ドストエフスキーのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
面白かったです。特に表題の『おかしな人間の夢』と『メモ』は、ドストエフスキーの作品を理解するために役に立つと思い、学生時代にやったみたいにメモをとりながら丁寧に読みました。『罪と罰』のラストを彷彿とさせる、とても奇妙な、そしてなにか真理を含んでいるように思わされる夢。大胆なキリスト教的信仰告白。彼の作中人物たちが、苦しみにのたうちまわり、傷付いて血を流し、発狂し、殺し殺され首を括りピストル自殺をし、あらゆる痛みを与えられながらも、ほんの数人がようやっと掴んだなにものかを、言葉にするとこうなるのでしょうか? いえ、結論を出すにはまだ早いと思います。これだけが答えではない、むしろこれは彼の思想の一部に過ぎない、という風に思えてなりません。人生と社会秩序に反抗し、己の偉大さを打ち立てようとしたラスコーリニコフやイポリートは確かに苦しみましたが、一方で己を無にし他者に尽くしたアリョーシャやムイシュキン公爵もまた苦しんだのです。現実の世界には正義や信仰への報いも、悪や罪への罰もない。ドストエフスキーの作品はどれも、それぞれになんらかの真理と痛み、そして人間の弱さへの同情に満ちています。1つの思想に容易く収束させられるほど単純ではない。それでも、本書に収録された物語やメモには、彼の本心に迫るに足る思想があり、とても無視できません。大変興味深く読めました。
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Posted by ブクログ
面白かったです。特に最後にナターシャが父親に許される場面がとても好き。ネリーのあまりにも救いのない悲惨な物語と、妻の怒りと、それまでの父と娘の苦しみ…これらから生まれた、必然的で無理のない、人間心理に即した許しだったと思います。
頑なさがなにを生むというのでしょう? 残酷さばかりが蔓延るこの世界で、どうしてわざわざ人間同士が傷付け合わなければならないのでしょうか? 我々人間は皆それぞれに必ず苦しんでいるというのに。泥と血に塗れ、胸に剣を刺され、折れて思う通りに動かない脚で、それでもどうにか立っているのは、言葉と心を持つ仲間同士が互いに支え合っているからではないのか…。娘を呪い、許しを与えぬまま死なせてしまい、狂人のように街をさ迷い野垂れ死んだネリーの祖父は、どんな理由があろうと間違っていたとしか思いようがありません。許すこと、なんといってもこれが大事なのだと思います。
…なんだか大袈裟な書き方になってしまって、もしこの無意味に長いレビューを読んだ方がいたなら、馬鹿馬鹿しく思われそうですね。まあ、聞き流してください。いや、本当に、ドストエフスキーの作品は面白いですね。 -
Posted by ブクログ
えげつない、遊川和彦さんのドラマ(「家政婦のミタ」「〇〇妻」)みたいな、崩壊夫婦の葛藤と、死の物語。
大爆笑の失恋ドラマのような、19世紀最高の振られっぷり、と言いたくなるボーイ・ミーツ・ガール。
ドストエフスキーさん、敬遠するのはホントに勿体ないですねえ。
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ドストエフスキーさんというと、矢張り、「罪と罰」「白痴」「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」の四大長編になります。
(茫漠たる昔に読んだ記憶で言うと、読み易いのは「罪と罰」だと思いますが)
なんだけど、「貧しき人々」も「虐げられた人々」も「地下室の手記」も面白かった。ほかも読んでみたいな、と思っていたところで衝動買い。
「やさしい女」と言えば、映画ファンとしてはロベール・ブレッソン監督の映画ですね。なんですが、これ、実は未見なんです。今後の愉しみ。
ロベール・ブレッソンさんは、とにかくドストエフスキーさんが大好きなようで、「スリ」だってほとんど「罪と罰」です。「白夜」も映画化しています。
だからこの本は、ある意味「ブレッソンが映画化した中編をふたつ併せました」という編集になっています。
それはさておき。
「やさしい女」。
かつてそれなりに名誉ある仕事をしていた男性が、おちぶれて、失業者になって、そこから這い上がって、質屋としてけちけちと小さく暮らしています。
その男が、金で買い取るように10代の少女と結婚します。
