あらすじ
父親殺しの嫌疑をかけられたドミートリイの裁判がはじまる。公判の進展をつうじて、ロシア社会の現実が明らかにされてゆくとともに、イワンの暗躍と、私生児スメルジャコフの登場によって、事件は意外な方向に発展し、緊迫のうちに結末を迎える。ドストエフスキーの没する直前まで書き続けられた本書は、有名な「大審問官」の章をはじめ、著者の世界観を集大成した巨編である。
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Posted by ブクログ
ついに読み切ることができました!読みたいなと思いつつもなかなか手が出ていなかったけれども、読めて良かった。充実した読書時間を過ごせたし、ドストエフスキーの他の作品も読んでみたくなった。私の読書の世界が広がりそうな予感がして嬉しい。
下巻では、庶民や大地を肯定するところが印象的だった。ノブレスオブリージュ的な考えだろうか。農奴解放後の混乱という当時の時代要請だろうか。ドストエフスキーのお父様の事件とのリンクだろうか。特に庶民の底力を見た気がするが、判決についてはもう少し説明が欲しかった。ここは読者が想像の翼を広げる余地を残してくれたのだろうか。
また、ミーチャが、自分の悪いところや滑稽なところを認めていき、最後はこれまで自分が裏切って、そして法廷では裏切られたカーチャとも和解するところも印象的だった。やはりミーチャの中には、心の奥底では誠実でありたいという願いがあったことをより強く印象付けられた。
加えて、検察と弁護人の演説はどちらもすごく面白く、ぐいぐい読み進められた。ただ、人の一生を左右する刑罰についてこんなにも印象論ベースで語られるのかと怖くなり、「疑わしきは罰せず」の重要性を感じた。
イワンとスメルジャコフについては、未必の故意という非常に面白いテーマについて取り上げられていて、なるほど未必の故意でこういう小説が出来上がるのか、と興味深く読んだ。でも、あのイワンの行動でスメルジャコフにゴーサインを出したと意図に反して解釈されるというのは、悲し過ぎる。
Posted by ブクログ
酷い親を持った子の思想形成のパターン、として読んだ。
何を拠り所に生きていくか。
ドミートリーは純粋さと情熱、イワンは知性と思想、アリョーシャは敬虔さと素直さ、スメルジャコフは狡さ。
最後のアリョーシャの演説でふと涙が出てしまった。
「いいですか、これからの人生にとって何かすばらしい思い出、それも特に子供のころ、親の家にいるころに作られたすばらしい思い出以上に、尊く、力強く、健康で、ためになるものは何一つないのです。君たちは教育に関していろいろ話してもらうでしょうが、少年時代から大切に保たれた、何かそういう美しい神聖な思い出こそ、おそらく、最良の教育にほかならないのです。そういう思い出をたくさん集めて人生を作りあげるなら、その人はその後一生、救われるでしょう。そして、たった一つしかすばらしい思い出が心に残らなかったとしても、それがいつの日か僕たちの救いに役立ちうるのです。」(p653)
Posted by ブクログ
書きたいことが山ほどあるので忘れないうちに箇条書きで残すことにする✒︎
・下巻の裁判のシーン、めちゃくちゃ面白かった。長々と書かれているけどスラスラと文字が入ってきて不思議に思うくらい。
・今の時代だったら杵の指紋から犯人を特定する形になるんだろうけど、まだ証拠を証拠として扱えない時代...。こういう結末を迎えた事件も多かったんだろうな。
・この長さになるとつい上巻の内容を忘れがちなんだけど、中下巻にもちゃんと全て関わってきていて感嘆した。マジでどうやって書いたんだろう。
・ミーチャの罪が確定するところや、無罪であっても有罪であっても罪を受け入れるシーン、各個人の良心の呵責を見ると、本質は《罪と罰》で描かれていたものと同じだなと思った。
・解説でドストエフスキーの生涯を知り、この本ができた経緯を知れた。
・論理的思考が故に自己対峙すると危うくなるイワンの姿は哲学者そのものだなと感じた。
・上中巻は宗教的問いが多めだったけど、下巻は少なく感じた。が、人は信仰を捨てるとたちまち不安定になり、イワンみたいになるのかもとは思った。そのため信仰とは不安定なものでありながら、人の根底に根付いているもので完全に手放す事はできないのかもと思った。
