あらすじ
民主主義的理想を掲げたえず軽薄な言動をとっては弁明し、結果として残酷な事態を招来しながら、誰にも憎まれない青年アリョーシャと、傷つきやすい清純な娘ナターシャの悲恋を中心に、農奴解放を迎え本格的なブルジョア社会へ移行しようとしていたロシアの混乱の時代における虐げられた人びとの姿を描く。
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Posted by ブクログ
私個人の感想ですがこの作品は一言で言えば、「歯がゆい!」に尽きます。 典型的な「いい人」、主人公のワーニャが幼馴染で才色兼備のナターシャに恋をしています。しかしナターシャはあろうことか典型的なダメ男に恋をし、家族まで捨てて破滅にまっしぐら。 ワーニャはそんなナターシャを見捨てられず、あれやこれやと世話をしたり、恋敵との取り持ちまでさせられる始末。 「いい人」の悲哀がこれでもかと描かれています。
Posted by ブクログ
何が好きかって、彼の作品のキャラは作者に踊らされていない
それぞれの人の欲望や信念が丁寧に描かれている
天才なんだなと思う。
何故、女性の機微をここまで理解出来るのだろうか
彼は時々、熱病そのものだったのではないかと勘繰ってしまう
そしてドストエフスキーの作品における
純粋無垢が故の悪漢
中々に気持ちが悪い
こういった気持ちの悪い人間が幾重にも重なるのだが
作品にメッセージがあるなら、幸せの所在は
狂ったかのような熱病や情動に動かされるのではなく
今ある幸せを軽視する事なく見つめ直せと
喝破されているようだ
個人的に好きなのが伯爵と主人公が対峙して露悪的な心情を吐露するシーン
伯爵が金への執着について語っていたが
これは極めて大事な事だ
理想主義に卑賎を絡めると単に自分に酔いたいだけのナルシズムが混入する
真の理想主義者とは、お金と理想双方追い続け現実世界に折り合いをつける者の事だろう
ドストエフスキーの作品を読むといつだって
自分が大切な人に幸せを届けたくなる
明日が悪い事を知っていても
どうせ自分に出来る事など、生きてやるべき事をやる事しかないのだ
そんな生きる事の苦痛と幸せを噛み締めよう
虐げられる事を止めるのではなく、そういった人のトラウマを克服させ背中を支える
いつだってそうありたいものだ
Posted by ブクログ
軽薄純情な青年アリョーシャと清純ヒステリックなナターシャの恋物語を中心とした人間ドラマ。冒頭から出てくる老人と犬(アゾルカ)がけっこう重要な役回りだったり、ネリーの意外な素性だったりと構成が巧みなように思う。語り手がドストエフスキー的な人物(デビュー作は当たってその後はうまくいっていない状態)というのも面白い。
人間に対する観察力というか洞察力が深いのか虐げる側と虐げられる側はあっても単純な善悪の話はない。公爵の考え方(ゲスなところはあるが)も現代人には同調できる面もあるのではあるまいか。どちらかというと悪意なく天使のように悪魔的所業を行うアリーシャのほうがゲス野郎な気もする。自分の知人でホストに嵌った女性がいたが状況的に似ていて時代を超えた普遍性が感じ取れる。
577ページからのナターシャの愛情に対する自己分析が印象的。
個人的には本当の主人公はネリーだと思うし、そのためか読み終わったときに何ともいえない深い余韻を覚えた。
恋愛・親子関係が上手くいっていない人にもお勧めしたい傑作。
Posted by ブクログ
不幸な面は多々あったけど、後味が悪いという感じではない。
タイトルからして嫌な終わり方で全部が終わってしまうのではと思ったが、そうじゃなかった。
お前さえいなければ、何人もが救われただろう。そんな奴が出てくる。
大人は頑固者だ。愛と憎しみは紙一重。
繰り返される悲劇を子供がとめる。