ほとんど会話もなく、笑顔も無く、淡々と冷たい結婚生活。
その間に、大人しい少女だった妻は、ふてぶてしくなったり、夫をなじったり、浮気しそうになったり、夫を笑ったり。
なんとも愛想なくそんな妻をぶざまなプライドを見せながらあしらいつつ、どんどん仮面夫婦になる。
そして、ある日、妻は飛び降りて自殺してしまう。
少なくとも判りやすい小説ではありません。
どうして?なんで?と思い始めると、そこに真犯人や真相があばかれる快感がある小説では、ありません。
旨く言えませんが、人間関係の温もりのある部分を、
とにかく恐れて自分の殻に閉じこもってしまう、夫。
尊厳とか生きがいとか喜びとか笑いとか、そういうものを奪われて、タダ生きている妻。
自分とそして相手とをまとめて破壊する、まとめて汚すような、自傷行為のような素行。嘲笑う。悪魔の顔を見せる少女。
きっと。多分。
さびしいから妻を買ったのに。相手まで破壊してしまうことを知って、おずおずとわがままに、やり直そうとする夫。
許されることや幸せそうになることを、拒絶してしまったのか。飛び降りちゃう妻。
うーん。
解釈とか、言い出すと大変にムツカシイのですが、解釈することは本を読む喜びの、ほんの数%でしかないんじゃないでしょうか。
そういう風景を眺めることの歓び、と言いますか。
宍道湖でもグランド・キャニオンでも、夕焼けでも富士山でも星空でも、解釈するために観光に行く訳じゃないですものね。
でも、小説としての語り口は大変にエンターテイメントなんです。娯楽的です。
夫の男性の一人称。だれの心の揺れ具合を見つめながら読んで行けばいいのか、大変になんというか、手すりがしっかりした階段です。
ドストエフスキーさんお得意の、なんとも惨めで滑稽な「負け組」男の心理描写が、混沌とした悲劇にいたる。
なんとも茫然な訳ですが、まあ、書き手の心情としてはキリスト教的な考え方もあるはずですから、
とっちらかった、ある意味大変に自由で現実的な島国の21世紀を生きる僕たちが、無理やり「解釈」をする必要はないと思います。
むしろ正直、「いやー、こんなんやったらしんどかろうなぁ」「かわいそうやなあ」「そんなんもありかもなあ」と自分の身の丈の思いで愉しく読んでしまいました。
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そして、「白夜」。
これはまた一気に、書き手も若いんだろうなあ、という小説。こっちのほうは恐らく数十年ぶりの再読なんですけど、当然まったく記憶になかったです。
これまた、少なくとも生きるの死ぬのという話ではないので、娯楽的な愉しみが炸裂する青春恋愛心理小説ですね。
とにかく大都会で、若い男が泣いてる女と出会う訳です。
男はしがない勤め人で、大都会の孤独。友人も無く、不器用に小さく生きているだけ。だけど、ロマンチックが止まらない感性だけは豊かな、まるで小説家みたいな青年です。
女はこれまたしがない労働者で、病気の身内に縛られて幸少なく生きています。
女は、言い交した恋人がいるんですね。熱愛です。まあ、言ってみれば婚約者です。
しかし、婚約者は仕事の都合で1年だか3年だか、別の街へ。「必ず戻ってくる。ここで会おう」みたいな。遠距離恋愛。電話もLINEも無い時代。
で、その約束の時期になったけど、婚約者が来ない。この町に帰っているという噂だけど、来ない。手紙を出しても梨のつぶて…。
そんな身の上を聴いて、青年は同情します。
でも当然、あわよくば、な訳です。このまま戻ってこなければ、なんです。
そして、事態はそうやって進みます。
「もういいわ。彼のことなんかもう愛していない。あなたと愛し合って生きていきましょう」。
手に手を取って、新しい人生へ歩き出したその瞬間に。あっ! とすれ違ったのが。その婚約者。
ただの行き違いで、婚約者はずっと彼女を愛していて、やっと現れたんですね。
と、その瞬間。
主人公の青年の腕の中から、彼女はスッっと抜け出てしまう。
あああっ…という間に、婚約者の腕の中に。「ごめんなさい」。
この鮮やかな。「恋愛の、ごめんなさいツバメ返し」とでも言うべき、水も漏らさぬスパァンッ!という切れ味。
もう、これだけでもタマラナイ小説ですね。
なんてえげつない。なんてドベタに判りやすい。
美しい。というかもう、笑うしかない。大爆笑。いやあ、痛いです。
もう、ほんとに「男はつらいよ」シリーズの、車寅次郎の振られっぷりの、原作がココにあるんじゃないだろうか、という素晴らしさ。
