あらすじ
ドストエフスキーは、組織の結束を図るため転向者を殺害した“ネチャーエフ事件”を素材に、組織を背後で動かす悪魔的超人スタヴローギンを創造した。悪徳と虚無の中にしか生きられずついには自ら命を絶つスタヴローギンは、世界文学が生んだ最も深刻な人間像であり“ロシア的”なものの悲劇性を結晶させた本書は、ドストエフスキーの思想的文学的探求の頂点に位置する大作である。
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大学卒業後は会社に勤めたが、在職1年で「勤務はじゃがいものように飽きあきしました」と語ったドストエフスキーの長編小説。何回も構想を書き直し、史実の事件をもとに構想を練ったこともあった。「成功したいという思いが全く無ければ、生きようとも欲さなくなるかもしれない」ことに気付かされた。「悪霊がいるなら神もいる」という意味で、信仰を語ることへの抵抗を取り除いてくれる一書。
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11/10
“生なる者たちの、愛の所有は偽りなり。しかし死して真実にかす。”
神が宙吊りにされた社会に、解き放たれた悪霊たちが合唱する物語である….
革命的思想という名の「正義」に偽装された悪霊に取り憑かれた、知識と強欲の白痴たち。ドストエフスキーが映し出すのは、人類とロシアの終曲であり、悲劇の極みである。第一部、第二部で積み重ねられたもの。いや、むしろ最初から計画されていたのかもしれない。それがすべて第三部で解き放たれる。用済みになれば即座に死ぬ。人々が次々と消えていくその様は、究極のカタストロフィだ。そして、それぞれの人物には自分なりの愛があり、崩壊がある。
だがその愛は饒舌的で偽りに見える。それでいて崩壊はカタストロフィ敵でで奇しくも真実なのだ。これが真理であると僕は思う。
「スタヴローギンの告白」には、『悪霊』の根源的な土台が潜んでいる。スタヴローギンの破壊的衝動と倫理の崩壊は、読者を強烈に魅了する。ニコライは神を殺した悪魔のように見え、やがてチホン神父すらも悪魔的な存在へと映ってくる。
「また罪を犯す。」
この一言に伏線的な予言が凝縮されており、作品全体を照らす輝きを放っている。
僕が最も好きな一節は、「人間が不幸なのは、自分が幸福であることを知らないからだ。」
スタヴローギン。彼はアリョーシャ・カラマーゾフに近いのかもしれない…
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下巻では、シュピグーリン工場の連中が起こした火事を契機に、物語が一気に加速する。
ピョートルを中心とする《五人組》と呼ばれる組織がロシアの転覆を企てている。
それを背後で動かしているのはスタヴローギンなのか?
その人間像は僕には最後までわからなかったが、彼が自殺したときの衝撃は忘れないだろうと思う。
『カラマーゾフの兄弟』よりもはるかに重く、難解な小説である。
「リャムシンさん、お願いだからやめてください、あなたががんがんやるものだから、何も聞きとれやしない」びっこの教師が言った
…
リャムシンが席を蹴った。「だいたいもう弾きたくなんかない!私はお客に来たので、ピアノをぼんぼんやりに来たんじゃありませんからね!」
(下巻115ページ)
ここおもしろいです。
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スタヴローギンなしには、物語の精彩を欠いていただろう。そこに精神のもがきがあるからだ。あとは俗悪で、または、単に俗っぽさがあるのみだ。ステパンの最後の独白も良かった。良心があった。別立てにされたスタヴローギンの告白はやはり本編に含めるべきだろう。でないと、最後の彼の自殺が物語の救いにならなくなる。色々なことが明晰になるし、チホンとの対話が抜き差しならず、スタヴローギン性がより深みを増すからだ。あとは火事場の描写が迫真だった。
