夏目漱石のレビュー一覧
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『夢十夜』のみ読んだ。
夏目漱石の作品は全然読んでないけど、この十編を読むだけで彼の凄さが分かった。語彙こそ難しいものの、非常に簡潔で分かりやすい文章。そして「夢」の再現として優れている。「高熱のときにみる夢」とかいう安直な喩えが心底嫌いなのだけど(喩えられているそれは多くの場合単に混沌としているだけ、そして俺はそんな夢見たことがない)、そういった紛い物の「夢らしさ」とは違い、微細な異常や潜在的な恐怖が的確に表現されており、それでいて引力が強い。勿論多少の作者の恣意は否定できないけど、かなり再現性の高い「夢」だと思った。
お気に入りは第一夜と第七夜。死を前者は甘美なものとして、後者は恐怖として描いているように読める。ちょっと危なかっしい。 -
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夏目漱石の代表作。
高校の時に読んだことがあるけど、久しぶりに再読しました。
何者にも傷つけられたり、傷つけたり、裏切った事がない子供な僕と、
叔父によって財産を奪われ、友を裏切り、自分を見失った大人の先生
2人の関係によって、人と人の関わり方の難しさが伝わってきました。
Kの死によって先生が、お嬢様と結婚してもその背後では、Kが自殺したあの夜が、いつまでも残っていて、それが先生の人生に影を落としているんだと思いました。
それによって、妻を死ぬ気で愛することも出来ずに、僕とも良い関係を築いていけないのは悲しく思いました。
読んでいく中で、夏目漱石のこころと太宰治の人間失格を比較をしました。
夏目漱石の先生は、いっ時も他人のために幸せを願わなかった所は無かったと思います。
人間失格の主人公は、知り合った母と娘の幸せの姿を見て、2人がこれからも幸せになって欲しいと祈って去って行く所がありました。
二つの作品は、結末は同じ感じがしますが、その部分が違う所だと思いました。 -
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ネタバレ内容をほぼ忘れていたので再読。
私から見た「先生」はすごく魅力的だと感じたのに、「先生」の独白の後だと、「先生」に対しての感じ方が180度変わる。
ほんとに「先生」はお嬢さんの過去を穢したくなかつたから罪を告白しなかったのか?
普通に知られたくなかったんじゃないの?
学生の時の独白を読むと「先生」にたいしてかなり気弱な印象をうける。
そんな「先生」の判然としない態度に永く振り回されてきたお嬢さんが可哀想でならない。
Kがすごく切ない。
豪胆だからこそ折れるのは簡単だったのかなと。
人物の心象をくどく語っていないにも関わらず、心の有り様とか移り変わりを態度の描写や言葉使いで表現しているのはすごいと思った。
多く使用されていた暗喩表現が、かなり現実から遠いところから持ってきているのに「そこ!」ってところにストンって落ちてきて、気持ちよかった。
いい本ですね。
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七篇の短篇を収録していますが、擬古文の作品が二点含まれるなど、漱石が小説の書き方を模索しているかのような感じを受けました。収録作は『倫敦塔(ロンドンとう)』『カーライル博物館』『幻影(まぼろし)の盾』『琴のそら音』『一夜』『薤路行(かいろこう)』『趣味の遺伝』の7篇。
擬古文で書かれた『幻影の盾』『薤路行』は、美しい文章に酔つつも、それだけに所々が不明瞭な箇所が散見されて、頭が付いて行けなかった。それにアーサー王伝説が絡むと、某アニメの影響で女性剣士のセイバーが脳裏に浮かんでいけない。いつか再読したいと思っております。
『一夜』は、何が言いたいのかよくわからなかったです。好きな四作品の感想を以下に。
『倫敦塔』あらすじ:
二年の英国留学中の着後間もないころ、倫敦塔を訪れたときの話し。そこは幾千もの罪人が護送され、牢獄や処刑場として使われた、まさに英国の負の歴史を詰め込んだ城塞でした。その建物を見て回り、古の人々に思いを馳せるうち、やがて空想が幻影として目の前に現れたかのようになり……。
感想:
時折ユニークな語り口を交えながら、ちょっと不気味で幻想的な文章に引き込まれました。ラストのカラッとしたオチも好きです。小説といいますか、紀行文の形態を取った短篇ですが、とても気に入りました。
ところで、チャールズ・ディケンズ 『二都物語』の感想で、中野京子氏の話しを出しましたが、怖い絵の代表格ポール・ドラローシュ 《レディ・ジェーン・グレイの処刑》の絵画の話しが出てきてビックリ。本を読んでるといろいろ引き寄せるものがありますね。
『カーライル博物館』あらすじ:
ある朝、公園で散歩する度に夢想していた、歴史家のカーライルの庵りに足を運んだ。展示してある故人の遺物について、案内役の婆さんが何年何月何日と澱みなく朗読的な口上を述べたてますが、次第に話しを聞き流しつつ、故人の過去に思いを馳せ始めます……。
感想:
故人である歴史家のトマス・カーライルの居宅を訪ねる紀行文。案内役の婆さんの様子はもちろん、故人が奥さんに頭が上がらなかった話しが面白い。また、日常の音すら呪わしく感じるほど神経質な性格が、彼が著作に耽る妨げになっていた描写も面白かったです。
『琴のそら音』あらすじ:
久しぶりに友人の津田を下宿に訪ねて、自らは下宿を出て家を借りつつも、手伝いの婆さんの迷信深さに困惑する様を吐露する。なんでも、婆さんが相談に訪れる寺の坊主が言うには、引っ越さなければ婚約者に不幸があるとのこと。ちょうど彼女がインフルエンザにかかっており、それを津田に話すと、津田はインフルエンザが肺炎に変じて亡くなった、ある親戚にまつわる不思議な霊体験を語りだした……。
感想:
津田くんの下宿からの帰り道は、怖い話しを聞いた後のこともあり、何もかも怖く感じるところが共感できました。また、主人公が、生まれて初めて死について真剣に向き合って考えたことが語られているところは、漱石自身にもいえるのではと興味深かった。
なお、作中で津田くんが持っていた本は、漱石の『思い出す事など』や『文学論』に出てくる、アンドルー・ラング『夢と幽霊の書』です。その本の解説によると、津田くんの言う「ロード・ブローアムの見た幽霊」とは”第五章 生霊”にある「ブルーアム卿の物語」のことのようです。読んでみると、確かに津田くんの話す幽霊譚と同様の内容。これを原書で読んで、作品に落とし込んだ漱石の語学力には驚かされました。
『趣味の遺伝』あらすじ:
日露戦争の空想に耽っていると、いつしか新橋にいた。駅には凱旋する兵士たちと歓迎する群れなす人々。しかし、そこに戦死した浩さんの姿は無かった。弔いに駒込の寂光院に足を向けると、詣るべき墓に若い女を見る。暫くして誰だか気になるも、手掛かりは浩さんの日記にある「郵便局で逢った女の夢」という記述のみ。そこで、日頃興味がある遺伝の知識で推論すれば、浩さんとその女の関係がわかるのではと行動に移します……。
感想:
内容はタイトルが表す通り、お互い惹かれあう恋仲が、子どもや孫にも受け継がれる不思議を物語るものです。しかし、そこに至るまでの戦争批判とも取れる箇所が多々あったのが興味深い。例えば、凱旋する将軍に万歳しかけてやめた場面なんかは、浩さん含めて多くの帰らぬ人たちへの代弁のようで、当時の風潮を考えると驚きですね。発表に際して、勝ち戦で沸く世論や戦場が内地でなかったことが功を奏したのかもしれない。他にも結婚して半年足らずで後家になる例え話しは、勝ち負けや損害の大小に注意が向きがちな戦争に、漱石の意外な視点の投げかけにハッとさせられました。 -
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夏目漱石の前期三部作(三四郎/それから/門)の真ん中の作品。