悪魔からも天使が生まれる。
Posted by ブクログ
ラスト30ページほどで、息を飲む謎が明かされる。幾重にも巡らされた入れ子構造。悪人、善人の描き方。金への執着。ネリーが登場してから、俄然物語は進み始めたが、やはり肝だったのだな。舞台装置もドラマチックだった。
Posted by ブクログ
日曜の午後、急にドストエフスキー読みたい!気分になって一気読み。今まで読んだ彼の作品のどれよりも読みやすかった。それに、主人公(語り手)を素直にかっこいい!と思ってしまった。今まで読んだ彼の作品は、どれも、「自分にもこういう弱い部分がある」と共感しつつ、親しみは持ちたくなかった。(持てない、ではない。笑)けど、ワーニャ。彼は本当に素敵だったので、驚いてしまった。ナターシャと父の関係性には、舌を巻くリアリティがあった。家族って近すぎて全体像が見えない分、すごく難しい。どの人物も重厚で複雑なドラマを持っていて、読み返したらまた違う人の気持ちにフォーカスするだろうな。けど…なんといったらいいか。これだけ濃いドラマが書けるドストたんやっぱり偉大
Posted by ブクログ
一気に読みました。星50ぐらいつけたいです。特に中盤ぐらいまでは。終盤ちょっと失速?と思いましたが、最高です。こんなの読んでたら気が狂いそう…。
Posted by ブクログ
一つの長大なメロドラマである。小説を読むことの――ここしばらく味わっていたのとは別の種類の――楽しさを、思い起こさせてくれた。これまで読んできたようなロシア文学に特有の退屈さ・冗長さ(地主階級や小役人による殆ど無内容としか思えぬ埒の開かないお喋りの如き)は些かも感じられず、物語が実に力動的に展開する。或る意味で、娯楽小説といえる部分もあるかもしれない(冒頭に於ける老人の死に始まり、少女ネリーの死によって物語は閉じらるが、この少女の物語が小説にミステリ的な趣さえ与えている)。
アリョーシャは、徹底的に主体性が無く意志薄弱な男として描かれている。更に、彼は自分の思っていることを相手に話さないではいられない。こうした、外面(仮面)と区別される内面がない=自我の分裂がない=裏表がない=幼児的でさえある彼の性質が、ナターシャやカーチャの母性的な愛情を惹きつけるのか・・・?
一方、マスロボーエフの役回り――俗物的でありながら虐げる側には立たない――は、「解説」にある通り、確かに興味深い。
そして狡猾な俗物たるワルコフスキー。彼はニヒリズムを通過してしまった人間の一つの雛型であろう。理想や美徳に一切の価値を見出さず、それを信奉する者を徹底して貶め、自らの富・権力・快楽を i.e. 即物的な価値を徹底的に追求するべく、仮面を被り悪を為す――しかも悪に対して確信的な自覚を持って。ここにはニーチェやフロイトの先駆けを見出し得る。
"すべての人間の美徳の根元にはきわめて深いエゴイズムがある・・・。"
"なぜならば道徳というやつは、本質的には快適さと同じことであって、つまり、快適な生活のためにのみ発明されたものだからです。"
"世界のすべてが滅びようとも、われわれだけは決して滅びない。世界が存在し始めたとき以来、われわれはずっと存在し続けてきたのです。・・・つまり自然そのものがわれわれを保護してくれるんです・・・。"
僕自身は、ニヒリズム後の人間には、「露悪的即物主義」の他にも可能性が在り得るのではないかと思っている。がしかし、ともかくも我々人間はついにニヒリズムを経験してしまっている訳で、時計の針は戻らない。よって、ドストエフスキーがニヒリズムの中の人間を描いたとするならば、彼の作品が今後永遠に読まれ続けるのも、宜なるかな。哲学がニーチェ以前に戻れないように、文学もドストエフスキー以前には帰れないのだろう。