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上巻で詰みそうになったけれど踏ん張って読んでよかった。下巻に入ってからは面白くて面白くて一気読みだった。最も印象に残ったのはキリーロフだった。
いろいろと考えあぐねているし、これからも年単位で考え続けることになりそう…
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非難する術を持たぬ子どもの無意識の威嚇、愚かしくて痛ましいほどの無防備な絶望の姿。それは確かにこの世に数少ない、まるで心臓に釘を刺すように胸を打つものである。それがスタヴローギンの感じた(自分では感知できない)唯一の良心の在り処だったのかもしれない。
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ピョートルとキリーロフが対決し、両者の関係は修復不可能になる。主人公とされるスタヴローギンは最後まで影が薄くて五人組を裏で動かす大悪党として映ってこない。本筋に関わらないのに何故こんなにステパンが登場するのか?いつ果てるともつかない夜の営みのような、モヤモヤ感がいつまでも続いた後の突然の火事や暗殺のシーンは生々しい。ピョートルが啓示を与え悪事を働いたモノどもは逮捕されるが、一人ピョートルだけが国外逃亡する。何故こんな奴に大の大人が掌中の駒として操られるのか、隷従するのか、現代でもそういうことは起こり得る。
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「完全な無神論でさえ、世俗的な無関心よりましなのです」雑誌連載時にはその内容ゆえに掲載を見送られた「スタヴローギンの告白」内で用いられる、上記の言葉が個人的ハイライト。そう、無神論というのは「絶対的な神が存在する場所に、絶対に何も置こうとしない」という思想を信仰する、一つの宗教的態度である。宗教に無関心な人にでも、星に祈りたくなる夜は来る。あなたが好きなものを語る時、それは一つの信仰告白が行われているということなのだ。それでも僕らは何かを信じずにはいられない、人は真に堕ちきるには弱すぎる存在なのだから。
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ドストエフスキーのなかでも、なぜだか今まで読むことをためらっていた一つ。(タイトルがタイトルだからでしょうか)
しかしながら、そうしておいて良かったように思える。
高校生ぐらいの自分が、スタブローギンに出会ってしまっていたら、完全にハマってしまっていたでしょうよ、恐ろしいことに。
非常に魅力的な作品。
10年ぐらいしたら、もう一度読もうと思って、傍線をいくつも引いておいた。。。
そういえば、大江健三郎氏の作品で、この悪霊が根柢のトーンとなっているものがありますので、ご興味ある方はどうぞ。
キリーロフがシャートフに”永久調和の訪れ”を告白するシーンは、大江氏の『洪水は我が魂に及び』の「すべてよし!」のベースであるでしょうし、あるいは『燃え上がる緑の木』のギー兄さんがメープルの木を見て「一瞬より長く続く時間」と語る部分のベースとなっているように思えます。
後者は、キリーロフがスタブローギンに対して「一枚の朽ちかけた黄色い木の葉が舞うのを見てすばらしいと思う、そして目を閉じる」と語っているシーンそのものといってもいいような告白シーンが登場します。
Posted by ブクログ
こんなに好きな作品にめぐりあったことに感謝してます・・・。
人によってはこれ以上ないというほどハマれる作品ではないでしょうか。
ドストエフスキー独特の思想がこれでもかというほど盛り込まれてて、謎もあふれかえるほど出てきます。
主人公のスタヴローギンのように考えて考えて苦しみ続けたい人にオススメ!
