あらすじ
大学卒業のとき恩賜の銀時計を貰ったほどの秀才小野。彼の心は、傲慢で虚栄心の強い美しい女性藤尾と、古風でもの静かな恩師の娘小夜子との間で激しく揺れ動く。彼は、貧しさからぬけ出すために、いったんは小夜子との縁談を断わるが……。やがて、小野の抱いた打算は、藤尾を悲劇に導く。東京帝大講師をやめて朝日新聞に入社し、職業的作家になる道を選んだ夏目漱石の最初の作品。(解説・柄谷行人)
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人名の呼称がコロコロ変わって場面を追うのが難しく、文章が少し難解で文量も多かったため読むのに時間がかかったが徐々に小野の煮え切らない性格のせいでどうしようもない袋小路に突き進んでいく様子は読んでて心が痛んだ。相手の気持ちを想像しすぎるあまり優柔不断になるのはよく分かる。道義が大切。
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苦慮して作り上げた文体は正直なところ意味を掴めないが、美しさは伝わってくる。西洋的なハイカラな思想が昔ながらの考えにぶつかる、そこで起きる波紋というのも一つのテーマとして感じる。藤尾は美しく傲慢な女として描かれているが、こんな人は現実に実際いそうだ。自分の美しさを把握しているから、人に対して小悪魔に振る舞ったりする。その我儘さが美しさに拍手をかける。みたいな。まぁ、こんな人には敵わない。なんだかんだで結局美しさに敵うものはないのではないか。と勝手に思ったりもする。
藤尾だけではなくて、この小説に出てくる人は皆現実にいそうだと感じる。それぞれが自立した性格を持っていて、そのもつれの中で結末を迎える。この小説の登場人物の内面が外界に働きかけることで小説が歯車のように回って、動いていく様は、少し離れたところで精巧で大きな機械仕掛けの時計を見ているような気持ちになる。
どう考えても、自他共に認める失敗作には思えなかった。
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宗近君かっこ良すぎる。結婚して!
子供じみた上部の皮を脱ぎ捨てて、真剣勝負をしなくてはいけない。そうして生きれば第二義的なことは全てどうでも良くなる。正か死か、悲劇はそれだけ。骨身に応えた。
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久しぶりの漱石先生。恋愛感情や人間関係の表現の巧みさ、情景描写の美しさがたまらない。夏目漱石の世界に浸れます。
漱石先生が持つ当時の社会や人に対する批判、信条と言ったものがそれぞれの登場人物を通して伺えます。勧善懲悪的な結末で驚きもありましたが、漱石先生の作品の中でもかなり上位に入ると言ってもいい面白さではないでしょうか。
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面白い!
明治の知識人階級の男女の四角(五角?六角?)関係であり、家や財産の相続、親の介護、若者特有のプライド、職業的マウンティング、恋愛と結婚、自我と世間体、本音と建前などなど、話自体はまあ渡る世間とかその辺のベタなホームドラマとそれほど変わらないはずなのに、なぜこれほどまでにスリリングでリアルなのか!?と考えるに、ストーリーテリングとしての純粋な面白さに加えて、普遍的な人間心理に対する漱石の鋭すぎる洞察と描写。それに尽きる。
特にそれまでずっと表面上は穏やかに行儀よく、しかし水面下ではハイコンテクストな湾曲表現による高速パンチと寝技の応酬を繰り広げていた人たちが、クライマックスで突然全員がベタ足で本音をぶちまけ始めるあたりのカタルシスが尋常ではない。例えるなら「8マイル」ラストのラップバトル。
表層的には「義理を立てるか、我を通すか」で悩む近代日本人だったりするのだけれど、もちろんそう単純な二項対立で済むわけもなく、最終的には「生きるか死ぬか、ぎりぎりの淵に立つ自己存在」みたいな場所まで行きついてしまうのが漱石の恐ろしいところ。
どうしても気になるのはこの物語のその後で、小野さんと小夜子がこの後一緒になってお互い幸せになれるとはどうしても思えないし、糸子は甲野さんの良き理解者には違いないけれども、甲野さんの方に愛はあるんか?そもそもこんな泥沼を経たあとにあの義母と同じ屋根の下でうまくやっていけるのか?と考えるに、唯一明るい未来が想像できるのはザ・体育会系男子の宗近さんくらいだったりする。
