あらすじ
大学入学のために九州から上京した三四郎は東京の新しい空気のなかで世界と人生について一つ一つ経験を重ねながら成長してゆく。筋書だけをとり出せば『三四郎』は一見何の変哲もない教養小説と見えるが、卓越した小説の戦略家漱石は一筋縄では行かぬ小説的企みを実はたっぷりと仕掛けているのだ。(解説 菅野昭正・注 大野淳一)
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三四郎が上京してから青春を謳歌しつつ、若き男性の心の揺れ動きを克明に描いている。
だんだんわかってくる美禰子との関係にもやもやしつつ、はっきりしてくる心のさまを夏目漱石なりの婉曲の表現に共感を覚えた。
正直もっとストレートに書いてほしいなと思いつつ、この時代の書き方なのかなと思った。
最後のシーンは煮え切らない描き方であったが、これも漱石流なんだろうなと思った。
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頭の十数ページで読むものを掴んで掴んで、惹きつける。あの頃、中学の帰りに祖母の家で読んだ頃はわからなかったヘーゲルもベーコンも、ついにはわかる様になった。
あれは現実世界の稲妻である。なんて、とても素敵だ。捨てた文がない。とても偉大な小説だ。
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三読目
読むたびごとに面白い
題材の解釈とか小説意図を読み解こうと思っているかたがたは
国語のテストでも作っているのだろうか
ただこの文の芸を楽しむのみ
また5年後くらいに読もう
それにしてもこれが\420に対し本の値段と中身が比例するとしたら恐ろしいことに
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上京したての大学生が悩むことなんて、百年前でも今もさして変わらない。
大学一回生の頃を思い出してとても懐かしい気持ちになった。時間をおいて再読したい。
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明治中・後期の溌剌とした精神が表現されている一方、西洋化へと無謀に舵を切る当時の社会状況への痛烈な批判皮肉が感じられる。
森有礼の死と運命を共にする広田先生は何を象徴するか。
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明治大正期の作品では「三四郎」と「雁」が圧倒的に好きで、もう何回読んだかわからない。特に「三四郎」は10回や20回ではきかないと思う。
そしてやはり、なんど読んでもいつ読んでもいい。書き出しから最後に至るまで本当に素晴らしい。読むたびに心のいろいろなものが調う。
本郷上野周辺を好ましく感じるのも、この2作品の影響が大きい。しかし、そんなに好きなのにどうして東大に行こうと思わなかったのか、今さらながら不思議でならない。
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物語としては「三四郎のキャンパスライフ」というなんでもない話だけど、人物描写が今でも通用するのでおもしろい。今もこんな人いるよね!みたいな。冒頭、名古屋が出てくるのもちょっとうれしかったり。
漱石先生はときどき文明開化の総括的なことを作品の中で登場人物に語らせるのだけど、文明開化によってまるっと西洋の文明を受け容れてしまうことでがらっと風土が変わってしまった日本に、戸惑っている感じが伝わってくる。きっと漱石先生自身がそうだったのかなと思うのだけど、西洋文化を喜んで受け入れられる人がいる一方で、新しい動きに馴染めなずもやもやしている私みたいな人が、明治時代にもいたのだなぁ。
いま與那覇潤さんの「日本の起源」を少し読み始めてすごく感じたのは、日本は古代から、制度にしろ経済の仕組みにしろなんでも、すでに出来上がったものをポンともってきた借り物で作り上がった国なんだなーということ。民主主義しかり原発しかり。日本の中でこつこつと育てられてきた文化や技術ではなく、外からそのまま持ってきて取り入れちゃった感じ。漱石先生が作品の中で語るとまどいや警告は、こういう事に対する危機感にもつながる気がする。
それから、周りの人間を振り回す與次郎という友人が出てきてイラッとさせられるんだけど、三四郎も廣田先生もそんな彼をどこか面白がっているところがある。この時代は西洋の文化をまるっと受け容れたように、他人のこともまるっと受け容れる鷹揚な雰囲気があったのかな、とハッとさせられました。自分の個性ばかりを強調しいろんなものを受け容れるのを拒否してギスギスしている現代とは、ずいぶん違う感じがした。
(春陽堂大正4年(1915)発行の縮刷版(大正9年九版)で読んだので、引用のページもそのページになっています)
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・「三四郎」「それから」が甲乙つけがたくどちらも好きです!