Posted by ブクログ
やはり世紀の傑作と呼ぶに相応しい作品であることは間違いない。
とりわけ下巻に関しては、上巻では恐怖の対象でしかなく、
もはや完璧と思われていたスタヴローギンやピョートルといった
革命的思想をもった若者たちの化けの皮が剥がれるかのごとく、
ある意味、誰よりも人間味というものが垣間見えた気がした。
その中でも物語が佳境を迎える舞踏会の混乱から放火事件への流れは、
完璧に組み立てられた構成に変な話しだが美しくもさえ感じてしまった。
全てにおいてドストエフスキーの描く人間模様というものは
現代においても決して色褪せることなく、通ずるものがある。
それはスタヴローギンが選んだ結末においてもだ。
巻末に収録されている本編からは当時はじき飛ばされてしまった
いわくつきの「スタヴローギンの告白」の章。
これを読んだ時、ドストエフスキーの生みだしたスタヴローギンという男に
心の底からの恐怖を抱いたのは言うまでもない。
Posted by ブクログ
ドストエフスキーといったら、やっぱり衝撃作「罪と罰」?名作中の名作「カラマーゾフの兄弟」?もちろんそれらは外せないけど、この「悪霊」も彼の思想がぎっしり詰まった必読書です。
Posted by ブクログ
「革命運動の誹謗書」という本書に対する評価が、ロシアでは根強いようです。
確かに同じ感想を持ちました。左翼革命が結局のところ帰結するところになるおぞましさを見た感があります。「ソ連とは壮大な実験の失敗ではなかったか」という教科書の一文を思い出しました。
ただこれが革命誹謗のみを目的とした書であるとは思えません。
残念ながら自分の読解ではこの感想に至り得ませんでしたが、「ロシア的なものの悲劇性(=スタヴローギン)」を結晶させた、という裏表紙の説明がしっくりきているように思われます。
己のあらゆる点における底の浅さ自覚し、自殺したスタヴローギン。ウォッカがないとロシア人はみんなこうなってしまうのではないか、漠然と思いました。
本作品はドストエフスキー作品の中でも難解だと言われています。
もう一度、読み直したいです。
Posted by ブクログ
禍々しい表紙とは裏腹に、滑稽な描写が目立った上巻。しかし、下巻も中盤以降に入ると、じわりじわりとその禍々しさが露見してくる。表紙に内容が追いついた、とでも言えようか。
本編を読んだ段階では、『悪霊』と形容できる具体的人物はスタヴローギンではなくピョートルであるように感じた。上巻のおしゃべりはどこへやら、極悪非道の限りを尽くすピョートルに、あるいは魅せられる人もいるのではないだろうか、と思うくらいだ。事実、巻末解説によると、元来は主人公はピョートルであり、ドストエフスキーはその設定で700枚以上の原稿を書いていたらしい。
ここで注を入れておくと、物語冒頭で引用されている聖書の中の、悪霊に取り付かれた豚が次々と自ら溺死していくと言うエピソードと、革命、共産主義、無神論に取り付かれたロシア人たちが次々と破滅していくと言うこの物語は呼応しており、悪霊とは特定の人をさすわけではなく、これら共産主義や無神論を指しているものであるらしい。
いずれにしても、人間があたかも悪霊に取り付かれた豚さながらに次々と滅亡していく様にはある種の爽快感すら感じさせる何物かがある。また、物語終盤で展開されるキリーロフの人神思想は、必読とされるスタヴローギンの告白に勝るとも劣らないすさまじさで、読んでいて恍惚感のような、人間を超えた何かとでもいえるような、異質なものを感じたことを記しておきたい。
下巻は面白い、とよく言われる本書だが、すぐに面白くなってくれるわけではないのでご注意を。話がスリリングになるのは第三部に入ってからである。第二部の残りは、そこで挫折することがないように、自分のペースで読むのが望ましい。
さて、『スタヴローギンの告白』を読み終えた。まず感じるのはその異質な読後感だ。殆ど全ての本は、読み終え次第、開放感や爽快感、そして達成感を得られるものであるが、ことこの本においては違ったわけだ。
そもそも『悪霊』と言うタイトルの本からいい読後感を得ようとすること自体が間違っているのかもしれない。得られた読後感は、個人的には『カラマーゾフの兄弟』以上の謎と、「1度では殆ど理解できていないだろう。せめて『告白』だけは再読しなければ」と言う気持ちだった。ゆえに消化不良の感が否めないが、これは本のせいではなく僕の読書力のなさのせいだろう。
星は上巻下巻ともに4つとなったが、詳細に述べると上巻は星3.5、下巻は星4.5と言ったところだ。…と、『告白』を読む前は考えていたのだが、『告白』のあまりの密度の高さに、星5つを進呈せざるを得なくなってしまった。
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様々な人物達の想いや情動の織りなしして繰り広げられる壮大な物語である。同じような行為を行う他の同志とは一体化できない孤独さをもった怪物、ニコライ・スタヴォーギンの哀しみ、そして最後の自決シーンが、とても印象に残った。 2008.8.4-7.