これが100年以上前の小説って、本当に信じられない。漱石は代表作くらいしか読んだことなかったけど、ちょっと今から地道に過去作ディグるわ…
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(個人的)漱石再読月間の6。
いよいよ虞美人草です。10代の中頃に読んだはずなのですが、まっったく歯が立たず、藤尾の壮絶なラストだけはくっきり記憶にあるものの、とにかく辛かった思い出しかないので、今回の再読月間に当たり、最後に回そうか、さもないとここで引っかかって終わらないかも…くらいの苦手意識だったのが、なんとするする読めるし、もう面白くてたまらない。最初の朝日新聞での連載小説で、気合いを入れて、面白い仕掛け満載なのがよくわかり、いやぁ、私も読書人として成長したなぁと感慨深いものがありました。
キーワードは「道義」と「悲劇」
ここでもやはり、お金がないのはツライということが延々と述べられ、意外とテーマは偏っているのかとも思う。
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幾度と無く挫折してきた虞美人草。初めて読み切った感想は「私は大人になった」。少なくとも難しい言葉に惑わされることなく表現の意味するところと文脈を読み取れる程度には。漢文と日本文化の素養に溢れた流麗な言葉遣い素晴らしいですね。
舞姫やこころと同じく、頭が良いけれど優柔不断な男が八方美人をして思いを断ち切るのを躊躇っているうちに、周りの人間が可哀想な思いをする(もしかしたら当時の人は高慢な女に降った罰に拍手喝采なのかもしれないが今は自立して美しく賢い藤尾の何が悪い)ので、小野を許すことはできないですが、女性に象徴される「文明」と「伝統」の間で揺れ動く文明人として小野くんは苦悩していたのでしょう(小野に憤慨しないだけでも大人になった)。
男が3人、女が3人、それでも決してハッピーエンドにはならない、この結末は、皆が自分で考え始めたこの時代から始まる。それにしても18節の宗近と糸の立派さ!「真面目になれる」「お迎えに参りました」漱石の本でこんなに胸が熱くなるとは思わなかった。自由恋愛で先進的な男女のこの小説でも古い道義とか誠実さとかが勝つんだなぁ。良くも悪くも。
「此処では喜劇ばかりが流行る」
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2017.8.11
とてもよかった。さすが夏目漱石、読むだけで日本画や歴史、言葉遣いも勉強になる。
登場人物のだれもがリアルで、いろんな視点で語られるので性格が細かく描写されていてとてもおもしろい。家族の関係、兄妹、師弟、恋の駆け引き…それぞれの想いが見えてどうなるんだろうと読み進めれば、宗近君がすべてまっすぐにまとめてゆく。
結婚となると恋愛ほど単純ではなく、両家の関係や今までの義理、相続など、いろいろな思惑が絡んでくるのがよくわかった。男性陣が27,28、女性陣が24くらいで、ちょうど同世代であるから余計に感情移入したのかもしれない。
結婚前のわたしにこれを渡したのは父親の計らいなんだろうか…笑
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漱石の時代と現代とで、人間はこんなにも変わらないものなのかと読みながらとにかく驚かされたし、自分自身の醜い部分を時代を超えて見透かされているような気分になってドキっとしました。
今の自分に喝を入れてくれる様な話で、読むことが出来て良かった。
真面目にならなければ。
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難解な中にもこの時代の美しい文体を楽しむことができる。
宗近の云う「真面目になること」は自分の心に備え置いてきたことと重なり合う。
「真面目になれる程、自信力の出る事はない。真面目になれる程、腰が据わる事はない。真面目になれる程、精神の存在を自覚する事はない。天地の前に自分が厳存していると云う観念は、真面目になって初めて得られる自覚だ。真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。遣っ付ける意味だよ。遣っ付けなくちゃいられない意味だよ。人間全体が活動する意味だよ。口が巧者に働いたり、手が小器用に働いたりするのは、いくら働いたって真面目じゃない。頭の中を遺憾なく世の中へ敲きつけて始めて真面目になった気持ちになる。安心する・・・」
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【Impression】
