ドストエフスキーのレビュー一覧
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1861年 40歳 第17作。
前半は読むのが辛く、期間を置きながら、途切れ途切れしか読んでいないので、非常に時間がかかった。
たぶん3カ月ぐらいかかったと思う。
なぜ辛かったかといえば、単純に、話が面白くなかったからである。
短編ならまだしも、長編小説で面白くなかったら、一気に読み通すことなどは、とても無理だ。
ところが第二部の第6章、本書のp250あたりの、登場人物がほぼ出そろい、語り手である主人公とナターシャが、前日訪れてきたワルコフスキー公爵が表面的な態度とは別になにかを企んでいることについて、相互に同意した場面ぐらいから、話はがぜん面白くなる。
熱に浮かされたような怒涛のスピード感が出てきて、読むのが止まらなくなる。ドストエフスキーの長編に特有のあの魅力が、この物語の後半で、ついに現れた。畳みかけるような事件の連続と独自の語り口。ドストエフスキーは、自分にふさわしいそういうスタイルを、ここでついに発見したようだ。
残りの400ページあまりは、忙しい合間をぬって、3日で読んでしまった。 -
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●白夜
ドストエフスキーの第11作。
1848年 27歳。
白夜のペテルブルグで繰り広げられる清新なロマンス。
青年の恋愛は、こうでなくてはね。
美しい中編。
佳品です。
25年ぐらい前に米川正夫訳で読んだ「白夜」は、冒頭が素晴らしかった。
それに較べると、この講談社文芸文庫版は、イマイチのような気がする。
たまたま手元に3つの訳があるので、較べてみた。
(米川正夫=訳)
素晴らしい夜であった。それは、親愛なる読者諸君よ、われらが若き日にのみあり得るような夜だったのである。空には一面に星屑がこぼれて、その明るいことといったら、それを振り仰いだ人は、思わずこう自問しないではいられないほどである─いったいこういう空の下にいろいろな怒りっぽい人や、気まぐれな人間どもが住むことができるのだろうか? これは親愛なる読者諸君よ、青くさい疑問である、ひどく青くさいものではあるが、わたしは神がしばしばこの疑問を諸君の心に呼び醒ますように希望する!……
うん。やっぱりいいな。
(筑摩書房 小沼文彦=訳)
すばらしい夜であった。それは、愛する読者諸君よ、まさにわれわれが青春の日にのみありうるような夜であった。いちめんに星をちりばめた、明るい星空は、それを振り仰ぐと思わず自分の胸にこんな疑問を投げかけずにはいられないほどだった―こんな美しい空の下に、さまざまな怒りっぽい人や、気紛れな人間が果たして住んでいられるものだろうか? これもやはり、愛する読者諸君よ、幼稚な、きわめて幼稚な疑問である。しかし私は神が諸君の胸にこうした疑問をよりしばしば喚起することを希望する!……(筑摩書房 ドストエフスキー全集第2巻 p49)
(講談社文庫 井桁貞義=訳)
まったく奇跡のような夜だった、親愛なる読者よ。
青春時代にのみ訪れるような、そんな夜だった。
星はきらきらとまたたき、空全体は明るく輝き、ほら、こんな空を見上げていると、思わず知らず、心に問いが浮かんでくる。このような素敵な空の下でもやっぱり、怒りっぽい人、気まぐれな人、わがままな人たちが、生きているなんてことが、いったいありうるだろうか。
そう、これがいかにも若者らしい問いだということは僕にも分かっている、親愛なる読者よ。たしかにいかにも若者らしい問いではあるけれど、神様があなたの心に、この問いかけを送ってくださる機会が多からんことを!……(p103)
こうして実際に較べてみるとずいぶん違うものである。
米川訳も、小沼訳もテンションが高い。青春の切なさを感じさせるところがある。
井桁訳は、あまりテンションは高くない。
どこか歌謡曲風だな。あるいは、70年代フォークの歌詞かな。
なんとそれぞれサブタイトルも違っていて、
米川訳 「白夜 感傷的ロマン ―ある空想家の追想より―」
小沼訳 「白夜 感傷的ロマン ―ある夢想家の思い出より―」
井桁訳 「白夜 センチメンタルな小説(ある夢想家の思い出より)」
となっている。
米川訳は1970年前後、小沼訳はおそらく1980年代の訳で、井桁訳は2010年の新訳である。
井桁氏は訳者あとがきで、ドストエフスキーの翻訳の底本は、2003年からロシアで出版されている新全集を使用しないと作者の原文と感覚がずれてしまうと指摘されているが、それ以前に、いろいろ問題がありそうな気がする。
いずれにしろ、私にとっては米川訳のほうが好ましかったという話。
小沼訳もなかなか良いと思う。
●やさしい女 ―幻想的な物語―
1876年 ドストエフスキー55歳のときの作品。
社会時評的な連載もの「作家の日記」の中で発表された作品。
「未成年」を完成させ、「カラマーゾフの兄弟」に取りかかる前の作品ということで、巨匠がさっとひとなでしたような中編だが、内容は深く、重い。
