夏目漱石のレビュー一覧
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世間を意識した小説だなあと思った。代助は知識もあって好きに生きてるようなのが周りの人が気に食わない。
1日本を読んだり、音楽を聴きにいったりして暮らしている。わたしもそうしたい。結婚なんてめんどくさい。しかし、ダイスケの場合は時代が許さない。好きな人は他人の妻。誰にも言えない。
それを公にしたときの世間の怖さを描くが、わたしには見せしめのように感じた。みなさん、お気をつけください!。
好き勝手に生きることが許されない。好き勝手みな生きたいけどいろいろがんじがらめ。だからそうしている人は断罪されるのだろなぁ。
タイミングがわるいようでいて、三千代に対する気持ちは、そうであるからこそ、彼は燃えたのだろなぁ。思い通りにいってたら3年くらいで飽きるのだろなぁ。テンション高いのって続かないもんだろなぁと思った。人の心のうごきってだいたい同じ?もん?怖い。
それにしてもなんて恵まれた境遇。奥さんを貰うって表現、物じゃないんだよって感じる。193p
嫂は、かなり味方してくれてたけどあんな仲いい身内も滅多にないんじゃないかなぁ。芝居に誘われた時の席からみた世間は作られててつまらなく見えた。佐川さんの令嬢もつまんなかった。
夏目漱石の他のも読んでみたくなった。三千代の引力にはらはらした。ダイスケは門のになぜ先生と呼ばれていたのだろうか。
僕の存在にはあなたが必要だ。かー。キザだなぁ。
結局、ダイスケのしたことは悪戯と表現されてる。今日何のためにきょういくを受けたのだと批判されてしまうけど、教育と恋は関係あるんかいなぁ? -
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明治44年に関西でおこなった講演4本プラスその3年後の学習院での講演となる表題作。
どうでもいいと言えばいいのだが、一連の講演旅行であった関西での4本が、多少重なり合うとは言えそれぞれ別々のテーマとなっているのは面白い。聴衆は当然、毎回違うわけだから同じ話を4回すればよかろうという気もするが。新聞への掲載、または事後の出版を前提としていたのか。
最初の4本がどちらかと言えば聞き手を面白がらせる軽妙洒脱さに重きをおいているのに対して、「私の個人主義」はこう生徒たちに訴えかけるような重さがある。中身には大きな違いがないがトーン&マナーにおいてちょっと違う感じ。脈絡ないのだがマックス・ウェーバーを思い出した。
「中身と形式」など100年後の日本企業社会に照らし合わせても大いに身につまされる。 -
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夏目漱石の最後の作品にして、執筆途中で作者病没のため未完で終わった長編作品。
188回、手元にある岩波文庫で「吾輩は猫である」を越える581ページありますが、最期の作品ということで文章もかなり熟れていて読みやすく、読み始めるまでは決心が入りましたが、読み始めると意外に早く読み終わりました。
作中の文章のうち会話文が多くを占めていて、かつ本作中のキャラクターは曲者だらけなので、会話内容は苛烈なものが多く、登場人物による謀り、誤魔化しも多いため読み始めると区切りまで読まないと気が収まらないような内容になっているためかと思いました。
また、一つの会話が終わると続いて次の役者が登場するような構成になっていて、気がついたら時間を忘れてどんどん読み進めてしまうような作品だと思いました。
絶筆ですが、ほとんどクライマックスまで書かれていて、今行っている対話が終わったら、次が最終章ではなかろうかという雰囲気がしているのですが、そんな半ばでぷっつりと作品として終了しているのが非常に残念です。
明暗の続編は粂川光樹や水村美苗といった作家さんが執筆されているそうなので、そのうち、是非読んでみたいと思います。
主人公の「津田由雄」とその妻「お延」の夫婦関係を中心とした物語です。
津田は痔疾を患っていて、治療のために入院が必要となり金策に工面する必要が出るところでストーリーが始まります。
津田には実はかつて「清子」という恋人がいて、今は別れ彼女も人妻なのですがこれをお延に隠していて、それがあって二人の関係はギクシャクしています。
本作は「自己本位」と「則天去私」の境地を描こうとした作品と言われていて、これらは相反する言葉に見えて根幹はつながっており、お延という優秀な妻を持ちながら清子に会いに行ってしまう津田を通してそれを描くつもりだったのかなと思いました。