「虞美人草」が一体誰のことなのか、結局は藤尾さんであると分かるんだが、虞美人草の花言葉は「平穏、無償の愛、慰め」などであるらしい。
作中の藤尾さんは全くの正反対である。
最後は意中の人を得る事が出来なかったため死んでしまうような、気性の荒い人である。
この正反対にある状況は一体どういうことを意味しているのか、いや、面白かった。
文章が綺麗で、詩的で、漢語のにおいがする、また読み返したい本
【Synopsis】
●宗近と糸子、甲野と藤尾、そこに小野が加わり、表面的には平穏に、内面では策略を巡らせた人たちとの恋愛もの。宗近と甲野はこの策略に飽き飽きしている、小野は利己的にこれを利用している、藤尾は母と共に何とか小野と婚約しようとしている
●表面的には比喩や揶揄、暗喩、皮肉、が飛び交い、ここぞとばかりに機を窺っているやり取り、それを分かっていながら策略に乗っかる甲野、策略に真っ向から戦う宗近、「真面目」をキーワードに小野は立ち直る。糸子は藤尾と宗近が婚約することに反対している、学問はないが非常にロジカルな面を持っている。
●虞美人草に例えられているのは誰なのか、恐らく糸子ではない。糸子は平穏ではない、慰めでもない。甲野の母親と真っ向から対立し、一歩も譲らない。藤尾は死んで漸く「虞美人草」になったのか、平穏を漸く手に入れたのか。
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『夢十夜』で初めて漱石を知り、『草枕』で文体に衝撃を受け、この『虞美人草』で面白さにどっぷりと嵌った。漱石の小説の中で一番好きかも。
よく「漱石は女性が描けない」とか言われるけど、だからって別に男性が描けているとも思わない。小説を書いている。
それはともかく、この人間関係、マンガ的で面白い。ちゃんとキャラが立っている。男も女も。
それを「通俗的」だと言われれば確かにその通りなんだろうけれども。
職業作家としての初めての長編小説。「面白い小説」を書こうと苦心したんだろうな。
装飾華美な文体や、ほんの少しハミ出ている「セオリー」たる主張のようなものがちょっとくどいような気もするけど、それはご愛敬。
この頃の書簡で「維新の志士の如き烈しい精神で文学をやつてみたい」とか言っちゃってるし。そこがまたイイ味出してるんだと思える。
これ、最後をどう受け止めるかは、評価の分れるところなのか知らん。
自分は、うまくまとまって大団円、と読んだけれども。
宗近君の説く「真面目」の話や糸子の「人が何と云ったって――それがなぜ悪いんでしょう」というくだりとかは、読んでいて正直気持ち良かった。これ、傍線引きまくりの文庫本を他人に貸してしまって恥ずかしいやら恐ろしいやら。
ところで漱石先生の別の書簡に、こんな言葉があるのが可笑しい。
「分りもしないのに虞美人草の批評なんかしやがる。虞美人草はそんな凡人の為めに書いてるんぢやない。博士以上の人物即ち吾党の士の為めに書いてゐるんだ。なあ君。さうぢやないか。」
「なあ君。さうぢやないか」って……なんだろうこの気概。初めて読んだとき笑ってしまった。冗談としてではなく。「真面目」だ。
良んだよなあ漱石。とっても。
Posted by ブクログ
職業作家として初の作品だつたからなのか、かなり力の入ったものに感じた。表現の脚色が煩雑に思えるほど多い。
登場人物の正体をあえて分かりにくくしているのも、読者の気を引くためだろうか。
冒頭の京旅行から布石があって、ラストは大逆転。藤尾が可哀想なくらい。
でも、会話は「明暗」を思わせる。テンポが良くてリアリティが感じられる。
読み物としては、十分楽しめた。
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「愛嬌と云うのはね、自分より強いものを斃す柔かい武器だよ」「それじゃ無愛想は自分より弱いものを、扱き使う鋭利なる武器だろう」
小野さんは自分と遠ざかるために変わったと同然である。
わが悪戯が、己れと掛け離れた別人の頭の上に落した迷惑はともかくも、この迷惑が反響して自分の頭ががんと鳴るのが気味が悪い。
雷の嫌なものが、雷を封じた雲の峯の前へ出ると、少しく逡巡するのと一般である。只の気の毒とは余程趣が違う。けれども小野さんはこれを称して気の毒と云っている。
真面目と云うのはね、僕に云わせると、つまり実行の二字に帰着するのだ。口だけで真面目になるのは、口だけが真面目になるので、人間が真面目になったんじゃない。君と云う一個の人間が真面目になったと主張するなら、主張するだけの証拠を実地に見せなけりゃ何にもならない。•・・