主人公の代助はスーパーニート。実家が豊かで、そこから送られるお金で思索にふける事こそが最上の生き方で、金の為にあくせく働く事は自分を無くす事だ、という信念がある。
すごい主人公設定だが、あとがきなどによると、この設定がどうにも共感を得難く、いまいち人気が出なかったとか。まぁ、こんな人がうんうん悩んでいても、「お前はとりあえず働け」と思ってしまうのも、もっともな話か。
さて、今作の主人公の代助くんがどんな悩みにぶち当たるかと言うと、不倫だ。
今よりも倫理観とか厳しそうな時代に、スーパーニートが不倫に悩む。これは人気ないどころかむしろ反感買ったりしたんじゃなかろうか…。
代助には学生時代からの友・平岡がいて、代助も平岡も三千代という女性を好きになってしまう。代助は友情を選択し平岡と三千代の仲を取り持った過去があり、現在平岡と三千代は夫婦だ。
そこから時は経ち、代助は平岡夫妻と再会。平岡は金の為にあくせくする「代助が嫌いなタイプの人間」へと変貌しており、夫婦関係も色々あって冷え切っている様子。
そんな不遇な三千代の姿を見て代助は再び三千代に惹かれ始める…。
というのが今作のストーリーだ。なんとなく『こころ』とも通ずる人間関係。
さて代助は不倫へと踏み込むのか否か…こう聞くと大分ドラマティックな物語のようだが、漱石先生お得意のゆったりとした展開で、モヤモヤした空気が結構な時間紡がれる。
その間、代助は実によく悩む。実家の方では度々彼に縁談を持ちかける。
いっそ結婚してしまうか、断って三千代への思いを貫くか。縁談を断り人の妻を奪うと、当然実家からの仕送りは打ち切られるだろう(おい)打ち切られたら大嫌いな労働をしなければならない(おい)
などなど、共感出来るような、共感出来ないような悩みで煩悶する代助。
働いて当然、不倫はしないのが当然、というような社会の常識とか制度とか、そういったものと、人間の自由というものの対立構造が色んな箇所で登場するこの作品。
全てと対立していく為に、共感を得にくい主人公像になったのかもしれない。
実際、代助の言葉には道理が通っているなぁと感じる場面も多々ある。
印象的なのは代助が三千代の夫・平岡に言うこのセリフ。
「三千代さんは公然君の所有だ。けれども物件じゃない人間だから、心まで所有する事は誰にも出来ない。本人以外にどんなものが出て来たって、愛情の増減や方向を命令する訳には行かない。夫の権利は其所まで届きやしない。だから細君の愛を他へ移さない様にするのが、却って夫の義務だろう。」
とこうだ。なるほど、それは道理だ、となる。『吾輩は猫である』の後半における結婚論といい、夏目漱石の描く男女の関係には新しいものがあるように感じる。
既成の概念に囚われずに生き方を模索する様が刺激的だ。
『それから』は、これも漱石先生あるあるだが、後半、エンジンがかかりにかかっていて面白い。まさに怒涛の展開。
「僕の存在には貴方が必要だ」と、どストレートなセリフまで飛び出す。
それまでまったり進んできた物語が一気に加速する。ラストシーンは緊迫感があり、ここまで読んできてよかったー!という気持ちになった。 -
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『草枕』の後、4作目『二百十日』と5作目『野分』の二つの中篇小説を収録(この後は『虞美人草』、『坑夫』、前期三部作……と続く)。
『二百十日』
2作目の『坊ちゃん』にも通じる愉快なところもあり、生真面目な『草枕』の後とは思えなかったです。作中の宿の隣室の会話や肥後訛りの下女との楽しげな会話のやりとりは、とても面白かったですね。また、ディケンズの『二都物語』が会話に出てきたのが興味深かったです(早く読め自分……汗)。後半、阿蘇山の火口に向かう道中でのハラハラする出来事も良かった。ただ、圭さんと碌さんの二人の主人公が、途中でどちらが話しているのかわからなくなるところがあり、漱石が勢いに任せて書いたのかなとも思いました。勢いといえば、『坊ちゃん』もそうですが、読んでいて会話のやりとりなどは、北野武が好きそうな文章だなと感じました。