エゴイズムは夏目漱石の後期三部作を通して描いてきたテーマですが、本作ではそれをさらに昇華させて、己の行動は天に則した結果であり、それに抗うことは自己を否定するということになる、そういった内容を本作で書きたかったのかは確かめるすべはないのですが、そういったことを伝えたかったのかもしれないと思いました。
読みやすい作品なのですが登場人物が多く、名前が岡本とか藤井とか小林とか没個性のため、序盤は誰が誰だかわからずに苦労します。
また、彼らが結構相互に関係していて読んでいてわけが分からなくなりがちなので、相関図をしっかり把握しながら読み進める必要があると思います。
吉川は津田の上司なのですが、津田の父と交友があり、また、お延の育ての親の岡本とも繋がりがあります。
また、吉川の妻は津田に清子を紹介しており、津田と仲がよく、津田の妹のお秀と裏で繋がっている。
清子のことはお延には隠していて、そのため津田はお延に吉川夫人と会話した内容も大部分を隠す必要があり、お秀はそんな2人の夫婦関係を非難している。
その他、いろいろなポジションの人物が登場しますが、彼らの相互関係も気にしながら読み進めないと後で誰が誰だかわからなくなるので注意が必要です。
私的には、結局の所、夫婦の間で終わってしまったことをコソコソし続けている津田が悪いのだと思いますが、いかんせんこれからというところで漱石先生が逝去され、もし最後まで書ききっていればどういう終わりになっていたのでしょうか。
漱石先生の最終作に相応しい秀作ですが、やっぱり最後まで読んでみたかったと思います。 -
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ネタバレ40代に迫ったころの夏目漱石が書いた、短編と中編の二篇。
『吾輩は猫である』を書いていた漱石が、
この作品では社会に挑むようなテーマを扱っています。
「二百十日」はほぼ会話でできあがっている作品。
阿蘇の山に登るための旅中の会話が主体なんですね。
主人公の二人はところどころとぼけていて、
まるで落語みたいだなあと思いながら、おもしろく読めていく。
主人公の一人、圭さんが剛健な人物で、
当時の金持ちや華族連中の存在がいけない、
という持論を展開していきます。
それでも、冗談を交えた日常会話文ですから、
論理がむずかしいということもなく、
読者の気持ちもそこに乗り移るように、
男気ある好人物との触れ合いを楽しむように
読書することになるでしょう。
中編「野分」は、
社会派的性格が「二百十日」よりもずっと濃くなっていますし、
リアリティさも強い文体です。
クライマックスの、白井道也の演説はなかなか読みごたえがありました。
当時38,9歳の夏目漱石が考えたことでもあるでしょうし、
だいたい同年代の今の僕と重ね合わせて考えてみもしました。
今って、階級社会になってきましたよね。
70年代に築かれた中流層が崩れ、
下層階級と金持階級との二極化がすすみました。
そんな現代と、明治40年くらいのこの小説の舞台の時代の構造が、
もしかするとちょっと似ている部分がある。
金儲けに走ってうまくいき、富を得ただけなのに、
まるで位人臣を極めたかのように、
学問にも通じているかのようなふるまいをする人たち。
本作品では、それを「おかしいことだ」と、鋭く、でも平明な言葉で、
世間に投げかける。どうだ、と、まな板にのっけたんです。
「学問即ち物の理がわかると云う事と、生活の自由即ち金があると云う事とは
独立して関係のないのみならず、反って反対のものである。
学者であればこそ金がないのである。
金を取るから学者にはなれないのである。
学者は金がない代りに物の理がわかるので、
町人は理窟がわからないから、その代りに金を儲ける」
「それを心得んで金のある所には理窟もあると考えているのは愚の極である。
しかも世間一般はそう誤認している。
あの人は金持ちで世間が尊敬しているからして理窟もわかっているに違いない、
カルチユアーもあるに極まっていると―――こう考える。
ところがその実はカルチユアーを受ける暇がなければこそ
金をもうける時間が出来たのである。
自然は公平なもので一人の男に金ももうけさせる、
同時にカルチユアーも授けると云う程贔屓にはせんのである。
この見やすき道理も弁ぜずして、
かの金持ち共は自惚れて……」
という二つの引用セリフからもわかります。
そして、現代にもそういう誤認が市民権を得ていながら、
同時になんか腑に落ちないな、
という違和感もみんな感じているところだと思います。
それを、小説内の在野の思想家・白井道也が、
ひいては漱石のような作家が、
社会のそのあり方を憂い、強く糾弾しているんですよねえ。
見事だと思いました。