人間のどこに目を凝らしていたら、こういう、人間の根元や全体像を捉えたような作品ができるのだろうか。
ところで、この講談社文芸文庫は、「やさしい女」と「白夜」が収められて、247ページで1200円(消費税別)。(2020/6/24現在)
両方とも新訳といえ、文庫本も高くなったものだ。 -
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上・中・下巻足かけ約2ヶ月くらいけかてやっと読破。
上巻に1ヶ月くやい費やしたかも。
この緊急事態宣言が出たからこそ、読めたのかもしれない。
父親殺しがテーマだけど、宗教、恋愛、病、児童虐待、親子いろんなことがてんこ盛りの小説で、読むには読んだけど、ドフとエフスキーの言わんとしたことがどこまで理解できたかは疑問。
作者はアリョーシャが主人公としてるけど(続編が書かれる予定だったらしい)ドミトリー、イワン、アリョーシャそれぞれが主役だった。
結局、父を殺したのは藪の中でスメルジャコフなのか(多分そうであろう)ドミトリーなのか判然としない結末。
でも、ドミトリーはカテリーナが最後に裏切って出した手紙に今回の犯罪計画が(酔っ払って)書かれていたとして有罪になってしまう。
そのドミトリーの弁護士の言論が作者の考えと思えてしかたなかった。
サイドストーリースネリギョフとその息子のイリューシェチカ(病で死んでしまう)も興味深かった。 -
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善良であり卑劣でありっていう、一見矛盾に見えるものを両方持ってて、ミーチャなりに自分に誠実で信念を強く持って生きてるのが、憎めないところ。ある種高潔な心を持っているし、同時にどうしようもない人間でもある。これでフョードルを殺していたら、そんなのは幻想となって一気に崩れ去ってしまうけど。ドストエフスキーがどっちの方向性のことを伝えようとしているのかによるな。
その人が罪を犯したかどうかを、先入観で決めつけてその人への態度を変えるのは、人間らしいけど浅ましいなと思った。
ゾシマ長老が尽くイワンの思想へ反駁しているのがちょっと面白かった。
アリョーシャの部分は、長老の死を受けてどういう方向性に変わってしまうのかと、気が気ではなかった。
ミーチャの運命の残酷に関しては、それを引き寄せてしまう気性を持ってるから納得せざるを得ない。人間としては本当に愛すべき人だと思うけど、いつも吊り橋でグラグラしてるみたいな人だから。
愛はすぐに移ろうもので、一つのきっかけだけで簡単に変わってしまうもの。
最後のミーチャの恥辱の告白は結構共感できるし心に刺さった。本当に少しの行動の違いでも、その裏にある誠実さには深淵みたいな違いがあって、あるラインを超えてしまったら、嫌悪の塊に襲われるものだと思う。
中巻は下巻への布石感がすごいから、物語の流れを忘れないうちに早く下巻を読もう。 -
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ネタバレ2020年9月21日 再読
前半はゾシマ長老、中盤はグルーシェニカ、後半はミーチャ。神秘的な客、一本の葱、証人たちの供述。童、読み応えのあるエピソードが複数ある。
上巻の後宮部みゆきをはさみ、中巻へ。
べミハイルの話が印象的である。
いわゆるこの物語の中心をなす出来事が中心に据えられ、ミーチャの成り行きを進めていく展開であり、上巻に続き読み応えがあり、そしてどんどん引き込まれてしまう。
印象的なのは「神秘的な客」の編。
神は全ての罪を赦し、全ての罪人を救うというなら、神によってこれほどの葛藤が生まれるのは何故だろう。べミハイルはともすると若かりしゾシマ長老を殺しかねなかったのである。また、全ての罪が赦されるのであれば、この世は罪人だらけになる。神は、神秘的な態度をとり我々を苦しめるのではないのか。そう思ううち、何故か神を強く意識してしまう。というこの宗教の仕組みが垣間見える。 -
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ネタバレ<登場人物>
ヴェルホヴェンスキー氏
ワルワーラ夫人
ニコライ・スタヴローギン 奇行がある。
アントン・G わたし 物語の語り手。
リーザ リザヴェータ・ニコラーエヴナ
ダーリヤ
キリーロフ
レビャートキン大尉
シャートフ
リプーチン
ペトルーシャ ヴェルホヴェンスキー氏の息子。
プラスコーヴィヤ リザヴェータの母。
ワルワーラ夫人の性格
”夫人が何にもましてがまんできなかったのは、裏にまわってこそこそと陰口を叩くやり方で、つねに正々堂々とした戦いを好んでいた。” (p390)
【物語】
ワルワーラ夫人とヴェルホヴェンスキー氏との関係で話は進んでいく。
ワルワーラ夫人の勧めで、ヴェルホヴェンスキー氏とリーザとの結婚話が持ち上がる。