時代背景や価値観が違うから、全てを共感はできないけど、この行き場のなさはわかる気がする。高慢で魅力的な女は退場させられた。そんな時代。恋愛に限らないけど、恋愛の板挟みって神経すり減らす。まぁここでの板挟みは愛とか恋とかそんなのに拘うものではないのだけれど。
再読で、そう昔のことじゃないと思うんだけど全く覚えてなかった。漱石文学は展開に入るまでが難解だけど、いざ入ったらどことなく俗っぽくてすらすら読める。
Posted by ブクログ
ようやく読みきれた『虞美人草』。前半部分は漢文調が続くので慣れるまで時間がかかりました。後半部分になって、登場人物の中でも話の要となってくる人物の正確や様子が分かってきて、徐々に作品に引き込まれていきました。それは男女間のもつれや師弟関係のしがらみがかかわってきているからだと思います。このあたりから人の心にある弱い部分や傲慢が部分が感じられたのもあります。
また、虞美人草はひなげしのこと。花言葉は「心の平穏」「労り」「慰め」「思いやり」。作品の後半でようやくこのタイトルが登場人物の心の移り変わりを表しているようにさえ思えてきました。
宗近君が小野君にまじめに生きることを説く部分はすごいと思ったが、結末はすべてを藤尾さんに擦り付けたのでは?とおもえて仕方なかった。「労り」「慰め」「思いやり」を出しているように見える登場人物も、ちょっと自己中心的なものの考え方なのではと。
しかし、こういうところが、時代は違えど親近感があるようにも感じて興味深いと思いました。
Posted by ブクログ
「草枕」と同じく、とてつもなく難解な地の文。いやぁ、すごいですね。よくこんな文章が書けるものだと感心します。恐ろしい教養です。
それもすごいのですが、なんといっても会話がすごい。登場人物それぞれに何か秘めたるものがあり、自分の思惑に話を持っていこうとするが、相手はそうはさせじ意識的にか無意識にかする。そういったやり取りが、とてつもなくスリリングです。
登場人物の中ではやはり「藤尾」が魅力的です。おそらく漱石としては、藤尾を完全な悪女として描きたかったのでしょうが、思いのほかに筆が進んでしまったのでしょう。欠点があるのも人間らしさとして、また魅力の一つになっています。
その点で、最後の展開は納得がいかないです。浅井が孤堂先生に怒られる場面までは良かったです。その後の展開は作り事めいていて、なんかしっくりきません。おそらく同じように感じる人が多いと思います。
小野さんが孤堂先生のところに行って、ぼこぼこに怒られてへこんでしまい、その後藤尾が小野さんの様子を見て愛想をつかす、みたいな展開だったらめでたしめでたしだったのではないでしょうか。諸悪の根源は小野さんでしょう。
虞美人草は失敗作だという話もありますが、個人的には面白かったです。やっぱり会話シーンですね。全会話が名シーンです。小野さんと浅井とのあの馬鹿馬鹿しい会話ですら面白かった。
Posted by ブクログ
漱石の凄まじい教養と文章力に圧倒される。難解な表現は多いものの、軽快な会話劇も同時に展開されていくので思っていたよりスラスラと読み進めることが出来た。
にしても大バッドエンドである。
登場人物がそれぞれに背負っていた業は最後に全て藤尾に押し付けられ、藤尾は死んだ。彼女だけが自己中心的?小野も井上親子も甲野も宗近も糸子も濃淡あれどそれぞれ自己中心的ではないか。優柔不断な上に姑息な手段で縁談を断ろうとした小野、小野の気持ちなんぞ確認もせず東京へ出てきて世話になる気満々の井上親子、分かったようなことばかり並べ立てる宗近(彼がわざわざ時計を壊したのは自分を軽んじた藤尾への憎しみからではないか)……。
それぞれの欠点は問題にもされず、ただ藤尾だけが1人、裁きを下され死んでしまう。面子を潰してプライドも踏みにじるような酷い騙し討ちのような形で。「女の癖に生意気なんだよ」「身の程を弁えろ」という声が聞こえてくるようである。生き残った連中が不幸になりますように。
また、ラストの宗近から小野への説教も極めて凡庸であった。「真面目になれ」とは一体何なのか。そんな説教で人が変わるならこの世の中苦労はしないし、説教如きで変わることのない人間のどうしようもなさや複雑さ、ひねくれぶりを描くのが小説であり、あの程度の説教で小野がさっさと反省して物語が店じまいに入ってしまう辺りがなんとも拙速だった。
結末には大いに不満が残るものの、しかしこの先何度も読み返したい名作だと思う。
Posted by ブクログ