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ちょっと深過ぎる。追いつきたいのと追いつきたくないのと気持ちが揺れる。圧倒的な何かにまったくもって人生観を変えられてしまう気がしてそれでいいのかどうかも分からぬまま見たくないものに覆いをかけるような日々が残された。
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悪霊 (下巻)
(和書)2009年09月15日 15:52
1971 新潮社 ドストエフスキー, 江川 卓
なかなか興味深い内容でとても参考になりました。
ドストエフスキーの作品を再読してみたいなーと最近思っています。他にも彼の作品をどんどん読んでいきたい。
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物語自体が壮大で複雑だし、ロシア文学特有のとっつきにくさ台詞回しのくどさもあって読みにくいとか冗長とか言う人もいるかもしれないけど、一旦引き込まれると、いっきにのめり込んでしまって、むしろ冗長さと思われたひとつひとつ、台詞回しや登場人物の思考の振れ幅なんかも面白いと感じられました。
ストーリーラインでいうと、風呂敷の広げ方秀逸で、例えば第一部では、ステパン婚約をきっかけに展開が加速していって、スタヴローギンの秘密や人間関係などの伏線が散りばめられつつ、“日曜日”に収束していって、ご本人登場!みたいな展開は、読んでいてとても盛り上がったし、同時につづく章での核心に繋がるヒントや前触れも小出しされていってどんどん引き込まれていきました。
また、テーマ自体も重厚で(自分はかなり不勉強ですが)、農奴解放令以後の様々な思想や価値観が混沌とした激動の時代の中における、無神論やニヒリズムや革命思想、それを抱く人物たちの狂気、、苦悩、、きれらを書き表現できる作者の偉大さ驚愕しました。
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ちょっと前に「白痴」も読んだが、ドストエフスキーって長編作家として欠点有り過ぎだと思う。
海堂尊さんは同日に同時並行に起こる事件をデビュー作として書いたが、編集者の助言で「チームバチスタ」「ナイチンゲール」の2作に書き直したという。僕が編集者だったら、この作品をステバン氏、ピョートル、ニコライが主人公の3作に書き直させるな。
終盤のステバン氏の再登場。ロシアの大衆を愛すると云いつつ、世間知らずで、まったく大衆を知らない。知と美に殉じ、変な拘りで自分を追い込んでいく。しかし、ドストエフスキーは愛情をもって、このピエロ的人物を描いている。
その息子、ピョートルは頭に穴が開いたよう軽薄な人間。その仲間たちの中で披露されるシガリョフの説は、平等を齎すため人々を原始的な天真爛漫な家畜に作り替えるべきという。まるで毛沢東やポル・ポトを予言しているようだ。ピョートル以下の破壊分子達はロシアの改革に理想を見ていない。ただ、破壊を目指している。
平然と転向者の汚名を着せた人間を殺害し、その罪を自殺願望者に押し付けるピョートルは人間的な感情を失っている。
最後に未完の稿として収録されたニコライ・スタヴローギンの告白がなかったら、彼は単なる奇妙な登場人物であったろう。人々を、女性を、陰謀家のピョートルまで惹きつける魅力のある人間なのに、周囲を破滅させ、平然と罪を犯す。何故こんな人間が出来上がったのかと考えれば、高等遊民でロシアの地に根を張らないデラシネであったこと。そして、やはり当時の無神論の所為だと思う。
チホンとの対話の中で黙示録が引用されて、「白痴」にも黙示録を購読する無神論者が登場していたことを思い出す。しかし、僕はロシア正教にも黙示録にも不案内なので、首を捻るばかり。社会主義が神への信仰の問題と語られるのは日本人には理解しがたいと思う。
ピョートルが知事夫人に取り入って、大イベントの裏で陰謀をめぐらす茶番劇はあまり感心しなかった。