第1部の後半に一気に物語は急転回する。
レビャートキン大尉がスタヴローギンを脅し、ワルワーラ夫人に匿名の手紙を出していたことが暴露される。
スタヴローギンの帰国。
シャートフが、いきなり、スタヴローギンを公衆の面前で殴る。
[レビュー]
ヴェルホヴェンスキー氏とワルワーラ夫人の会話劇が中心で、物語が中々動きださない。
それが、後半、怒濤のように物語が進む。
彼の物語るテクニックにおいて、この『悪霊』だけでなく、まず、行動、言動のその反響をまず書き、そして、その実際の言動、行動を書くというものがある。 -
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ネタバレ最終章となる第17章がとても印象的だ。
マドマアゼル・ブランシェとのパリでの浪費生活を終えたアレクセイは、ルーレット賭博のためにルーレテンブルク、ホンブルクと流れ着き、各地で手痛く敗北する。
やがてホンブルクで再開したアストリーから、かつて恋い焦がれていたポリーナの真の気持ちを告げられる。その内容は、あれだけつれなかったポリーナが、実はアレクセイを愛していたというものであった。これを機にアレクセイは再起を志す。しかし、既にアレクセイの生活から賭博は切り離し難く、再起のための手段と称して再び賭博に手を出そうとする…。最早、彼にとって賭博を打つことは経済的再生の手段ではなく、刺激を得る為の目的となったようだ。
私は小心者であるから、博打ごとはとても苦手だ。お金が増えるのは有難いが、無為に失くすかもしれないと思うと興奮よりも恐怖が先立ってしまう。そのような自分には、この賭博者で描かれているアレクセイやワシーリエブナお祖母ちゃんの心境について理解仕切ることは難しいだろう。分かるといえば、失ったものを取り戻すために更に失うおそれのある行動をしてしまう心理は分かるかもしれない。
月並みな感想だが、博打は怖そうだから極力避けようと強く思った、というところです。
この本のもう一つ印象深いところは、自分自身の価値観に照らすと、登場人物のほぼ全員が嫌な奴ばかりで、イライラさせられるのに、途中で読むのを放棄したいとはならないところかな。それだけ惹きつけるものがある。
人柄としてはアストリーが一番マシだが、ポリーナに対する対応は英国流の騎士道精神に隠した下心がありそうで嫌だし、他人の破滅をそっと眺めて楽しんでいるようにも感じてしまう。
最大のイライラ人物はブランシェでしょう。次点で賭博場にいたポーランド人たち。
やたらとこの本はフランス人とポーランド人、そしてロシア人に厳しい。どんな作者も一定の批判精神を持って作品を書く場合、自国民には当然に厳しくなるかも知れないが…。
ところで、この本は初版が1861年に出版されたそうです。そうするとクリミア戦争でフランスがトルコ側についた恨みや、ロシアがポーランド王国を支配していたことからくるポーランド人への蔑視なんかがあったのかもしれないですね。また、罪と罰で悪し様に扱われたユダヤ人ですが、端役ではあるものの、この本ではちょいと良い人として現れるのも不思議な感じです。ネットで調べる限りではドストエフスキーさんは、晩年、ユダヤ人嫌いだったようです。これを書いていた当時はまだそこまで嫌いではなかったのでしょうか。 -
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中年の文官と少女との、貧しい2人の文通。年齢的に釣り合わない組み合わせのきっかけはついぞ語られるとこなく、裕福ではあるがこれまた釣り合わない年齢の男との結婚で結末を迎える。解説でも想像しているが中年執筆家が架空の少女との文通をもうそう豊かに書いたとも思えなくもない。恋い焦がれる瑞々しいワルワーラと文官マカールは文通が付き合いの主体であまり会っていないようなのもなんだか不自然でもある。
中年文官も少女もどこまで落ちるのか激貧の一途を辿るところに嫌気が差し始めたところに一転して幸福が訪れつつ一挙にそして唐突な結末となり、何か慣性が働くような余韻がある。
ただ、中盤の暗さと停滞感は間延びしてストーリーを追う初見では少々退屈。
かといって次に読む機会を作るかも微妙ですね。 -
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怒涛の展開だった。なんともやりきれない話なのだけれど、引き込まれた。
相手のことを思うがゆえに、二人にとってよくない方向に進んでしまうのは、どこに原因があるのだろうと考えてしまう。素直に享受すればよいのに、どこかで自分を卑下してしまうのか、傷つくことに快を得るからなのか。
純粋な気持ちにも、いろいろな表れ方があるのだなあとも思った。周りの人にとって気持ちのいい表れ方もあるし、表裏がなくても苛立たせる表れ方もあるし、陰湿で苛烈な表れ方もある。表面だけでは内面はわからないし、内面が同じでも表面は異なることがある。
そういう人間の性質も、小説が尽きない要因なのだろう。