途中から一気に引き込まれて全部読んでしまった。自分の感覚でいくと、遠距離で、しかも5年も会ってないのであれば、そりゃ気持ちなんて変わって当然だろう、と思う。
ただ、それがいかに無理のある婚約だとしても、人にそれを伝えにいかせるのは小野さんのずるさであって、井上先生がキッパリ怒るのはよかったです。
藤尾さんはプライドが高く、素直じゃないけど、心から小野さんを愛していたようにみえ(それはけして打算ではなく)、プライドが傷ついたから自殺した、ではないと感じました。そして小野さんも藤尾さんの気高さとか美しさに心から惹かれていたのでは。
感じたことは、この時代では結婚って当事者の気持ちより、親の約束や建前だったんだなあということ。
それを当事者が遂行しなければ、当事者以外がそれを正しさだと説いて、遂行させることが美しいとされていたこと。
ストーリー全体に共感は感じないけど、言葉の一つ一つには、共感というか人生の真理をつくものがあると感じ、読み終わったあとも読み返すような良い作品です。
良い言葉メモ。
真面目になれるほど、自信力の出る事はない。真面目になれるほど、腰が据(すわ)る事はない。真面目になれるほど、精神の存在を自覚する事はない。
(中略)口が巧者(こうしゃ)に働いたり、手が小器用に働いたりするのは、いくら働いたって真面目じゃない。頭の中を遺憾なく世の中に敲(たた)きつけて始めて真面目になった気持になる。安心する。
Posted by ブクログ
久し振りの夏目漱石。職業作家としての第1作とのことで、他の有名な作品と比べるとかなり力の入った(ところどころ難解で読みにくい)文体だなと感じる。ただ、内容は男女の恋愛を主軸に物語が展開しており、描写を全て理解してやろうと思わなければ、けっこう楽しめる小説だったと思う。
哲学を学んだ甲野欽吾、その勝気な妹の甲野藤尾。欽吾の友人である宗近一と、あどけなさの残る妹の糸子。藤尾を嫁にと考えている男、小野清三。清三の恩師である父を持つ、清三との婚約の約束がある内気な娘、小夜子。この6人を中心に物語は展開する。
藤尾と小野が両想いであるが、小野には許嫁である小夜子がいる。謙虚でおとなしい古い価値観の象徴のような小夜子(作中でも「過去の女」(p.151)と言われる)と、新しい時代の女性だと言わんばかりに勝気で野心的な藤尾の描写が非常に対照的だ。この小説は、例えるなら坪内逍遥『当世書生気質』のような、分かりやすい勧善懲悪の側面を持っており、小夜子は善、藤尾は悪と描かれているように見える。
特に藤尾に至っては、ウィットに富んだ会話についてゆけない者を小馬鹿にしたり、我が強いが故に自分の言うことを聞く相手が婿として相応しいなどと言ったりと、性悪としてのキャラ付けが非常に強い。
藤尾を選ぼうとする小野についても、小夜子を断るのが言いづらくて知り合いに頼んでやり過ごそうとし、不真面目で姑息な印象を付けられている。
善玉として描かれる糸子や小夜子がいかにも「昔の女性」っぽく描かれているせいか、男に不都合な藤尾を悪玉扱いする家父長的小説だ!と捉えられそうにも見える。そもそも今の時代からすれば本小説内に出てくる結婚観はもはや化石同然であり、ますます「時代遅れの小説」という匂いを漂わせる。
しかしながら、想像ではあるが……明治時代が進み急速に西洋化が進んでゆくなかで、人から道義心が失われてゆくように思われた。よって、「人生の第一義は同義にあり」(p.452)との考え方から物語がつくられ、道義を失った者の典型として藤尾と小野が描かれ、彼らに天誅を喰らわせた。ということではないだろうか。
時代の価値観を蹂躙する者(小野・藤尾)、蹂躙される者(小夜子とその父)、これを仰ぎ見る者(欽吾・一)という3つの視点で描かれた、明治という激動の時代の功罪を描いた小説なのかな、と思った。
『こころ』を初めて読んだ時から、夏目漱石に対しては真面目な人だという印象があった。この本の裏表紙に「許して下さい、真面目な人間になるから。」という作中の台詞が書かれており、この小説もまさに「真面目」さを希求した物語だと感じている。もちろん、真面目といっても、真面目に生きることとは何かという問いに明確な答えはないのかもしれない。嘘偽りがないこと?飾り気がないこと?正直であること?真心がこもっていること?などなど。真面目なつもり、誠実なつもりであっても、自分にとっても相手にとっても必ずしも良い結果をもたらすとは限らない。この小説で描かれた勧善懲悪にしても、本当に善・悪と呼べるものなのかは分からない。ただ、だからこそ、登場人物が思い悩む、漱石の小説が好きで様々な小説を読んできた。