・『改札場のきわまで送って来た女は、 「いろいろごやっかいになりまして、……ではごきげんよう」と丁寧にお辞儀をした。三四郎は鞄と傘を片手に持ったまま、あいた手で例の古帽子を取って、ただ一言、 「さよなら」と言った。女はその顔をじっとながめていた、が、やがておちついた調子で、 「あなたはよっぽど度胸のないかたですね」と言って、にやりと笑った。』
・「なにつまらない――かわいそうだたほれたってことよというんです」「あたりまえにのばすと、こうです。かあいそうだとはほれたということよ」
・『「本当は金を返しに行ったのじゃありません」美禰子はしばらく返事をしなかった。やがて、静かに言った。 「お金は私もいりません。持っていらっしゃい」三四郎は堪えられなくなった。急に、 「ただ、あなたに会いたいから行ったのです」と言って、横に女の顔をのぞきこんだ。女は三四郎を見なかった。その時三四郎の耳に、女の口をもれたかすかなため息が聞こえた。 「お金は……」 「金なんぞ……」二人の会話は双方とも意味をなさないで、途中で切れた。』
・「君はたしかおっかさんがいたね」 「ええ」 「おとっさんは」 「死にました」 「ぼくの母は憲法発布の翌年に死んだ」
・『女はややしばらく三四郎をながめたのち、聞きかねるほどのため息をかすかにもらした。やがて細い手を濃い眉の上に加えて言った。「我はわが愆とがを知る。わが罪は常にわが前にあり」聞き取れないくらいな声であった。それを三四郎は明らかに聞き取った。三四郎と美禰子はかようにして別れた。』
・『やがて唱歌の声が聞こえた。賛美歌というものだろうと考えた。締め切った高い窓のうちのでき事である。音量から察するとよほどの人数らしい。美禰子の声もそのうちにある。三四郎は耳を傾けた。歌はやんだ。風が吹く。三四郎は外套の襟を立てた。空に美禰子の好きな雲が出た。かつて美禰子といっしょに秋の空を見たこともあった。所は広田先生の二階であった。田端の小川の縁にすわったこともあった。その時も一人ではなかった。迷羊。迷羊。雲が羊の形をしている。』
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上京したての三四郎は、
まだ自分のことばを持っていない。
気持ちをうまくことばにできない。
まわりの与次郎や広田先生みたいに、
気のきいたことひとついえない。
その、ことばにできない部分が新鮮で、
上京したての気持ちがフラッシュバック。
ヘタなことをいうより、
黙っている三四郎がよかった。
ことばはほとんどなくても、
美弥子と通じ合う瞬間があって、
その瞬間が、肖像画みたいに、
三四郎の中に残っている。
○ヘリオトロープの瓶。四丁目の夕暮。ストレイシープ。ストレイシープ。空には高い日が明かに懸る。
ことばにも、かたちにもならない、
淡い恋の気持ちに浸される、いい本だ。
与次郎くんの胡散臭さや、
広田先生の厚い人物像、
そんなに出てこないのに存在感のある美弥子。
三四郎のほかの登場人物も味わい深い。
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NHKラジオの「朗読」で取り上げられていたのをきっかけに再読。田舎から東京に出てきた三四郎に新たな経験が怒涛のように押し寄せる。戸惑いながらも受け止めていく姿に、これからも社会に揉まれて成長していくことを予感させる。2020.6.24
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読みながら思わず「それな」「わろた」って突っ込んでた。100年も前の一大学生の話なのに、今の大学生がここまで自然に共感できるその普遍性はさすがだなぁとおもった。
文体は少し硬いけれど、その文体から醸し出される雰囲気は好きでした。
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水村美苗の「日本語が亡びるとき」でしきりに取り上げられていたので読んでみた。
今の小説との決定的な違いを言葉にすることはできないが、独特の雰囲気や良さがあると思う。重さも軽さも混在している。
三四郎の若い時代に何もできなかった苦い恋愛経験が描かれているので、なるべくなら若いときに読んでおきたい作品かな。
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夏目漱石の前期三部作と呼ばれる3作(三四郎・それから・門)の一作目。