ところで、この作品は何か既視感があると思ったら、梅崎春生『桜島』を読んだときの様子と記憶が混同したようで……阿蘇と桜島で違いはありますが。当然、漱石の方が先ですけどね。
『野分』
後半の道也先生が語る講演は、ちょっと独りよがりな気もしないではないですが、途中に書かれている「解脱と拘泥……憂世子」という道也先生の著作とされる作中の記事がいいですね。特にP169の「趣味は人間に大切なものである。」から始まる文章が好きです。あと、P220で厭世家で皮肉屋と紹介される主人公の一人である高柳君が、道也先生に「罪悪も遺伝するものでしょうか」と問いかけた後の二人の会話がいいですね。ラストは、ちょっと駆け足気味なのが残念かな。
それにしても『二百十日』以上に金持ち批判の本作を読むにつけ、漱石はホント金持ちが嫌いなんだなと思いました。そういえば、最近読んだ『道草』もそうでしたね。 -
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ネタバレ後半代助が自分と三千代のために動き出すところから読むスピードがグンと上がった。面白かった。
三千代を貰いたいと思いながらいざ三千代が「いざとなったら死んでもいい」ぐらいな覚悟を代助の上に認めるとたじろぐ代助。滑稽で思わず笑ってしまった。
ラストの終わり方、漱石作品にはあまりない「それから」を思想させる表現の仕方だと思った。
全体を通して、と1番最後の部分が今の自分には難しく感じた。自分があまり読めてないだけだが、なぜ「赤」を強調させているのかよく分からなかった。炎の色だから?
もう少し年齢と経験を重ねてからもう一度読み返したい。 -
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ネタバレ改めて読んでもやっぱり感情の表現がすごい作品だと思った。
内容は私と先生が出会って一緒に行動するようになり、最後に私宛てに書いた先生の遺書によって先生の真意がわかるようになる物語。
学生の頃教科書で読んだ事があって再読。その時は一部分しか読んでなかったが今回全部読んでみて、先生の遺書は人間の本質は悪意があると認めながも私には利己的に生きてほしくないためこれを書いたのではと思った。理由としては作中に私が利己的な行動をとる事が節々にあり、それは遺書の中で先生が語った過去自身の恋心のためKの気持ちを邪魔もしくは無視してお嬢さんとの関係を進めた先生と少し重なるところがある。
その果てに罪悪感に悩まされ何もできなくなってしまったから先生は死ぬ間際、同じ何かを感じた私に自分と同じ末路を辿ってほしくないためにこの遺書を私に送ったんじゃないかなぁと思った。
もっと奥が深いと思うのでいつかもう一度読み直したい作品。
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健三は、幼少期、養父島田とその妻お常に自分たちを実父母と思わせるような洗脳を受けたが、それに嫌気がさした健三は却って二人を嫌った。二人が不倫問題で不仲になり、養父母それぞれがそれぞれに片づくと、もてあまされた健三は実家に戻された。
健三は実家に戻ったものの、養父母の考えで実父の戸籍には戻されず、実父は実父で、自分の嫡男とはいえ別の戸籍に入っている出来の悪い子供を養育することに乗り気でないため、食うは食わすがそれよりほかは一切あたえなかった。
異母姉は夫から邪険に扱われ、持病の喘息で息も絶え絶えになっていても夫は飄々とすましていた。それでも健三の異母姉は夫に傅き、客があると自ら血を出してもてなすことを楽しみとしたため、貧しかった。
同母兄は役人として働いていたが、病身のために生活は苦しく、休んできられるか、休まず働いて身体を壊すか、その瀬戸際で鬱々と生活していた。
