世の中には偉大なる失敗作という作品がごく稀に存在しているのだけど、この悪霊は個人的にそんな偉大な失敗作に連なる作品という風に受け取った。
勝手な推測になるが伝えきれなかった主張が相当あるのではないかと思う。
ドストエフスキー長編の特徴として人間関係が複雑さが挙げられるのだが、この悪霊は中でも複雑。
とにかく登場人物が多く、相関関係もつかみ切ることは難しかった。
そのせいか描写しきれていなようにも感じだ。
それでいて相変わらず行動原理がやや突飛(それをロシア的と無理に解釈することにはしているのだが・・・)。
確かにスタヴローギンはドストエフスキー文学において最も魅力的な男性であることは認めるが、自殺に至るまでがどうも弱いような気がしてならない。
何より登場したページが少なすぎ(笑)。
また有名な告白もその主張云々以前に話を聞く坊さんが何者であるとか伏線めいたものも足りなかったと思う(カラマーゾフのゾシマ長老と比べると突如現れた感は否めない)。
ステパン氏の描写は1~2部でこれでもかと書いているだけに不満は残る。
ただ描写が少なくして謎めいた魅力を醸し出すことに成功していると見る向きもあろうと思う。
またこの小説の鍵になろう無神論的テーマにもそれほど深みはないような気がした。
これはある哲学者の「今となってはドストエフスキーの思想は浅いものとなり読む気がしない」という意見を読んだことと、この小説にインスパイヤされて書いたとされる埴谷雄高「死霊」を先に読んでいる影響がかなり大きいせいだろう。
死霊の元ネタということで神学的な問答が繰り広げられるかと思いきや、それほどでもなく、こと前半部に関してはキリーロフが多少頑張っていたかなというくらいで拍子抜けしたというのが正直な本音。
そのためキリーロフが後半に本領を発揮し始めてからはその面白みを感じるようにはなった。
また上巻は冗長で小説としてのバランスが悪いという評価もなるほど納得した。
この小説は何かと議論されてきたようだけど、それはやはり偉大なる失敗作であるが故に描き切れなかった謎が多くあるからではなかろうか。
それとここまで様々な作品を読んできて言うのもどうかとは思うが、個人的にドストエフスキーのキリスト教主義は好きになれないでいた。
それゆえこの小説に期待するものを大きかったのだが、大審問官を読めばそれで充分かもしれない。
同じキリスト系作家であるならば遠藤周作の方がバランス取れているような。
やはり古典は咀嚼するのが難しく、ある程度の割り切りは必要だなといつも己の読解力を差し置いて痛感するのだ。