最後に、ナターシャとワーニャの幸福が暗示されているところが、嬉しい。
Posted by ブクログ
「虐げる」側に回って醜く生きるより、彼らのように誇り高く生きたい.。神様は常に虐げられる側の人々を愛するとわかっていても、報われない現実に心が痛みます。ドストエフスキー初期の長編小説です。
Posted by ブクログ
ドストエフスキーって
根源的に人間は善であるという
圧倒的な倫理観で
小説書ける人だったんだな。
何に虐げられた人々なのか…
やはり、運命に。
久しぶりに泣いた。
とても深入りしながら物語を読んだ。
なんだかな、すごく良かった。
ハッピーエンドなんだろうな、一応。
Posted by ブクログ
1861年 40歳 第17作。
前半は読むのが辛く、期間を置きながら、途切れ途切れしか読んでいないので、非常に時間がかかった。
たぶん3カ月ぐらいかかったと思う。
なぜ辛かったかといえば、単純に、話が面白くなかったからである。
短編ならまだしも、長編小説で面白くなかったら、一気に読み通すことなどは、とても無理だ。
ところが第二部の第6章、本書のp250あたりの、登場人物がほぼ出そろい、語り手である主人公とナターシャが、前日訪れてきたワルコフスキー公爵が表面的な態度とは別になにかを企んでいることについて、相互に同意した場面ぐらいから、話はがぜん面白くなる。
熱に浮かされたような怒涛のスピード感が出てきて、読むのが止まらなくなる。ドストエフスキーの長編に特有のあの魅力が、この物語の後半で、ついに現れた。畳みかけるような事件の連続と独自の語り口。ドストエフスキーは、自分にふさわしいそういうスタイルを、ここでついに発見したようだ。
残りの400ページあまりは、忙しい合間をぬって、3日で読んでしまった。
Posted by ブクログ
虐げられて生きてきた少女ネリーをただただ可哀想に思う。
自己中心的な青年アリョーシャ、彼に振りまわされる娘ナターシャ、そして彼らを見つめる語り手ワーニャ。
それぞれがみな悲劇的な人生を送っていて、人物描写にかけてはやはりドストエフスキーは天才だと思い知らされる。
Posted by ブクログ
面白かったです。特に最後にナターシャが父親に許される場面がとても好き。ネリーのあまりにも救いのない悲惨な物語と、妻の怒りと、それまでの父と娘の苦しみ…これらから生まれた、必然的で無理のない、人間心理に即した許しだったと思います。
頑なさがなにを生むというのでしょう? 残酷さばかりが蔓延るこの世界で、どうしてわざわざ人間同士が傷付け合わなければならないのでしょうか? 我々人間は皆それぞれに必ず苦しんでいるというのに。泥と血に塗れ、胸に剣を刺され、折れて思う通りに動かない脚で、それでもどうにか立っているのは、言葉と心を持つ仲間同士が互いに支え合っているからではないのか…。娘を呪い、許しを与えぬまま死なせてしまい、狂人のように街をさ迷い野垂れ死んだネリーの祖父は、どんな理由があろうと間違っていたとしか思いようがありません。許すこと、なんといってもこれが大事なのだと思います。
…なんだか大袈裟な書き方になってしまって、もしこの無意味に長いレビューを読んだ方がいたなら、馬鹿馬鹿しく思われそうですね。まあ、聞き流してください。いや、本当に、ドストエフスキーの作品は面白いですね。
Posted by ブクログ
ドストエフスキー版ラブコメと勝手に解釈。
こんなポップなのも書くんだと意外な一面を見た感じ。
まぁポップとは言っても後の大作群と比べてだが。
一見、はたから見ると呆れると言うか、現代で繰り広げられたら
勝手にやってくれといったナターシャとアリョーシャの恋だが、
ところがどっこい、これはただの味付けであって悲劇はその奥にある。
大まかな流れ、作品を支えているのはもちろん二人の恋物語。
