと現れるところが、印象的だった。そして最後の弁護人のところ。子供はどのようにして育つのか?親とは何か?父親とは何か?これをグサグサ刺すように書くんです。
私の価値観を変えた川上未映子さんの『夏物語』にも繋がるものがあって、この「子供という存在をどう捉えるか」というとこに、私は今回の『カラマーゾフの兄弟』でも一番感銘を受け、ここがこれからの私の価値観に一番影響を与えるであろう箇所だった。
全部読んだ。読み切った。バンザイ。
そしてまたいつか読み返す。
Posted by ブクログ
長い長い旅でしたね。3ヶ月くらいかかったかな?
価値観に強い影響を与えられたと言わざるを得ない。
子供の教育については色々考えちゃうんですけど、アリョーシャに語られるってのが非常に心に響きますね。それがやっぱドストエフスキーのすごいところですわ。
あ感想書く。
下巻は主にミーチャの尊属殺人についての裁判ですね。ミーチャはずっと父を殺してないと言い張っているが(状況的にミーチャが疑われて当然なのである)、感情的な性質から起こした様々な暴力的な出来事のせいで市民からそれを信じてもらえない。
しかし決定的な証拠がないため、裁判は無実にもなり得る、といった具合。
でまあ上巻中巻の長い前置き故に読んだ人はわかるんやけど、誰がどう見てもミーチャは有罪。しかし親しい人はミーチャの嘘がつけない性質を知っているためにミーチャは無実だと信じ切っている(召使にスメルジャコフってのがおって、ミーチャが殺してないとしたらこいつしか殺せない)(でもこいつは当時病気持ちで殺せるはずがないと市民は信じている)(前代未聞の括弧が連続するという事態が起きてしまった、ここからこの小説がどんだけ長いかをわかってくれ)。
まあ実際スメルジャコフが嘘ついとったので殺した犯人はスメルジャコフなんですが、これには色々事情がありましてその証言が聞き入れてもらえないんですよ。次男イワンしかこの事実を知らないのだが、イワンが妄想を見てしまう重病にかかっているため聞き入れてもらえない的な。おまけにスメルジャコフ自殺するし。
で!弁護士が色々頑張ってすごい逆転裁判!かと思いきや有罪は覆らないってまでが裁判のオチ。
何が面白いってこの展開は内面に触れる上で重要であるだけで、物語の本筋ではないということ(主観ね、違うと思っても気にしないで)。
アリョーシャが、兄が無実であることを最初からわかってて、しかも有罪って判決されることをわかっていることが面白いんです。
信心深く、正直であるためにみんなから愛される主人公アリョーシャが、何もかも、ましてや精神的な部分すらも見抜いてしまっていることが私には非常に面白かった。
内面を見抜きながらも、一切その人のことを馬鹿にしていない姿勢に深い尊敬の念を抱くばかりです。
物語のオチとしては、この事件がロシア中に知られ、様々な憶測が飛び交う中、アリョーシャが最後に子供達に個人的な考えを述べます。この考えがおそらくドストエフスキーが最も伝えたかったことなのではないでしょうか、と考えてしまいますね。
そのくらい、オチまでの流れがしっかりしていた。そして、最後のアリョーシャの言葉は大変響く。それもこれも、上巻、中巻と長い間キャラの性質について深掘ったためであり、それが最後のアリョーシャの言葉に繋がるのである。
愛もテーマにあると思うが、子供の教育が最もドストエフスキーの語りたいところだと、オチでそう思った。
いやー、面白かった。
反省した。
これは今日色々考えちゃいますね。
1番心に残っている言葉は、アリョーシャの「人間の魂にそれほど多くのことを求めてはいけない。」
これです。シンプルやし、言い尽くされたような言葉でもあると思われるが、アリョーシャが言うのが良いんです。これは本当に、忘れてはいけないことだと、個人的に思いましたね。
非常に読み直すのが楽しみな作品の1つです。
Posted by ブクログ
100/10
パンを選ぶか?愛を選ぶか?神を選ぶか?