ドストエフスキーさん、やっぱり面白いですよねえ。
まだまだ未読の小説もありますし、再読するのも愉しみです。
※ちなみに、「ドストエフスキーさんを初体験する上で、何から読んだら良いのか」という問題は実に奥深いですね。
それだけで大いに楽しく酒が飲めそうです。
無論、読み手側のタイプによるんですが、僕は「虐げられた人々」「貧しき人々」「地下室の手記」あたりかなあ…と。「罪と罰」もあり得るか…。
間違っても「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」はマズイと思います。キリスト教がらみの神学的な言葉と問答が多すぎますから。
そういうのをざっくり読み飛ばしても、残った物語で十分にオモシロイのですけど、
そういうのをザックリ読み飛ばすことがなかなか、難しいですからね…。 -
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ネタバレ今の気分になんてピッタリな小説なんでしょう。主人公は自意識過剰な引きこもり。今は中年なんだけど、若い頃の恥ずかしい話を敢えて手記に書いてみたりして。その気持わかるわかる、虚勢を張ってみたりオドオドしたり。いろいろと空回りして結局、<生きた生活>をするより、地下室にじっとして<平穏無事>でいるほうがいいんだってなる。
なんか、共感しすぎて恥ずかしいくらいでしたね。
そんなにズバズバと思ってること文章化されると、私も同じなんで恥ずかしいんですけど、と……。
最近、ドストエフスキーを読む若い人が増えているらしいけど、この本は今の時代に合うと思う。新訳のせいもあるだろうけれど、読みやすい。ロシア人の長ったらしい名前や愛称や複雑な人間関係なんてものがほとんどなくて、どんどん読めてしまう。なにせ引きこもりですから。
ドストの長広舌は古風だと思ってたけど、修正。この自意識過剰なおしゃべりこそ現代風なのだな。 -
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ネタバレ2015/01/05
ドストエフスキーはこの作品をわずか27日間の間に口述筆記で書き終えている。
ルーレットに取り憑かれた病的な青年の絶望的な恋が悲しい。
ドストエフスキーの経験が大きく影響しており、後半の展開は熱中させられた。
2026/07/22
10年来の再読。アレクセイ、フランス野郎、将軍、ポリーナをはじめ登場人物の露骨さや熱情さは日本でまずお目にかかることがないほど極端なため、思わず笑ってしまった。自分も歳を取って、今回は特に誰にも感情移入することなく、ただの傍観者として読み進めたため、素直に物語として楽しめたと思う。 -
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好色で吝嗇、品性下劣なフョードル・カラマーゾフの下に生まれた3人の兄弟――激情的で心の弱いドミトーリイ(ミーチャ)、賢く冷笑的なイワン、純朴で信仰深いアリョーシャ。物語は、信仰の意味をめぐる問い――神がなければ、すべてが許され、人は何事をもなしうるのか?――を背景におきながら、ひとりの女性と金をめぐる父と子の対立から、殺人事件の発生と裁判劇に展開していく。
キリスト教が維持してきた規律を否定してしまったとき、社会はどうなるのか、人間の良心は耐えられるのか、とは、現代のわれわれから見ると、あまりに大上段すぎて的外れな問いに思えるけれど、当時の大変動の中にあったロシア社会においては深刻な問題だったのだろう。現代でいえば、グローバル化の波によって国民国家や地域社会が崩壊してしまったら、人は「自由」に耐えられるのか、それとも自ら宗教やナショナリズムの軛を求めるのか――という問いに匹敵するのではなかろうか。
特に、イワンが語る「大審問官」の寓話は普遍的な真実を突いていて、もっとも印象的な部分だ。現世によみがえったキリストに対し、異端審問で民衆を盲従させている大審問官が、人は自由の重みに耐えられはしない、人々にパンをあたえて自由を手放させてやるという重荷を担う少数者が必要なのだと論じる。これをキリストは黙って微笑みながら聞き、最後に大審問官にキスをするのだ。だがもしも「愛」をもって答えとすることをよしとしないのであれば、私たちは、耐えられない自由の重さという問題に、どのような答えを提出しうるのだろうか?