この3作は独立していて主人公も別、世界観に繋がりもないのですが、なんとなく前の物語から次の物語に続くようになっていて、前作の主人公が成長すると次の作品の主人公のようになり得る、次の物語のようになっています。
本作の主人公「小川三四郎」は九州の田舎から上京してきた大学生で、純朴さの残る素直で真っ直ぐな青年です。
三四郎が東京でいろいろな人や考えに触れ、体験し学ぶ話なのですが、どのような物語であるかを説明しようとするとどうも難儀します。
何を書き出そうとしても言葉にした途端に違うものになるというか、日本語って存外不自由なんだなと思いました。
大学構内の池の畔で出会った女性「里見 美穪子」と友人の「佐々木 与次郎」、三四郎の同郷で理学教師の「野々宮 宗八」宗八の妹「よし子」、そして上京時の列車で偶然乗り合わせた、与次郎が慕う英語教師「広田 萇」が中心人物。
三四郎は美穪子を気にしていて、三四郎と美穪子の関係が本作で重要な要素なのですが、三四郎が美穪子に恋をしていたのかというと、それについて作中具体的な記述はありません。
また、宗八が用品店でリボンを購入し、そのリボンを後日美穪子が身につけていたことを三四郎が気にする描写があるのですが、やはり宗八と美穪子の関係性についても説明はなく、また、三四郎がそれを見たことで感じた思いについても直接の記述はなく、状況や行動から、読者はそれを察するしかないです。
結局の所、三四郎は美穪子に恋をしていたのかというと、それは読者自身が判づるところであり、そして実際のところそこは本作においては重要な部分ではないです。
物語は基本的に三四郎の主観で、三四郎が語り部となり進むのですが、三四郎の知らぬところで進行する話があり、三四郎の目線から、登場人物の思い、行動について察して読み進めるような部分があります。
夏目漱石は"I love you."を「月が綺麗ですね」と訳したという有名な逸話がありますが、本作を読むと強ち嘘ではないと思えます。
読むのが難しそうに感じますがストーリーがわかりやすいためか結構読みやすく、楽しく読むことができました。
本作は読む人によって捉え方が異なるような気がします。
実直な三四郎を、振り回そうとして振り回せなかった美穪子が、その想いに気づかないまま選んでしまった過ちに至るまでの物語、と、私は解釈しました。つまり、悲劇であると思いました。
ただ、もう一度読むと、別の感想を持ちそうな気がします。どういった感想を持ったか共有したくなる、そんな一冊でした。
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高校の授業でこころをやって以来2作目の夏目漱石。ストーリーをなぞるだけでは漱石の伝えたいことを汲み取ることができないのだろうなと思いながらも、隠されたメッセージを受け取ることは難しかった。解説を読んで、近代以降の自我を持つようになった女性との恋愛をどうするべきか示唆しているのだとわかった。
三四郎の平凡であるが故の魅力は読みながらも感じていた。
時間を置いてからもう一度読めばまた新たな発見がありそうだと感じた。
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てっきり姿三四郎の話だと思っていたのですが、全く違ったんですね。恥ずかしい。
物語は純粋な三四郎の心の動き襞を克明に描写しながら進む。現代では、こんな恋愛あり得るのかと思うところは多々あるが、案外変わってないかなと思うところもある。なんだか愛おしく見守ってあげたい気持ちになりました。
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こころ、吾輩は猫であるに続く漱石三作目。
熊本から東京大学に通うために上京してきた三四郎青年の物語。
物語に入り込むまでに少し時間がかかったけれど
最後の100ページくらいは先が気になって急いで読んでしまいました。
三四郎と美禰子がどうなるのか最後まで分からずドキドキもの。
美禰子の発した「ストレイ・シープ(迷える子羊)」は名言です。
明治時代でも現代でも若者の苦悩というのは普遍的なものだということを痛感。
当然東京大学の学生なので本郷キャンパスの界隈の話が随所に出てきます。
私は現役で東大を受験して落ちたので諦めてしまいましたが
この本を読んでやっぱり東大に行きたかったなとそんなことを思ってしまいました。
高校時代に読んでいたら違ってたかもなと思います。