人間の本質、愛、憎しみ、信仰、無神論、正義、理性。様々な神や人間への問いかけが、この物語に交差している。登場人物それぞれが、思想も違えば、愛した方も違う、生き方ももちろん違う。そんな多様な人間劇が「カラマーゾフの兄弟」内で行われる。有象無象の映画をこれまで数えきれないほど観てきたが、これほど多くのテーマを均等に際立たせ、尚且つ一つ一つの物語として、魅せているフィクション作品は他にない。例えば「大審問官」では、自由を与えられた人間は、それを抱えきれず苦しみ、結局は誰かに支配されることを望む、そんな絶望的な真理が語られる。私はその言葉に抗うことができなかった。今もその思想は、胸の内で静かに、しかし確かに蠢いている。他にも印象的だった場面のひとつに、「ゾシマ長老の過去編」がある。そこには、神への愛、赦しの深さ、そして人間への限りない信頼といったテーマが、言葉ではなく生き様として語られている。特に私が心を打たれた一節は次のような場面だ。「それじゃわたしたちは、召使をソファに座らせて、お茶を運んでやらなきゃいけないんですか?」わたしは答えた。「せめてたまには、そうしたって罰は当たらないでしょうに」みんなは大笑いした。この言葉に私は深い感動を覚えた。そこにはロシアに残る身分制度や奴隷的な慣習への静かな批判が込められているようにも感じられる。ゾシマは、決して高らかに正義を叫ぶことはしない。ただ、日常の中でほんの少し視点を変え、「たまには席を譲る」という小さな愛の行為を通じて、人間の尊厳を回復させようとしているのだ。この一節は、兄弟愛や友愛の延長として、すべての人間に対する深い敬意を示している。読んでいて、思わずドストエフスキーという作家の胸に飛び込みたくなるような、そんな衝動を覚えた。そして、最後の「裁判編」。この章には、それまでの全ての出来事が一点に収束し、爆発するような迫力があった。まさに「正義 対 正義」。どちらも譲ることのできない信念を抱え、検事と弁護士がぶつかり合うその応酬は、永遠に終わらない議論のようでもあり、私は読者であるはずなのに、いつしか傍聴席に座っているような気持ちになった。そして気がつけば、被告席のミーチャの姿に強い共感と、どうしようもないほどの同情を抱いていた。彼が本当に犯人かどうか、という問題よりも、彼の苦しみ、彼の叫び、その生きざまに、私たちは何度も揺さぶられる。だが、私たち読者は本当の犯人を知っている。だからこそ、この裁判はどこまでも虚しく、そして悲しい。事実ではなく、言葉と印象、感情と偏見が人を裁いてゆくこの構図に、私は息苦しさを覚えずにはいられなかった。ラストに訪れるアリョーシャのスピーチで、私は初めてフィクション作品に涙した。これまでの愚劣な行いや偽りが渦巻く物語の中で、アリョーシャはなおも純粋で、汚れなき神を信じる子供たちに向けてこう語りかけた。「わたしたちは、憎しみを持ってはならない。どんなことでも忘れてはならない。あの時感じたことを、あの時見たものを、ずっと覚えていよう。いずれまた、思い出す時が来る。だから、生きていこう。」そしてこうも言った。「人生を恐れてはならない。何かしら正しいことをすれば、きっと人生は楽しくなる。」、この物語が、私に訴えかけるのは、まさにこの部分だと思う。神が存在しようが、しないだろうが、人間の矛盾も、愚かさも、愛がなくても、救済の可能性もすべてを飲み込みながら、それでもなお、一歩づつでもいいから、あゆみ続けるアリョーシャは本当に美しい。
”生きていこうじゃないか、人生なにが起きようとも、どうだっていい。ただ、人を愛しつづけ、死をも愛そう。”人として生きるってもんは、まさにこうじゃないか?
自分は在り来りかもだけど、愛を選ぶ。多分ね笑
Posted by ブクログ
やっと読み終わった… たぶん亀山訳の方が読みやすいんじゃないかと思うけど、内容的に、どこに向かっているのかわからなくなりがちだったり、人物が一筋縄ではいかない、常に信用できそうなのはアリョーシャだけど、他の人は性格がつかみにくく、少なくともたいていの人が読み慣れている"小説"でのような役割が理解しにくい、等々がやはりすいすい読み進められなかった原因なのかな。新潮版は訳としては標準的で、やはりこの小説は訳文以前に出会うタイミングの問題が大きいのかも。ドミートリーなど、読んでいる間は、後半は意外と好感が持てたりするのだけど、ちょっと読みさすとなぜそんなふうに思っていたのかわからなくなったりするのは、それだけこの小説世界の描写がよくできてるということだろう。読み直しが楽しみだ。
Posted by ブクログ
何か罪を犯すということは、(たとえだれかに罰せられなくとも)自分で自分を罰してしまう、ほんとうに苦しい( ´•̥̥̥ω•̥̥̥` )
罪を犯して罪悪感で死ぬほど苦しむという夢を,この本を読んだ後は何回も見るようになった(i_i)
Posted by ブクログ
学生の頃に途中で諦めてしまったが、社会人になってから再度読み直した。
学生の頃は理屈家だったので、大審問官の章が説明になっていないじゃないかとイライラしてたんだけど…
社会人になった今、
・この世は愛している/愛していないの二元論では無く、不完全な愛というものが存在すること
・理性では人間の倫理に触れられない。その役割を担うのは唯一宗教であり、信仰である、ということ
がかなりジワジワと実感できるようになってきた。
明瞭な理屈無しに他者を抱擁できる宗教は偉大すぎるなと
ただ、人間の倫理は誰が作るべきか、という問いは依然として自分の中に残っている。
ドストエフスキーは人間の理性を信じず、神を信じている。ただそれはか弱い人間にとっては救いになる一方で、多くの人間の自立を妨げているように思う。
ニーチェ程では無くても、せめてカミュくらいの温度感で人間の理性で倫理を形造り突き進む風潮の方が、活気ある社会になりそう。
Posted by ブクログ
カラマーゾフとともに育ちました。
高校生の頃は20歳のアリョーシャを随分大人に思っていましたが、気がついたらとうに年上になってます…
私の棺に入れてほしいくらいの愛読書です!