・今回は小説として読んだけど、哲学書として読んだらまた違う感想を持つのかも。特に信仰がもたらす生活への直接的な影響は、もっと当時のロシア情勢を、キリスト教を深く学ばないと完璧には理解は出来なさそうだ。
Posted by ブクログ
カラマーゾフ家の悲劇。上・中・下巻からなる長めの小説だが、これでも本当は二部構成の内の第一部にすぎないらしい。
この第一部では、カラマーゾフ兄弟が長男のミーチャとその父フョードルの間の、ある女性を巡る争いに焦点が当てられている。
ミーチャは、この争いの最中に起きたフョードル殺害事件の被告人となってしまい、彼の無罪を主張する兄弟と1人の女性の努力虚しく、最終的には有罪となってしまう。
しかし、これではあまりにも雑すぎる。
この小説の醍醐味は、宗教や人生の価値観に対する哲学的な問いを読者にもたらしながら、事件をめぐるミステリー性や、兄弟が三男アリョーシャの純真さが世俗の人々を癒していく過程を楽しむことができると言う点で、純文学的な要素とエンタメ的な要素がうまく融合している点にあるのではないだろうか。
私がこの本の中から得た問いの中に、「どう生きるか」というものがある。
大雑把にいうと、不安と孤独を抱えながら真の「自由」に生きるか、良心や生活を外部に委ねて楽に「自由」に生きるかである。
イワンの話では、この二つの生き方しか人間世界には存在せず、それに絶望した彼はカラマーゾフ的な堕落しか、人生の最後に待ち受けるものはないと語った。
また、それに対し弟のアリョーシャは、その話の中でキリストも行っていた、接吻という形で人生に絶望した彼を無条件に受け入れ、許した。
(罪と罰でも言えたことだが(そしてミーハーな私はこの2作しかまともに読んでいない…)、愛はこの作品の中で、特別の地位を与えられているように感じられる。他の作品も読んでみないことにはわからないが、愛はドストエフスキーの作品の根幹を成すものなのかもしれない。)
大抵の人がそうだろうが、私はイワンのように真面目な人間でも、アリョーシャのように純粋な人間でもない。ミーチャのように素直な人間でもないし、フョードルほど貪欲なわけでもない。
このような人は、フョードルのように嫌われることも、ミーチャのように破滅することも、アリョーシャのように人々から好かれることも、イワンのように精神を病むこともないだろう。
つまり、当然の結果だが、私は彼らとは違う人間であり、対立を恐れなければ、違う生き方や価値観を選ぶ権利があるということだ。なので、元も子もないことを言うと、私はそもそもイワンの話に共感しかねている。
長くなってきたので簡潔にまとめると、私はそもそも、自己の人生に大きな価値を見出すこと自体が誤りであると感じている。これは命を神からの贈り物と考える、キリスト教的な価値観と対立しているように思われる。この時点で、真の「自由」に耐え難い不安や孤独を感じることもないし、楽な「自由」のために良心や生活を外部に委ねることもない。「まあ、なんとかなるさ。」と毎日をそれなりに生きていくことに、なんの疑問も感じないのだ。
もちろん、これは快楽に溺れることを意味するものではない。一日一日を大切に、それでいて謙虚に生きることを旨としているに過ぎない。
この生き方は、上の四人のどの価値観にも適合しないように私には思われる。
難解かつ退屈で、一般的に苦行とも呼ばれているカラマーゾフの兄弟を読んだ後に、このダラダラと長くて面白みのない感想をここまで読むような、酔狂で我慢強く、暇な人間はほとんどいないだろうが、公開記念がてら最後に一つだけ書き残す。
「君たちはどう生きるか」
Posted by ブクログ
読み終わるのに本当に4,5年かかった シンプルに長いよ 話が
・ゾシマが亡くなったあとのシーン、腐臭がし出して民衆が手のひら返して批判しだしたのめっちゃ印象に残ってる 人間を感じた
・子どもが苦しんだりそのことで親が悲しむシーンシンプルに胸糞悪い
・血を分けたから父親というわけではない 父親を父親たらしめるのはその役割を果たしてこそ
子どもに愛してもらえる理由もそこにある
というところ 共感する
・苦しいときには誰も手を差し伸べてくれなかったくせに、ことが起きたら有罪だと切り捨てるのはお前も罪があるだろみたいなところ ここもめちゃ共感するし、現代に通ずるものがあるよね
新たな加害者や被害者を出さないためにも社会ぐるみで、また個人単位でもでできることがあるはずよね この百年くらい人間は何をしていたんだ