あとは、全然本筋とは離れますが、
「二百十日」では、豆腐屋(圭さん)にたいして、
豆腐屋ってたいがい彫り物をいれてるものだろ、
っていうようなセリフがあるんですけど、
日本の入れ墨の歴史をまったく知らないから驚きがありました。
それと、
田舎から出てきたばかりの若い女が隠し事ができず、
すぐに正直に喋ってしまうことを
笑いのダシにした芝居が西洋にあるくらいで、
田舎びとはとかく恥ずかしいものだけれど、
「実際田舎者の精神に、文明の教育を施すと、
立派な人物ができるんだがな。惜しい事だ」
というセリフが出てきて、言ったもんだな、と思うところ。
また、「野分」では、
文学者っていうのは、
楽に生活していけるものじゃないんだよ、
苦しまない者は文学者なんかなれないんだよ、
みたいに語られている。
そうさなあ、と思った次第です。
いや、しかし、
僕は元々「文学なんてカタブツなんだろう」から入ってる人だから、
こういうのに触れると素直に驚くし、刷新されます。
漱石はすごいな。
標準であるし、その標準の水準が高い位置にある。
日本の宝物的作家だと思いました。 -
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後期三部作の2作目。
後期三部作は話としてつながるように意図された作品ではなく、各作品で方向性は違うのですが共通のテーマを持った作品となっています。
彼岸過迄では、須永がその気もない女性であるはずの千代子に縁談が上がるや否や嫉妬の炎に身を燃やすというエゴイズムと、そんな己の感情に苦しめられる様が描かれていましたが、本作においても自分と外界のギャップを許容できず苦しむ男が描かれています。
彼岸過迄では須永がコントロールできない感情からエゴにまみれた嫉妬をしてしまう話でしたが、本作は彼岸過迄よりテーマとしてはもう少し昇華していると感じました。
主人公の兄・長野一郎は学者で、何事も深く考える性質があり、聡明さ故に不器用で、頭ではわかっているが受け入れることができない、現代においても持ちうる悩みを持っています。
考えさせられると同時にまた、自分は他者とは異なるという当然の事実を再認識させられるような作品でした。
内容は4つの短編に別れています。
彼岸過迄とは違い、各短編によって主人公が異なるということはなく、主人公は同一です。
ただ、実際的には長野一郎に関する物語であり、主人公である長野二郎は狂言回し的なポジションとなっています。
一章では、「長野二郎」が友人の三沢と落ち合う約束をし、大阪を訪れる。親戚の岡田の元に身を寄せて三沢を待つのですが、なかなか連絡が来ない、そんなある日、三沢が大阪の病院に入院しているという手紙を受け取るという話。
一章は導入としてのようなストーリーで、二章より長野一郎が登場します。
二章は長野二郎とその兄「長野一郎」、二人の母、そして嫂の「直」が大阪に訪れる。自分に対する態度とは違い、二郎に親しげな直を信用できない一郎は、二郎に直と二人で一泊して貞操を試してほしいと頼むという話。
以降は一郎がメインキャラとして描かれており、一郎の性質、苦悩にスポットされた展開となっています。
感情の起伏が比較的激しい一郎と異なり、嫂の直はクールなキャラクターとして描かれていて、二郎もまた感情を読みにくい彼女に翻弄されるのですが、個人的にはそこが楽しかったです。
直はクールですが傲慢さはなく、神秘性の高い女性として描かれており、私的には、恐らく夏目先生も予期しなかった艶っぽさのようなものを感じました。
一郎は端的にいうと面倒な性格で、人が感じていながらもうまくやっていく部分を許容できずに狂ってしまうのですが、本作中にはそのアンサーのようなものはなく、物語は静かに終幕します。
結局のところその問に答えはなく、深く考えることをどこかで放棄するしかないのですが、その終わらない問を投げかけてくるような作品でした。 -
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夏目漱石の前期三部作の3作目。
「三四郎」、「それから」に比較すると知名度が低く、三部作を上げたときに思い出せない作品だと個人的には思ってます。
ストーリーも他の2作と比較すると地味で、カタルシスを感じるようなシーンなどもなく、平坦な日々を送る主人公「野中宗助」とその妻「御米」夫婦の苦悩を描いた作品となっています。
三部作の他の2作同様、夏目漱石らしい直接的ではない表現が多々用いられており、それが返って情景描写を鮮やかにするのは変わらないのですが、本作はそもそも何が起きたのか、物語の核となるストーリーが深く語られないままとなっていて、人によってはよくわからない、面白くないと感じる可能性があります。