この本が書かれた19世紀末の混沌とした時代と、同じくらい現代も混沌としていますが、
読むたびに、神の存在を信じよう、信じたいというドストエフスキーの願いが聞こえるような気がして、魂が揺すぶられます
Posted by ブクログ
人類史上最高文学と称される「カラマーゾフの兄弟」
高野史緒さんの「カラマーゾフの妹」を先日読み、原作であるこちらももう一度読もうと思い飛ばしながら読んでいった。
実際にしっかりと読破したのは時間を持て余していた3年位前のコロナ禍の時。俗に言われる「カラマーゾフを読んだ側の人間」に40歳を越えてやっとなれた。
中学生の時、20才頃、2度挫折した経験がある。読みにくいし言葉が分かりにくく物語は長いし正直つまらなかった。そもそもカトリック、プロテスタント、ロシア正教会等のキリスト教の知識が多少ないとあまり理解できない作品で、知識が未熟だった時分では到底読んだ側にはいけなかった。
この作品が人類史上最高文学と定義付けされているのがなんといっても「大審問官」のパート。
この「大審問官」のパートが無ければただの古典文学、ただの物語になってしまうだろう。
無神論者のイワンが何故神に疑問を抱くのか?神童のような聖人の弟アリョーシャにその真意を自作の物語にのせて話すという場面。その物語とは秩序を守るために人を火炙りの刑にしている異端審問官がキリスト本人に人間の本質を提示し信教への疑心と疑念を紛議するという物語。
幾つもの人間の性質的な問いと哲学をキリストに投げ掛けている。
自分もこの場面が「レ・ミゼラブル」のジャメールの投身自殺の場面と並び私史上最高文学の場面だと感じている。
内容は人間とは不完全な(完全にはできていない)生き物、なのに何故キリストは人間に自由を与えたのか?という問い。自由だけでは人は生きていけない。人間は弱く卑しく作られているため自由に耐えられる性質を持っていない。
さすれば自由の中では何かに支配されなければいけない。慈愛の精神だけでは人々は生活できない、だから食料(パン)を与え神秘を募り(奇跡)権力で秩序を守る(権威)。それが人間に必要なのだと語気を強める。
富と食を分配し威光を魅せ権力で治安を維持するという共産理論をキリストにぶつけるという話。
このイワンの語るキリストと異端審問官の物語はキリスト教という神に対しての矛盾と共産社会主義国家ロシアの深い信念が見えてくる。
このイワンの物語の内容が凄く理解できてしまう。
信仰心を主とする理想主義だけでは人は生きていけないと強く感じさせられてしまう。また同様に科学を主とする共産主義という思想論だけでも人は生きていけないとも思う。
日本でも民主主義という民主政体をとっているものの、ある一定の人々の結束により組織化し、その特定の人が民意を支配する為に法を形成し統治しているのではないだろうかとも思えてしまう。
自由を謳えばそれは自由ではないと証明している様に感じ、世の中は基本的に自由という不自由さで埋め尽くされているのかもしれない。
イワンが突き詰めすぎて精神崩壊していくのもよく分かる。
自由という物は本来人間にとって平等で然るべしと思われるが、どうしても不平等さが際立っている様に感じる。人によって価値観の水準の優劣が見え隠れするからだ。
結局人間はやはり不完全な生き物で実体のない定義のない自由というものに苦しめられ、しかしそれでもその中でも自由を求めてしまうものなのだと実感してしまう。
自由っていったいなんなのだろう?深すぎてよくわからなくなる。
「カラマーゾフの兄弟」長い物語で親子間の軋轢、金と権力、女性の奪い合い、信仰論と無神論、殺人事件、ミステリー等が詰め込まれた作品なのだが、物語の中盤の「大審問官」は人間の愚かさ、弱さ、醜さの問いが詰まっている最高傑作。
またいずれ読むであろうがその時はまた新たな気付きがあるかもしれないし、気付きたいとも思っている。
Posted by ブクログ
ついに読み切ることができました!読みたいなと思いつつもなかなか手が出ていなかったけれども、読めて良かった。充実した読書時間を過ごせたし、ドストエフスキーの他の作品も読んでみたくなった。私の読書の世界が広がりそうな予感がして嬉しい。