しかしそこには、イフメーネフとワルコフスキー公爵の長年にわたる因縁。
そしてワーニャが出逢うスミス老人の孫娘ネリーが物語の鍵を握る。
虐げられた人々とはうまく言ったもので、
ここでいう虐げられた人々と言うのは
アリョーシャに振り回されるナターシャでも
勿論ワルコフスキーにハメられたイフメーネフでもなく、
母親の遺言をその最期まで貫き通したネリーその人なのではないだろうか。
この物語の一番の悲劇の象徴なのがネリーなのである。
決して誰かが救われるとかそういった内容でもなく、
決して悪は最後は淘汰されるといった内容でもない。
一人の少女がただ悲劇を背負って生まれ、その悲劇を全うして終わる。
その中で、ただ踊らされている悲恋と謳われるもう一つの物語。
ただただ、本当に悲しいお話なのである。
それでもこの少女の悲劇を以て、救われた何かがあると信じたい。
Posted by ブクログ
初期ドストエフスキーによる代表的長編。白痴や悪霊といった代表作に備われる背景思想は存在しないが、今まで読んだドストエフスキー作品の中でも最も重厚感のある作品だった。サンクトペテルブルグを舞台に織り成される極限の人間描写…作品背景における無思想だからこそ一つ一つの人間描写が極限なまでに精密にリアルに描かれている。
純粋にドストエフスキーの筆力を堪能するなら間違いなくこの一書だろう。
Posted by ブクログ
大江健三郎『キルプの軍団』の主人公、オーちゃんが読んでたので僕も読んでみました。オーちゃんの言うように、ディケンズと違って暗いです。でもオーちゃんの父が言うように、なんとなくすがすがしいというか、希望があるというか、そのへんうろ覚えですが、暗いだけの小説ではないのでした!
Posted by ブクログ
ネリーがあまりに素直で良い娘すぎた!!ワーニャとネリーって、手塚治虫の『ブラック・ジャック』で言うところのBJとピノコみたいな感じじゃない?(かんわゆ〜★)ワルコフスキー公爵のジャイアニズムというか俺様至上主義に笑った。「すべては私のためにあり、全世界は私のために創られた。」
よくこんなセリフ吐けるよなー。そしてマスロボーエフ脇役っぽいのに何気に一番物語の真相を握っているから凄いよね…
Posted by ブクログ
時代と社会が全く違う私の拙い感想は何者にもならないが、この小説の特徴は魅力的な登場人物とストーリーの複線化だと思う。
登場人物は輪郭の濃淡をかき分けているように思うが、特に主人公が輪郭のはっきりしていない。
一人称視点なのか、三人称視点なのかがよくわからない。
主人公は全編を通して出てくるのに、時々消える(笑)
演劇でも役者が幕間の時に「さてその時!」と講談師よろしく口上を打ったかと思うと劇中にもどるのに似ている。
歴史は繰り返すというが、そっくりそのまま時代と人を変えて双子のようなストーリーが埋め込まれていて、一方と一方が絡まり合ってハラハラさせる。
MVPはマスロボーエフです!
Posted by ブクログ
うーん、先に他の傑作を読んでいたせいか、どうも退屈というか、凡庸というか、そういう感は否めなかったような気がする。
個人的にはヒューマニズムってあんまり好きじゃない。
ある哲学者が「ドストエフスキーは哲学的にあまり掘り下げたものでもないから、今では読む気がしない」というようなことを述べていたが、そういう部分は如実に感じた。
この作品は思想という面ではあっさりしたものなのだが、作中の哲学批判なんかは自分も普通すぎて面白くも何ともなかった。
ドストエフスキー的・ロシア的なものを平均化して分冊せずに1冊にまとめたような作品だとは思った。
当時は相当受けが良かったそうだが、それには納得。
ただ今読むと悪い意味でのまとまっている感は確実にある。