明治時代の小説であり、結婚観、恋愛観、男女観、道徳観、物語全体に古さを感じる。だからこそ、時代によって変わってゆく価値観と長い間変わらない価値観とは何なのか、何を大切にすべきか、真面目さとは何かについて深く考えることができたと思う。
Posted by ブクログ
意外にも面白く夢中で読んだ。確かに人物設定は類型的て役割通りかもしれないが、言葉による駆け引き、微妙に移ろう心理描写は漱石ならでは。経済的にも社会的にも恵まれ、精神的に安定し、大らかで義を尊ぶ宗近一家の描写には己が望んでが得られなかったものへの漱石の憧憬が感じられる。私もそれは同様だ。
Posted by ブクログ
明治の恋愛小説といって正しいのだろうか。交友範囲内の男女の関係のもつれを書いた作品。現代とは恋愛の価値観が違っているので、その前提で読んだ方が楽しめると思われる。
全体的に内容は回りくどい。例を挙げれば、手紙の封を開けるのに迷った登場人物が、ギッチリ文字の詰まった2ページを丸々使って右往左往したりする。
ただ、それらは描写と詩的な文言に費やされているので、浸ることが出来はじめると次第に光景が浮かぶようになって良くなってくる。慣れるのに時間はかかったが、当時の風俗などを楽しめた。静かな場所で読むのが良いかも
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学生を終えた頃のモラトリアムの宙ぶらりん感と大人になる切なさ決意を思い出す。真面目に生きることは素晴らしい!いつまでも善きひとでいられたら。。
甲野さんの日記の書き言葉と話し言葉の使い分け、漢詩などの教養、インテリ同士の会話の応酬など、自分の教養のなさ、緊張感のない乱れた言葉遣いなど大いに反省。独特の描写部分は音読するように読んだ。 端的で且つ美しくその的確さときたら!会社や身近な人物の評価表現の参考になりそうだ。最後に女の人生の難しさを思わずにいられない。そうそう、エリザベステイラーのクレオパトラが頭に浮かんだな。
Posted by ブクログ
登場人物のキャラがしっかり立っておりあとは自然に物語が進んでいく。
前半とくに詩的だか仏教的だか何れにせよ難解な文章が挿入されており、それは飛ばした。
「僕が君より平気なのは、学問の為でも、勉強の為でも、何でもない。時々真面目になるからさ。なるからと云うより、なれるからと云った方が適当だろう。
真面目になれる程、腰が据わる事はない。真面目になれる程、精神の存在を自覚する事はない。天地の前に自分が現存しているという観念は、真面目になって始めて得られる自覚だ。
真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。遣っ付ける意味だよ。遣っ付けなくっちゃいられない意味だよ。人間全体が活動する意味だよ。口が巧者に働いたり、手が小器用に働いたりするのは、いくら働いたって真面目じゃない。頭の中を遺憾なく世の中へ敲きつけて始めて真面目になった気持になる。安心する。
実を云うと僕の妹も昨日真面目になった。僕は昨日も、今日も真面目だ。
君もこの際一度真面目になれ。人一人真面目になると当人が助かるばかりじゃない。世の中が助かる。
ーどうだね、小野さん、僕の云う事は分からないかね。」357㌻
僕も真面目になるよ!
Posted by ブクログ
最初は非常に難しくて、あまり面白くなかったんですが、最後の1/4くらいは、一気に読んでしまいました。誠実と現実の打算。たぶん簡単には言えないのだろうけど、最後に奔走する人物の言葉一つ一つに引き込まれました。おすすめです。
Posted by ブクログ
漢語調の絢爛な文体は漱石の領分といっても過言ではないでしょう。東京帝大の講師を辞め、専業作家となってから書いた初の小説とだけあって、眩暈がするほど難解かつ華麗な文章からは、並々ならぬ覚悟が伝わってきます。
大学卒業のとき恩賜の銀時計を貰ったほどの秀才・小野清三。彼の心は、美しく裕福だが傲慢で虚栄心の強い女性・藤尾と、古風で物静かな恩師の娘・小夜子との間で激しく揺れ動く。彼は、貧しさから抜け出すために、一旦は小夜子との縁談を断るが…。やがて、小野の抱いた打算は、藤尾を悲劇に導く。
「潺湲(せんかん)」「瀲灩(れんえん)」「冪然(べきぜん)」「窈窕(ようちょう)」等々、これは正気の沙汰なのか?という語彙が乱れ咲く万華鏡の世界。その高雅な文体で綴られるのは、意外にも月並みなストーリー。真面目だが内気な青年・小野が、裕福な悪女・藤尾と貧しい乙女・小夜子の間で揺れ動くという安っぽいメロドラマを、「厚化粧」(小宮豊隆評)とも取れる絢爛たる舞台装置で見せられるというのはちぐはぐさ。まずもって人物の造形が平板かつ硬直的で、人間というよりは操り人形が話しているようなぎこちなさがついてまわります。漱石の豊饒な漢籍の素養と、迸る文才を疑う余地はありませんが、その漱石がなぜこのようなありふれた内容の小説を?という疑問を禁じえませんでしたね。