みなに尊敬されていたゾシマ長老の死体が、期待に反して腐臭を発したときに引き起こされる秩序の崩壊と悪意の噴出を描いたシーンも、恐ろしく衝撃的であり、その後の歴史の暗示にさえ見えてくるくらいだ。
宗教的要素が強く打ち出されているために、一見、現代においては関連性を失っているように見えて、時代の秩序の崩壊と人間の自由と倫理という、時代を超えて届く重みのある問いを差し出している小説と受けとめた。
ただ、これだけ魅力的なテーゼを提出していながら、物語全体に力強い一貫性が欠けているように見えるし、キャラクターも弱すぎるように感じる。アリョーシャは面白みのない善人にすぎないし、冷笑的に既存の秩序を否定してみせるイワンやスメルジャコフでさえ、良心の重みに耐えかねて自ら死に赴いてしまう脆さを露呈する。『悪霊』のスタヴローギンやペトルーシャほどの悪の魅力が感じられない。
結論からいえば、ドストエフスキーの小説の中で、これが最高の傑作とは、私には思えません。『悪霊』の方がずっといい小説だと思う。
もっとも、ひさしぶりにドストエフスキー読んで、人間観察の鋭さにはあらためて舌を巻きました。クズなふるまいをするために軽蔑されているフョードルが、だからこそもっとクズなふるまいに走る心理だとか、相手を愛してもいないくせに、傷つけられたプライドを愛と思いこんで突っ走るカテリーヴナとか。そしてもちろん、スメルジャコフの指摘に、はじめて自身の責任と怯懦とを自覚するイワンの衝撃。さまざまに魅力的要素をはらんだ小説であることには間違いないと思います。 -
Posted by ブクログ
能動的に仕掛けているようで、実はほとんど運任せという受動的な遊び
それがギャンブルだ
お金とは、人間にとって社会的な生命とも呼べる重要なものだが
ギャンブルという「大人のお遊び」においては
この、お金というものを、おもちゃとしてあつかってしまう
お金を賭けたが最後
否応なく生と死のグレーゾーンに直面させられるのだ
だがしかし、それは勝負が決するまでのほんの一瞬において
彼がすべての社会的責任を放棄できるということでもある
つまり、幼児に返るということだ
こう考えると、ギャンブルはまさに「享楽」と呼ぶにふさわしい遊びである
一方、ギャンブルを「信仰」と解釈することもできるだろう
なにしろ、信じて賭けつづけていれば、いつか当たりがくるのだ
破産しない限りは!
しかし、今や神の実在を無邪気に信ずることのできない時代でもある
たった一度の偶然をもって、奇跡の実現とみなすことは不可能だ
ゆえに、ビギナーズ・ラックは地獄の門となりうる
奇跡をもう一度、いや何度でも確認したいばかりに
ギャンブルの神を信じる者たちは、どんどん深みにはまっていくわけだ
悪い男にだまされて
純情だったロシアの娘は、もはや神の実在を信じることができない
賭博者が、一生に一度の大当たりをすべて彼女に捧げたところで
そんなものは偶然の産物でしかない
そう考えざるをえないのが、現代の絶望である
だから賭博者は
世界の絶望を癒すために、今日も賭けつづけるのだ
悲しい話だと思いませんか -
Posted by ブクログ
ネタバレバクチって怖いよね、と雑に一言で終わらせてしまってもいいかもしれん。賭け事に嵌ってしまい、ズルズルと破滅していく登場人物の心の動き方、周囲の人との関わり方が克明に表現されています。一方、描写そのものはくどくもなく、ダレる感じもないのであっさり読み進めていける感じです。
中盤から登場する、ある人物がルーレットで凋落していく様子は、「きっとこういう人が当時は間違いなくいたんだろうな」という感じで、シニカルであると同時に戦慄すら覚えます。
ドストエフスキーの他の作品はあまり読書経験がないのですが、恐らく読みやすい部類に入るのではないかと。それほど厚くもないですし。
一部は著者自身の経験にも基づいているらしいので、著者の人生の一部を覗いてみるという感覚で読むのも面白いかもしれません。 -
Posted by ブクログ
さっぱりわけがわからない、というのが正直なところ。
「わけがわからない」というのも何がわからないのかわからないみたいな、もうかなりぐちゃぐちゃにわからない。