妻お住の父は貴族院議員にまで推薦されたが、就任は果たされず、それどころか政治闘争の渦中に巻き込まれたために地位を失い、株に大金をつぎこんで全部すってしまったことで、一転赤貧洗うがごとき生活を送っていたが、プライドだけは高かった。
そんな人間関係の中で、洋行して教師の職に就いた健三は、なまじっか社会的な身分をもっていたために、明日の生活もわからない親戚縁者からたかられる。異母姉は夫が外に女をもっていることを知りつつもどうしようもできず、貧乏を理由に異母弟の健三に毎月無心した。
兄は仕事を失うかもしれない心配から、弟の健三に仕事の斡旋を頼んだ。
ある日突然現れた島田は、姻戚からもらっている補助だけではやっていけないと健三に金をせびった。
新しく家庭を築いていた島田の元妻お常は、後夫にさきだたれたことがきっかけで貧しくなり、島田に遅れて無心にきた。
妻お住の父は株で金をすって以来生活を立て直せず、プライドは捨てぬながら散々みくだしてきた健三に資本金を拠出するよう頼んだ。
こうして健三は方々から金を無心され、断ることもできず、時には縁故を使って金を工面し続けた。
最後に島田から、完全なる絶縁と引き換えに金を無心され、健三はそれに応えて100円を融通してやったが、仲介に入った兄、姉夫、さらに妻までもがやっと片づいたと安堵するなか、健三のみはそんな形式的手続きだけでおわりやしないとつきはなした。
解説、註釈、ともに元広島大教授、相原和邦の研究ノートにされてしまっている感がすごい。解説に書いていることを註釈にも書く理由がわからない。説明のためとはいえ、註釈で先の展開をネタバラシしてしまう神経も理解できない。それ以外の註釈も、辞書ひけばわかることや、文脈から充分推測しうることばかりで、あんなに沢山の註釈をつける必要は果たしてあったのかと大いに疑問。
p.146 ℓ.6
「細君は依然として自分の誤解に氣が附かないらしかつた。」⤵︎
註釈 一四六 6
「「自分」を健三とうけとめて〈『道草』の私小説性が露呈した〉などとする先行の注もある。しかし、ここの「自分」は「細君」として素直に読む方がよい。……細君はすでに紙入れに紙幣を補っているので、健三が誤解しているのだが、それを知らず「空っぽう」と信じている健三の目からすると、細君が誤解しているとしか思われないのである。」
↑
意味不明。そもそも「細君は依然として自分の誤解に氣が附かないらしかつた。」は地の文であり、それを書いているのは健三ではなく漱石なので、自分=御住(健三の細君)とするなら、御住が誤解していると思っているのは漱石自身であり、健三ではない。
また、細君が細君自身の誤解に気づかないと解釈するなら、その誤解とは一体……。文脈からして誤解しているのは明らかに健三(財布は空だとゆう勘違い)で、註釈でも健三が誤解していると註釈を書いた本人が書いているのに、ここで細君が誤解しているとなると混乱する。
ただ、地の文に漱石がうっかり自己投影してしまった(。だからこれは漱石の私小説だ。)と解釈するのも早計かと思う。
個人的には、書いているうちに、自己投影したのではなく、健三になりきってしまったとみるのが自然ではないかと思う。 -
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なんとまぁ、鬱々とした話だろう。読んでいてどんどん気が滅入ってきます。「行人」なんかも相当暗い話ですが、それでもところどころにユーモアがあり、笑える箇所がありました。「道草」においては、それがないとは言いませんが、非常に少ないです。またそれも暗いユーモアというか、苦笑いしか出ないようなものです。
相当読むのがきついですが、ただそれがある意味心地よいとさえ感じます。辛気臭い話に心を預けて、ただただ揺られているうちに、感覚がマヒしていきます。辛いときに悲しい映画を見て、涙を流すとスカッとするのと同じような感じでしょうか。ちょっと違うか。
手放しでよかったねとは言えないものですが、最後は心なしか明るさを感じさせる終わり方でした。「門」と同じような感じですかね。まぁ、とりあえずはよかったねという感じ。奥さんによる「漱石の思い出」と対の関係になっているようなので、そちらも読んでみたいですね。 -