この顛末は、頭が悪く立場をわきまえない首相夫人が、かなり低能なペテン師にいい様に乗せられていたことを想い出させた。本当、くだらない茶番だ。
カバーの裏表紙に「組織を背後から動かす悪魔的超人スタヴローギン」とある。
新潮文庫とあろうものが、何だ、この出鱈目は。
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備忘まで感じたこと、気付いたこと。1.悪霊の書かれた時代の人々が、この時こそ世紀末的な時代であり、我々はその中で生きていると感じていること。これは著者のドストエフスキーも時代の世紀末性を感じていたに違いない。どの時代も世紀末であるという意識なく、人は生きられないのではないか。2.皆の恐れる悪とは蓋を開ければ陳腐なものであるということ、3.物事は如何ともし難く、コントロールできなくなる瞬間が訪れるということ。これは全くの気紛れで、何が導火線となり何処まで広がるのか誰にも予想ができないものである。
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間延びした前半と比べて、後編の緊密性。
ニコライは最後まで自分には理解できなかった。
ピュートルは予想の範囲に収まる感じ。
スティバン先生の最期の下りは良かった。
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知る、ということは、その何かを知らなかったということを意味します。
ここまでの仕事を、彼がいなかったら、他の誰かがやってのけたのでしょうか?フィクションでありながら、どこまでもドキュメンタリーに近く、時代・思潮を描き出しているなあと。
現代日本人然とした考え方だと、神や政治でやれピストル、やれ首吊り…に至る理由も、メンタリティも理解しがたいのですが、それは書かれた土地と時代に因るもの。あたりまえか。
しかし、この読後の疲労感たるや…
Posted by ブクログ
いわゆる、ドストエフスキーの五大長編と呼ばれている小説の中で、
僕が読む一番最後の作品がこの『悪霊』でした。
最初に『罪と罰』を読んで、つづいて『白痴』、『未成年』、『カラマーゾフの兄弟』と
読んでいったのでした。
けっこう、読んだ作品の間の期間が長いのですが、
読むたびに深く作品に入り込めていけているような気がしています。
『罪と罰』よりも『白痴』のほうが作品の理解度が高くなった、というような気がする。
それだけ、ドストエフスキーになれてくるのでしょうね、そのうち何年かして再読したら
もっとよく読めそうな気もします。
こんなことを書いていると、読んだことのない人は、きっと難解なのだろうと
推測してしまうと思うのですが、ドストエフスキーの場合は、
その重厚感に疲れる手合いの小説でしょうか。
たしかに、意味が取れない難しい思想を披瀝する会話文などが出ては来るのですが、
大体においては、やさしい文章が積み重なって、物語の多義性というか、多角的なスケッチの仕方というか、
伏線をたくさんこしらえ、それらが本流に合流していくという形がとられているんじゃないでしょうか。
そして、キャラクターの性格の、文章中での構築の仕方も、無駄がないように思います。
かといって、文章も構成もカツカツしていないですね。
非常にゆとりをもちながらも、そんなあれやこれやを包括してしまう才能を
ドストエフスキーは持っていて、きちんと作品を完結させます。
まぁ、カツカツしていない、きゅうきゅうとしていない、といって、何と比べてそうなのかって話になりますが、
現代の小説と比べてになるのかなぁ。それだけ、五大長編は1作品で2冊とか3冊とかで編まれていますから、
分量のせいでそう感じるのかもしれません。
また、ドストエフスキーの作品は現代の予言書とも形容されることがあるらしいです。
すなわち、いたって現代的なテーマを取り扱っていて、現代的に出来ている。
19世紀の世から彼の作品をリアルタイムに見ていた人々は、
随分新しいものだ、と捉えていたのかなぁとも思います。
しかし、その現代的である彼の小説の背景、つまり産業革命は起こっていても、