下巻では、庶民や大地を肯定するところが印象的だった。ノブレスオブリージュ的な考えだろうか。農奴解放後の混乱という当時の時代要請だろうか。ドストエフスキーのお父様の事件とのリンクだろうか。特に庶民の底力を見た気がするが、判決についてはもう少し説明が欲しかった。ここは読者が想像の翼を広げる余地を残してくれたのだろうか。
また、ミーチャが、自分の悪いところや滑稽なところを認めていき、最後はこれまで自分が裏切って、そして法廷では裏切られたカーチャとも和解するところも印象的だった。やはりミーチャの中には、心の奥底では誠実でありたいという願いがあったことをより強く印象付けられた。
加えて、検察と弁護人の演説はどちらもすごく面白く、ぐいぐい読み進められた。ただ、人の一生を左右する刑罰についてこんなにも印象論ベースで語られるのかと怖くなり、「疑わしきは罰せず」の重要性を感じた。
イワンとスメルジャコフについては、未必の故意という非常に面白いテーマについて取り上げられていて、なるほど未必の故意でこういう小説が出来上がるのか、と興味深く読んだ。でも、あのイワンの行動でスメルジャコフにゴーサインを出したと意図に反して解釈されるというのは、悲し過ぎる。
Posted by ブクログ
暴力的なまでに、
人間という存在の葛藤を暴いている!
人間は、神と愛を信じる良心的な存在なのか。
それとも、神は不在であり、我々はエゴイスティックな生き物なのか。
どちらかに傾けば、片方の声が聞こえてくる。
それ故、私たちは一喜一憂しながらも人生を謳歌するのだ。
我々は皆、「カラマーゾフの兄弟」である。
Posted by ブクログ
基本的に登場人物は殆どがプライドが高い。誇り高いとは別で、侮辱や屈辱をなによりの怒りとしている印象。
農奴制度による格差や権利の問題を、カラマーゾフという卑劣漢たちの欲で包んだ濃い本でした。
一読しただけでも価値ある経験になった。
再読するときは、「大審問官」の部分を掘り下げたい。
ラスト意外な展開でお気に入りの章、心温まり愛に溢れて読んで嬉しくなった。
カラマーゾフ、万歳。
Posted by ブクログ
裁判シーンが白熱。丁寧な人物書き込み。法廷小説としても面白い。結局イワンが真の犯人でドストエフスキー本人と重ねたのか。スメルジャコフが本当に良い役回りをしている。アリョーシャとコーリャの第二部が書かれなかったのが残念でならない。
Posted by ブクログ
・ここまでが第一部で未完だったとは…たしかに「これだけ期待をもたせてここで終わるの?」とは思ったけど。
解説によると「書かれなかった第二部では、アリョーシャ・カラマーゾフが修道院を出て、リーザとの愛に傷つき、革命家になって皇帝暗殺の計画に加わり、断頭台にのぼることになっていたという説もある」とのことで、第二部、読みたかったなぁ…。
・私にはキリスト教的世界観は一生理解できないわけだけど、「キリスト教的世界観を外から見て感じ入る」という体験も貴重ではあるのかな、とも思う。「愛のむきだし」に感じたのと同種の静かな興奮・気持ちの昂りを覚えるし、語られる言葉の熱量に思わず涙する。この種の感情をおそらく「敬虔な」と表現するのだろうけど、これは古典日本文学からは得難い貴重なものだと思う。
Posted by ブクログ
「少年たち」の章、続編への布石か。「兄イワン」の章、「神がなければすべてが許される」という自身の思想にイワン本人が押し潰されている。スメルジャコフの悪意、憎悪は彼を指導したイワンを圧倒して立場が逆転。彼が首を吊るのはご都合主義的、そんなタマじゃない。悪魔との対話は何言ってるのかわからず退屈。「誤審」の章、くるみの挿話は感動的。カテリーナの言動に人間の不可解さを見る。結局、フョードルとカテリーナが事態をややこしくした張本人のような。論告は長すぎ。最後のアリョーシャの演説の場面はこの小説の締めくくりに相応しい。この小説を読むたび、真人間になろうとの思いが湧いてくる。
Posted by ブクログ
「カラマーゾフの兄弟を読破した側人間になりたい」というだけの極めて不純な動機で読み始めた本作だったがその初期衝動だけでこれだけの大著を読み通せるわけがない。単に面白かったから読んだ、それだけのこと。