文章自体は口語で読みやすく、文学に慣れ親しんだ方であれば面白く楽しめる作品だと思います。
「それから」では、友人の妻を奪い、高等遊民から脱して職を求めたところで終わっていますが、本作の主人公は過去に友人の妻を奪ってしまい、世間から背を向けて生きる役所勤めの男「野中宗助」が主人公です。
実直で生真面目な「三四郎」、高等遊民を気取り親の脛を齧ってのうのうと生きる「それから」の代助とはまた全然違うタイプの主人公で、野中宗助は愛する妻と共にひっそりと生きており、日常への飽満と同時に倦怠を備えた人物です。
宗助はかつては活力に満ちた、アグレッシブな人物でしたが、友人の内縁の妻を愛してしまった事により世間から背を向けて生きることとなりました。
宗助は役所に勤め、毎日電車で通勤をしており、経路には賑やかな街があるのですが、頭に余裕がなく、いつも素通りします。
七日に一度の休日も贅沢をせずに散歩だけで終わってしまうような日々を送っている。
そんな宗助と御米の夫婦に厄介な問題が降りかかる話で、作品としての雰囲気は暗いです。
「それから」では友人の妻に思いを打ち明ける、盛り上がる展開がありましたが、本作はその結果、また、その代償のような物語が展開されます。
私は大変楽しく読めましたが人を選ぶ作品かと思います。
作中の人物の事情や過去について序盤に説明などなく、中頃になってようやく明かされる書き方となっているため、だからこそ先が気になるわけですが、読む人によってはそこが難しく感じてしまう可能性があります。
ただ、本作は「それから」でなぁなぁで終わったいろいろがちゃんと書かれているので、直接の繋がりはないのですが、前期三部作のラストらしい作品でした。
本作は「それから」の完結編のような内容だと思いました。全2作を読んだのであれば、読むべきと思います。 -
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主人公は数えで30になる青年「長井代助」。
彼は裕福な家に生まれており、実家のお金で一人暮らしをして書生を置き、読書をしたり演奏会に行くなど、働かずに自由気ままに生きています。
夏目漱石の作中でしばしば登場する高等遊民と呼ばれる人々の代表格として挙げられることが多い人物です。
代助は作中、友人の平岡の「何故働かない」という問いに「日本対西洋の関係が駄目だから働かない」と答えます。
曰く、「西洋の圧迫を受けている国民は、頭に余裕がなく碌な仕事ができない」、「悉く張り詰めた教育で目の廻るほどこき使われるから揃って神経衰弱になる」と、そして、「働くなら生活以上の働きでなくちゃ名誉にならない」とも述べています。
ただ怠けたいから働かないというわけではない、人は麺麭のみにて生くるものに非ずの精神が本書では述べられていて、高等遊民という生き方に関する考えが本作では読むことができます。
放蕩家の長井代助は過去に「平岡」と「菅沼」という友人がいた。
菅沼には「三千代」という妹がいて、代助は三千代を深く愛していた。
ある日、菅沼の母がチフスにかかり、その看病にあたっていた菅沼もチフスで、母と共に亡くなってしまう。
菅沼の父は止事無き事情により北海道で困窮しており、後に残った三千代を心配した代助は、銀行に就職した平岡に仲立ちし、二人は夫婦になる。
仕事もせず嫂に甘えて親の金で遊び歩く代助は、父親の説得も聞き入れず、財閥の令嬢との縁談を勧められるがそのつもりもなかった。
一方で三千代は結婚後に子供を亡くし、体調も崩してしまう。また、平岡は職を失い多額の借金をしていた。
自分が身を引いたことで三千代が幸せになることを固く信じてていた代助はそれが裏切られる結果となったことにショックを受ける。
物語はそんなところから開始となります。
夏目漱石の前期三部作の2作目ですが、前作の三四郎とは重ねるところはなく、誠実で一本気な三四郎がどう成長しても代助にはならないです(そう望んでいます)。
結局のところ代助は、今で言うところのニートのダメ人間で、そのくせ友人の奥さんに恋慕を抱いてしまうという、概要を書くと非常にひどい物語と言わざるを得ません。
ラストも大団円となるわけはなく、主人公は前向きなスタートをすることとなり、一つの完結ではありますが、結局いろいろな問題が未解決のままとなっていて、明るい未来が見えないというのが正直な感想です。
ただ、後半の盛り上がりはすごく良かったです。
序盤は情報も少なくて雰囲気も暗く、とっつきにくいと感じますが、後半の代助が男を見せるシーンは大変良かったです。
面白かったです。今は「門」を読んでますが、こちらも期待です。