僕はよく作品をとおして作者の性格や考えてることを想像してしまう。あまりいい癖じゃないかもしれない。ドストエフスキーは過去に何作か読んだことがあるから顔見知りぐらいにはわかるつもりだった。だけどこの本からは作者ってものがまったく想像できない。予想できない。何考えてこんなもの書いたんだ? いやもうさっぱりわからん。
ひたすら企みと悪意が描かれる。「同志仲間で」の混乱や、カルマジーノフの朗読みたいな、戯画化され誇張された滑稽さにカタルシスを感じる。作者自身が、「あーもうバカバカしい!」と言わんばかりにこれら登場人物に仕返しをしているような、何かそういった破壊的なものを感じる。
とりたてて誰かに感情移入できるってことはない…ロシアの当時の情勢に明るいわけでもないし、登場人物の思想はどれも極限まで突っ走っているように思えるから。ピョートルにいたっては全然わからん。小説的にあれだけ重要な役回りにも関わらず……たぶん人間じゃないんだろう。
印象に残ったところをかいつまんで…と思ったけどそれも案外難しい。どうなってるんだ。小説すべてが仄めかしのように思えて快いことなんてほとんどないし全体に暗い色調に沈んだみたいなのに、それこそ憑りつかれたように読んだし、そうせざるを得なかった。いつまでもこの小説に憑りつかれていたくはなかったから。 -
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著者自身が南ドイツのヴィースバーデンに滞在していた頃の経験を元に、ロシア人特有の気質ゆえにルーレットで身を滅ぼしていく人々を描いた一冊。
序盤で出てくる、誠実な勤労によるドイツ式蓄財法とロシア式の無謀な博打の対比が良い。
ドストエフスキー『賭博者』の中で一番の名文だと感じた箇所をまるごと引用↓
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「しかし、僕の考えだと、ルーレットというのはもっぱらロシア人のために作られたものですよ」とわたしは言い、わたしのこの感想にフランス人が蔑むような薄笑いをうかべたので、そりゃもちろんわたしの言うことが正しい、なぜならロシア人が博打好きだとわたしが言うのは、ロシア人を賞めると言うより、むしろけなしているのだし、したがってわたしの言葉を信じてもらって差支えない、と述べた。
「あなたのご意見は、いったい何を根拠としているんです?」フランス人がたずねた。
「根拠ですか、それはつまり、文明化された西欧人の美徳と徳性の基本的テーゼの中に、歴史的に、それもほとんどもっとも重要な項目として、資本を獲得する能力が含まれた、ってことですよ。ところが、ロシア人は資本を獲得する才がないばかりか、ただいたずらに、むちゃくちゃに浪費するんです。それでいながら、われわれロシア人にだって金は必要です」わたしは補足した。「したがってわれわれは、たとえばルーレットみたいに、二時間ほどで労せずしてふいに金持になることができるような方法を歓迎しますし、ひどく取りつかれやすいんです。こいつはわれわれには大きな誘惑ですからね。だけど、われわれは勝負するのも、苦労せずに、ただいたずらにやってのけるから、負けるんですよ!」
「それはある程度正しいですね」フランス人がひとりよがりに指摘した。
「いや、それは間違っている。君は自分の祖国をそんなふうに批評して、よく恥ずかしくないね」きびしく、いさめるように、将軍が注意した。
「とんでもない」わたしは将軍に答えた。「だって、実際のところ、ロシア式のめちゃくちゃと、誠実な労働によるドイツ式蓄財法と、いったいどっちが醜悪か、まだわからないでしょうに?」
「なんてめちゃくちゃな考えだ!」将軍が叫んだ。
「実にロシア的な考えですな!」フランス人が叫んだ。
わたしは声をあげて笑った。ひどく彼らを挑発してやりたかった。
「でも僕は、ドイツ式の偶像にひれ伏すくらいなら、むしろ一生キルギス人の天幕で放浪しつづけていたいですね」わたしは怒鳴った。
「何の偶像だって?」将軍がもはや真剣に怒りだしながら、怒鳴った。