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漱石前期3部作の第1作目。
題名から「坊ちゃん」と似たような、所謂痛快な作品というイメージで読み始めた。
読み進めていくと、確かに痛快さは感じられるものの、文学としてまたさらに一歩先へ進んだ作品に仕上がっていた。
このレビューは「それから」「門」の3部作全て読み終わった段階で書いているのだが、
そこまで繋がっているようには思われない。残り2作は合わせて読むといいと思うが、
「三四郎」は漱石による1つの青春文学として、読み進めた方が良いと思われる。
そしてそのように読んでみると、当時における若者というのは、こんな感じだったのかと、現代とのギャップがまず面白い。
男女関係が現代よりも遥かに尊ばれていた時代、またそれが少しずつ変化していく時代を、三四郎や広田先生等個性豊かな登場人物を通じて、表現している漱石は流石。
漱石のその時代をくり抜き、文字に落とし込む技術は、私が読んだ様々な作者の中で、群を抜いている。
是非私と同年代の方々に読んでもらいたい一冊である。
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「人間はね、自分が困らない程度内で、なるべく人に親切がしてみたいものだ。」という名文はこの本に出てくると知って嬉しかった。迷える子羊という言葉にとても考えさせるものがあった。次は「それから」を読みたい。
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ようやく読み終えた!
思ってた以上に切なくて、焦れったくて、どうしようもなかった。
また読みたい。
特に印象に残ったところ
・「ああああ、もう少しの間だ」
・「あなたはよっぽど度胸のない方ですね」
・「可哀想だた惚れたって事よ」
・「あなたに会いに行ったんです」
・「そう。じゃ頂いて置きましょう」「ヘリオトロープ」
・ヘリオトロープの壜。四丁目の夕暮。迷羊。迷羊。空には高い日が明かに懸る。
・「われは我が愆を知る。我が罪は常に我が前にあり」
以下は雑感。
『三四郎』を初めて読んだ。なかなか印象深い作品で、学生時に読んでいれば、また違った感想を抱いたかもしれないなとも思う。
『三四郎』に出てくる登場人物は、悪意はないけれど軽薄な学生与次郎や筋金入りの研究肌である野々宮。同じく研究肌でありながら厭世気味に思える広田先生、そして謎の女性美禰子など、様々なキャラクターに溢れている。
とりわけ、三四郎にとって不可解な存在でありながら惹かれずにはいられなかった美禰子。
教養のあるところを見せたり(きれいな英語の発音や絵画を見てヴェニスと判るなど)、「迷える子」と呟いたり溜息を漏らしたりする人物だが、ただそれがどういう意図にあるか読者や三四郎はわからなくて、それが一層美禰子を謎めいた女性にみせている。
おそらく読者は、そのような美禰子に対して肯定的か否定的か、感想が分かれるところではないだろうか。
美禰子に共感する人、不快感を覚える人、理想とみる人・・・。本当に様々だと思う。それはつまり、その人の考え(人生観・恋愛観)を映す鏡として、美禰子という人物が機能しているということなのかもしれない。
そういえば、『三四郎』の中でイブセンが出てきていた。
イブセン(イプセン)といえば『人形の家』だが、その主人公はノラという女性だ。簡単なあらすじは以下。
ノラは良い妻、良い母親として何不自由なく暮らしており、夫はそんなノラを雲雀よリスよと可愛がっていた。だがノラが犯したある罪を知ったとき、夫はノラを罵倒し、自分の威信を守ろうとする。それを見たノラは、自分が今まで夫の「人形」であったこと、夫の前は父親の「人形」であったことに気付き、可愛い子どもたちと夫を捨て、家を飛び出す。
そんな、いわば近代的な女性の自立として紹介されるような作品である。
『三四郎』の中では「ええ乱暴です。イブセンの女のような所がある」(p141、与次郎の言)や「イブセンの女は露骨」(p141 広田先生の評)というような表現なので、それが『人形の家』のノラなのかどうか明記されていないが、私はその作品しか知らないので自然ノラと美禰子とを重ね合わせていた。
そもそも美禰子は、自立的、自己意思のある女性として解釈されることもあるが、本当にそうなのだろうか。