まだ近代化していない時代という、なにかそこのところが大時代的と言っても良いようなゆとりを
もたらしていて、カツカツとしていない要素をちょっと感じさせるんじゃないのかなと思うのです。
とはいえ、混沌期の不安定感はありますが。
『悪霊』について言えば、道化が何人か出てきますし、またこれがうまく書かれていて、ドストエフスキーの
性格の悪さというかユーモアを感じさせずにはいられませんでした。
そして、1300ページくらいある中で、最後の300ページくらいは目を離せない展開なのですが、
それまでの前置きとでもいえる部分には読むのに忍耐が必要でした。
それは僕の読解力や想像力が至らないだとか、本当の読書好きじゃないだとか理由は出てきます。
だけれど、普通の本好きとしては、やや読むのが面倒くさいです。
さて、その最後の300ページですが、その展開とそれまでの流れからくる計算を考えてみると、
ドストエフスキーは本当に酸いも甘いも噛み分けた、
悪党であり識者であり才人であり愚か者だなぁという感想を持ちました。
愚か者だっていうのは、小説に出てくる愚かな人物にすごく血が通っているから
これは彼の分身じゃないのかと思うせいもありますし、
登場人物を苦しめすぎだという気もするからです。
ただ、後者の、登場人物を苦しめすぎだ、という感想は的外れなのはわかっています。
そうでもしないと、表現できないことというのがあるからですよね。
それにしても、主人公のニコライ・スタヴローギンはどれだけイケメンだったんだろう。
これだけの色男で悪漢っていうのはなかなかいませんよね、創作の中の男だとしても。
逆に、ファム・ファタールなんて呼ばれる、魔性の女はわんさかいませんか。
女ってやつぁ…。そしてそれにひっかかる男ってやつぁ…。
ん。なんで、魔性の女にひっかかる男っていうのはちょっと哀れだけど愚かな感じがして、
スタヴローギンにひっかかる女はすごく哀れで可哀相なんだろう。
女ってものの一途さがそう感じさせるんですかねぇ。
この作品のテーマの一つに、無神論がありますが、
現代ではそれが当たり前になってしまいました。
とくに、日本では、ほぼ無神論だったりしないでしょうか。
19世紀のロシアでは、無神論の世界こそ退廃であり終わりであるみたいな
捉え方をしているところがありますが、
それだけ、人間という存在は神様抜きでは暴走して破滅するであろうことを
自覚しているといえるでしょう。
はたして、現代の無神論の世で、神様の代わりに秩序を繋ぎとめられる存在というのは、
なんなんでしょうね。法律、愛。ぱっと思いつくのはそういうところかな。
そういえば、人間の脳には電気で刺激すると神様を思い浮かべる部位があるそうです。
神様を信じたり、その存在を考えたり、祈ったり、そういう行為は遺伝子にすら記載され
設計されているものなんですかね。
人間の人格の安定のためには、神様が必要なのかもしれない。
Posted by ブクログ
世の中には偉大なる失敗作という作品がごく稀に存在しているのだけど、この悪霊は個人的にそんな偉大な失敗作に連なる作品という風に受け取った。
勝手な推測になるが伝えきれなかった主張が相当あるのではないかと思う。
ドストエフスキー長編の特徴として人間関係が複雑さが挙げられるのだが、この悪霊は中でも複雑。
とにかく登場人物が多く、相関関係もつかみ切ることは難しかった。
そのせいか描写しきれていなようにも感じだ。
それでいて相変わらず行動原理がやや突飛(それをロシア的と無理に解釈することにはしているのだが・・・)。
確かにスタヴローギンはドストエフスキー文学において最も魅力的な男性であることは認めるが、自殺に至るまでがどうも弱いような気がしてならない。
何より登場したページが少なすぎ(笑)。
また有名な告白もその主張云々以前に話を聞く坊さんが何者であるとか伏線めいたものも足りなかったと思う(カラマーゾフのゾシマ長老と比べると突如現れた感は否めない)。
ステパン氏の描写は1~2部でこれでもかと書いているだけに不満は残る。
ただ描写が少なくして謎めいた魅力を醸し出すことに成功していると見る向きもあろうと思う。