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小説の内容が云々よりも、当時の「蒸発」の一種をみたようで、おもしろかった。
東京の中流階級の家にうまれた男の手記の体裁をとる。女絡みの出来事をきっかけに自殺を考え、次いで世捨て人になろうと考えたやさきにポンビキに拐かされ、足尾銅山に連れられて坑道を体験したのち、坑夫になろうと決心したものの健康診断で気管支炎と診断され、帳簿管理の仕事をあてがわれて数年後に東京へ戻るとゆう筋書き。
前半から中盤は落ちこぼれた知識分子が頭脳を無駄遣いしているような、江戸時代の黄表紙本みたいな文章。最近漱石独特の宛て字があまり好きでないことに気がついた。
物語性に乏しいとゆうことで従来あまり注目されてこなかったどころか、不完全なカタワな作品とみられてきたらしい。個人的には、徳田秋声の『あらくれ』をすこし思い出させる。はじめの、さわりの部分とゆうか、放浪にでる動機は中々はっきりしているが、その後の放浪になるととりとめのない展開が続くところとか。
こんなやついるなーと思わせる一方で、一向に主人公や周辺人物の革新的性格や思考がつかめないところとか。結局、人間は物差しでは測れないものだと気づかされる。
……ただ、『追われゆく坑夫たち』(岩波新書)を読んでいると、現実の坑夫はこの物語の中で描写されるよりも悲惨な生活を送っていたらしい。(尤も、同書の舞台は漱石よりもずっとあとの昭和年間の日本。) -
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読者に断って置きたいが、元来人間が何ぞというと猫々と、事もなげに軽侮の口調をして吾輩を評価する癖があるは甚だよくない。人間の糖から牛と馬が出来て、牛と馬の糞から猫が製造された如く考えるのは、自分の無智に心付かんで高慢な顔をする教師などには有勝の事でもあろうが、はたから見て余り見ともいい者じゃない。
煩悶の極尻尾をぐるぐる振ってみたが何等の功能もない、耳を立てたり寐かしたりしたが駄目である。考えてみると耳と尻尾は餅と何等の関係もない。要するに振り損の、立て損の、寐かし損であると気が付いたからやめにした。
「へん、手めえが悪体をつかれてる癖に、その訳を聞きゃ世話あねえ、だから正月野郎だって事よ。」
「いくら舐めたって五六円位なものだ」と主人は平気な顔で鼻毛を一本一本丁寧に原稿紙の上へ植付ける。肉が付いているのでぴんと針を立てた如くに立つ。主人は思わぬ発見をして感じ入った体で、ふっと吹いてみる。粘着力が強いので決して飛ばない。「いやに頑固だな」と主人は一生懸命に吹く。
理は此方にあるが権力は向うにあると云う場合に、理を曲げて一も二もなく屈従するか、又は権力の目を掠めて我理を貫くかと云えば、吾輩は無論後者を地ぶのである。
いらざる抵抗は避けらるるだけ避けるのが当世で、無要の口論は封建時代の遺物と心得ている。人生の目的は口舌ではない実行にある。自己の思い通りに着々事件が進捗すれば、それで人生の目的は達せられたのである。
迷亭から見ると主人の価値は強情を張っただけ下落した積りであるが、主人から云うと強情を張っただけ迷亭よりえらくなったのである。世の中にはこんな頓珍漢な事はままある。強情さえ張り通せば勝った気でいるうちに、当人の人物としての相場は遥かに下落してしまう。不思議な事に頑固の本人は死ぬまで自分は面目を施こした積りかなにかで、その時以後人が軽蔑して相手にしてくれないのだとは夢にも悟り得ない。幸福なものである。こんな幸福を豚的幸福と名づけるのだそうだ。
再読。猫視点で人間世界を誤解している、というフレームを忘れていた。そうとわかれば読みやすく、面白い。
ただ長い。後半は前半ほどのおもしろさや簡潔さが減っていって。
多分前回よりは精読したが、まだまだ読書の筋肉は未熟。