「あの女は自分の行きたい所でなくっちゃ行きっこない。勧めたって駄目だ。好な人があるまで独身で置くがいい」(p177)というのは広田先生の言葉だが、本当にこの時代に、兄しかいない女性が好きというだけで結婚できるのだろうか。もちろんできるのかもしれない。
だが、婚約者が美禰子の兄の友人であること、兄の結婚が決まっていたこと、また先方はよし子との縁談が先にあったこと、そして「われは我が愆を知る。我が罪は常に我が前にあり」(p290)という言葉を、美禰子が三四郎のいる場で微かに呟いたことを考えると、それが意に沿わぬ婚約であったという見方もできる気がする。
自分が「人形」であることに気付いたノラはすべてを捨て、嵐の外へと飛び出すが、美禰子は「人形」であることを知りつつ、それを受け容れたのかもしれない。
さて、物語中、三四郎が美禰子に惹かれていたことは明らかではあるが、はたして美禰子は三四郎のことをどう思っていたのであろう。
私は、美禰子も三四郎と同じように、彼に惹かれていたのだと思う。少なくとも、絵のモデル中に三四郎が美禰子にお金を返そうする前までは、好意を寄せていたのではないかと。
三四郎にしては、二人を繋げていると感じていたその金銭を返すことによって、二人がまた無関係なもの同士に戻るか、あるいはその繋がりがなくなることで関係を縮めることができるか―一つの賭けのようなものだったのかもしれない。
だがそのことを持ち出したあと、美禰子は画家の原口が訝しく思うほど表情を変じてしまう。疲れたような顔。美禰子にとって、それは決定的なことであった。
その後、三四郎がようやくの思いで伝えた「あなたに会いに行ったんです」(p247)という言葉。この言葉は、お金の話を持ち出す前であればよかったのに、と思わずにはいられない。
それに対して美禰子が「御金は、あすこじゃ頂けないのよ」(p247)と返すことができてしまったように、表面的には、三四郎の言葉は、お金を返しに会いに行った、というふうに受け取れてしまうからだ。
もちろん読者はそんなふうには思わないし、美禰子もわかってはぐらかしているように思えるが、だが、もう少し早く三四郎が美禰子へと思いを伝えていれば。
結局、変わらなかったかもしれない。だが、変わったかもしれない。そう思うにつけて、切ない場面だなと感じた。
さて、しかしながら三四郎はこのあとどうするのであろうか。
広田先生みたいに、強い想いを胸に抱きながらひとりでいることを選ぶのか。
はたまた闊達なよし子とうまくいくのか(これもいいと思うんだけど…)。
いやいや、熊本にいる御光さんと一緒になるのか。
個人的には、『それから』みたいになるのも悪くないのではと思うのだけど。
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迷える羊が森で巡り合い、束の間同じ時を過ごすけれど別々の群れへと再び帰っていく話。三四郎と里見嬢は恋愛感情よりも同朋意識が強かったのではないかな。
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大学生活を背景とする知的環境のうらに成長しゆく純潔なる一青年に、意識と反省を越えた世界では愛しながらも、意識と反省の世界では男をあなどりさげすむ聡明にして自由なる女性美祢子を配し、触れようとして触れ得ぬ思慕のたゆたいを描く。
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解説などには、この小説が、『坊ちゃん』と並んで親しみやすい作品と長年思われてきたが……とあるが、個人的には全く親しみやすいとは感じなかった。恐らく親しみやすいと思われて来たのは、解説 (p.314) に
「新聞小説の利点を上手に活用しているといえば、新聞に掲載される日付と小説のなかの話の時期をほぼ重ねあわせた構成に、その一端をうかがうことができる。連載がはじまったのは9/1だが、三四郎の上京の車中風景を話の冒頭にもってきたのは偶然ではなく (……当時、大学の新学期は秋……)、紙面に出る時期を意識したからである……。……団子坂の菊人形の場面を織りこんでいるのも……同じような配慮から来ている。三四郎が新しい知見を次第に加え、世界と人生について認識を深めてゆく過程を追うためには、いうまでもなく話の運びを時間の経過のなかに置かなければならないが、ここではそれを季節の歩みと縫いあわせて、読者を飽きさせない工夫がこらされている。」
などとあるように、読者の生きる時間と物語の時間の流れが一致していたり、登場する土地の情景描写が東京に暮らす人にとって馴染み深かったり、そういうレベルのものだと思う。