不死がなければ善行もない、ゾシマ長老の説法、大審問官、フョードルとドミートリィの確執、スメルジャコフとイワンの不思議な絆、フョードルの死をめぐるミステリー、ドミートリィとカテリーナ、グルーシェニカの三角関係、少年たちとアリョーシャの掛け合い、法廷での危機迫る証言、検事と弁護士の白熱の舌戦。これら全てが単独のテーマとして10本の小説が書かれていてもおかしくはない。まさに総合小説。
キリスト教のあり方をテーマとして扱っている点が現代を生きる日本人には馴染みにくいとされがちだがそんなことは全くないと感じた。同じ宗教を信仰していない分、切実さが少し異なるだけでドストエフスキーのメッセージはひしひしと伝わってくる。信仰の対象を持っていようといまいと罪を携えて神の前に立つ人間の心中がどうあるかをこの小説を読むことで追体験できる。
エピローグのアリョーシャが子供たちにかけた言葉には思わず涙がこぼれた。少年時代から大切に保たれた神聖な思い出をたくさん集めて人生を作り上げればその人は救われる。今この瞬間の素晴らしい出来事がずっと続くことなんてあり得ない。でも、大切に取っておいた思い出のひとつひとつが優しく、同時に強く燃える炎となってその人の心を温めてくれる。
結論。世の中には二種類の人間がいる。『カラマーゾフの兄弟』を読破したことのある人と、読破したことのない人だ。
Posted by ブクログ
通勤電車でちまちまと読み進め、上巻から半年くらいかけて読み終わった。取り掛かっている時間が長かっただけに、読み終えた際の喪失感も一入だった。
半年近くかけて読んでも面白さが持続する長編小説、なんていうのはそう多くないのではないか。小説は時間をかければかけるほど、感情の揺さぶりが希釈され、感動が小さくなるものだと思っている。だから、時間をかけると飽きとの戦いになったり、話の粗探しを始めたりしてしまう。しかしながら、この本に関していえば、感情の揺さぶりが薄まってもなお十分なパワーを持っている。半年の間、この話を読んでいて退屈な時間は少しもなかった。
ひとつの長編小説としてもすばらしいけれど、場面場面を切り取っても、それぞれが完全なものとなっており、短い話の寄せ集めとして見たとしても、すべてが面白い。というか、細部が完全だからこそ、その総体としての一個の長編小説が、まったく間伸びしたところのない素晴らしいものになっている、ということかもしれない。
その長さや、ドストエフスキー特有の、捲し立てるような文章の熱量から、勢いでどんどん読み進めてしまいそうなものだけれど、毎朝通勤電車の10分くらいの時間でゆっくりちまちま読む、というのもありだと思う。
Posted by ブクログ
世界的文学作品というのはどういうものなのか?フラットな気持ちで読んでみた。冷静に見ると、形としては滅茶苦茶なところがあるし物語の流れもスマートとはいえないと思う。サスペンス的な要素を含む話の骨格の周りに沢山の視点と物語がある。流石の文量なのでそれぞれに厚みがあり世界がある。百年以上前の小説に「萌え」をみたり。親子、兄弟、恋愛、友情。お腹いっぱいの作品。一言で言うのは難しい。読んだ。印象を持った。というのは財産だろう。読み応え、という点では間違いなく一級品。ドストエフスキーの別の作品も読んでみようかなと思うくらいの読み応えはあった。読むのが大変だった。が、また読み返したいなと早くも思う不思議な作品。
Posted by ブクログ
酷い親を持った子の思想形成のパターン、として読んだ。
何を拠り所に生きていくか。
ドミートリーは純粋さと情熱、イワンは知性と思想、アリョーシャは敬虔さと素直さ、スメルジャコフは狡さ。
最後のアリョーシャの演説でふと涙が出てしまった。
「いいですか、これからの人生にとって何かすばらしい思い出、それも特に子供のころ、親の家にいるころに作られたすばらしい思い出以上に、尊く、力強く、健康で、ためになるものは何一つないのです。君たちは教育に関していろいろ話してもらうでしょうが、少年時代から大切に保たれた、何かそういう美しい神聖な思い出こそ、おそらく、最良の教育にほかならないのです。そういう思い出をたくさん集めて人生を作りあげるなら、その人はその後一生、救われるでしょう。そして、たった一つしかすばらしい思い出が心に残らなかったとしても、それがいつの日か僕たちの救いに役立ちうるのです。」(p653)