またこの小説の鍵になろう無神論的テーマにもそれほど深みはないような気がした。
これはある哲学者の「今となってはドストエフスキーの思想は浅いものとなり読む気がしない」という意見を読んだことと、この小説にインスパイヤされて書いたとされる埴谷雄高「死霊」を先に読んでいる影響がかなり大きいせいだろう。
死霊の元ネタということで神学的な問答が繰り広げられるかと思いきや、それほどでもなく、こと前半部に関してはキリーロフが多少頑張っていたかなというくらいで拍子抜けしたというのが正直な本音。
そのためキリーロフが後半に本領を発揮し始めてからはその面白みを感じるようにはなった。
また上巻は冗長で小説としてのバランスが悪いという評価もなるほど納得した。
この小説は何かと議論されてきたようだけど、それはやはり偉大なる失敗作であるが故に描き切れなかった謎が多くあるからではなかろうか。
それとここまで様々な作品を読んできて言うのもどうかとは思うが、個人的にドストエフスキーのキリスト教主義は好きになれないでいた。
それゆえこの小説に期待するものを大きかったのだが、大審問官を読めばそれで充分かもしれない。
同じキリスト系作家であるならば遠藤周作の方がバランス取れているような。
やはり古典は咀嚼するのが難しく、ある程度の割り切りは必要だなといつも己の読解力を差し置いて痛感するのだ。
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出版社により削除された章「スタヴローギンの告白」が巻末に掲載されたことで、主人公の真意がようやく明らかに。存在感の薄かった主人公の姿が浮き彫りになり、作者が本当に書きたかった意図がここにあることを痛感させられます。
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初見では驚くくらいに内容が頭に入ってこない。登場人物の名前がわかりにくい、人間関係が複雑、歴史背景がよくわからないなど、なかなかの難易度。でもなぜか読み進めたくなる怪しさがある。
Posted by ブクログ
物心ついたころにはソ連は崩壊していたから、大人たちが「ロシアは何を考えているかわからない、怖い」というのを古い価値観に囚われてるのではと思って育っていた。今ウクライナの戦争を受けて、その感覚がわかってしまった。ロシアの文化に触れれば少しその思考がわかるかなと思って最近ロシアの文学を意識的に手に取っている。そして本書は、今の状況に重ねようとすれば重ねられてしまう要素を孕むだけに、本当に破滅に向かってるのではないか、と不安になった。登場人物の多くの思考回路がわからないのは私が未熟だからか、それとも。。
Posted by ブクログ
重い。上巻からだったが、悪いこと不安な事悩ましい事しか起こらない。下巻折り返しで、怒涛の不幸&不運のジェットコースターが始まる。不幸と不運と悩みが登場人物の数だけ有って、それが全部混ざって、後味の悪い暗澹な結果となってしまった。本当に誰も救われない話だった。重い。
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初ドストエフスキーで,たまたま以前何かの講義で「悪霊」の話が出てきていたので読んでみた。
なんかとてつもなく深いな,ということは感じられた。前半~中盤はまったりとした流れで,登場人物の名前が覚えられず苦労した。本の最初に登場人物一覧みたいなのがあればよいのにと思った。
中盤以降は差し迫った場面が増えてどんどん読み進められたが,如何せん個々の登場人物のことをよく理解できていないためか,それで何なのか?という感じだった。
総じて,書かれた当時のロシアについての背景知識がないと本質的な部分は分からないのかな,と思う。そういう意味では,ロシアに興味を持ったし,またいずれこの深そうな作品に挑戦してちゃんと読み込みたいとも思う。
あと翻訳のせいか,文章として普通に飲み込むには頭の中で一種の線形変換みたいな処理を働かせることになり,結構疲れるように思う。