「ドイツ式の蓄財法にですよ。僕はここに来て日が浅いけれど、それでもやはり、ここですでに気づいたり、確かめたりしたことが、僕の中のタタールの血を憤激させるんです。まったく、あんな美徳なんぞ、厭なこった!僕はここの周囲を昨日いちはやく十キロばかりまわってみたんですがね、寸分違わずそっくりですよ。ここでは、どこへ行っても、それぞれの家に、おそろしく行い正しい、並はずれて誠実な父親がいるんです。そばへ寄るのも畏れ多いほど、誠実な父親がね。」そばへ寄るのも畏れ多いほど誠実な人間なんて、僕には堪えられませんよ。そういう父親の一人ひとりにそれぞれ家庭があって、毎晩みんなして声をあげて教訓的な書物を朗読するんです。こぢんまりとした家の上では楡や栗の木がざわざわと鳴っている。夕日と、屋根にとまったコウノトリ、何もかもが並みはずれて詩的で、感動的なんだ・・・
怒らないでくださいよ、将軍、もっと感動的な話をさせてください。僕自身だって、死んだ父親が小さな庭の菩提樹の下で、毎晩、僕と母にそういった本を朗読してくれたのを覚えているんですから・・・だから僕自身、こういうことに関してはきちんと判断できるんです。ところで、ここのそういった家族はすべて、父親に完全に隷属し、服従しているんです。みんなが去勢牛みたいに働き、みんながユダヤ人のように金をためている。で、かりに父親がもうある程度のグルデン金貨をためたとなると、家業なり、ちっぽけな土地なりを譲るべく、長男を当てにするんです。そのために、娘は嫁入り支度もしてもらえず、いつまでもオールド・ミスでいることになる。そのためには、下の息子は奴隷奉公に売りとばされるか、兵隊にやられるかして、その金は一家の資本に繰りこまれる。実際、ここではそういうことが行われているんですよ、僕はいろいろたずねてみたんだけれど。そうしたことすべてが行われるのも、誠実さゆえにほかならないんです。それも、自分が売りとばされたのは誠実さゆえにほかならないと、売られた下の息子まで信ずるくらい、強化された誠実さですよ。‐生贄に曳かれていく犠牲自身が喜ぶなんて、これは理想じゃありませんか。それからどうなると思います?その先は、長男だって前ほど楽じゃない。長男には心で結ばれたアマリヘンだとか何とかいう娘がいるけれど、まだそれだけのグルデン貨幣がたまっていないから、結婚するわけにはゆかない。二人はこれまた品行方正に、まじめに待ちつづけ、笑顔で生贄に赴くってわけです。アマリヘンはもう頬がこけて、しなびてゆく。二十年ほどたって、やっと財産がふえたし、グルデン貨幣も誠実に、行い正しく貯えられた。そこで父親は、四十歳の長男と、乳房もしなびて鼻の赤くなった三十五歳のアマリヘンを祝福してやるんです・・・その際にも泣いて、人の道を説き、やがて死んでゆく。長男は今度は自分が行い正しい父親と化して、ふたたびまったく同じ物語がはじまるんですよ。こうして五十年なり七十年なりのちには、最初の父親の孫が実際にもうかなりの資本を作りあげて、自分の息子に譲る、それがまた自分の息子に、そいつがまた自分の息子にといった具合で、五代か六代後には、ロスチャイルド男爵だか、ホッペ商会だか、何だかわからないけれど、そんなものが出現するって仕組みなんだ。どうです、実に雄大な眺めじゃありませんか、百年も二百年もの代々の勤労、忍耐、知力、誠実、根性、不屈さ、打算、屋根の上のコウノトリ!この上何が要りますか、だってこれ以上のものはないんですからね、そしてこういう観点から彼ら自身は全世界を裁いて、罪ある者、すなわち彼らにほんの少しでも似ていない者をすぐさま罰するようになるんです。どうです、こういうことなんですよ。だから僕はいっそロシア式にどんちゃん騒ぎをやらかすか、あるいはルーレットで大儲けするかしたいんです。五代後にホッペ商会になるのなんか、厭なこった。僕が金を必要とするのは僕自身のためにであって、僕は自分を何か資本にとって必要な付属物とはみなしてませんからね。ひどく大法螺を吹いたことは、僕にもわかってますけど、それはそれでいいじゃありませんか。僕の信念はこうなんです。」