Posted by ブクログ
書きたいことが山ほどあるので忘れないうちに箇条書きで残すことにする✒︎
・下巻の裁判のシーン、めちゃくちゃ面白かった。長々と書かれているけどスラスラと文字が入ってきて不思議に思うくらい。
・今の時代だったら杵の指紋から犯人を特定する形になるんだろうけど、まだ証拠を証拠として扱えない時代...。こういう結末を迎えた事件も多かったんだろうな。
・この長さになるとつい上巻の内容を忘れがちなんだけど、中下巻にもちゃんと全て関わってきていて感嘆した。マジでどうやって書いたんだろう。
・ミーチャの罪が確定するところや、無罪であっても有罪であっても罪を受け入れるシーン、各個人の良心の呵責を見ると、本質は《罪と罰》で描かれていたものと同じだなと思った。
・解説でドストエフスキーの生涯を知り、この本ができた経緯を知れた。
・論理的思考が故に自己対峙すると危うくなるイワンの姿は哲学者そのものだなと感じた。
・上中巻は宗教的問いが多めだったけど、下巻は少なく感じた。が、人は信仰を捨てるとたちまち不安定になり、イワンみたいになるのかもとは思った。そのため信仰とは不安定なものでありながら、人の根底に根付いているもので完全に手放す事はできないのかもと思った。
・今回は小説として読んだけど、哲学書として読んだらまた違う感想を持つのかも。特に信仰がもたらす生活への直接的な影響は、もっと当時のロシア情勢を、キリスト教を深く学ばないと完璧には理解は出来なさそうだ。
Posted by ブクログ
神秘的な客の章が好きなのです。
あれこそ罪と罰なのだなと思った。
罪を犯したあとの苦しみで人はどうなるのか?
を書いている。
ぞっとするような、後悔の想いが自分を縛りつけて身動きができなくなってしまう。恐ろしいね。
Posted by ブクログ
盛りだくさんだな。
中盤以降になって、おや、これはミステリーでもあるな!と思い当たった。
スメルジャコフはクリスティの「カーテン」を思い出す。
もう少しドストエフスキーの作品を読んでみないとな。
Posted by ブクログ
カラマーゾフ家の悲劇。上・中・下巻からなる長めの小説だが、これでも本当は二部構成の内の第一部にすぎないらしい。
この第一部では、カラマーゾフ兄弟が長男のミーチャとその父フョードルの間の、ある女性を巡る争いに焦点が当てられている。
ミーチャは、この争いの最中に起きたフョードル殺害事件の被告人となってしまい、彼の無罪を主張する兄弟と1人の女性の努力虚しく、最終的には有罪となってしまう。
しかし、これではあまりにも雑すぎる。
この小説の醍醐味は、宗教や人生の価値観に対する哲学的な問いを読者にもたらしながら、事件をめぐるミステリー性や、兄弟が三男アリョーシャの純真さが世俗の人々を癒していく過程を楽しむことができると言う点で、純文学的な要素とエンタメ的な要素がうまく融合している点にあるのではないだろうか。
私がこの本の中から得た問いの中に、「どう生きるか」というものがある。
大雑把にいうと、不安と孤独を抱えながら真の「自由」に生きるか、良心や生活を外部に委ねて楽に「自由」に生きるかである。
イワンの話では、この二つの生き方しか人間世界には存在せず、それに絶望した彼はカラマーゾフ的な堕落しか、人生の最後に待ち受けるものはないと語った。
また、それに対し弟のアリョーシャは、その話の中でキリストも行っていた、接吻という形で人生に絶望した彼を無条件に受け入れ、許した。
(罪と罰でも言えたことだが(そしてミーハーな私はこの2作しかまともに読んでいない…)、愛はこの作品の中で、特別の地位を与えられているように感じられる。他の作品も読んでみないことにはわからないが、愛はドストエフスキーの作品の根幹を成すものなのかもしれない。)
大抵の人がそうだろうが、私はイワンのように真面目な人間でも、アリョーシャのように純粋な人間でもない。ミーチャのように素直な人間でもないし、フョードルほど貪欲なわけでもない。
このような人は、フョードルのように嫌われることも、ミーチャのように破滅することも、アリョーシャのように人々から好かれることも、イワンのように精神を病むこともないだろう。