Posted by ブクログ
小野は学問に優れた男で、東京帝大の銀時計を授与されるほどだが
性格は優柔不断で、人の意見や雰囲気に流されるばかりだった
宗近は呑気でいいかげんな性格のために、軽く扱われがちだ
しかしその実、有言実行の男でもある
甲野はいつも深刻な顔で超然ぶっており、周囲の反感を集めるが
それは財産を独占しようとする母親への、愛と不信に引き裂かれてのこと
藤尾は甲野の妹、美人で、才気走ってて、高慢
クレオパトラに自らを重ね、男を意のまま支配することを愛情と信じる
糸子は宗近の妹で、家庭的な女
詩情を解さないとして、藤尾からひそかに軽蔑されているが、気にしない
小夜子は小野の恩師の娘にあたり、暗黙のうちに許嫁とされている
古いタイプの女だから、小野の心変わりに泣いてばかりいる
これら男女6人の、友情と恋愛をめぐる青春残酷物語
かなわなかった夢のつづきが、いずれ小野の未来を苛むのだろうが
その意味で「こころ」の原型と呼べるのかもしれない
「虞美人草」は、大学教授の地位を捨てて専業作家になった夏目漱石が
朝日新聞に連載したはじめての作品で
気負いはあったのだろう
りきみ返った美文調をこれ見よがしに連ねており
その読みづらさから
今では漱石作品のなかでも敬遠されがちな印象にある
ただし個人的には
日本の小説で文章の美しさといえば、この時期の漱石と思うんよね
Posted by ブクログ
跡継ぎ問題、結婚問題、それぞれに色んな思惑があり、それぞれの主観を聞くと分からなくもないなと思える言い分ばかりだが、人間関係のすれ違いが続くのは読んでいて苦しくなった。
知っている者が知らない者を馬鹿にする世の中は淋しい。
藤尾の情念にあてられたようなところがあるが、屈辱と怒りで理性を失いつつある女の静かな凄みを、怖いもの知らずでもっと読んでみたい。藤尾が、屈辱の場面や台詞を繰り返し思い出して怒りを増幅させていくところなんかは、自分の中からも感情が沸々としてくるようだった。
そういう時代なのだから仕方ないとは思いつつも、結婚の自由さが無く、男達に決められていくのがどうも腑に落ちなかった。すべてを雑にまとめていく宗近は最も苦手なタイプだ。
最後は死で締めくくるのが意外で、素直にちょっと可哀想だなと。
でもこれをきっかけに継母と欽吾の仲は穏やかになりつつあるわけで。死という悲劇をもって、家庭というひとつの小さな社会を、結果的に変えたことになる。後味は良くない。
Posted by ブクログ
捻くれてはいたけど、藤尾は小野に一途な様に見えたし、このラストはちょっと気の毒に感じた。宗近の「天地の前に自分が嚴存しているという観念は、真面目になってはじめて得られる自覚だ。」は至言
Posted by ブクログ
一言一句まで言葉の調子やリズムを整えることに苦心して書いている感じが伝わってきて、これは、かなり気合を込めて書いた小説なんだろうと思う。
漢文調のめんどくさい言い回しが多いので、そういうのがなければだいぶとっつきやすいんだろうと思うけれど、それも味と思って読み進めるうち、だんだん馴染んでそれほど気にならなくなってきた。
作者が登場人物の説明をする時の呼び方が面白い。「糸子」や「小夜子」は普通なのだけれど、他の人は「宗近君」だったり「小野さん」だったりで、どういう基準で呼び方を決めてるのかよくわからない。「謎の女」にいたっては、本名すら出さないで最初から最後まで通してしまう。このあたりは、書き手自身が自由に語りを入れることを楽しんでいる感じがする。
登場人物同士の関係が、やたらと入り組んでいるのだけれど、その説明の仕方が全然親切じゃないので、かなり注意して読まないと、お互いの関係がどうなっているのかなかなか理解出来ない。そこらへんは最初っから放ったらかしで、お構いなしでどんどん話しが進んでいくけれど、読んでいくうちには何となく関係がわかるようになっていく。
そのため、序盤は意味がよくわからない部分が続き、中盤以降、登場人物が一通り出つくして、それぞれのキャラクターがわかり、互いに関わり合い出してからが、一気に面白くなる。
主要人物は男3人、女3人の計6人いるのだけれど、それぞれに個性がはっきり出ていて、しかもこの人とこの人の組み合わせだとこうなる、というパターンが総当り的に出ていて、そこがかなり楽しい。