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僕が初めて『地下室の手記』に触れたのはこのヴァージョンでした。内容については亀山郁夫教授が訳したヴァージョンでさんざやったのであまり触れませんが、ここではエッセイ風に書いていることをご了承下さい。
僕が初めてドストエフスキーの『地下室の手記』をすべて読んだのがこのヴァージョンで、記録によると2009年のころになるそうです。内容や解説については先日書いた亀山訳のほうでやってしまったので、こちらではそのかかわりとをつれづれに書いていこうかなと、そんなことを考えております。
そもそも、この存在を知ったのは中学生のとき読んだ太宰治の『人間失格』の末尾に収録されている解説で、引き合いに出されていたからで、ずっと気にはなっていたものの、読むことはなく、なし崩しに社会人になってから怒涛の生活を送るまで読書そのものを数年ほどしていなかった時期もあり、そのこと自体を忘れていた時期もありました。
しかし、なんだかんだあって『本を読む』という時間だけが皮肉にも膨大にあった時期がちょうど2009年のころだったのかもしれません。今自分のことを振り返っても今まで自分がやってきたことがすべて潰え、さぁ、これからどうしたらよかんべかなぁと思っていたころあたりではないかと推測せられます。
先ほど『地下室の手記 中二病』でググってみると12500件もヒットしたので、そう考えている人はかなり多くいる、ということなのでしょう。内容はというと遺産が転がり込んだことを機会に役所勤めをやめて『地下室』と称するアパートに引きこもり、今まで散々自分のことを嘲笑した世界を「手記」という形で嗤い返すという陰鬱なことこの上ないもので、こういうものを好んで読む人間は心の中に『昏い』部分を多かれ少なかれ持っているんだろうなということを、何より自分がそうであるがゆえに感じてしまうのでございました。
読み終えたあとには非常に『ダウナー』な気分になってしまうこと請け合いですが19世紀のロシアから向けられた『問い』の数々は21世紀を生きる我々の中に否応なく突き刺さってくるものではないのでしょうか?「終わりのない絶望と戦い続ける人間の姿」とコピーには書いておりますが、その惨めで、無様で、もがき苦しむ姿に何を見出すのか?それは個人個人で異なっているかと思いますが…。
ドストエフスキーの後の五大長編『罪と罰』『白痴』『悪霊』『未成年』そして、未完ながら畢竟の大作である『カラマーゾフの兄弟』につながる原点がこの作品であり、またドストエフスキー文学の『鍵』である本書は良きにつけ悪しきにつけ、永遠に残っていく作品であることは疑いようがございません。 -
Posted by ブクログ
ネタバレキリスト教的世界観の抱える問題をどう突き詰めるか。
それを表現するにあたって、
『悪霊』はうってつけの舞台である。
ドストエフスキーは本作において、
記憶するのが容易でない数の人物を登場させ、
かの世界を、政治的文脈を交えた隘路を超克しうるものとして提示する。
ここに脈絡づけられるものとして、
本作に据えられたプーシキンの詩とルカ福音書のエピグラフは
あまりにも象徴的である。
《悪霊》には少なくとも三つの意味を見出すことができる。
西欧から入り込んできた無神論という思想。
無政府主義実現のため、活動組織をオルガナイズすべく暗躍するピョートル。
そして、ニヒリストであり退廃的なスタヴローギン。
さまざまな《悪霊》が、
農奴解放令を迎えた過渡期に生きる人々のエートスを揺がせ、
また彼らを惑溺させる。
中でも注目すべきがスタヴローギンだ。
汎スラヴ主義者のシャートフ、人神思想の持ち主キリーロフ、
無政府主義の五人組、リーザを始めとする女性たち……。
多くの登場人物がこの悪霊に憑依され、
身を滅ぼしてゆく。
そのアンチテーゼとして存在しえたのは、
「信仰」の象徴たるステパン・ヴェルホヴェンスキーくらいであろう。
その空虚さゆえの妖しさと魅力が、
スタヴローギンにはある。
最後に、物語において重要な位置を占める「スタヴローギンの告白」。
チーホン僧正の述べる、
「無神論は完全な信仰へ向かう道である」とは非常に意味深い。
問題をロシア正教の再肯定に収斂させてゆく、
ドストエフスキーの真髄をここに見て取ることができよう。