つまり、当然の結果だが、私は彼らとは違う人間であり、対立を恐れなければ、違う生き方や価値観を選ぶ権利があるということだ。なので、元も子もないことを言うと、私はそもそもイワンの話に共感しかねている。
長くなってきたので簡潔にまとめると、私はそもそも、自己の人生に大きな価値を見出すこと自体が誤りであると感じている。これは命を神からの贈り物と考える、キリスト教的な価値観と対立しているように思われる。この時点で、真の「自由」に耐え難い不安や孤独を感じることもないし、楽な「自由」のために良心や生活を外部に委ねることもない。「まあ、なんとかなるさ。」と毎日をそれなりに生きていくことに、なんの疑問も感じないのだ。
もちろん、これは快楽に溺れることを意味するものではない。一日一日を大切に、それでいて謙虚に生きることを旨としているに過ぎない。
この生き方は、上の四人のどの価値観にも適合しないように私には思われる。
難解かつ退屈で、一般的に苦行とも呼ばれているカラマーゾフの兄弟を読んだ後に、このダラダラと長くて面白みのない感想をここまで読むような、酔狂で我慢強く、暇な人間はほとんどいないだろうが、公開記念がてら最後に一つだけ書き残す。
「君たちはどう生きるか」
Posted by ブクログ
初めて読んだドストエフスキー。ロシア文化や宗教、時代背景などはほとんど知らずに読んだので、よくわからない箇所もあったが、下巻はするすると読むことができ、面白かったです。
Posted by ブクログ
上・中・下巻足かけ約2ヶ月くらいけかてやっと読破。
上巻に1ヶ月くやい費やしたかも。
この緊急事態宣言が出たからこそ、読めたのかもしれない。
父親殺しがテーマだけど、宗教、恋愛、病、児童虐待、親子いろんなことがてんこ盛りの小説で、読むには読んだけど、ドフとエフスキーの言わんとしたことがどこまで理解できたかは疑問。
作者はアリョーシャが主人公としてるけど(続編が書かれる予定だったらしい)ドミトリー、イワン、アリョーシャそれぞれが主役だった。
結局、父を殺したのは藪の中でスメルジャコフなのか(多分そうであろう)ドミトリーなのか判然としない結末。
でも、ドミトリーはカテリーナが最後に裏切って出した手紙に今回の犯罪計画が(酔っ払って)書かれていたとして有罪になってしまう。
そのドミトリーの弁護士の言論が作者の考えと思えてしかたなかった。
サイドストーリースネリギョフとその息子のイリューシェチカ(病で死んでしまう)も興味深かった。
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好色で吝嗇、品性下劣なフョードル・カラマーゾフの下に生まれた3人の兄弟――激情的で心の弱いドミトーリイ(ミーチャ)、賢く冷笑的なイワン、純朴で信仰深いアリョーシャ。物語は、信仰の意味をめぐる問い――神がなければ、すべてが許され、人は何事をもなしうるのか?――を背景におきながら、ひとりの女性と金をめぐる父と子の対立から、殺人事件の発生と裁判劇に展開していく。
キリスト教が維持してきた規律を否定してしまったとき、社会はどうなるのか、人間の良心は耐えられるのか、とは、現代のわれわれから見ると、あまりに大上段すぎて的外れな問いに思えるけれど、当時の大変動の中にあったロシア社会においては深刻な問題だったのだろう。現代でいえば、グローバル化の波によって国民国家や地域社会が崩壊してしまったら、人は「自由」に耐えられるのか、それとも自ら宗教やナショナリズムの軛を求めるのか――という問いに匹敵するのではなかろうか。
特に、イワンが語る「大審問官」の寓話は普遍的な真実を突いていて、もっとも印象的な部分だ。現世によみがえったキリストに対し、異端審問で民衆を盲従させている大審問官が、人は自由の重みに耐えられはしない、人々にパンをあたえて自由を手放させてやるという重荷を担う少数者が必要なのだと論じる。これをキリストは黙って微笑みながら聞き、最後に大審問官にキスをするのだ。だがもしも「愛」をもって答えとすることをよしとしないのであれば、私たちは、耐えられない自由の重さという問題に、どのような答えを提出しうるのだろうか?