作品の主題は、全部読みきってみて思うのは、恐らく恋愛、というか、新しい時代の女性像と、その新しい時代の女性との恋愛。こういう作品の場合、対比されるべき旧い時代の女性が出てくるものだと思うが、この作品にはみあたらない気がする。三四郎と同じく熊本から上京した野々宮さんの妹よし子が旧い女性かと言われると、そんな感じはしない。その点で、対比になっているのは三四郎自身なのかなと思う。
その主題の周りにちょいちょい、漱石が他の作品でもとりあげる当時の日本のエセ西洋化などについての話がでてくるが、他の作品と比べると影は薄いかと思う。そのほか当時の時代を象徴するものとして、p.115の「空中飛行器」は、『三四郎』の発表 (1908年) の五年前 (1903年) にライト兄弟が初めて動力飛行を成功させたということに因み、p.232の「自分の取る新聞などは……泥棒早見といふ欄があつて、どこへどんな泥棒がはいつたか、一目に分るやうに泥棒がかたまつてゐる。」という一文は、それだけ当時は泥棒天国だったのか……などと想像して面白かった。
この作品が読んでいてよくわからないのは、美禰子が宇宙人すぎるところにあるのかと思う。「迷える子 (stray sheep)」といったよく解らない発言がちょくちょく出てくる。三四郎にも謎ながら、読む人も霧に包まれた心持ち。解説に拠れば、美禰子は野々宮さんが好きだったものの、野々宮さんが研究に没頭して振り向いてくれないものだから、三四郎に気があるようなそぶりを見せて野々宮さんの気を惹こうとしていたらしい。でもそれなら美禰子が三四郎に言った「馬券で中るのは、人の心を中るより六づかしいぢやありませんか。あなたは索引の附いてゐる人の心さえ中て見やうとなさらない呑気な方だのに」(p.193) は誰の心を指しているのか。まさかこれも、三四郎を騙すための言葉?だとしたら新時代の女性は怖すぎる。
さらにもっと言えば、当時の東京の読者には親しみやすかったかも知れない土地に紐づいた描写が、現代時にには全く解らない。漱石時代の面影が現代でも遺っているところなどもはやないだろうが、東京に住んでいるうちに巡ってみたい気もする。
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p.196の「小口當座預金(あづかりきん)通帳(かよいちやう)」とゆうルビがおもしろい。
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p.202の「晩餐(ジンナー)」は元々「ヂンナー」のはず。旧仮名の現代化を図ったって書いてある。ただ、ヂは人によってはディの音として使っている場合もあるから、これをジになおすのは不適切では。
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20131227 高校の時に読んで以来。すっかり忘れていてこういう内容だったと始めて知った気がする。現代人ではもどかしいのではないか。明治人の心の強さが感じられる。
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熊本から東京の大学へ来た三四郎の成長を描く。
自分が大学生だからか内容にすごく親しみを持てました。
文体も読みやすいです。
三四郎の田舎もんさはよくわからんが、根性無しなのはわかります。
でも名古屋の女に対しての対応は……まぁ普通じゃないかな。
美禰子への思いを最後につげたのは良いことだと思います。でも、すごいタイミング。告白(みたいなの)をした後に相手の婚約者が現れるんだもんなぁ~
あれはなかなか立ち直れないでしょう。
与次郎の軽いカンジも広田先生の飄々としたところも好きです。
里見さんは……よくわからない……
時代に差があるのに、物語がすんなり入ってきて、さすが夏目漱石だなぁと思いました。
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三四郎の学生生活部分が面白い。教授、与次郎など人物描写にもユーモアがあり笑える。三四郎講義サボってるし。あと与次郎の「生きている頭を死んだ講義で封じ込めちゃ、助からない」は迷言。
後半、美禰子がメインになってくるところから重くなってきて切ない。で、美禰子のキャラがうまく掴めなかった。前半部分のノリで最後までいってほしかった。