「藤尾」が悪者のように書かれているけれど、20世紀初めのモラルの価値観で考える必要はあるにしても、それほど根性が悪い人とは思えない。騒動の発端は「小野さん」の優柔不断だとしても、この人も、それほど悪いことをしている印象ではなく、どちらかというと被害者な気もする。そうすると実際に、一番たちが悪いのは、わざわざ東京まで出てきて事をややこしくした「小夜子」父娘なんじゃないだろうか。
問題は無数にある。粟か米か、これは喜劇である。工か商か、これも喜劇である。あの女かこの女か、これも喜劇である。綴織か繻珍か、これも喜劇である。英語か独乙語か、これも喜劇である。すべてが喜劇である。最後に一つの問題が残る。――生か死か。これが悲劇である。(p.392)
死は万事の終わりである。また万事の始めである。時を積んで日をなすとも、日を積んで月をなすとも、月を積んで年となすとも、詮ずるにすべてを積んで墓となすにすぎぬ。(p.17)
小夜子は何と答えていいか分らない。膝に手を置いたまま、下を向いている。小さい耳朶が、行儀よく、鬢の末を潜り抜けて、頬と頸の続目が、暈したように曲線を陰に曳いて去る。見事な画である。惜しい事に真向に座った小野さんには分からない。詩人は感覚美を好む。これほどの肉の上げ具合、これほどの肉の退き具合、これほどの光線に、これほどの色の付き具合は滅多に見られない。小野さんがこの瞬間にこの美しい画を捕えたなら、編み上げの踵を、地に滅り込むほどに回らして、五年の流を逆に過去に向って飛びついたかも知れぬ。惜しい事に小野さんは真向に坐っている。小野さんはただ面白味のない詩趣に乏しい女だと思った。同時に波を打って鼻の先に翻える袖の香が、濃き紫の眉間を掠めてぷんとする。小野さんは急に帰りたくなった。(p.138)
小野さんは胸の上、咽喉の奥でしばらく押問答をする。その間に甲野さんは細い杖の先を一尺ばかり動かした。杖のあとに動くものは足である。この相図をちらりと見て取った小野さんはもう駄目だ、よそうと咽喉の奥でせっかくの計画をほごしてしまう。爪の垢ほど先を制せられても、取り返しをつけようと意思を働かせない人は、教育の力では翻えす事の出来ぬ宿命論者である。(p.203)
残念な事には、小夜子と自分は、碁盤の上に、訳もなく併べられた二つの石の引っ付くような浅い関係ではない。こちらから逃げ延びた五年の永き年月を、向では離れじと、日の間とも夜の間ともなく、繰り出す糸の、誠は赤き縁の色に、細くともこれまで繋ぎ留められた仲である。
ただの女と云い切れば済まぬ事もない。その代り、人も嫌い自分も好かぬ嘘となる。嘘は河豚汁である。その場限りで祟がなければこれほど旨いものはない。しかし中毒たが最後苦しい血も吐かねばならぬ。(p.215)
生涯の損をしてこの先生のように老朽した時の心持は定めて淋しかろう。よくよくつまらないだろう。しかし恩のある人に済まぬ不義理をして死ぬまで寝醒が悪いのは、損をした昔を思い出すより欝陶しいかも知れぬ。いずれにしても若いうちは二度とは来ない。二度と来ない若いうちにきめた事は生涯きまってしまう。生涯きまってしまう事を、自分は今どっちかにきめなければならぬ。(p.250)
浅井のように気の毒気の少ないものなら、すぐ片づける事も出来る。宗近のような平気な男なら、苦もなくどうかするだろう。甲野なら超然として板挟みになっているかも知れぬ。しかし自分には出来ない。向へ行って一歩深く陥り、こっちへ来て一歩深く陥る。双方へ気兼をして、片足ずつ双方へ取られてしまう。つまりは人情に絡んで意思に乏しいからである。利害? 利害の念は人情の土台の上に、後から被せた景気の皮である。自分を動かす第一の力はと聞かれれば、すぐ人情だと答える。利害の念は第三にも第四にも、ことによったら全くなくっても、自分はやはり同様の結果に陥るだろうと思う。(p.264)
「こう云う危うい時に、生れつきを敲き直して置かないと、生涯不安でしまうよ。いくら勉強しても、いくら学者になっても取り返しはつかない。ここだよ、小野さん、真面目になるのは。世の中に真面目は、どんなものか一生知らずに済んでしまう人間がいくらもある。皮だけで生きている人間は、土だけで出来ている人形とそう違わない。」(p.363)
「君が面目ないと云うのかね。こう云う羽目になって、面目ないの、きまりが悪いのと云ってぐずぐずしているようじゃやっぱり上皮の活動だ。君は今真面目になると云ったばかりじゃないか。真面目と云うのはね、僕に云わせると、つまり実行の二字に帰着するのだ。口だけで真面目になるのは、口だけが真面目になるので、人間が真面目になったんじゃない。」(p.367)