みなに尊敬されていたゾシマ長老の死体が、期待に反して腐臭を発したときに引き起こされる秩序の崩壊と悪意の噴出を描いたシーンも、恐ろしく衝撃的であり、その後の歴史の暗示にさえ見えてくるくらいだ。
宗教的要素が強く打ち出されているために、一見、現代においては関連性を失っているように見えて、時代の秩序の崩壊と人間の自由と倫理という、時代を超えて届く重みのある問いを差し出している小説と受けとめた。
ただ、これだけ魅力的なテーゼを提出していながら、物語全体に力強い一貫性が欠けているように見えるし、キャラクターも弱すぎるように感じる。アリョーシャは面白みのない善人にすぎないし、冷笑的に既存の秩序を否定してみせるイワンやスメルジャコフでさえ、良心の重みに耐えかねて自ら死に赴いてしまう脆さを露呈する。『悪霊』のスタヴローギンやペトルーシャほどの悪の魅力が感じられない。
結論からいえば、ドストエフスキーの小説の中で、これが最高の傑作とは、私には思えません。『悪霊』の方がずっといい小説だと思う。
もっとも、ひさしぶりにドストエフスキー読んで、人間観察の鋭さにはあらためて舌を巻きました。クズなふるまいをするために軽蔑されているフョードルが、だからこそもっとクズなふるまいに走る心理だとか、相手を愛してもいないくせに、傷つけられたプライドを愛と思いこんで突っ走るカテリーヴナとか。そしてもちろん、スメルジャコフの指摘に、はじめて自身の責任と怯懦とを自覚するイワンの衝撃。さまざまに魅力的要素をはらんだ小説であることには間違いないと思います。
Posted by ブクログ
ドストエフスキーの寿命が長ければ、この作品の続編があったという構想が遺されていたようです。悲惨な物語でなければ読みたかったですね。アリョーシャみたいな人はあなたの知り合いにいませんか?
ついに、この大作を読みました。
芥川賞作家の金原ひとみさんが、上巻を読むのに4ヶ月かかったとか
中巻の帯に書かれていました。最初はつまらない、と。
でも、僕は読んでみて、そんなことはなく、初めから面白く読めました。
これからどう物語が展開するんだ?という興味をひかれるんですよね。
俳優のきたろうさんの息子さんはこれを読むのに半年かかったとか
『ほぼ日』で読みましたが、僕みたいな「今、自由人」にさえ、
読むのに1ヶ月ちょっとかかったのだから、それくらいかかるものかもしれません。
面白かったですよ。著者がもしも死ぬことが無かったなら、
第2部もあったようなんで、それが読めないのが残念。
解説を読むと、小林秀雄さんが、第1部だけでも続きが考えられないほど完成されている
みたいなことをおっしゃったようで、未完というほど物足りなさは感じません。
ドミートリイ、イワン、アリョーシャという三人兄弟。
僕は誰に一番ちかいだろうかと考えてみましたが、イワンやアリョーシャほど、
頭が良くない。じゃ、消去法でドミートリイかということになります。
たしかに、僕の心の奥底にはドミートリイのような、放埓な部分があります。
小学4年生のころに、一つの上の学年ですが、神奈川から引っ越してきた
友人がいました。そのころの僕らには思いもつかなかったような、金遣いの荒さ、
活動的な遊び人気質に、価値観に大きな影響、それも破壊的な影響を与えられましたが、
そんな彼を思い出させる人物でした。そういう人っているんだよなぁ、と。
また、無神論など、神に対する考察とかいろいろな思想的な言い合いとかも
あるんですよね。犯罪について、真実を知ることの難しさなんかもある。
数年前に、東大の教授にアンケートをとって、学生に読ませたい本はなにか、
というのがありました。その第一位がこの『カラマーゾフの兄弟』でした。
歴史に残る大作、重要文学の一つですね。
じっくり読書をしたい人にはおすすめです。
Posted by ブクログ
読み終わるのに本当に4,5年かかった シンプルに長いよ 話が
・ゾシマが亡くなったあとのシーン、腐臭がし出して民衆が手のひら返して批判しだしたのめっちゃ印象に残ってる 人間を感じた
・子どもが苦しんだりそのことで親が悲しむシーンシンプルに胸糞悪い
・血を分けたから父親というわけではない 父親を父親たらしめるのはその役割を果たしてこそ
子どもに愛してもらえる理由もそこにある
というところ 共感する
・苦しいときには誰も手を差し伸べてくれなかったくせに、ことが起きたら有罪だと切り捨てるのはお前も罪があるだろみたいなところ ここもめちゃ共感するし、現代に通ずるものがあるよね
新たな加害者や被害者を出さないためにも社会ぐるみで、また個人単位でもでできることがあるはずよね この百年くらい人間は何をしていたんだ